ダビデとヨナタンの見上げた友情 信徒の交わり、公同の教会の意義を考える
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○徒然日誌(令和8年3月4日) ダビデとヨナタンの見上げた友情ー信徒の交わり、公同の教会の意義を考える
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。(使徒信条 後半)
プロローグ
2月28日、遂にアメリカとイスラエルはイランを攻撃した。イランの核開発を根絶し、ミサイル基地を殲滅するためである。トランプ大統領は、「大規模な戦闘作戦」が進行中だと述べ、ネタニヤフ首相も、「存亡の危機を排除する作戦に着手した」と述べた。イランも報復攻撃している。最高指導者ハメネイは28日の早朝、ピンポイント攻撃により死亡した。またイラン革命防衛隊の司令官ら指導者約40人が殺害され、ハメネイの娘と義理の息子、それに孫も死亡した。
1979年のイラン革命により、親米のパーレビ国王を排除し、ホメイニ率いるシーア派イスラム法による「イラン・イスラム共和国」を樹立し、イスラム原理主義に基づくイスラム体制に移行した。イラン・イスラム共和国は、パレスチナにおけるイスラエル国家の樹立を悪魔の行為だとし、1988年のハマス憲章7条には、「おおムスリムよ、アッラーの僕よ、わが後ろにユダヤ教徒がおるぞ。やってきて殺すがよい」とのコーランの一節が掲げられ、反イスラエルは徹底している。
こうしてイランは、イスラエルを潰すことを国是とし、パレスチナのハマス、レバノンのヒズボラ、イエメンのフーシ派、シリアやイラクのシーア派武装勢力など、中東全域のテロ組織や武装組織に資金・武器・技術支援を行い、革命を輸出してきた。
米国はイランを「世界最大のテロ支援国家」と非難し、EUもイスラム革命防衛隊をテロ組織に指定した。このような背景の中で、イランの核武装は絶対的に阻止しなければならないとの認識のもとに、今回のイラン攻撃を決断したのである。例に漏れず、オールドメディアやお抱えコメンテーターは、アメリカとイスラエルを非難する報道傾向にある。だが筆者はアメリカとイスラエルの行動を、正義の行使として支持するものである。(参照 中東問題の本質ーイスラエルとイランの確執に思う→ https://x.gd/XPGQP )
さて本日3月4日は、UC解散裁判について高裁の判断がなされる運命の日である。前回の2月25日の徒然日誌で述べた通り、高裁判断の如何に係わらず、天地を創造し、救いの歴史を司られる神の復帰摂理は絶対であり、動じることはない。神のご計画は深淵であり、神は、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さるからである。
近時、アメリカによるベネズエラのマドゥロ大統領の拘束(1月3日)、世界を揺るがしているエプスタイン事件(未成年女性の性加害)、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃と最高指導者ハメイニ師の殺害など、世界を震撼させる大事件が勃発する中で、今やUC裁判の行方など、世間の関心の外に吹っ飛んでしまった感さえする。これも神のみ業なのかも知れない。
【信徒の交わり】
そして受難の時ほど信徒間の結束が必要な時はない。今この時に、改めて「信徒(聖徒)の交わり」の意義について考えたい。使徒信条後半に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」との信仰告白があるが、今回、「信徒の交わり」、及び「公同の教会」の意義について、即ち、神を信じる者の「紐帯」(ちゅうたい)と「信徒共同体」について論考する。なお、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」については、拙著『異邦人の体験的神学思想』(P233~P227)で述べている。
神・神の言葉・キリストは信徒の「三大秘宝」であるが、信徒の交わりは第4の宝、信徒の共同体(公同の教会)は第5の宝と言える。以下、旧約聖書のダビデとヨナタンの友情(絆)に学びつつ、信徒の交わりの意義を考えたい。
<ヨナタンの友情>
旧約聖書の『1サムエル記』に登場するヨナタンとダビデの友情ほど感銘するものはない。サウル王の息子ヨナタンは、ダビデに対する深い友情と、神への強い信仰に基づいた身を挺した行動で知られる人物である。ヨナタンは、勇敢な戦士であり(1サムエル記14章)、次期王位継承者という立場にありながら、神がダビデを選ばれた(油を注がれた)ことを認め、自らの王位を顧みず、父サウルが嫉妬でダビデを殺そうとするのを守り抜いた。1サムエル記18章1節~4節には次のようにある。
「ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした」
ヨナタンは、父サウル王の不信仰による失墜とダビデの即位(油注ぎ)が神の御心であることをよく理解していた。自分の立場(王位継承)を守るのではなく、神の計画を優先し、神の前でヨナタンはダビデと友情の契約を結んだが、これは単なる人間的な友情ではなく、神を間においた神聖な契約だった。

