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使徒信条を読み解く⑨ 子なる神について(6) 3日によみがえり

🔷聖書の知識164ー使徒信条を読み解く⑨ー子なる神について(6)-3日によみがえり


3日目によみがえり


福音の三要素とは、①キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、②キリストは墓に葬られたこと、③キリストは三日目によみがえられたこと、この3つで、救われるためには、この福音の三要素を受け入れる必要があるとされています。


今回は3番目の「三日目によみがえられたこと」、即ち、キリストの復活がテーマです。


【3日間の黄泉とは】


イエス・キリストは、十字架で亡くなったあと、三日間黄泉に下られ、3日後によみがえられましたが、この3日という意味について解説いたします。


神の救援摂理、即ち復帰摂理において、聖書には、十二数、四数、二十一数、四十数などの数字が出てきますが、これは元来、人間始祖が堕落しないで、十二数、四数、二十一数、四十数などによる数的要件(信仰基台)を立てて、創造目的を完成し、このような数の完成実体にならなければならなかったと言われています。


では、3日という数字には、どういう意味があるのでしょうか。


<三数の意味ー三段階完成の原則>


創造原理によれば、神は、性相、形性、中和体という三数的存在であられるので、神に似たすべての被造物は、その存在様相や、運動や、またその成長過程など、すべてが三数過程を通じて現れます。ゆえに、四位基台を造成して創造目的を成し遂げるに当たっても、正分合の三段階の作用により、三対象目的を達成して三点を通過しなければならないのであります。(原理講論P440)


人間は、母胎で10ヶ月を過ごし、地上で100年を生き、霊界で永生するようになっており、蘇生、長成、完成の三段階で物事は完成していくという原則があるというのです。三段階完成の法理です。


また「三人寄れば文殊の知恵」、「三度目の正直」と言ったことわざがあり、三種の神器、三天使、三大弟子、三原色という言葉があります。


聖書にも三数という言葉は多くあり、原理講論には次のように記されています。(P78)


「聖書には、三数を中心とした摂理の記録が多い。父、子、聖霊の三位、楽園の三層、ルーシエル、ガブリエル、ミカエルの三天使、箱舟の三層、ノアの洪水のときの三次にわたる鳩、アブラハムの三種の供え物、イサクの献祭の三日間、モーセの三日間の闇と災い、出エジプト路程のための三日間のサタン分立期間、カナン復帰のための三次にわたる四十年期間、ヨルダンを渡る前のヨシュアを中心とするサタン分立の三日期間、イエスの三十年私生涯と三年の公生涯、三人の東方博士、彼らの三つの貢ぎ物、三弟子、三大試練、ゲッセマネでの三度の祈り、ペテロのイエスに対する三度の否認、イエスの死の前の三時間の闇と三日目の復活など、その例は数多くある」


従って、創造目的を復帰していく摂理も、み言による再創造の摂理であるので、復帰摂理が延長されるときにも、創造原理により、三段階までは延長され得るというのです。


<出発のための三日路程>


アブラハムがひとり子イサクを神に犠牲のいけにえてしてモリヤの山で捧げるようにとの神の命を受け(創世記22.2)、イサク献祭にモリヤの地に出発しました。そしてモリヤの山に着くまでに3日間かかりましたが(創世記22.4)。この3日間は、その後も新しい摂理路程を出発する時、サタン分立に必要な期間となりました(原理講論P327)。


ヤコブがカナン復帰路程を出発しようとしたときにも、ラバンを欺いてハランを離れ、サタンを分立した3日期間があり(創31.19~22)、モーセも、エジプトからイスラエル民族を率いて民族的カナン復帰路程を出発するとき、サタン分立の三日期間を過ぎたのちに、紅海に向かって出発しました(出エ八・27~29)。またヨシュアを中心とするイスラエル民族がカナン復帰するときも、本陣に先立って彼らを導く契約の箱が、サタン分立の三日路程を進んだのでした(ヨシュア3.1~6)。


このように、摂理路程を出発するたびごとに、サタン分立のために必要な蕩減期間、即ち「出発のための三日路程」となったというのです。


そしてイエスの時も霊的な世界的カナン復帰路程を出発されるとき、サタン分立の墓中の三日期間がありました。

【キリストの復活】


キリスト教において、十字架と復活は、二大キーワードです。とりわけ復活は霊的勝利の証であり、キリスト教の出発点になる最も重要な概念であります。つまり、イエスの復活がなければキリスト教はありませんでした。


即ち、キリストが十字架の死後3日目に死人の中から復活されたこと、そして弟子たちの前に40日間顕れたこと、ここからキリスト教が始まりました。キリスト教は十字架から始まったのではなく、復活から始まりました。キリスト教の祝日で「イースター」(復活祭)が最も重視されている所以です。


とりわけギリシャ正教では、復活を重視します。ロシア思想史をライフワークとする宗教学者の田口貞夫氏は、東西教会の違いや正教の特徴について、「東方正教は西のキリスト教に比べて、罪よりも救い、十字架よりも復活を重んずると」と指摘しています。


文鮮明先生は、復活について、次のように語っておられます。


「キリスト教はいつ出発したのでしょうか。三日後に復活して四十日間弟子たちに会い、聖霊が降臨したのちに出発したのがキリスト教であることを知らなければなりません。それゆえ二千年間、キリスト教は、十字架の道理ではなく復活の道理によって出発したことを知らねばなりません」(イエス様の生涯と愛)


【復活とは―その意味について】


キリスト教において、否、私たちの信仰においても「復活」という言葉ほど重要で大きな意味を持つ言葉はありません。復活とは「死が前提となった概念」であり、一度死ななければ復活という言葉は生まれてきません。真に復活した人とは、真に死んだ人であります。


