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使徒信条を原理観で読み解く① 使徒信条の概観

🔷聖書の知識156ー使徒信条を原理観で読み解く①ー使徒信条の概観


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン(使徒信条)


さて、前回まで、新約聖書27巻の解説を終え、これで通算新旧約聖書66巻を一通り解説したことになりました。そこで今回から、キリスト教の教義が要約され、西方教会の礼拝で唱和されている「使徒信条」を、原理との対比の中で掘り下げて解説していきたいと考えています。


このことを通じて、キリスト教とは何かが理解できると共に、原理との対比の中で読み解くことにより、より深い原理の理解に到達できると確信するものです。言葉を変えて言えば、「統一神学」への挑戦です。


【使徒信条とは】


イギリスの神学者クランスフィールドは、著書『使徒信条講解』の中で、「使徒信条は、新約聖書の教えを簡潔かつ包括的に要約したものであり、キリスト教信仰を理性に従って明快に理解するためにこの上もなく助けになる」(P10)と語っています。


<キリスト教の教えの端的な表明>


このように、使徒信条は、キリスト教の教えが端的に集約されていると共に、全体が一つ信仰告白となっており、これを唱えることにより、日々自らの信仰を確認できるというのです。ある意味で、使徒信条は、UCの家庭盟誓の土台となっていると言え、使徒信条が個々人の信仰告白であるのに対し、家庭盟誓は家庭単位の信仰告白とも言えるでしょう。


そして「使徒信条」は、カルケドン会議(451年)前後に教義的に確立されていった最も標準的な信条であり、西方教会(カトリック・プロテスタント・聖公会)の基本信条であります。しかし東方教会(正教会・東方諸教会)では使用されず、むしろ「ニケーヤ信条」(注1)(ニケーヤ・コンスタンティノポリス信条)が広く使われています。ニカイア信条とは、ニケーヤ公会議(325年)で定められたニケーヤ信条を、コンスタンチノポリス公会議(381年)で改訂された信条です。


<使徒信条の意義と構造>


この信条は、第一に洗礼式の信仰告白のために必要とされて作られたと言われています。初代教会時代は洗礼が重視され、洗礼のための「信仰告白」として、定型のものが必要とされました。


受洗の際、①あなたは、全能の父なる神を信じるか、②あなたは、私たちの救い主、イエス・キリストを信じるか、③あなたは、聖霊と、聖なる教会と、罪の赦しを信じるか、 という3つの問答が告白されました。つまり、使徒信条は、「洗礼信条」から発展したものであるというのです。


信条が作られた第二の理由は、異端との区別、特にグノーシス主義との戦いに必要だったと言われています。グノーシス主義とは1世紀に誕生した宗教思想で、地中海世界に広がりました。グノーシスとは、ギリシア語で知識を意味する言葉で、その特徴は、物質を悪、霊を善とする二元論であり、隠された知識を得ることで、自己の本質と真の神についての認識に到達すると教える思想です。


グノーシスとの論争は、救済論に関係したものでもあり、リヨンのエイレナイオス(130~200位) は、「その解釈は、使徒たちの教えと一致しているか」と問い、反駁しました。


代表的な信条として「使徒信条」、「ニケーヤ・コンスタンティノポリス信条」、「カルケドン信条」、「アタナシオウス信条」がありますが、その中でも最も標準的でカソリック、プロテスタントを問わず広く西方教会で使用されているのが「使徒信条」であります。


使徒信条では、a.先ず、唯一にして創造主としての神、全能の神を宣言し、神の本質的性質を謳い(父なる神)、b.次に救い主イエスが誰であるか、その本質を簡潔に明らかにし(子なる神)、c.最後の部分は、いわゆる聖霊論で、聖霊の働きによって、信徒の信仰の営みが行われていく(聖霊なる神)、という流れになっており、このように使途信条は、父(神)、子(イエス)、聖霊という三位一体構造になっており、キリスト教神学の要約が端的に表明されています。但し、使徒信条は聖書と同格ではなく、聖書を解釈するための僕と位置づけられています。


<使徒信条の確立>。  


使徒信条は、2世紀後半のローマ信条(洗礼告白文)に基づいてつくられ、4世紀から5世紀に教義的に確立されていき、今のようになったのは8世紀に遡ることができるでしょう。以下、この信仰的、神学的意味を解説していきたいと思います。  


前述の通り、使徒信条の根本的特色に、三位一体の教義が土台となっており、三位一体の神が告白されています。つまり、父、子、聖霊に関する三部分の叙述から構成されていますが、重心は御子イエス・キリストに置かれています。


また「福音の三要素」が示されており、その名は4世紀ごろより用いられはじめた事が確認されています。


ちなみに福音の三要素とは、①キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、②キリストは葬られたこと、③キリストは三日目によみがえられたこと、この3つです。救われるためには、この福音の三要素を受け入れる必要があります(1コリント15.3~5)。


①十字架上のキリスト ②キリストの埋葬 ③キリストの復活 (カール・ブロッホ画)



