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高裁の決定を受けて 名実共に新しい教会時代を!

  • 7 時間前
  • 読了時間: 12分

○徒然日誌(令和8年3月11日)  高裁の決定を受けてー名実共に新しい教会時代を!

 

愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである(ロマ12.19)

 

ブロローグ

 

3月4日、東京高裁はUCの解散を命じた東京地裁の決定を支持し、UCの即時抗告を棄却した。やはり地裁決定と同じく、「結論ありきの決定」であり、まさに国策裁判であった。教団は最高裁に特別抗告するが、解散命令の効力が生じ清算手続きが始まった。(代表清算人伊藤尚弁護士)

 

教団は、「今回の決定はテロリストの願望を国家ぐるみで叶(かな)えるものであり、事実と証拠に裏付けられず、証拠裁判主義に反して下された『結論ありき』の不当な判断である」と述べた。「この不当な司法判断を決して容認せず、(最高裁への)特別抗告を含め、信教の自由を守り抜くため闘い続ける」とのコメントを発表した。

 

ポーラ・ホワイト牧師は「神が最終的に決定する」とXに投稿され、作家の福田ますみ氏は、「わが国の司法は、家庭連合を解散させるべしという意志のもとに、憲法に基づいた適正な手続き(デュープロセス)すら無視してこの決定を下したわけで、一審と同様、国策裁判である」と述べた。

 

筆者は、今回の高裁判断ほど権力の怖さを感じたことはない。あたかもUCの解散が既定路線であるかのように、4日午後、用意周到に全国約440ヵ所(教会290、関連施設約150)の教会施設に100人規模の清算人が入った。まさに大本教顔負けの弾圧である。伊藤清算人は「今日清算人に選任されたばかり」と言うが、裁判所(国家)は前々から周到に準備し、100人以上の清算人団をあらかじめ決めていたのであり、まさに国策裁判だったのである。

 

筆者は、11時の決定を受けて、午後には間髪いれずに警備員に守られた清算人が各地の教会に入った一報を聞き、国家権力の怖さを身に染みて感じると共に、戦前の大本教やホーリネス教団の弾圧事件を想起した。

 

1936年3月13日、内務大臣は大本解散命令を決定し、亀岡の聖地本部はダイナマイトで破壊され、全国の教団施設・建物・碑石類も撤去・破壊された。信者達も「反逆者」「非国民」というレッテルを貼られて精神的にも経済的にも追い詰められ、厳しい境遇の中で隠れキリシタン同然の信仰を余儀なくされたという。

 

だが二代教主出口すみ(王仁三郎の妻)は「これもみな神様のお仕組(ご計画)。かえって大本教の真実が世間に知れてよい」と語ったという。王仁三郎は逮捕拷問を受けたが堂々とし、転向した信者はほとんどいなかった。今、戦後の平和日本で、数十万のUC信者が権力に踏みにじられるという信じがたい光景が展開されている。(参照 大本弾圧とホーリネス弾圧→ https://x.gd/HGGOU )


出口すみ      出口王仁三郎     大本教施設破壊

 

まさに高裁は千代に禍根を残す「解散」という酷い判断をした。だが、「殉教の血は福音の種子である」とは教父テルトゥリアヌスの言葉だが、信仰は迫害の度に強固になる。これが信仰の本質であり、この理不尽極まる高裁(国家)の決定に、全信徒のかってない「団結」をもって応えようではないか、そしてこの前代未聞の宗教弾圧に対して、かってない「福音のリバイバル」をもって応えようではないか。

 

【高裁決定の問題点】

 

 では今回の高裁決定のどこが問題なのだろうか。宗教法人の解散事由に、刑事犯罪に限定していた従来の解釈を、政治的理由で変更し、民事上の不法行為まで広げたことがそもそもの問題の発端である。先ずこれを指摘した上で、今回の高裁決定要旨や法律専門家の見解を踏まえ、以下、問題点を検証する。

 

①「証拠裁判主義」からの逸脱

 

今回の高裁決定は、日本の裁判の大前提である証拠裁判主義から逸脱している。地裁の段階では、コンプライアンス宣言以降の示談や和解があることを理由に不法行為を「推測」し、「相当に根深い」「相当程度存在することが想定される」「問題が残存しているのが合理的」などと憶測と想像を連発し、しかも「見えない被害」「隠れた被害」を推測、想像で事実認定する、法律家の風上にも置けない前代未聞の判定であった。 

 

今回の高裁決定書では「不法行為の件数や被害額は、コンプライアンス宣言後も、それまでと同水準で推移したものと『推認』される」と言い、不法行為があったと認定はできないが、可能性は否定できないという「不相当勧誘行為の可能性」や「おそれがある」といった曖昧な言葉を使って判断した。

 

この判断は、証拠裁判主義の法理から大きく逸脱している。即ち、今回の高裁の決定は、地裁の決定をほとんど踏襲したものである。

 

②拉致監禁被害と証拠捏造に言及せず

 

