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キリスト教の相続とその意義 インマヌエル教会を訪問して

◯徒然日誌(令和6年3月27日)  キリスト教の相続とその意義ーインマヌエル教会を訪問して 

 

見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる(マタイ1.23)

 

3月22日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と信者の男性(高島幸司氏)が、公共施設の利用を許可しないのは不当だとして、福岡市を相手取り合わせて2200万円の損害賠償を求めて、福岡地裁に提訴した。教団の関連団体が福岡市民会館や公園の使用を申請したが許可しなかったという。原告は、「福岡市が市の施設の使用を許可しないのは、信者や関連団体に対しての差別や偏見をあおるものだ」とした。 

 

提訴を受け福岡市は、旧統一教会などの施設利用は、国の明確な方針が示されていないため利用許可を保留していると説明している。しかし福岡市施設の各ホームページには、家庭連合及び関連団体には、施設の使用を許可しないという内容の告示が大きく掲載されているという。 

 

これは、明らかに家庭連合信者や関連団体に対しての差別・偏見であり、法のもとの平等や信教の自由を損なう異常な事態だ。一体、日本は法治国家なのか、ここまで日本は劣化したのかと唖然とする。高島氏をはじめ、福岡信徒の皆さんには、信教の自由をかけてとことん戦って下さることを祈念したい。 

 

【インヌマエル教会の礼拝に思うー改めてキリスト教の摂理的意味を考える】 

 

さて筆者は、この3月24日、「インマヌエル聖宣神学院キリスト教会」(インヌマエル教会)の日曜礼拝に参加した。この教会は筆者が住んでいる近くにあるホーリネス系福音派のキリスト教団であり(横浜市緑区西八朔町)、前から一度は訪問したいと思っていたからである。この教会には、インヌマエル教会の上部組織である「宗教法人イムマヌエル綜合伝道団」が運営する神学校「イムマヌエル聖宣神学院」が併設されている。 

 

インマヌエルとは、「神は私たちと共にいます」という意味のヘブライ語であり、聖書に「見よ、おとめが身ごもり、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7.14、マタイ書1.23)とある。教会の入口には「疲れた人は わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11.28)と書かれていた。筆者はこの礼拝の中で、改めてキリスト教の相続とその摂理的意義を考えると共に、UCの行く末を考えて見た。 

 

そしてこの日は、計らずも「イエス・キリストの受難週」第一日目の「パームサンデー」(枝の主日)であり、牧師の説教はキリストの受難を預言したイザヤ書53章がテーマであった。ちなみに「受難週」(Passion Week)とは、棕櫚(しゅろ)の日の日曜日からイエス復活前日の土曜日までの一週間をさす。この週は教会では、イエスのこの地上での最後の一週間の歩みに心を馳せて、キリストの十字架の苦しみを思いながら過ごすのが常である。受難週は次の通り。 

 

①日曜日:エルサレム入場、ロバに乗って

②月曜日:エルサレム神殿入場、宮きよめ

③火曜日:様々な教え、最も重要な掟、偽善な律法学者、終末・再臨の預言

④水曜日:ベタニアで香油を注がれる

⑤木曜日:主の晩餐(最後の晩餐)、ゲッセマネの祈り、逮捕

⑥金曜日:死刑判決、十字架の受難日(Good Friday)

⑦土曜日:墓に葬られる、三日間の黄泉

 

そして、8日目の日曜日にイースター(復活祭)を迎える。本年は受難週が3月24日~30日、イースターが31日で、各教会でイースター礼拝が行われる。キリスト教を相続するという意味で、一度はこの受難週を辿って見ることをお勧めしたい。


筆者はこのイエスの受難と、UC創始者の北朝鮮での受難を重ね合わせて思いを馳せた。即ちUC創始者が、1946年5月27日に「38度線を越えよ」との天命を受けてサタンの本拠地平壌で開拓伝道されたこと、平壌大同保安署に拘束されひどい拷問で生死の境を通過されたこと(1946年8月11日~1946年11月21日)、平壌内務署での拘束(1948年2月22日~1848年5月20日)、そして興南監獄での地獄の受難(1948年6月21日~1950年10月14日)である。1950年10月14日の興南監獄からの解放は、死刑執行日の前日であり、まさに地獄の門を開いた復活の日であった。


