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新約聖書の解説㉓ ヨハネの第一の手紙

🔷聖書の知識150ー新約聖書の解説23ーヨハネの第一の手紙


わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある(4.10)


【概観】


「ヨハネの第一の手紙」は、公同書簡とよばれる7つの書簡の一つで、異説があるもののヨハネの手紙第一、第二、第三は、伝統的に使徒ヨハネのものとされています。


これらの手紙は、内容、文体、思想がヨハネ福音書と似ており、同一人物によるものと考えられています。


伝承では老齢にさしかかった福音記者ヨハネ(使徒ヨハネ)がアジア州の諸教会に向けて書いたものだとされてきました。著作年代に関する議論には、エルサレム崩壊の前(60年代)に書かれた、または1世紀の終わり頃(80~95年)に、書かれたと言った説があります。


使徒ヨハネは、ヨハネ福音書、3つの書簡、黙示録という貴重な福音を書くように聖霊によって導かれ、これらヨハネの文書はキリスト教の歴史の中で燦然と輝いてきました。


著者によれば、この手紙が書かれた理由は「神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである」(5.11) とあり、「神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである」(5.13) とある通りです。また神の愛、隣人愛を強調し、そして特に著者が気にかけているのは、グノーシス主義などの異端的な思想を持つ教師たちの存在であります。


グノーシス主義とは、キリスト教、ギリシャ哲学、ペルシャ思想が混合したもので(混合宗教)、霊と物質の善悪二元論に特徴があり、物質からなる肉体を悪とする結果、キリストの受肉や十字架の贖罪を否定しました。道徳に関しては、2つの対極的な立場、即ち一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、肉体は霊には無関係として放縦となって現れました。


このような正当な教えから逸脱した教師たちは「反キリスト」(2.18、2.22、4.3)とみなされています。 反キリストとは、「イエスのキリストであることを否定する者」(2.22)であります。


これらの人々が教えていたのはキリストは体の実体を持たない霊のみの存在であったとしたり(化現説)、イエスの十字架上の死に、贖罪の意義を付与することを拒否したりしました。


即ち、著者の目的は、命の言葉を述べ伝えること、それによって父なる神と子であるキリストとの交わりの中に入って永遠の命を得ることでありました(1.3)。神との交わりを、キリストについていえば、その罪の贖い(1.7、2.2、3.5、4.10)と神への弁護者としての意味(2:1)において、人間について言えば、光の中に歩む(1.7)、戒めを守る(2:3)、清める(3:3)、信じる(3.23、5:5)、愛し合う(4.7)ことにおいて意義を見出だしています。


【注目聖句】


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(1.9)


この聖句は、罪の悔い改めと告白、罪の許しの真実を述べています。これは救いの第一原則です。


「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(2.2)


この聖句は、キリストが「贖罪の羊」であることを述べ、このことは 十字架で贖われ、復活で証明されました。他にもキリストが贖いの供え物であることは、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(1.7) 、「彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない」(3.5) 、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」(4.10) と言った聖句などに示されています。


「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る」(2.18)


「偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである」(2.22)


ヨハネの当時、今は終わりの日、即ちキリストが再臨される時との切迫感があり、同時に反キリスト、即ちイエスのキリストであることを否定する偽教師が現れる時であることが示されています。そして

イエスを神の子と信じる者が世に勝つ者(5.5)であると語っています。


「カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである」(3.12)


この聖句は、「カインのようになってはいけない、そのわざが悪いから」と述べていますが、何故悪いのか、どのように悪いのか、殺害の動機は何か、について説明されていません。この問題は聖書の奥義の一つで、原理はこれらを解明しています。


「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(3.16)


この聖句は愛の本質が自己犠牲にあることを示しています。ヨハネはヨハネ書15章13節でも「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と語り、また「神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4.10)と神の愛の本質を語った有名なフレーズか出ています。


即ち、ヨハネほど愛を強調した聖書記者はなく、

「神は愛である」(4.8、4.16、4.10)ことを繰り返し述べ、またその愛は隣人愛(3.11、3.18、4.20)にまで及んでいます。



以上、「ヨハネの第一の手紙」を解説しました。次回は「ヨハネの第二の手紙」の解説です。(了)




上記絵画*使徒ヨハネ(ウラジミール・ボロヴィコフスキー画)

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