<弟子たちの変貌>


イエス・キリストの復活を考える場合、特筆すべきはイエスの弟子たちの信仰態度の大きな変化です。ペテロは3度も否認し(マタイ26.74)、イエスの十字架に直面して、皆逃げて行ったような弱かった弟子たちでしたが(マタイ26.56)、復活されたイエスと出会ってからというもの、それこそ死をも恐れない信仰者に変貌を遂げていました。12弟子のうちヨハネを除く11人が皆殉教したと言われています。


一体この変わりようをどのように解釈すればいいのでしょうか。彼らはまさに復活され勝利されたイエスと本当に出会ったということです。ここに敗北としての十字架と勝利としての復活を見ることができます


イエスは復活することで如何なる勝利をもたらされたのでしょうか。復活によってイエスは、「罪と死とサタン」を打ち砕いたと言われています。こうして復活されたキリストを信じるものは罪と死から解放されるというのです。確かに復活という概念は、死が前提となった言葉であります。復活するためには、一度死ななければなりません。


<キリストの復活とは肉体の復活か>

伝統的なキリスト教では、十字架につけられたイエス・キリストが、眠っている者の初穂として死人の中から肉体を伴って復活したことが信仰されています(1コリント15.20)。しかも、キリストの復活によって全ての人が生きるとされました(1コリント15.21 ~22)。


そしてパウロは、イエスの復活を文字どおり、肉体の復活であると捉え、復活を次のように記しています。


「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」(使徒行伝1.3)


「すなわちキリストが、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、500人以上の兄弟たちに、同時に現れた。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」(1コリント15.3~8)


確かに聖書の記述には、預言者エリヤ、エリシャが復活の奇蹟を行ったこと(1列王記上17.17 ~23、2列王記4.33 ~35)、枯れた骨の復活(エゼキエル書37.1 ~ 14)、会堂司の娘の復活(マタイ9.18~26)、ラザロの復活(ヨハネ11章)、ペトロがタビタを甦らせた記事(使徒行伝9.40)、パウロが転落した若者を甦らせた記事(20.9~12)、といった復活の奇蹟が記述されており、また、復活はイエスによって「3日目に甦る」と繰り返し予告された旨が福音書に記述されています。


しかし、これは現代人の科学的理性では信じがたい事実であり、十字架で死んで朽ちたイエスが肉体を持って蘇ることがあり得るでしょうか。


この点、自由主義神学の影響下にある教派や信徒の中には、肉体を伴ってのイエスの復活を事実として信じない者が少なからず存在しています。自由主義神学に立つ解釈では、復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかに原体験としてキリストがとどまり、その印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたものであるというのです。


ハルナックは、弟子達はキリストの死を悲しむあまり、キリストを求め、精神状態を乱し、キリストを見たと信じるようになった、即ち「復活は錯乱した弟子達による錯覚である」と主張しました。またブルトマンのように、「復活は歴史的事実や客観的事実ではなく神話であるが、たしかにケリュグマ(宣教)において復活した」とする非神話化の脈絡からの説明もあります。


しかし、福音派など伝統的キリスト教では、イエス・キリストの肉体の復活は歴史上実際に起った歴史的事実であり、死から蘇り、変えられて「復活の体」となられたと信じています。ただこの「変えられて復活の体になった」とはどういう体を言うのかが問題になります。


【復活の新しい視点】


内村鑑三は、再臨について、再臨は肉体を伴う有形的再臨であって、「人の救いは、霊だけではなく、霊と肉とによる救いでなければならず、霊の救済は十字架により成就しましたが、身体の救済は再臨によって成ります」と述べています。即ち、再臨による完全な救いの完成であり、「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活、神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である」(関根正雄編著『内村鑑三』)と述べました。


原理では、イエス・キリストの復活とは、「霊的な復活、霊的に勝利されたイエスの完成された輝く霊(霊人体)の復活」と捉え、肉体を伴っての復活ではないと主張します。そもそも死とは霊(霊人体)と肉(肉身)の分離を意味し、もともと肉体は朽ちて土に帰るように創造され、霊は霊界で永遠に生きるように創造され、イエスの場合も例外ではないと云うのです。従って、十字架後、弟子たちが会ったイエス様は、肉体を伴ったイエスではなく、霊的に甦られたイエスであります。


創始者は、「イエス様が死んで霊的に復活した土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は霊的です」と語られています。


即ち、キリスト教は、イエス様の肉体がサタンに侵犯を受けたので、霊的復活の基準を中心として出発し、霊的にキリスト教文明をつくり上げたというのです。この復活された霊的父としてのイエスと、霊的母(女性神)としての聖霊によって、即ち「霊的父母」によって新生されるのがクリスチャンであるというのです。


そしてイエス・キリストが十字架で殉教されたので、その後の弟子たちも殉教の道を余儀なくされました。今日までのユダヤ教、キリスト教の二千年の歴史は、イエス様を殺したことに対する償い(蕩減)の歴史とも言え、旧約時代は神が犠牲になり、新約時代は子女(クリスチャン)が供え物になりました。これがキリスト教が受難、迫害、殉教の歴史になった意味であるというのです。


ところで「最初の復活」とは何でしょうか。聖書において最初の復活とはイエス・キリストの復活を意味しますが、再臨摂理においては、再臨主によって初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのであります。したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにあると言われています。


即ち、再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのというのです。(講論P223)


 そして聖書に表示された14万4千人こそ、再臨主が降臨されて、全体摂理遂行のために立てられる信徒の象徴的な全体数、即ち、最初の復活であります(黙示録7.4、14.1)。



以上、使徒信条「3日目によみがえり」の意味を解説いたしました。次回は「天に昇り、全能の父になる神の右に座したまえり」を解説いたします。(了)


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