top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

論点② 神の霊とは何か(1)聖霊とは何か

🔷聖書の知識45-論点②ー神の霊とは何か(1)聖霊とは何か

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊(聖霊)が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。(ヨハネ15.26)

今回の論点は「聖霊」であります。前回、カトリックのマリア信仰における聖霊的役割について論及しました。今回は「聖霊とは何か」について考えると共に、いわゆる聖霊発出論争(Filioque フィリオクェ)についても論及いたします。

さて、聖書に出てくる「神の霊」の働きを考えるとき、a.旧約時代の神の霊、b.時代のイエスの復活までの聖霊、c.復活以後の聖霊、の言葉の区別について考える必要があります。

これらがその本質において、どこが同じでどこが違うのか、その異同について考え、先ず、そもそも「神の霊」とは何かを論じ、そして次に「聖霊」とは何か、について明らかにしたいと思います。

《聖霊降臨》ジャン・レストゥー画


1-1、「神の霊」の注ぎ


旧約聖書では、「聖霊」という言葉は使われていませんが、「霊」という言葉があります。旧約聖書では、すでに“「霊」という言葉を、神から来るものとして使っていました。生命を創造する力は、「神の霊」もしくは神の息と言われています。

神の霊は実在する現実であり、現に我々自身がある種の「霊の注ぎ」を感じています。そして神の霊は次のように義人らに注がれました。

「ヨシュアは知恵の霊に満ちていた」(申命記34・9)

「主の霊が激しくダビデに降るようになった」(1サムエル16・13)

「これは主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11・2)

「終わりの時に、全ての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書 2・1)

ヨハネ4・24には「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とあり、神を「霊」であると言っています。

1-2、霊は神の活動する力


霊とは,基本的に「神の活動する力」のことです。聖書に出てくる「霊」という語は,ヘブライ語のルーアハ,ギリシャ語のプネウマを翻訳したもので、ほとんどの場合、これらの語は「神の活動する力」を指して用いられています。

しかし,聖書中では「息」(創世記2・7、ヨブ 34・14)、「風」(創世記 8・1、ヨハネ 3・8)等とも表現されています。息や風は肉眼では見えませんが,その力が働いている結果を見ることができます。同様に神の霊も,息や風に似た「目に見えない無形の強力な力」を意味しています。

また,聖書は神の霊のことを神の「手」(申命記2 .15)や「指」(ルカ 11・20、申命記2 .15)と描写しています。人間が手と指を使って仕事をするように,神もご自分の霊を用いて色々な業を行なってこられました。

2、問題提起ー神の霊と聖霊の区別とは


原理講論P265~266には、「聖霊とは真の母として来られた方で、霊的イエスの霊的相対(新婦)となる霊であり、霊的真の母としての女性神である。霊的真の父母としてのイエスと聖霊によって、霊的重生されるのがクリスチャンである」という記述があり、聖霊とはイエスが霊的に復活されて以後、霊的相対 として復帰された霊だと読むことが出来ます。

しかしイエスの復活以前にも聖霊という言葉があり(マタイ1・18、ルカ1・35、ルカ3・22)、ここで使われている聖霊という言葉は、上記イエスの復活により復帰されたイエスの霊的相対者としての聖霊とは違った霊ではないかということになります。いわゆる「聖霊」ではなく「聖なる神の霊」を意味するということにならざるを得ません。

また旧約聖書には聖霊と言う表現はなく、「神の霊」「主の霊」「聖なる霊」という言葉で各所に出てきます(創世記1・2、1サムエル10・6、1サムエル16・13など)。つまり、聖書に出てくる、a.旧約聖書の神の霊、b.イエスの復活以前の新約聖書の聖霊、c.復活以後の新約聖書の聖霊、の3つは、どこが同じであり、どこが違うのかが問題になります。

3、ある神学者の見解


この点、神学に詳しいある信者A氏は、「旧約の霊」について次のように述べています。

「旧約聖書においては、霊(ル-アハ)は神の行為の道具として自然に対しても 人間に対しても大きな役割を演じています。このル-アハが吹き入れられることによって人間は生命を得たといいます。また、神の霊は天地創造の時に『水の表を動いていた (創1・2)』と言うように、神の属性としてすでに存在していたのです。従って、神の霊はイエスが誕生する前から存在しているので、イエスの相対者という限定された存在ではありません。

また、それは被造物に働きかけてそれを形成し生命を与える力(創2・7、詩104・29~30)でもありますので、全ての力の根本にある力としての万有原力(原理講論P50)と言ってもいいかもしれません。