UCに関連する民事裁判が多い重大な理由に、拉致監禁被害者の存在があるが、高裁はこれに一切言及しなかった。拉致監禁された信者が強制脱会させられ、「踏み絵」と称して教団を訴えさせられたケースが多く、文科省が証拠として出した不法行為事案の大半を占めるという。このような特殊な背景があるために民事裁判の件数が多くなっているというUC側の主張は、決定文の中で完全に無視された。

 

また文科省が提出した証拠の中に捏造があったが(告訴されている4件など)、この問題についても、不誠実な態度に終始した。裁判所は「捏造」という言葉は一切使わず、問題の4件については「証拠から外しているから問題ない」という言い方で済ませた。

 

③宗教教義への不当な踏み込み

 

通常、裁判所は宗教の教義には足を踏み入れないのが原則だが、今回は教義に対してかなり踏み込んだ判断を行っている(決定文P17)。例えば文鮮明師の言葉、「日本は世界の母親として、たとえ飢えたとしても世界の国々を保護し、経済的援助をして育てていくのです」などとの言説を切り取って、これらを献金強要の証拠とした。

 

これらの文師の言葉は、「他者の為に生きよ、国のため世界の為に生きよ」という人間の基本的な在り方を示す宗教的矜持を教示したものであり、これら教祖の言説を切り取り、身勝手な解釈で裁判の場に持ち込むのは、教義の内容に立ち入った、国家による信教への侵害である。

 

④改善されていないというこじつけ

 

高裁は、コンプライアンス宣言後も、「具体的かつ実効性のある措置を執っていない」とし、KPI(目標の数値化)と称する評価指標においては、信者らによる不法行為を防止するための対策よりも、民事訴訟等の件数を減少させるための対策により多くの点数が配分されていたと決めつけ、「改革は見せかけ」であるとした。また、UCはコンプライアンス宣言前と同水準の献金収入の予算額を決定し続け、この間に相当多額の海外送金が継続されていたと指摘した。

 

そして、「コンプライアンス宣言後に信者らにおいて不法行為に該当する献金等の勧誘が行われたと確実に認められる事案は少ないが、その可能性が相応に認められる事案や、その可能性が否定できない事案が発生している」とし、「そうすると、信者らは、コンプライアンス宣言後も、旧統一教会によって定められた献金収入の数値目標を達成するため、不法行為に該当する献金の勧誘を継続して行ったものと認めるのが相当である」と「可能性」を根拠にした。

 

だが実際、コンプライアンス宣言以後、献金をめぐる訴訟や民事トラブルは激減しており、継続性がないのは明らかである。

 

 高裁判決で認定された「74億円超」の被害のうち、約70%が1973〜2009年の事案(平均32年以上前)であり、また解散理由の民事裁判32件のうち、2009年コンプライアンス宣言後の事案は1件のみである。しかも大多数の原告が、拉致監禁によって強制改宗させられ、踏み絵と称して訴訟を強要された元信者である。コンプラ宣言後の問題は激減し、2016年3月から9年間、一切訴訟は提訴されていない。改革の成果は顕著であり、継続性がないのは明らかである。

 

⑤海外送金への批判と誤解

 

高裁は、「毎年UCは海外宣教援助費を予算計上しており、18年度から22年度までの海外送金の主な送金先は韓国であり、韓国への送金額が海外送金額全体の9割を超えている」と指摘し、そして教団幹部が、「韓国(韓鶴子総裁)からの過度な活動資金の拠出の要求を拒絶する意思も能力も有していない」と批判した。

 

だがこれは勘違いで、送金は韓国ではなく「韓国世界宣教本部」に日本教団の自由意思でなされたものである。かっては40年間、世界宣教本部はアメリカにあり、日本UCは国益をかけてアメリカ世界宣教本部を支援した。ワシントン・タイムズの設立もこの脈絡にある。(参照 → https://x.gd/1II17 )

 

以上、高裁決定の問題点をいくつか指摘した。決定文を検証して強く感じるのは、先ず「結論ありき」で、この結論に向かっていかに組み立てるかに腐心した跡が顕著である。文字通り国策裁判と言わざるを得ず、このような国家と裁判所の仕打ちは、いずれ神と歴史によって審判されるだろう。聖書に次の通りある。

 

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである」(ロマ12.19)

 

【UC再生の方案ー信徒の交わり】

 

こうしてUCの教会建物は清算人の手に渡ったが、本来、教会(エクレシア)とは神に呼び出された「信徒の集まり」であり、建物のことではない。「信徒の交わり」があるところ、そこは立派な教会である。教会とはまさに信徒の集まりであり、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とある通り、二人三人でもキリストに与るところは、すべからく教会である。

 

バビロン捕囚で神殿を破壊されたイスラエルは、各地にシナゴーグ(会堂)を作って信仰共同体を維持し、信徒の団結は強固になった。UCは建物を失っても「信徒の交わり」という宝がある。(参照 → 信徒の交わり、公同の教会→ https://x.gd/kjV4n )

 

<家の教会>

 