ある時、サウルはヨナタンと家来たちにダビデを殺すようにと命じたが、しかしヨナタンは深くダビデを愛していたので、「父サウルはあなたを殺そうとしています。それゆえあすの朝、気をつけて、わからない場所に身を隠していてください」と言ってサウルからダビデを守ったのである(1サムエル19.1~2)。
そしてヨナタンは父サウルにダビデのことを証し、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。 彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」と諌めてダビデを庇ったのである(19.4~5)。こうして父サウルがダビデを殺そうとしても、身の危険を冒してダビデを守り続けた。
そしてヨナタンは、神が自分とダビデの家(子孫)の間に永遠に共におられることを確信し、「ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。どうぞ主がダビデの敵に、あだを返されるように」と言って、改めて誓った。(20.16~17)。
それでもヨナタンはダビデと共に亡命せず、父サウルを愛するが故に最後までサウルの側に残り、ペリシテ人と戦って戦死するのである。
それは父への責任、イスラエルへの責任、王家の一員としての義務であり、ヨナタンは歴史の裂け目の中に立ち続け、ギルボア山で父と共に倒れた。1サムエル記31章3節に「ペリシテびとはサウルとその子らに攻め寄り、そしてペリシテびとはサウルの子ヨナタン、アビナダブ、およびマルキシュアを殺した」とある。
ダビデはヨナタンの死を聞き、美しい哀歌を歌った。 ダビデはこの悲しみの歌「弓の歌」をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。(2サムエル記1.19~27)
(弓の歌)
イスラエルよ、あなたの栄光は、あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちは、ついに倒れた。・・・ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた」
それにしてもヨナタンのダビデへの友情と愛、ダビデのヨナタンへの友情と愛は美しく純粋である。ヨナタンの信仰は、自分自身の野心や地位よりも神の主権を優先し、最愛の友のために自らの身を挺するという、無私無欲の愛と信頼に裏打ちされていた。ヨナタンは父サウルを愛し、ダビデを愛し、そして神を畏れた。その三つの間で引き裂かれながら、最終的に「神の選び」を選んだのである。そしてこの二人の友情と契約は、まさに「信徒の交わり」の模範である。
ちなみに内村鑑三の洗礼名は「ヨナタン」である。この洗礼名は、ヨナタンのダビデに対する深い友情と信仰、そして自己犠牲的な精神に強く共感したためである。内村は生涯を通じて「イエス」と「日本」を愛したが、ヨナタンが王家に連なりながらも、神への信仰と忠誠を貫いた姿に、「武士道」の精神と「キリスト教」を融合させようとする自分を重ねていたと思われる。
<信徒の交わり>
さて日曜日には信徒が集まって礼拝をする。何故、何のために教会に行き礼拝に与るのだろうか。一般的に礼拝の目的には3つの要素があると思われる。
第一に、礼拝の目的は文字通り「神を礼拝」すること、「神への賛美の祈り」を捧げることである。我々は、神を礼拝し、神に祈りを捧げ、神を賛美し、神と交わるために教会に行くのである。宣教師訓練センター所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と明言されている。
第二に、礼拝の目的は、「み言の学び」である。聖書の拝読を通じ、説教の拝聴を通じ、聖歌を歌うことを通じて、み言を学び霊の賜物を受け取るのである。
第三に、「信徒の交わり」である。礼拝は信徒が親しく交わる場でもある。そしてその信徒の交わりが信仰共同体(公同の教会)を形成する。

信徒(聖徒)の交わりとは、「聖なるものを共有し分かち合うこと」(コミュニオン)を意味し、交わりの根源は神でありキリストである。キリストを頭とする教会において(コロサイ 1.18)、信仰・恵み・愛を分かち合う霊的な一致であり、まさにコイノニアである。コイノニア(Koinonia)とは、ギリシャ語で「交わり」「共同体」「参加」を意味する。
私たちの回りには、家族関係、友人関係、会社関係、地域関係など様々な人間関係が存在するが、この世に、神とキリストとみ言を共有する信徒の関係(交わり)ほど強く深いものはない。一般的に人が他者と信頼関係を築くためには、長い年月のお付き合いとたゆまぬ努力が必要である。だが、信徒(食口)は一夜にして確固たる信頼関係を築くことができる。
