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神について④ 創世記の世界

🔷聖書の知識55--神について④-創世記の世界

はじめに神は天と地とを創造された。 (創世記1.1)

上記創世記1章1節の聖句は、かの新島譲の回心聖句です。彼はこの一句でクリスチャンになることを決断しました。この言葉には、ユダヤ・キリスト教の神観、世界観が端的に表明されています。

今回、創世記の神観、全体像、及び創世記に暗示された救済の奥義、つまり創世記について考えていきます。

「創世記1章1節の神観」

即ち、創世記冒頭のこの聖句は、所与の神、創造の神、唯一の神の宣言で、ヘブル人の神認識、ヘブライ的思考、ヘブライズムの世界観、を端的に示しています。


<所与の神>


先ず全てはすべからく神から始まること、そしてその神の存在は所与のものであり、疑う余地のない前提となっています。特に旧約聖書は常に「神はかく言われた」というように、神からの言葉から始まります。

ユダヤ人は、決して神の存在を証明しようとしません。そもそも聖書自体、神がいることが大前提にあり、神がいるかいないかなどということを語ろうとはしていません。神学も同様です。シーセンは、「天文学は星の存在を証明しようと企てない、論理学は思想の存在を知ろうとしない、神学は神の存在を証明しようと企てない」と言っています。

これらは「ユダヤ人はしるしをもとめ、ギリシア人は知恵を求める」(1コリント1.22)との聖句に端的に表現されています。ユダヤ人は、ギリシャ人のように哲学的思弁や観念的思考をせず、剥き出しの啓示やしるしに耳を傾けてきました。 

このように、神は「私は在りて在るもの」(出エジプト3.14)と自己を表明され、また「私はアルパ(最初)でありオメガ(最後)である」(黙示録1.8)と語られました。つまり神は他の誰にも依存せずはじめから存在し、また如何なる原因にも基づかない「自存される永遠の絶対者」であるというのであります。

<創造の神>

創世記1章1節は、神が創造主であること、即ち「神が宇宙を創造された」ことを宣言しています。神は無から有を創造されました。しかし、この神が創造主であるという観念は多くの民族には理解出来ない神の観念でした。特に古代多神教世界では困難でした。

ちなみに日本の神道には創造という観念はありません。古事記の冒頭には、「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神」と記してあります。このように神は「高天原に成りし」とあり、字義通り読む限り神が出現する前に既に高天原があったのであり、神が高天原を創造したのではありません。

また仏教、特に原始釈迦仏教にはそもそも神という概念はありません。ただ無始無終の世界が永遠から永遠に広がっているという認識であります。 

<唯一の神>

そしてその神は一人である、唯一であるということが暗示されています。創世記の神は一神教の神であり、後にイザヤ 44章6節は,「わたしは最初であり,わたしは最後であり,わたしのほかに神はいない」と明記しています。ここで神は自分が永遠に自存する神であり,唯一無二の存在であることを示しておられます。(申命記 4:35,39)

また、創世記1章の神はヘブル語で「エロヒム」と呼ばれ創造の神を意味し、2章では「主」と表現され救済の神、契約の神を意味します。イスラエル人は契約の神をヤハウェと呼んでいます。

以上を要約すると、先ず神は存在し、その所与の神は唯一にして創造の神であり、また救済(契約)の神であるというのが創世記の神観であります。そしてこの創世記の冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された」 という一句は、無神論、唯物論、汎神論、多神論、二元論、進化論を打破、克服する神観、世界観を有していると言われています。 

[創世記の全体像と救済歴史の奥義]

創世記には、神話風の原初史、アブラハム・イサク・ヤコブの父祖の物語、そしてヨセフ物語の三つの部分から成りますが、これらはもともとは別の物語であり、成立過程の異なったものを一書に編集したものであると言われています。創世記を含むモーセ五書が現在の形に編集された時期は、紀元前550年前後のバビロニア捕囚期とされるのが通説になっています。

創世記はヘブライ語でベレシートと呼ばれ、これは「はじめに」という意味で「起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源」の意味になります。ベレシート(はじめに)という通り、創世記には物事の始まりが記されています。即ち、宇宙の始まり、人類の始まり、罪の始まり、救いの始まり、そしてイスラエルの始まりであります。

また創世記には、神、罪、救いというキリスト教神学三大テーマの骨格が啓示されています。創世記1章、2章は神と神の天地創造の物語、3章は有名な失楽園(堕落)の物語、そして4章から神の救いの摂理が始まり、50章までで救済摂理の全体像が象徴的に描かれています。即ち、天地創造(1~2章)、人類の堕落(3章)、救済摂理の始まり(4章)、人類全体を対象とした救いの摂理(4~11章)、アブラハムの召命とイスラエル選民歴史の始まり(12.1)、アブラハム・イサク・ヤコブ及びヨセフの物語(12~50)という構造になっています。

創世記と黙示録との関係でいえば、創世記の命の木(創世記2.9)から始まり、黙示録の命の木(黙示録22.2)で完結しています。また創世記の天地創造から始まり、黙示録の新天新地(21.2)で終結しています。

