◯つれづれ日誌(令和4年8月3日)-インスピレーションについて-安倍事件に思う
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい(ロマ書11.33)
今回のテーマはインスピレーションです。『カトリック神学入門』の著者ジャジャン・ピエール・トレルによると、神学の3要素、或いは神学の源泉は「信仰・啓示・理性」だと指摘しています。しかし、その前提にインスピレーションがあります。霊感、または直感と言えるかもしれません。ちなみに筆者も、聖書を何回か通読して以後、神の霊の働き、即ちインスピレーションを頻繁に受けるようになりました。
この7月8日安倍晋三元総理を襲った凶弾は、日本のみならず世界に衝撃を与えました。安倍元総理の偉大さは、バイデン大統領を始め200ヶ国以上の世界の要人から追悼文が寄せられていることから見ても明らかです。

何人かの心ある食口からは、今回の事件に関して「吉田さんのコメントを聞きたい」とのリクエストがあり、筆者もそう言ったリクエストに答えなければならないと思いつつ、「まだ、捜査の過程なので軽々には論じられない」と保留にしてきました。
ただ当初から筆者の本心に響く一つのインスピレーションがありました。それは「UCがスケープゴートにされ、反社会的団体呼ばわりされて葬られることは、安倍さんの本意ではないはず」との強い思いです。
確かに、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と三代続く保守本流は、私たちと大いに気脈を通じるものがあり、筆者もその政策に対して、公私に渡って共感を感じてきたことは事実であります。
その安倍氏が、よりにもよってUCを社会的に葬るきっかけになるなどとは、到底考えられない逆説であり、そしてそれは決して安倍さんの「よしとするところではない」との思いであります。そこで、このインスピレーションを手掛かりに、しばしこの問題を考えて見たいと思います。
【事件の真相】
山上容疑者は、母親がUCにのめり込み、多額の献金をして、家庭が滅茶苦茶になったという20年以上前の話を持ち出した上、安倍元総理がUCを支持していると思い込み犯行に及んだと、犯行の動機について供述しています。
<スケープゴートにされるUC>
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各マスコミは、ここぞとばかり被害弁連や左翼を使ってUC叩きに明け暮れており、このアンチUC報道は、30年前のいわゆる霊感商法報道どころではありません。謂わば魔女狩り報道そのものであり、筆者には、かってユダヤ人が「キリスト殺し」のレッテルを貼られて世界から追われた悲惨な光景がだぶって見え、未曾有の大患難を予感させるものでした。
長生きはしたくないものだと、正直思ったものです。そしてその時思い浮かんだ言葉が、「カタコンベ」、「隠れキリシタン」、「ゲットー」という3つのフレーズでした。
ちなみにカタコンベとは、ローマ時代の地下墓地のことで、迫害に追われたクリスチャンが、ここで密かに礼拝しました。隠れキリシタンとは、いうまでもなく徳川時代の禁教令の中で、密かに信仰を代々守ってきた人々であり、またゲットーとはヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた差別居住地区であります。
<捜査途上の事件の真相>
しかし一方では、このような魔女狩り的な報道に警鐘を鳴らす言論人も出始めています。何人かの評論家は、安倍政権下の2018年、消費者契約法が改正され、「取消しできる契約の範囲の拡大」や「無効となる不当な契約条項の追加」などの改正が行われ、この中で霊感商法も盛り込まれ、消費者保護は格段に拡充されていると指摘しました。
また教団自身も、十数年前からコンプライアンスの徹底を表明し、以後、金銭トラブルは激減していると説明しています。
そしてマスコミは、犯罪者の被害意識を強調するあまり、犯罪自体を正当化する危険な風潮が見られると警告し、一方、20年以上も前の献金を繰り返し問題視し、宗教団体を魔女狩り的に断罪することで、内心まで踏み込んで信仰の自由を犯している可能性があるとも指摘しました。
また、当該事件が、事件そのものの解明というより、UC叩きそのものや、UCと政治家の関係に異常に特化して独り歩きしていると批判し、背後に政治的意図を感じると指摘しました。むしろUCは冤罪を押し付けられた被害者でさえあるというのです。そして、山上容疑者のUC憎しを煽ったマスコミやブログの存在も指摘されています。
確かに、山上徹也容疑者はUCの信者でもなく、犯行の動機には不自然さが目立ちます。先ず母親の献金で破産に追い込まれ、それを恨みを抱いたと供述していますが、それなら先ず母親に恨みを抱く筈なのに、何故教団にストレートに向かうのか、また20年前の恨みと現在までにはギャップがあり過ぎること、そして教団を恨んだとしても、それが何故安倍元総理のテロに結び付くのか、極めて不自然な論理の飛躍があると言わざるを得ません。