ユダヤ人が何故世界のダイヤモンドを支配し、世界に冠たる金融帝国を作り得たか、それは世界に散らばる「律法と割礼と安息日」を共有するユダヤ人の絆の故である。この絆が世界的なネットワークを築く原動力になった。だが、UC信徒(食口)の信頼の絆はユダヤ人どころではない。それはユダヤ人よりもクリスチャンよりも強く深い。故に、前記したダビデとヨナタンの交わりに見る如く、信徒の交わりは私たちの宝であり、大事に育てていきたいと思う。然り、食口は宝である。
【聖なる公同の教会】
使徒信条に出てくる「聖なる公同の教会」とは何か、それは「信徒の交わり」の中から必然的に形成される「信徒の集まり」である。
<普遍教会と地域教会>
使徒信条でいう「公同の教会」とは何かということだが、これは神学では「教会論」に属するテーマである。一般的に教会には、「普遍教会」と「地域教会」と呼ばれるものがあり、先ずこの問題から論じることにする。
いわゆる教会論とは、教会に関する議論であり、もともと「エクレシア」(教会)という言葉には「呼び出されたもの、選り分けられたもの」という意味がある。聖書的には、「キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだ」(エペソ1.23)という位置付けにあり、教会は建物ではなく神によって呼び出された「信徒の集まり」である。
その信徒の集まりたる教会には、各個具体的な地域の信徒の集まりである「地域教会」と、キリストに与る信徒の目に見えない共同体としての「普遍的教会」があり、キリストを受け入れた時点で、私たちは先ず普遍的教会に属することになる。
普遍的教会とは「ホーリー・カトリックチャーチ」と呼ばれ、目に見えない教会として、初代のペンテコステ以降、終末までの全ての信者から構成される。キリストが普遍教会の所有者であり、み名をもって呼び集められた普遍的な信徒の集まりである。 そして、その見えざる普遍教会が各個別教会として具体的に現れるのが地域教会で、見える教会としてそれぞれの地域教会に所属する具体的な信徒の集まりである。
例えば横浜海岸教会、大和カルバリチャペル、青葉台家庭教会などがそれである。この地域の各個の教会は、礼拝・教育・儀式の執行、信徒の交わり(互助互恵、帰属意識)、信仰の励まし、迫害に耐える力、利便性など神の国実現に不可欠であるとされている。教会とはまさに「信徒の集まり」であり、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とある通り、二人三人でもキリストに与るところは、すべからく教会である。
<我が内なる教会>
教会には、メシジスト派とかバプテスト派といったいわゆる「教派教会」の他に、どの教派にも属さない「単立教会」、或いは「スモールチャーチ」と呼ばれている教会もある。UCのホームチャーチ(家庭教会)は形の上では一種の単立教会と言える。また一人教会(ワン・パーソン・チャーチ)も教会である。ある牧師は、「教会は各人の心のなかにある、あなたの居るところ、あなたの居る場所が教会です」と指摘した。
いわゆる万人祭司とは、聖書に従って敬虔な信仰を行う者全員を司祭とするというプロテスタントの考え方で、教皇や聖人を通さずとも、聖書を読み、信仰によって、自ら祭司として直接神の前に出て恵みを受けることが出来るという考え方である。即ち一人一人が単独で神の前に出ていくことができるという思想で、これこそ「ワン・パーソン・チャーチ」に他ならない。
内村鑑三は、教会のあり方に失望して、或いは捨てられて、無教会主義を唱えたが、これは教会が不必要ということではなく、二人、三人の信徒が神の名によって交われば、そこは(無教会の)教会であるというのである。主にあって志を一つにした信徒の交わりは、聖霊が働く場となり信仰を高める場となる。札幌農学校のクラーク博士は牧師ではなかったが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝をした。この家庭教会から北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介ら札幌農大一期生や、その後に続く新渡戸稲造、内村鑑三など多くの著名なクリスチャンが出ている。
1コリント3章16節には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるように、私たちの心は神の神殿(教会)であり、一人ひとりはその内なる神殿、内なる祭壇の祭司であり牧師であるというのである。然り、今後私たちは、ひとりひとりが祭司として神の前に立ち、信徒の交わりを通して輪を広げ、うみ疲れずに福音の種を捲こうではないか。(参照 うみ疲れずに福音の種を捲く→ https://x.gd/X54Wc )
以上、「ダビデとヨナタンの見上げた友情ー信徒の交わり、公同の教会の意義を考える」とのテーマで、ダビデとヨナタンの友情を辿りつつ、「信徒の交わり」の意義を確かめ、そして「信徒の集まり」の意味を論考した。願わくば地域に根差したホームチャーチ(家の教会)が雨後の筍のように、あるいは広宣流布の使命を担う地涌の菩薩(じゆのぼさつ)が大地から涌き出るように、福音の大リバイバルが勃興することを祈念するものである。(了)
牧師・宣教師 吉田宏



