top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

出エジプト記 注解② モーセの召命

🔷聖書の知識71-出エジプト記注解② モーセの召命


ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(出エジプト3.2~10)



【出エジプト記の位置付け】


前回、出エジプト記の時代背景やその意義などについて考え、特にユダヤの三大祭が全て出エジプト記に源泉があることから、如何にこの出来事がイスラエルに重大な意味を与えたのかを確認しました。


今回から出エジプト記の具体的な中身に入るに際して、当然のことながら『聖書』と『原理講論』が大元になる資料なのですが、その他に何冊かの関連書籍を参考にしました。


山我哲雄著『一神教の起源』『聖書時代史』、浅野順一著『モーセ』(岩波新書)、小塩力著『聖書入門』(岩波新書)、大貫隆著『聖書の読み方』(岩波新書)、そして大塚克己著『出エジプト記研究』(光言社)などであります。特にこの大塚氏の本は、副題としと「旧約聖書学と統一原理の接点」とありましたので、興味があり精査することになりました。


大塚氏によりますと、出エジプト記は、旧約聖書の土台、心臓部であり、旧約聖書全体の結節点であると位置付けています。そして、「贖い」と「契約」が中心思想になっており、かくして出エジプト記はイスラエル民族のアイデンティティーとなったというわけです。


なるほど「贖罪と契約の思想」は、「唯一神思想」、「メシア思想」と並ぶ聖書的霊性の根幹をなす思想と言えるでしょう。また小塩力氏も『聖書入門』の中で「モーセ五書(六書)の主題は一つである。主題は、出エジプトにおける神の救いであり恵みである」(P23)と述べています。


また大塚氏は、創世記はイスラエル民族のメインイベントたる「出エジプトのプロローグ」という位置付けで書かれたと指摘しています。つまり、創世記はイスラエルがいかなる理由と経緯で選ばれたかを示して、出エジプト記において力強く展開する神の贖いの業を証するための「予備的な記録」であるというわけです。即ち、新約聖書に出てくる人物の中でも「モーセ」は人物の中で一番多く引用され、「イエスの予型」であるとした上、創世記は「最終的に出エジプトへと結び付くプロローグの役割」を果たしているというのです。(P20~22)


上記のように、出エジプト記が旧約聖書の心臓であることは、筆者も異論はなく共感するところであり、また出エジプト記を中心に旧約聖書全体を捉えようとする著者の意気込みは良しとするとしても、創世記が出エジプト記の前段的な文書であるというのは、いささか偏りを禁じ得ません。


筆者としては、出エジプト記が旧約聖書の心臓であるなら、さしづめ創世記はその「頭脳」であると言えるのではないか、と考えるものです。何故なら、創世記には、人類救済史全体の予型的な雛形が象徴的に暗示されており、神、罪、救いというユダヤ・キリスト教神学の基礎が示されていると確信するからです。確かに創世記39章以降のヨセフ物語は、出エジプト記の前段をなすと言えなくもありませんが、創世記全体としては、それ自体で完結している啓示的で代替不能な主要文書であるということであります。


無論、大塚氏は創世記について、その価値を十分認めており、「統一原理は創世記に極めて大きな比重を置いており、創世記は単に人類の原初史の解説やキリストの出来事の予型としてではなく、まさに神の復帰摂理の奥義が隠された書物として位置付けられ、価値が置かれている」(P101)と述べています。


【出エジプト記を読む視点】


さて、事実には二つあります。「信仰的事実」と「歴史的事実」です。


例えば、出エジプト記12章37節には、「イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった」とありますが、壮丁60万人もの大人数を想定するのは無理があり現実的ではないことは前回も述べました。


また、モーセが二つに分けたという紅海は、海ではなくナイルデルタ地域の潟湖のようなものだったと言う説があり、更にヨシュアに率いられたイスラエルが、エリコ城を奇跡的に陥落させた話しがありますが(ヨシュア記6.20)、この時にはエリコは既に廃墟だったことが考古学的に実証されています。


即ち、聖書の記録には、信仰的、神学的な構成があり、信仰的事実であっても、必ずしも歴史的事実でない場合があるということであります。


特に近代啓蒙主義や自由主義神学の影響を受けて、聖書の記述が事実か否か、いつ、誰が、如何なる時代背景において、どういう目的で、誰に向かって書かれた書なのかを考証する聖書研究が盛んになりました。聖書を歴史的、文献学的に検証しようとする「聖書批評学」です。


一方、聖書を神の啓示の書として、信仰的、神学的視点から文字の背後にある神の摂理や奥義を読み解こうとする研究も根強いものがありました。


私たちは、上記両者の研究成果を踏まえ、歴史実証的な目を持ちつつも、本質において聖書を神の「啓示の書」として捉え、そこから霊的意味を汲み取っていく姿勢が最も肝要であると思われます。