以下の項にて、使徒信条の逐語解説をすると共に、原理観から見て、どのように評価すべきなのか、その是非についても考察したいと思います。  

                

【我は信ず】


使徒信条には、「我は信ず」というフレーズが4回出てきますが、これは、この信条が信仰告白であることを示しているものです。そこで先ず、「信じる」こと、即ち信仰とはどういうことなのか、そして「信仰告白とは何か」について考察していきたいと思います。


<信仰とは何か>


先ず「信ず」の意味、即ち信仰とは、そして信仰の本質とは何かを考えたいと思います。これは単なる知的承認ではなく、神と神の約束への全人格的な信頼と受容であります。へブル11章1節には「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあり、以下39節まで信仰についての所見が述べられています。


アブラハムは信仰によってカナンに旅立ち、モーセは信仰によってパロの前に立ち、ユシュアは信仰によってエリコを陥落させました。つまり信仰とは、神の言葉、未達の希望、神の恩寵、これらを信じることであるというのです。


ある牧師は「神を知る方法は一つしかありません。それは信じることです」と述べました。またイエスは、「信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9.23)と語られ、創始者も「信じて行えばできないことはない」(天聖経弟9編第一章)と語っておられます。つまり、信仰とは、「神の恩寵を信じ、受け取る手である」ということができるでしょう。


<信仰とは決断であり、信仰告白である>


しかし前述のクランスフィールドが、「信仰は神の恩寵であると共に、信仰は信じる者の側の個人的な決断である」(著書『使徒信条講解』新教出版社P19)と述べていますように、筆者にとって信仰とは「決断」であり「信仰告白」であります。


即ち、信仰とは、神の存在を信じることへの決断、キリストが無原罪のメシアであることを信じることへの決断、悔い改めて罪を告白することへの決断、キリストの贖いを信じることへの決断、新生に預かることの決断、に他なりません。


究極的な宗教真理は、人間の理性と現実を超越しています。この超越的真理は、信仰的決断、即ち「信仰告白」によってしか手にすることはできないと言うのが筆者の認識であります。


但し、その信仰の有効性は、その人の熱心さではなく、信仰の対象で決まると言っていいでしょう。信じる対象が偶像であれば、その熱心さは徒労に終わるからです。


【アウグスティヌス、ルターにおける信仰】


信仰の神学的意味について、最も深く洞察したのは何と言ってもアウグスティヌスとルターでしょう。彼らは、修道院などでの苦行の末、人間の力では超えられない壁に直面し、自らの罪と格闘しました。全ての戒律を守り、誰よりも厳格な修道生活を経て自己を律した末、人間の努力の限界を自覚して、神の恩寵無しに救いは無いこと、即ち、神の恵みにより、信仰により義とせられるという境地に至りました。


彼らは聖書の一句で回心を遂げ、神とその恩寵を受け入れることを選択しました。正に「神の恩寵を受け取る手」であり、信仰義認への決断です。仏教の用語で言えば自力救済から他力救済、絶対他力への転換であり、旧約の行義時代から新約の信義時代への転換とも言えるでしょう。


【信仰告白について】


使徒信条は公的な意味での信仰告白であります。次の二つの聖句は信仰告白について語っています。


「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10.9~10)


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(1ヨハネ1.9)


上記聖句のとおり、信仰告白は、先ず心で信じ、次に口で言い表すということで完結いたします。カソリックの秘蹟である改悛の告解は、①罪を悔い改める改悛、②罪を公に言い表す告解、③罪のための償罪(賠償)という3つのプロセスで成り立っています。


実は筆者は、2011年(平成23年)7月27日、アメリカアリゾナ州セドナの山の中頂にある「The Chapel of the Holy Cross」(聖十字架教会)を訪れる機会があり、その礼拝堂にて、「原理が神の究極的真理であること、イエスと文先生が無原罪のメシアであること」を告白いたしました。この信仰告白の意味を後日再確認させられたのが韓国牧会者団の「究極的な宗教的真理(の認識)は、信仰告白によって可能になる」という言葉でした。


以上、今回は使徒信条の概観を述べ、「我は信ず」の意味について論考しました。次回は、本文の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」について解説いたします。(了)



(注1) ニケーヤ信条


私たちは、唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべての創造者を信じます。


私たちは、唯一の主、神のひとり子、イエス・キリストを信じます。主は、あらゆる代々にさきだって父より生まれた方、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と本質において同じです。主によってすべては造られました。


主は、私たち人類のため、また私たちの救いのため天から下り、聖霊と処女マリヤによって受肉し、人となり、私たちの身代わりとしてポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、三日目に聖書にしたがってよみがえり、天にのぼり、父の右に座り、生きている者と死んでいる者とを審くために栄光をもって再び来られます。彼の御国には、終わりがありません。


私たちは、聖霊を信じます。聖霊は主、命を与える方、父と子より出で、父と子とともに礼拝され、ともに栄光を受け、預言者を通して語られます。私たちは、唯一の聖なる公同の使徒的教会を信じます。

私たちは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを告白します。私たちは、死者の復活と来たるべき世の命を待ち望みます。アーメン

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