7月31日の読売新聞によれば、2019年以前にも別のツイッターで安倍氏の殺害を示唆する投稿をしていた事実が分かったと報じられていますが、これが事実なら、昨年のUPFの大会に安倍氏がビデオメッセージを送ったことが安倍氏殺害の動機につながったとする供述と矛盾いたします。
また、山上容疑者の母親は、UCに「迷惑をかけて申し訳ない」との心境を語っており、肝心の本人は献金を納得して自分の意思で行ったもので、恨みも後悔もしていないというのです。
この献金について、あるアメリカ人コメンテーターは、キリスト教の献金文化を日本人は知らな過ぎると強調し、ビルゲイツなど富者は、何十億円~何百億円も惜しみ無く神と弱者のために寄贈する文化があると指摘しました。
例えば、マダイ19章21節でイエスが金持ちの青年に語られた言葉「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」のフレーズはクリスチャンなら誰でも知っているというのです。
ともあれ私たちは、動機や背景のなどに複数説あり、且つ不可解なところが多々あり、また警備の杜撰さも指摘されており、ここはヒステリックな左翼マスコミのやらせ報道に右顧左眄(うこさべん)することなく、冷静に捜査の全容解明を見守るべきと思料するものです。
最近、幸福の科学やUCなど超宗教で構成する「宗教政治研究会」の会合て、幸福実現党の及川幸久氏が参議院選挙の総括と題して講演し、「49万人もの(YouTubeの)フォロワーがいて、街頭演説に500名以上も集まったというのに、(惨敗したのは)そんなあまっちょろいものではなかった」と自戒し、「無神論国家日本に風穴を開けるべく再挑戦する」と述べました。そして、「家庭連合は、『私たちの教えは素晴らしい』と堂々と言えばいい」と激励し、「弱々しい善良な宗教者ではいけない」とも強調しました。
【事件の本質】
筆者は、最初この事件に遭遇した時、激しい憤りと大きな喪失感と共に、永井隆著『長崎の鐘』の追悼文中の「贖罪の羊」というフレーズが想起され、「安倍晋三氏は、日本が生まれ変わるために、日本という祭壇に備えられた祭物である、そして私たち自身が生まれ変わるために、教会の祭壇に捧げられた贖罪の羊でもある」 と率直な感想を述べました。
<ある食口の批判文>
この筆者の「贖罪の羊論」に対して、ある品の悪い食口から、「何という責任転嫁、自己中心精神か、改めて朝鮮儒教(朱子学)に冒された教団の罪の深さを感じました。吉田氏の牧師の職には馴染めない不正直、不誠実さを知らされた思いで、悲しくなりました」という人格批判とも取れる、的外れの文書が出回りました。
この筆者の追悼文に対する批判文を読んで、この食口はキリスト教的な知識と霊性に全く無知か、祈りの意味も価値も知らない浅薄な人間だと思わざるを得ず、「追悼文はキリスト教の視点から書いたもので、祈りをもって深く読んでもらえば理解できると思う」と回答しておきました。
そして「テロは如何なる理由があったとしても許されず、厳しく断罪されなければなりませんし、またテロリストの動機や背景についても予断なく解明されなければなりません。いずれ、捜査当局が明らかにすることでしょう」とも書き、また、残された者の責務として「この機会に教会の内外に渡る『抜本的改革の提言』をまとめる所存です」と、この犠牲を無駄にしないために、コンプライアンスを含む抜本的改革に尽力することを述べています。この食口のように、ここぞとばかり、ヒステリックに教会を非難するだけでは、正に山上や左翼マスコミと同じで、何の創造も生まれて来ません。口では反共、勝共を唱えながら、思考回路は共産主義と瓜二つです。
贖罪の羊という言葉は、キリスト教国やクリスチャンには、以心伝心よく分かる言葉です。何も、人の罪を背負うといったハードな意味だけでなく、また事件を正当化する言葉でも全くなく、安倍氏の死には何かの意味がある、この死を無駄にしないで生かさねばならない、といった気持ちを吐露した一つの信仰告白として「贖罪の羊」という言葉を使ったものです。筆者は、キリスト者として、安倍さんの死が、長崎の鐘とだぶって感じられたことを告白いたします。
<死して伝説に!>
かってリンカーンやケネディも銃弾に打たれましたが、この二人は、アメリカの大統領として、伝説になった唯一の大統領です。彼らは、死して神話になり、彼らの言葉は永遠に人々の胸深く刻まれたというのです。正に永遠の贖罪の羊になりました。
前の追悼文でも触れましたが、この点について、かの青山繁晴議員は、7月9日の宝塚の街頭演説で、興味深い証言をされています。
当日の7月8日、青山氏は伊丹空港で奈良へ向かう安倍氏と別れたあと、その一時間半後、宝塚で街頭演説していた最中、秘書からのメモで安倍氏の心肺停止の報を知ることになりました。その瞬間、青山氏の背後に、伊丹空港で別れたままの安倍氏の気配がし、そしてなんと安倍氏が自分の内蔵深く入ってこられたというのです。とっさに「安倍さんは、亡くなられた、別れに来られた」との思いがし、そして次の瞬間、右方向に素早く去っていかれたと証言しました。