このような普遍的、万能的な創造活動以外に、神の霊が特定の人間に強烈に注がれる場合があり、その時その人間は特別な賜物、能力が与えられる(創41・38、士師記14・19、1サムエル16・13))のです。その最も顕著な例は預言者の活動です。救世主メシアもこの神の霊の賜物を豊かに受けた方であり(イザヤ11・2)、また終末においては、特定の個人だではなく神の民全体に神の霊が下り、その実現によって新しい時代が来ると信じられたのです。(イザヤ44・3、ヨエル2・28)。

以上を要約すると、旧約における神の霊は 第一に世界と人間に創造的、生命付与的に働きかける神の力を意味し、第二に人間を人格的に鼓舞し目覚めさせて、歴史形成に資することを目的とする働きを意味しています」(以上A氏)

一方、新約では、聖霊(聖なる霊)によって処女マリアがイエスを身ごもり、イエスが洗礼を受けた時には聖霊がイエスの上に下り、荒野でサタンの試練を受けた時には彼を支え、悪鬼を追い出し神癒として病人を癒し彼に奇跡を可能にするなど、生涯を通じて彼を支えています。やはり聖霊は「神の力」なのです。この場合の聖霊は「聖なる神の霊」と呼んだ方が正解でしょう。

またイエスの復活以後においては、聖霊は「別の助け主」であり(ヨハネ14・16~26)、使徒たちが、頻繁に聖霊の賜物を受けるのはイエスの復活の後であり、この聖霊こそ、原理で言うイエスの霊的相対圏に立つ母なる霊であります。

この点、別の食口神学者B氏は以下のように述べています。

「キリスト教における聖霊は神学的には三位一体(父・子・聖霊)の神の第三位格(聖霊なる神)ということになりますが、原理的に言えば、イエスは神の男性性相の実体化した方、聖霊は神の女性性相そのものの働きと考えられます。

従ってキリスト教でいう第三位格としての聖霊はイエス様の相対者になるはずだった人の霊ではなく実体はありません。ただ、実際は神の女性性相に促されて、「天使や善霊たちがキリスト者に働く作用」がキリスト教での聖霊の働きとなると思われます。したがって聖霊による癒しなどの奇蹟は実際あるということです」(以上B氏)

以上から、旧約の神の霊及びイエスの復活以前の新約の聖霊は、イエスが復活昇天する前から存在しているので、イエスの相対者という意味での聖霊ではなく、「神の人格的、非人格的な全ての根本にある神の力の作用」あるいは「神の意を受けた天使や善霊を通しての働き」、つまり「聖なる神の霊」であるということになります。

一方、イエスの復活、昇天以後の新約における聖霊は、イエスの相対としての霊的母としての霊と考えられるでしょう。

ただ、キリスト教神学においては、聖霊は使徒行伝2章1節に見るベンテコステ依然にも散発的にその働きがあったとし(詩篇51・11、1サムエル23・2)、ベンテコステ以後は継続的に聖霊が働くようになったとしています。

UC創始者は、「聖霊は、サライ・リベカ・ラケルの総合霊、それにマリアの霊が加わったもの」という表現をされています。従ってマリア信仰が聖霊のある面の役割を果たしたと言えなくもありません。

4-1、聖霊の位置付けについて


次に、伝統的なキリスト教は聖霊をどのように考えているかを見ておきます。

上記してきましたように、存在論的には、西方教会でいう「聖霊」は、「父なる神」と、「子にして神であり人でもあるイエス・キリスト」と共に、三位一体の一つの位格(人格)であると位置付けられ、「聖霊なる神」とされています。即ち、カトリック教会、聖公会、プロテスタント、正教会、非カルケドン派において、聖霊は三位一体の一つの位格(神格)であると位置付けられます。

これらはニカイア公会議(325年)の頃からコンスタンティノポリス公会議(381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が整理されていきました。この三位一体の教理は「一つの神の本質のうちに、父、子、聖霊の3つの位格(人格)の神がある」というものです。この「父、子、聖霊は各々が独立した神であるが、そこに三人の神がいるのではなく、いるのは一人格の一人の神である」という教理は理性の認識を越えた奥義であり、神秘だとされ、大神学者も明確に説明出来ない難問だとされています(シーセン著「組織神学」P224)。

この三位一体の論議は別の機会に譲るとして、キリスト教では聖霊は第三位格の神と位置付けられています。マタイ8章19節は「父、子、聖霊の御名(単数)によってバプテズマを授けるように」と教えており、これは三位一体のひとりの神を集合的に言っていると主張します。従って、聖霊がイエス様の新婦的存在であるという認識はありません。