これら北朝鮮での受難の路程は、イエスの受難週を辿るキリスト教と同様、それにもまして記念の受難路程としてしかと覚えて礼拝すべきである。創始者も「10月14日は統一教会の解放の日です。北に行って解放されるまでの事実は、一覧表にして記念しなければならない」(真の御父母様の生涯路程1)と語られている。イエスと創始者の違いは、イエスが文字通り十字架で亡くなられたのに比して、創始者は十字架に架かりながら生きて超えられたことであり、ここから成約的な霊肉の救いが始まるのである。

    

<インヌマエル総合伝道団とは> 

 

筆者が礼拝に参加したインヌマエル教会は、東京に本部を置くプロテスタントホーリネス系福音派のキリスト教団である「インマヌエル綜合伝道団」(インヌマエル教団)の傘下にある教会である。 

 

インマヌエル教団はジョン・ウエスレーによる18世紀のメソジスト運動、19世紀のホーリネス運動の流れを汲んでおり、聖書の真理に立つ福音的な立場(聖書信仰)を堅持し、メソジスト的ホーリネスの告白と世界宣教の実践を掲げ、日本福音同盟、アジア福音同盟、世界福音同盟 に加盟している。ちなみにホーリネス運動とは、信仰者はキリストの贖いへの信仰により、原罪を始め人の持つ罪への傾きから、聖霊によってきよめてもらうことができるとする人々からなるムーブメントである。あるグループでは、新生・聖化・神癒・再臨からなる「四重の福音」を強調している。 

 

インマヌエル教団の創設者蔦田二雄(つただつぎお、1906年~1971年)は、第二次世界大戦前、中田重治によって始められた日本ホーリネス教会にあって、教職者として日本橋教会などでの牧会と伝道に従事していたが、戦時中の軍閥政府による教会弾圧の中で「2年間の投獄」を経験した。 

 

終戦後、戦前の関わりを一切絶って、1945年10月21日、2人の同労者(医師の長谷川正子と、伝道師の元子の双子の姉妹)とともに、投獄中に与えられた信仰体験に従って「インマヌエル」の名の下に新しい教派を興した。蔦田二雄は獄中で、「すべてが奪われても、神の臨在と同行を奪われることはない」という「インマヌエル」(神が私たちと共にいます)の事実に対する信仰の確信を得、将来、伝道者になる機会が再び訪れたなら「インマヌエル」の名で新しい働きを興すことを決意したという。事実上、新生を遂げた新・ホーリネス教会の再興である。 

 

青年時代、蔦田二雄はロンドン大学に留学し、外交官を目指したが、ロンドン留学への船上で、オーウェン・ガントレットと出会い、「信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ書6.47)との聖書の言葉で新生の経験をしたという。新生経験後、外交官を目指すことをやめ、神からの福音の役者(えきしゃ)になる召命を受けたという自覚を持ち、福音の役者になるという堅い決意を持って日本に帰国した。 

 

そして中田重治監督のもとで展開されていた日本ホーリネス教会の教役者になるために、柏木聖書学院に入学し、卒業後に日本ホーリネス教会の教役者として日本橋教会で牧会などに携わったのである。その後、1942年6月、東条英機内閣の宗教弾圧に遭い、2年間の巣鴨刑務所での独房生活を経験し(ホーリネス弾圧)、その独房の中で、前記インヌマエルの信仰体験をしたのであった。 

 

1959年、インマヌエル綜合伝道団は、日本宣教百年記念聖書信仰運動の中で、中心的な役割を果たし、「聖書は誤りなき神のことば」との標語のもとに、全国に「聖書信仰」を推進する運動を展開した。また「日本福音同盟」の結成のために尽力した。 

 

教理的にはジョン・ウェスレーの唱えた「キリスト者の完全」の教理を強調し、カルバン神学を修正したウエスレアン・アルミニアン神学に立ち、自治・自給・自展・自育との標語のもとに、他に依存しないで「神のみに依り頼む」という自立原理に基づいて教団形成をしている。名称に「綜合」とあるのは、宣教のみならず、医療、教育、農耕を含む総合的な伝道を目指したからである。また国内伝道とともに、世界宣教に使命を持ち、イムマヌエル教団に属する日本人クリスチャンたちの献金で、国外に宣教師(七ヶ国)を派遣している。 