従って、以下出エジプト記を神の啓示の書と信じる立場から、そこから神の救済摂理と霊的意味を考察することにいたします。


なお、出エジプト記を初めとするモーセ五書(トーラー)は、太古以来の伝承や断片文書が、バビロン捕囚前後に編集され、最終的に確定されたのが前5世紀~前4世紀ころだと言われており、これが定説になっています。


無論、五書の編集者は個人ではなく、ある敬虔な信仰的特質を持った人々、あるいは申命記学派と呼ばれる神学者、司祭階級などの、いわゆる「イスラエルの残れる者」(エレミヤ23.3)と呼ばれる祭司的神学者らの手によるものと考えられています。


【誕生、宮中40年、ミデアン逃避】


イスラエルは出エジプトを経てカナンの地に着くと、毎年最初の産物を祭壇に捧げ、次のように信仰告白をいたしました。この信仰告白に出エジプトへのイスラエルの思いと歴史が象徴されています。


「わたしの先祖は、さすらいのアラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました」(申命記26.5~10)


上記申命記26章の信仰告白に象徴されるように、モーセに率いられたイスラエルは、紆余曲折の路程を辿りながらカナンに定着していきます。


アブラハムが信仰の父であり、イスラエル民族の祖であるとすれば、モーセは聖書最大の預言者、イスラエルの解放者であり、イエスの先駆者と言えるでしょう。モーセはユダヤ・キリスト教の聖人であるだけでなく、イスラム教でもマホメットに次ぐ預言者と見なされています。


<誕生と王宮40年>


モーセの人生ほど数奇な運命はありません。モーセの人生を見て、そこに神の導きを感じない人はいないでしょう。


モーセはヘブル人のレビ人の子孫である父アムラム、母ヨケベデから生まれました。そしてモーセには兄アロンと姉ミリアムがいました。モーセはパピルスで編まれた籠に入れられ、一旦ナイル川に捨てられますが、 これはイスラエルが強くなるのを恐れたヨセフのことを知らないパロ(ファラオ)が、次のように命じたことを避けるためでした、


「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ」(創世記1.22)


しかし水浴にきていた王の娘に奇跡的に拾われ、その後、王宮で40年を過ごすことになります。このモーセを救ったパロの娘は、モーセの名付け親(モーセ=引き出された者)であり、養親でありました。


そしてこれに類似する物語は、古代アッカドやギリシャ、インドにもあると言われています。


モーセは宮中で最高の教育を受け、あらゆる帝王学を学びました。使徒行伝7章22節に「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった」と書かれている通りです。 またモーセは、幼児期に実の母である乳母に育てられたこともあり、イスラエル民族としての選民意識も同時に教えられたと思われます。


<モーセ宮中を去る>


では、何故このモーセが、宮中を脱出しミデアンに逃亡しなければならなくなったかというのでしょうか。


それはある日、同胞を激しくこき使うエジプト人に怒りを覚え殺害したことがきっかけとなったと聖書は記しています。また一方、モーセの殺害を非難するかのような態度を示したイスラエル人の卑屈な姿勢にも憤りを覚え、これらが相まって同胞救済への思いが芽生えていったと思われます。


モーセの同胞愛の義憤から出たエジプト人殺害を、イスラエルは理解できず、モーセに追随出来なかったイスラエルの状況に直面したモーセは、遂に王宮を追われ、あるいは自ら贅沢な宮中生活を断ち切って、ミデアン荒野に逃避することになりました。


これは、ある意味で、モーセの同胞愛の表現であり、またイスラエル解放への内的決意の現れとも言えなくもありません。モーセはここで更に40年をミデアンで過ごすことになります。 過去からの分離です。


<第一次民族的カナン復帰の失敗>


モーセがエジプト人を殺害した行為は、とりもなおさず、悲惨なイスラエルに対する神の憤懣やる方ない心情の反映でもありました。


そしてサタン側の長子の立場に立っているエジプト人を打って蕩減復帰する意味があると共に、豪華な宮中生活の未練を断ち切り、併せてイスラエルにモーセの民族愛を示すことにありました。(原理講論P358)


しかし、こうして出エジプトへの合図とも言うべき民族愛的なモーセの行為を理解出来なかったイスラエルは、逆にモーセに異を唱える立場に陥り、結局、出エジプト自体ができなくなってしまったというのです。これが、原理がいう第一次民族的カナン復帰の失敗であります。こうしてイスラエルは、本来のカナンへの21日の近道(ベリシテ人への道)を出発さえ出来ませんでした。


【モーセの召命】


こうしてモーセはパロの目を逃れてミデアン荒野に逃れ、40年をそこで過ごす事になりました。


<ミデアンの40年>


モーセはミデアンの地に着き、井戸のかたわらで祭司リウレルの娘チッポラと会い、やがて結婚することになります。そう言えば、イサクの妻リベカも、ヤコブの妻ラケルも、男女の出会いはいつも井戸のそばでした。そしてチッポラは男の子ゲルショムとその弟を生みました。