4-2、聖霊は人格を持った存在


聖霊は力、人格、それとも他の何か、が問題になります。

この点、エホバの証人では、聖霊は三位一体の第3位格の神であることを否定すると共に、聖霊は神の「非人格的な活動力」だと主張しています。しかし聖書は、聖霊が「人格を持った存在」であることを多くの聖句が示しています。

聖霊は、イエス・キリストについての証しをし(1コリント12・3、ヨハネ15.26)、人々を真理に導き(ヨハネ16・13)、罪と義とさばきについて目を開かせ(ヨハネ16・8)、命令されます(使徒伝8・29)。これらすべてのわざは、ただの力でも、物でも思考でもなく、人格が関係することを示しています。

更に、聖霊の「特質」も人格を指しています。聖霊には命があり(ローマ8・2)、意思があり(1コリント12・11)、そして全知(1コリント2・11)であり、永遠です。(へブル書9・14)

以上から、聖霊は人格を持った霊であります。

4-3、聖霊の働きと役割


では、聖霊の働きと役割とは何でしょうか。幾つかの聖句から考えていきたいと思います。

「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を神から受けて注いで下さった」(使徒2・33)→この聖句は、イエスがその相対圏にたつ聖霊を神の祝福のもとに復帰されることを示しています。

「また、聖霊によるのでなければ、誰もイエスは主であると言うことはできません」(1コリント12・3)→これは主の証し人としての働きで、これが聖霊の最大の役割です。

「真理の御霊(聖霊)が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いて下さる」(ヨハネ16・13)→これは真理に導く働きです。

「わざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」 (テトス3・5)→これは悔い改めに至らせ新生させてくださる働きです。

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。(1コリント3・16)→これは聖霊が内住され導かれることを意味します。

「またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている」(1コリント12・8~10)→これは聖霊が、様々な賜物を与えられ、癒しや奇跡の働きをされることを示しています。

「二人は聖霊によって送り出され、セレウキア下り、そこからキプロスにむかった」(使徒14・4)→これは聖霊は宣教の助け手、導きの霊であります。 

以上のように、聖霊の働きと役割は、a.主の証し人であり(1コリント12・3)、b.内住し人を真理に導き(ヨハネ16・13)、c.悔い改めと新生の役事をされ(テトス3・5)、d.慰労・癒し・奇跡の業をなされ(1コリント12・8~10)、e.助け手として宣教を導びかれる(使徒14・4)、といったところでしょうか。

上記5つの聖霊の働きと役割は、成約時代の聖霊観にも当てはまります。我々は、この成約における実体聖霊の慰労と癒しの賜物を信じ、祈り、願うことを通じて、大きな恵みを享受できることは間違いありません。

5、聖霊は救いに如何に関わっているか


聖霊は神学上、「救済論」の文脈で語られることが多々あります。即ち、救いは、キリストの十字架の贖罪によって既に成就したとされますが、その救いの各人への適用には、聖霊が新生・聖化・栄化の全ての局面で神の恩寵として深く関与するというものです。

即ち、私たちの個々人の救いは、召し・信仰・義認・悔い改め・回心・新生・聖化という救いの内的プロセスと、それを保証する祈祷・み言・典礼儀式という具体的方法の両面でなされていくというのです(梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」P115~136)。

ジェーコブズ著「キリスト教教義学」には、「聖霊が、み言を通して、人の心に回心を起こされる」(P286)とある通り、聖霊の恩寵により救いのプロセスを成就すると言われています。しかも、この内的プロセスは、義認から回心が順番に起こる場合もあれば、同時に起こる場合もあり、その前後を一概には言えません。ともかく、ここに至って私たちは聖霊の証印を押され(エペソ1.13)、「救いの確証」に辿り着くというのです。

ちなみに、聖化とは、新生されたクリスチャン(原罪の清算)が、残存する悪い性質を清算して更に清められ、信仰者として霊的に成長していく漸進的な過程(堕落性の清算)であります(2コリント4.16) 。

上記ジェーコブズは「義認と新生は神のみ業である。しかし聖化は、そこに新生を通して与えられた力により、新生者が協力する」(同著P294)と語り、聖化の局面では人間の行為の必要性を認めています。また、栄化とは、再臨により神性を持った完成された復活の体になること(人格完成)であります。ここに至って、創始者の言われる通り、もはや宗教も信仰も祈りも不要になるというのです。

上記に見てきたように、救いのプロセスに聖霊が密接たに関与いたします。聖霊の働き、聖霊の賜物が、救いの完成に不可欠であるということです。この事実は、成約時代にも適用される真理であります。