 

なお、1949年5月、東京・丸の内のビルの一室に、神学教育機関「イムマヌエル聖宣神学院」を設立した。この神学院から全国のインマヌエル教会はじめ、友好団体に、教会で仕える教役者たちや国外で宣教師として働く人材を400名ほど輩出している。現在は西八朔町にあるインヌマエル教会に併設されている。牧師は、年会において代表(旧称、総理)によって、それぞれの奉仕教会に任命されるメソジスト的「任命制」を取っており、この年会任命は、毎年春に行われている。現在、代表は岩上祝仁氏(神戸教会牧師)で、全国115の教会を擁している。 

 

<ホーリネス弾圧事件とUCの未来> 

 

さて日本の歴史において、キリスト教の迫害・弾圧は過去二回あった。一回は豊臣秀吉と徳川家康による禁教令である。1587年豊臣秀吉のバテレン追放令、1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によって、以後、1873年に明治政府が禁教令を廃止する迄の約260年間に、多くの殉教者を出すことになった。特に島原の乱(1637年)以降のキリシタンの取り締まりは徹底し、宣教師や信徒キリシタンは棄教するか、殉教するか、潜伏キリシタンとして身を潜めるかの択一を迫られた。 

 

そして二回目のキリスト教弾圧は、第二次世界大戦中にホーリネス系の教会が政府から弾圧された「ホーリネス弾圧事件」であり、日本のキリスト教史上、プロテスタント教会に対する最大の迫害であった。再臨による千年王国説を標榜し、天皇統治の廃止や国体を否定する教義であると見なされたからである。 

 

1942年6月26日、ホーリネス系の教職者が治安維持法違反で検挙された。先ず教職者96名が逮捕され(第一次検挙)、1943年4月に第二次検挙が行われた。逮捕者は合計すると、当時「日本基督教団に併合されていた「第6部(日本聖教会)」から60人、「第9部(きよめ教会)」から62人、宗教結社であった「東洋宣教会きよめ教会」から12人、合計124人であった(Wikipedia)。 

 

検挙者のうちの75人が起訴され、車田秋次、米田豊らが実刑判決を受けた。全員が上告して、戦後免訴扱いになったが、最終的に、菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治、竹入高、池田長十郎、佐野明治らが獄死した。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会(日本聖教会・きよめ教会・東洋宣教会きよめ教会)は強制的に解散させられた。 

 

これを受けて 日本基督教団の幹部らは、当局のホーリネス検挙を、「熱狂的で気違いじみている信仰のため、むしろ教団全体にとり幸いであった」と述べ、富田満統理は「ホーリネスの学的程度が低いからだ」といって弁明したという。  

 

以上がホーリネス弾圧事件の顛末である。 

 

上記の通り、ホーリネス系三派は、権力により強制的に解散させられたが、しかし獄中で神が蔦田二雄に働かれ、戦後、より洗練された「インマヌエル綜合伝道団」として甦り、福音派の中核を担うまでになったのである。この経験は、UCにおいてよき教訓であり、示唆に富む道しるべとして深く心に留めておきたいものである。 

 

「最悪を想定し、最善を尽くす」とはイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリの言葉である。私たちは裁判所の解散命令を回避するために最善を尽くすことは言うまでもないが、一方最悪の事態に備えることも必要である。筆者は受難週の礼拝の中で、ホーリネス弾圧による教団の解散と、蔦田二雄による新教団の復活に想いを馳せ、UCとダブらせながら、UC解散後の大復活をまざまざと思い描いた。 

 

蔦田二雄は獄中で、「すべてが奪われても、神の臨在と同行、即ちインヌマエルが奪われることはない」との霊的体験によってインヌマエル教団を創立した。同様にUCとその信徒は、「たとえ全てを失ったとしても、神の言葉(原理)という究極的真理が失われることはない」と確信している。この神の言葉という最大の財産がある限り、その種は必ず芽を出すからである。ピリピ書3章8節に、「わたしは、キリストのゆえにすべてを失ったが、それは、わたしがキリスト(真理)を得るためである」とある通りである。不可思議なるかな、神の計りごとは! 