40年に渡り義父のリウレル(エテロ)に仕え、砂漠の遊牧民の牧者として過ごすことになります。このミデアンの40年で、モーセは忍耐心と窮乏生活の鍛練を体験し、解放者としての次のステップに備えることになりました。


<召命>


そうしてモーセは満を持して、神の山ホレブの燃える芝の中で神と出会うことになりました。神による召命であります。


「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(出エジプト3.2~10)


この時神は、自分の名を「有って有る者」「わたしは有る」と名乗られました。これは、永遠から永遠に自存する存在、何物にも依存しない絶対者だと宣言されたのです。神はまた「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」とも名乗られました。


しかしモーセは、一旦この神を召命を断ります。


「モーセは神に言った、わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」(出3.11)


このように躊躇するモーセに対して、神がモーセをイスラエルに遣わされた「しるし」として、「三大奇跡の権能」を付与されました。即ち、「杖か蛇になりる奇跡」、手をふところに入れると「らい病」にかかり、ふところにもどすと「回復する奇跡」、ナイル川から取った水は、かわいた地で「血となる」という奇跡、であります。


しかし、それでもなおモーセは、「口か重い、舌も重い」と弁解し、「ほかの適当な人をおつかわしください」と神を困らせました。


神はモーセの口の代わりをする兄アロンを遣わすと言ってモーセをなだめ、遂にモーセは神の召命を受け入れ、妻の父エテロにエジプト行きの承諾を得ることになりました。かくしてモーセは、イスラエルを解放するという重責を与えられ、妻と子供たちをろばに乗せて、エジプトの地に向かって行きました。


こうして神の確かな召しにより、解放者モーセが誕生しました。まさにモーセは、神に選ばれし、神の召命を受けた正真正銘の預言者でした。


<神の召しの諸様相>


上記の通り、モーセの召命ほど劇的で明確なものはありません。しかしモーセは初め尻込みし、素直には応じませんでしたが、これは預言者エレミヤも同様でした。


神はエレミヤを万国の預言者としますが、エレミヤは「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ書1.6) と最初は躊躇しています。


実際、恥ずかしい話しですが、筆者が20才の時「原理を受け入れて歩め」との神の最初の召しに際して、大変な葛藤の中に晒され、夢であって欲しいと激しく抵抗いたしました。


それから50年が過ぎて、「聖書(神の言葉)の研究をもって天職となせ」との古稀の召しには、万感の喜びをもって受け入れることが出来ました。ここまで実に半世紀を要したというのです。さて皆様への神の召命は、いつどのように訪れたのでしょうか。


<ミリンゴ大司教の召命>


ここでカトリックのミリンゴ大司教の召命が、どのようなものであったかを述べておきたいと思います。


2001年5月27日、米国のニューヨーク・ヒルトンホテルで、聖職者を中心とした文鮮明先生ご夫妻主宰の60組の合同結婚式(国際合同祝福結婚式)が行われ、ザンビア出身のエマニュエル・ミリンゴ ローマ・カトリック元ルサカ大司教が参加したことで、世界中の注目を浴びました。


ミリンゴ氏は今は高齢(91才)であり、現在清平の清心病院で療養中だと聞いています。


ミリンゴ大司教は上記祝福式に参加するに当たって、2001年5月26日声明を出されましたが、その中で自らの生涯二度の神の召命について語られています。


一回目の召命は以下の通り、1973年4月3日のことでした。


「私は、偶然にも、自分が癒しの賜物に恵まれていることに気付きました。そのとき以来、神は多くの人々に恵みを与えるために、私の賜物を用いてこられました。主の霊が私の上に臨み、福音を宣べ伝え、病人を癒す使命を与えられ、さらに、私自身の思いをはるかに越えて、悪霊を追い出す使命をも与えられました」


この日神はミリンゴ大司教に、「癒しの賜物」を付与されたのです。そして次のように告白されました。


「私が神の道具として彼に従ったとき、数え切れないほどの奇跡が起こりました。何千人という人々がこの奉仕の業によって恵みを受けました」


そして次に2001年5月27日の国際合同祝福結婚こそ、ミリンゴ大司教の二回目の召命でありました。次の声明がそれであります。


「今71歳を迎え、公教会と司祭誓願への生涯にわたる奉献生活を送ってきた私に、主は新たな召命を与えられました。これまでの人生を永遠に変えてしまうような新たな一歩を踏み出すよう私を召されたのです。私は、ただ、主イエス・キリストに対する従順のゆえにこの一歩を踏み出すのです。それは、幾日にもわたる祈りと断食の末になした決断です。2001年5月27日、私は、マリア・ソンと結婚の祝福に与ります」


以上の通り、出エジプト記に関して、その位置付け、モーセの誕生と宮中生活40年、ミデアン荒野40年、そしてモーセの召命について考察して参りました。次回は、パロとの葛藤と十災禍の奇跡、そして出エジプトからシナイまでの旅程を見ていきたいと思います。(了)





*上記絵画:燃えるシバ(ウイリアム・ホール画)

bottom of page