6、原理観


ここで、聖霊についての原理観を述べておかなければなりません。

即ち、「イエス様を真の父、聖霊を真の母とし、この霊的な父と母の愛を受けて霊的に新生されるのがクリスチャン」だとするのが原理観です。原理講論P265には、「聖霊は、真の母(霊的母)として、また後のエバとして来られた方であるので女性神です」と記され、「聖霊によって信徒は新婦として立つようになり、慰労と感動の働き、悔い改めの業をされる」とあります。

このように聖霊は、イエスの相対者、新婦としての人格的な母性の霊であります。従って、三位一体でいう位格の一つとしての「聖霊なる神」ではありません。イエスは天(陽)で働かれますが、聖霊は地(陰)において業(役事)をされる母性の霊であるといえるでしょう。上記しましたように、創始者は、「聖霊は、サライ・リベカ・ラケルの集合霊」と言われ、それにマリアの霊が加わった霊と言われたことがあります。

神の霊は、旧約時代から神の活動力として働かれましたが、新約時代は、この神の霊に加えて、イエスの新婦たる聖霊がより主体的に働かれる時代圏だというのです。

7、ペンテコステ運動について


ペンテコステは使徒時代の五旬節の聖霊降臨に源流があります(創世記2・1~4)。

現代のペンテコステ派は、キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年初頭にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運動からうまれた教団・教派の総称ないし俗称であります。

この教派、教団に属する教会をペンテコステ教会といい、韓国の牧師・趙鏞基の純福音教会もこの流れに属します。今や、ペンテコステ運動、ペンテコステ教団は、プロテスタントのかなり大きな部分を占めています。

ここでは聖霊によるバプテスマによって与えられる聖霊の賜物が強調されます。「聖霊の賜物」とは、異言・異言の解き明かし・預言・いやし・奇蹟・悪霊の追い出しなどを行う力のことで、聖霊の賜物によって、リバイバルが喚起され、神の栄光が現されるという信仰であります。

また福音派は、総じて聖霊の賜物を重視する傾向があります。ちなみに聖書の言葉をそのまま信じ、聖霊の働きや回心体験を重んじる傾向の強い人々を福音派といい、より合理性を持って聖書を解釈し、神学や教育を重んじる傾向の強い人々を伝統派(リベラル派)と一応定義できます。

8、聖霊発出論争(Filioque フィリオクェ)


最後にいわゆる聖霊発出論争について言及しておきます。

聖霊発出論争(Filioque フィリオクェ)とは、聖霊が父からのみ発出するものか,もしくは父および子から発出するものかをめぐる論争であります。即ち、正教会では「聖神(聖霊)は父より発する」とされますが、カトリック教会では「聖霊は父と子より発する」とされる点の相違であります。

もともとニカイア・コンスタンティノポリス信条のギリシア語原文では「父より出で」としていました。しかし、9世紀になってからカトリック側が、このラテン語訳の「父より 」の後、「出で 」の前に「と子(から)(Filioque)」と付け加え、全体で「父と子から出て」とし、これを正文であると主張したためにコンスタンティノポリス教会側が反発しました。

この問題はキリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主因となりました。ローマ教会では1545年より始まったトリエント公会議の第2回総会で、“Filioque” を加えたラテン語の信条が改めて承認されました。一方、正教会では「聖神は父からのみ発出し、子を通して派遣される」としています。

その後、たとえラテン語とギリシャ語で表現の違いがみられるとしても、彼らの信仰は本質的に同一であるという妥協的な結論に落ち着きました。正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイは、フィリオクェ問題を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしています。20世紀末以降、西方教会側で「フィリオクェ」を再考する動きが散見されます。

原理観からこれらを論評しますと、こういった問題は、聖霊を三位一体の位格の一つ、即ち聖霊なる神と捉える聖霊観から来るものです。聖霊は神そのものではなく、キリストの新婦の霊と捉えれば、キリストによって復帰され、神に祝福された「人格的な母性の霊」であるという結論になります。

以上、神の霊、聖霊について論考しました。聖霊の賜物はある種の啓示であり、「神の霊」「聖霊」を常に感じ、享受し、この賜物を受け取る器にならなければならないというのです。このことは、聖書的霊性の相続者として、私たちの信仰生活に欠かすことは出来ません。サムエルやダビデ、ベテロやパウロに注がれたように、この聖なる霊の注ぎは霊的生活の源泉であります。

次回は、逆に人間を貶める霊的存在である悪魔、悪霊について論述し、その悪霊からの解放、即ち、「悪霊の追い出し」について論及することにいたします。(了)



bottom of page