そして創世記には聖書の奥義が満載されています。神が創世記を通して、これから起こる歴史の鳥瞰図をあらかじめ示されたと言ってもいいでしょう。即ち創世記にはその後の歴史が予型され、人類歴史を解く鍵があり、世界の神話の中でも、その信憑性、体系性において抜きん出て優れています。また、現代科学とも矛盾しません。そして創世記の神話的記述の中に神の救済の奥義や現代史を解く鍵が秘められています。

例えば、今大きな国際紛争となっているイスラエル対パレスチナ・アラブの中東紛争、イスラム原理主義によるテロ、即ちイスラエル問題の根本要因は、遡れば創世記16章、21章.9~21章に記されてるイサクとイシマエルの葛藤に行き着きます。

[ 創世記の論点]

そして、創世記には神が啓示的に示された箇所が何ヵ所かあり、神学者の間でそれをどう解釈するかで意見が別れたり、そもそも意味が分からない場面が多々あります。これら聖書の論点を挙げると共に、最も難解な箇所について、原理観を加味して検証したいと思います。先ず、主な論点を列挙いたします。

創世記の以下の論点は、神学者においても解釈が別れるか、もしくは説明が出来ない箇所でありますが、原理はこれらを一貫性を持って解明しています。

1.エバが取って食べた善悪の実とは何か(創世記3.6)

2.神は何故カインの供え物をとられなかったか(創世記4.5)

3.バベルの塔は何を意味するか(創世記11.4)

4.ノアの洪水後のカラスと鳩は何を象徴するか(創世記8.7~12)

5.アブラハムの泥酔を見てハムが取った行為が何故罪になったか(創世記9.22)

6.アブラハムは妻サライを何故妹と言ったのか(創世記12.13)

7.アブラハムの三種の供え物は何を意味し、供え物の鳩を裂かなかったことが何故罪になっ たか(創世記15.10)

8.イサク献祭には如何なる意味があるか(創世記22.2)

9.神は生まれて来る前に、何故エソウを憎みヤコブを愛されたのか(創世記25.23)

10.タマルが姑と関係を持ったのは道徳的に許されるか、またこれは何を意味するか(創世 記38.11)

11.ベレツがゼラを押し退けて先に胎中から出てきたのは何を意味するか、またゼラの手に 赤い紐を結んだのは何を象徴するか(創世記38.28,29)

12.ヨセフの子のマナセとエフライムをアブラハムが交差祝福したのは何故か(創世記48. 13)

[タマル物語と創世記に見る血統転換の奥義]

上記の論点のうち、この項では10、11のタマル物語を中心に、いわゆる創世記に見る「血統転換」摂理について考察していきたいと思います。

救済歴史を原理講論が示す「メシアの為の基台復帰」という蕩減復帰歴史の視点とは別に、「長子の立場を回復するという血統転換の救済歴史」という視点からも復帰歴史を見ることが出来ます。

「堕落した罪ある女性から、如何にして罪なきメシアを生み出すことができ得るのか」という問題は、キリスト教神学上、最大の神秘だと言われています。これを解明するキーワードが、UC創始者が解かれた「血統転換」という奥義であります。

この血統転換の教理は、カルバンやシーセンの言を待つまでもなく、まさに「神的神秘」「最大の奥義」なのです。女性の役割から見た濁から聖への血筋の回復、即ち、長子の立場の回復という血統転換の奥義は周藤健著「成約摂理解説」P132~P176に詳述されています。

そして創世記38章のタマル物語は、この「血統転換」という奥義が暗示、啓示されている典型的な箇所とされ、この38章を解き明かすことにより、前記神学上の難問を解き明かすことが可能になるというのです。

本来、神→アダム→エバ→アベル→カインという主管的秩序が、サタン→エバ→アダムと逆転したというのです。これをもと返していく歴史が以下に示されています。

<カインとアベル>

先ず、サタンの実体となったアダムの汚れた種が妻のエバの胎中に蒔かれ、カインとアベルが生まれました。カインとアベルは父母アダム・エバの善悪の象徴で、カインは悪の象徴、アベルは善の象徴として生まれたと言われています。

何故カインが悪の象徴、アベルが善の象徴となったのでしょうか。これは堕落の経路からの理由、即ち、初めのエバと天使の堕落は自己中心が動機だったが、二番目のエバとアダムの堕落は神に立ち返りたいというより善の動機があり、その最初の実がカイン、二番目の実がアベルだと原理は説明しています。また、サタンは先ず最初の長子を好んで取るというサタン先行論としても説明されます。

歴史は、カインがアベルを殺害したことから始まりましたので、ここからアベル的立場からのカイン的立場を屈服させて長子の立場(神の祝福を受ける立場)を回復するという救済歴史が始まるという訳です。

<リベカとヤコブ>

ヤコブの母リベカはエソウとヤコブの一体化には成功しました。これを原理ではリベカの「母子協助」と呼び、啓示により兄エソウから父イサクの祝福を奪ったヤコブを助けたというのです。

この記述は創世記27章1節~29節に描かれています。神から双子が生まれるとの啓示があり、兄のエソウよりヤコブに神の選びがあることをリベカは知っていました。リベカは、敢えてイサクとエソウを欺くことになりますが(創世記27.5~10)、これはエバが神とアダムを裏切ったことの償いであるというのです。 