 

【UC創始者に見るキリスト教の摂理観】 

 

さて次の言葉は、1974年3月10日「キリスト教の新しい未来」と題してアメリカのバーミンガム・ハイヤットホテルでキリスト教の使命について語られたUC創始者の言葉である。 

 

「最初のアダムが失敗したことを、二番目のイエス様が復帰しなければならないのが、それが出来なかったので、三番目に再臨主が来て成し遂げなければなりません。そしてこの来るべき主を迎えるのがキリスト教の使命である」 

 

<ユダヤ教・キリスト教・家庭連合は三兄弟> 

 

また次のようにも語られた。 

 

「旧約聖書を中心としたユダヤ教は長男、新約聖書を中心としたキリスト教は次男、そして神の新しい啓示のみ言を実現すべき統一教会は三男の立場です。これら三つの宗教は、神の摂理からみれば三人の兄弟なのです」(1976年9月18日、ワシントンモニュメント30万人集会)

 

つまりユダヤ教・キリスト教・家庭連合は三兄弟であり、この三宗教が一つになることこそ、神のみ旨だと言われたのである。 霊的世界のキリスト教文化圏と実体的キリスト教文化圏である統一文化圏が出会って、一つになることによって霊肉が一つになるのであり、その基盤の上に、再臨主が立たなければならないというのである。 

 

そうして、「先生の責任としては、キリスト教と統一教会の関係において長子権を復帰することです」(『救援摂理史の主流責任』、1993年6月4日)と述べられ、また「キリスト教と統一教会が一つになればいいのです。そうすればすべては終わりです」(『ベルベディア宣言』(天勝日)、1985年10月4日)とも語られた。 

 

再臨のために備えられたキリスト教が、メシアとして来られたイエスを受け入れることが出来なかったユダヤ教と同じ誤ちを繰り返しすことがあってはならない。そして同時に、「キリスト教との一致を何としても成し遂げる」という強い意思と努力を怠ってはならいと改めて思うのである。 

 

<日本の殉教者の叫び> 

 

今筆者は「聖書の知識」を毎週発信しているが、ここ2、3ヶ月は「潜伏キリシタン」についての内容である。 

 

1549年のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルに始まる日本への宣教は、宣教出発地の九州を始め、当初、織田信長の保護もあり、一時期かなり浸透し、1600年の最盛期には、当時の人口が約1500万人に対して、キリシタン人口は推定約40万人~60万人とされ、人口比3%以上に昇った。ザビエルの日本滞在は2年3ヶ月だったが、「キリシタンの世紀」と言われた1549年から1643年までの94年間に来日した宣教師は、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会など総計300名(その内、イエズス会は146名)で、多くの宣教師が来日して日本の宣教に携わり、迫害を受けて殉教した宣教師も多数に上った。 

 

しかし、こうした宣教師の犠牲にもかかわらず、1587年豊臣秀吉のバテレン追放令、1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によってキリスト教が日本に根付くことはなく、1873年禁教令が撤廃される迄の約260年間に、多くの殉教者を出すことになった。全体で4000人を越える殉教を出したと言われ、島原の乱を含めると数万人を越えるという数字もある。そして多くのキリシタンが地下に潜って潜伏キリシタンとなったのである。 

 

これらの日本におけるキリスト教の受難の歴史を見るにつけ、この地に流された殉教の血が、心なしか成約時代の私たちに向かって、何かを訴えているような気がしてやまない。今や霊界人になった彼らが、私たちに再臨復活して、その思いを遂げられんことを祈りたい。 

 

今や日本のキリスト教は、霊的にも教理的にも限界を迎え、産みの苦しみの中で呻吟しているかのように筆者には見える。そしてそれを突破できる唯一の道は、創始者が指摘される通り、今日まで神の救済摂理を牽引してきたキリスト教が、UCと一つとなって、真の兄弟になることに他ならない。(了)   牧師.  吉田宏

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