原始キリスト教会はまさに「家の教会(ハウス・チャーチ)」だった。1世紀のキリスト教には教会堂はなく、信徒は 個人の家に集まって礼拝していた。


 

ロマ書16章5節には、同労者プリスカとアクラの「家の教会によろしく」とあり、コロサイ書4章15節には、ヌンパの「家にある教会によろしく」とある。また、使徒行伝2章のペンテコステは、五旬節に有力信徒の家でみんなが一緒に集まっているとき、聖霊が降臨したというのである(使徒2.1~4)。

 

札幌農学校のクラーク博士は牧師ではなかったが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝をした。この家庭教会から北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介ら札幌農大一期生や、その後に続く新渡戸稲造、内村鑑三など多くの著名なクリスチャンが出ている。内村鑑三の無教会主義は、教会が不必要ということではなく、二人、三人の信徒が神の名によって交われば、そこは教会であるというのである。神を中心に志を一つにした信徒の交わりは、聖霊が働く場となり信仰を高める場となる。

 

<ダヒデの幕屋>

 

八街の会顧問の中川晴久牧師は、最近の動画で「ダヒデの幕屋」について説明し、解散で教会堂を失ったUC信者の礼拝の在り方についてヒントになる話があった。

 

ダビデの幕屋とは、古代イスラエルのダビデ王がエルサレム(ダビデの町)に契約の箱を安置するために設けた、神の臨在の場所(テント)である。従来のモーセの幕屋と異なり、聖所と至聖所の垂れ幕の仕切りがなく、誰でも神に近づくことができる、恵みと賛美の「開かれた礼拝の場」であり、新しい形式の教会や終末的な神殿のモデルとみなされている。

 

2サムエル記6章に、バアレ・ユダ(キルヤト・エアリム)のアビナダムの家に安置されていた「神の箱」(契約の箱)を、ダヒデがガテびとオベデエドムの家を経由してダヒデの町に運びあげた記事がある。即ち、ダビデと全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上ったとある。幕屋では、レビ人による賛美が日々行われ、ダビデ自身も喜び踊って神をたたえた。

 

アモス書に「その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、これを昔の時のように建てる」(アモス9.11)とあるが、これはイスラエルの回復の預言である。また、使徒行伝には「その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建て直そう」(使徒15.16)とあり、これは異邦人の救いを意味し、ダビデの幕屋はイスラエルだけでなく、全世界の礼拝の象徴とされ、まさに新しい礼拝の予型である。そしてUCは、再臨時代の今、壊れたダビデの幕屋をもう一度建て直すのだ。

 

私たちは、「ダヒデの幕屋」の中に、神を中心に信徒が交わり、一人ひとりが自由に神の前に出て礼拝する予型を見ることができる。まさに家の教会(ホームチャーチ)は、現代版ダビデの幕屋である。

 

<内なる教会>

 

神が臨在される神の家は、モーセの幕屋→(ダビデの幕屋)→ソロモンの神殿→サン・ピエトロ寺院→天苑宮と辿ってきたが、その最終地は家庭であり、そして我が内である。神は教会にいましたまい、家庭にいましたまい、我が内にいましたまう。

 

1コリント書に、「あなた方は神の宮」(1コリント3.6)とあり、また「自分のからだは聖霊の宮」(1コリント6.19)とあるように、私たちの内には神の神殿(教会)があり、一人ひとりはその内なる神殿、内なる教会の祭司であり牧師である。

 

前にも述べたように、筆者は彦根で開拓の途上(22才)、本心に内在する神と出会った強烈な聖霊体験がある。兄とも慕い、心から師事していた人物が突如筆者のもとから去っていったのである。その喪失感と心身の限界の果て、人間という偶像を捨てる決断をすることによって、筆者は人間を神とする偶像崇拝者から一神教の信者に変貌したのである。そしてその時出会った神は自らの本心(良心)にいましたまう神であった。

 

神は天地を創造された「超越神」であるだけでなく、自らの本心に内在する「内在神」でもあったのである。「本心の神」、これが筆者が出会った最初の神だった。こうして筆者は一神教の信者として立ち、今日まで内なる本心には常に神がいましたまう。そしてこの内なる神殿、内なる教会で祈るのも立派な礼拝である。

 

以上、「高裁の決定を受けてー名実共に新しい教会時代に!」とのテーマで、理不尽な高裁決定の問題点を指摘し、新しい教会の在り方を論考した。キーワードは「信徒の交わり」と「家の教会」である。願わくば神よ、邪悪な反キリストを神自ら裁いて下さい。

 

「主よ、奮い立って下さい。なぜ、眠っておられるのですか。目覚めて下さい。立ち上がって、我らをお助け下さい。我らを贖い、あなたの慈しみを表して下さい」(詩篇44.24~27)

 

然り、この権力の横暴に応える道は只一つ、全信徒の強固な団結である。いまだかってない信徒の団結をもって、福音のリバイバルを起こしていきたい。(了)

 

牧師・宣教師    吉田宏

 
 
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​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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