こうしてリベカは、神によって予定されたヤコブに長子権を譲り渡すことに成功しました。しかし次に記しますように、リベカはレアとラケルの一体化には失敗し歴史に償いを残したといわれています。これは原理講論には書いていない内容です。

レアとラケルの葛藤と一体化の失敗>

妹ラケルにはヤコブを姉のレアに奪われたという恨がありました。(創世記29・23)結局、レアは正妻、ラケルは妾の立場になり、レアはラケルの夫を奪った恩讐、レアとラケルは夫を奪い合う愛の恩讐になっていったというのです。

ラケルには妾の立場から正妻の立場を回復する道が残されました。もともとヤコブは美しい妹のラケルを妻に望んでいましたので(29.18)、本来ラケルが正妻になっていればユダからではなく、ラケルの子孫からメシアが来るはずだったと言われています。むしろレアは長女権と正妻権をラケルに与えるべきだったというのです。

正妻と妾の関係には、エバ一人が犯した罪を二人の女性が分担して清算するという摂理があったと言います。妾が神側の正妻になるという本来の摂理がありましたが、結局ラケルは長女権を回復できなかったことでヤコブ路程における女性のカイン・アベル一体化は成就せず、マリアとエリザベツの時代に持ち越されることになります。  

このレアとラケルの葛藤は、一つのパターンになってカナン偵察の分裂、イスラエルの南北分裂(10支派と2支派)の遠因、十字架の遠因の一つとなりました。またラバンの妻は母としてレアとラケルを一つにすべきだったとも言われています。

<タマルの勝利の摂理的意味>

さていよいよ本題のタマル物語です。歴史の二流(カイン、アベル)は、アダム家庭では交差しましたが転換できず、ノア家庭では交差も転換も不可でした。ヤコブ路程では、ヤコブとエソウの一体化で善悪の交差転換を成功し外的条件を立てることができました。しかし、当時ヤコブは40歳であり、40才までの期間を分別が残されております。こうして胎中まで遡って元返すという責任を担ったのがタマルでありました。

ユダヤの国では、その昔、祝福を受けた血統は途絶えてはいけませんでした。また、女性が子孫を残せずに死ぬというのは、女性としての道理ではなかったのです。ですからタマルは、自分の一代において祝福されかた血族を残せないことに対して、命を失うこと以上に苦悩するようになりました。

タマルはレビラート婚(エル→オナン→シラ)によってユダの血統を残すことがかなわないと知り(創世記38.11)、天使がエバを誘惑したので逆にエバが誘惑するという型を取りながら義父のユダと関係しました。

当時タマルもリベカと同様、双子を産むという啓示を受け、遊女を装うことは天啓だったとUC創始者は言われています。私的な性欲、ユダとの情関係、自己の栄光、などではなく、ただ選民の血統を残すという一念、完全無私の神への信仰のみだったと言われています。

タマルは双子を身籠りましたが、タマルの胎中で、長子の立場にあるゼラが先に手を出しましたが、そのゼラを押し退けてベレツが先に出てきました。(創世記38.27~30)

これが胎中聖別で、ベレツが胎中で長子の立場を回復しました。この胎中聖別(血統転換)は絶対信仰を条件とする他の女性が代替できないタマルしか出来ない仕事だったのです。この胎中聖別によって、その血統からメシアが生まれることになりました。

これがイスラエル選民の内的出発勝利圏であります。産婆が先に出てきたゼラの手に緋の糸を結んだこと(創世記38.28)は神の知恵であり、創始者は「もし聖書がこれを書き残さなかったら長子権回復や胎中聖別を整合性を持って説明できなかった。私はこれを記録した聖書に感謝する」といわれました。

このように、聖書の記述の背後に深刻な神の救済摂理が込められていることを知るにつけ、聖書が神の啓示の書であることを今さらに実感せざるを得ないものです。

<マリアとエリザベツ>

また、マリアからメシアが生まれるとの啓示はマリアとエリザベツ双方が受けていたと言います。マリアとエリザベツとは前記のラケルとレアの関係(母親側の従妹)であり、神と聖霊の導きでマリアの手を引いて夫ザカリアの元に導いたことはエリザベツの信仰の勝利と言えるでしょう。

レアがラケルから夫を奪ったので、逆にエリザベツがマリアを祝福しました。このエリザベツとマリア及びザカリアの勝利で、レアとラケルが一体化できなかった立場を回復しました。


故にマリアはサタンの讒訴圏無く、胎中聖別を経ることなくイエスを産めたのであると言われています。「歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地した」(周藤健著「成約摂理解説」P157)と言われています。

このように、創世記には長子権復帰から見た血統転換の奥義が秘められています。創世記に復帰歴史の縮図があると言われる所以であります。

以上、創世記の神観、全体構造像、及びタマル物語を中心とした血統転換の啓示的記述を考察してきました。次回は、原理の神認識の特質について考えていきます。(了)



*上記絵画:聖家族(レンブラント・ファン・レイン画)

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