青山氏は、UCに対して偏見を持っているのではないかと感じるきらいがありますが、彼には霊的体質があり、大東亜戦争で亡くなった日本人将校が出てきて「日本を頼む」と告げたり、イスラエルのゴルゴタの道行きで背中を叩くマリアと出会ったことも証されています。 青山氏は、こういうことは信じてもらえないかも知れないがと前置きした上で、これらの霊的体験を随所で語っています。
そして今回も間違いなく、安倍さんの霊魂が来て、自らの身体に入ったあと、右方に去って行ったというのです。そして安倍氏は「これからは、私なしでやって行くんだ。俺は悔いないよ」と言われ、青山氏は「安倍さんは政治的には何の悔いもないようだった」と証言しました。「やることをやり切って颯爽とした安倍さんのままで良かった。安倍さんは役割を終えて風のように、去っていかれた」とも述懐されています。
「血は水よりも濃し」という言葉がありますが、安倍氏を考える上で欠かせないのは、安倍氏のルーツであります。宇野正美氏は著書『ユダヤが分かるとこれからの日本が見える』の中で、安倍氏には3つの宝があると指摘しました。3つの宝とは、母の安倍洋子、父の安倍晋太郎、そして祖父の岸信介だというのです。(P69)
確かに安倍氏は、その思想性において祖父信介から、その人柄において父晋太郎から、その愛情において母洋子から、それぞれ資質を受け継ぎました。かって安倍洋子さんは、「晋三は運命の子だ」と文藝春秋で語ったことがあります。筆者もまた、「運命の子」安倍氏は悔いなく逝かれ、日本の守護神になると信じるものです。
<インスピレーション>
筆者は冒頭で、「UCがマスコミの袋叩きにあい、反社会的団体呼ばわりされて葬られることは、決して安倍さんの本意ではない」とのインスピレーションを記しました。それは、岸信介以来、三代の霊統が示すところであり、よりにもよってこの安倍氏自身がUCに引導を渡す当事者になることなどあり得ない、ここには何か「深い神の計りごと」があるのに違いないと感ぜざるを得ず、そしてこのように解するのが聖書的思考であるというのです。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ書11.33)と聖書は記していますが、正にこの通りです。荒唐無稽な主観主義と言われるかもしれませんが、筆者は、この聖書の言葉を固く信じるものです。正に「キリストの神秘」です。
【インスピレーション(暗示)、啓示、黙示、役事について】
さて、この機会に、インスピレーション(暗示)、啓示、黙示、役事について論及しておきます。つまり、神からの霊的な働きかけについてです。
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4.24)とある通り、聖書は神は霊であると言っています。そこで、神の霊の働きに関する言葉である「インスピレーション、啓示、黙示、役事」について考えたいと思います。そしてその前に先ず、インスピレーション、啓示、黙示、役事を理解するための前提となる「神霊と真理」について述べることにいたします。
<神霊と真理>
創始者は神霊について、「神霊とは何ですか。一時的に配分された霊力や霊的作用をいうのではなく、真の愛を中心として霊界と人間世界が調和、共鳴を起こし得る『神様の愛の力』をいうのです」(『文鮮明先生御言選集』より)と言われました。つまり、神霊とは「神様の愛の力」であり、天と地、心と体が繋がる原動力であるというのです。
これは、サムエルやダビデに激しく注がれた神の霊でもあります。神の霊は、旧約、新約、成約を通して働く、いわば万有原力のような「神の人格的な力の作用」です。これが神霊、即ち神の霊であります。
次に「真理とは何か」ですが、「真理とは、『神様の愛のみ言』をいいます。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して『啓示として』地上に伝えられます」(御言選集)とあります。また講論には、「生心とは神が臨在される霊人体の中心部分(霊人体の心の部分)のことで、生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理であり、真理を通して生心が求めるものを知ることができるというのです。これが生心の起源です」(『講論』p86)とあります。
即ち、神霊が「神の愛の力」であるのに対して、真理は「神の愛のみ言」であり、神霊は祈りによって、真理は啓示によって与えられるというのです。そして神霊と真理の関係は、霊と肉の関係のように、神霊が主体であり真理は相対であります。そして神霊と真理は私たちの心霊と知能を啓発いたします。
人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、癒しや悪霊の分立などその肉身に多くの変化を起こすようになるといわれます。神霊、すなわち神の愛の力は生力要素(神からの養分)を肉身に与え、真理によって方向性を得ることによって、神の愛の力が正しく横溢するようになるわけです。平たく言えば、神霊はエネルギー、そして真理はその羅針盤と言うことができるでしょう。
そして創始者は、神霊を求める祈りとその重要性について、次のように語られました。
「『絶えず祈りなさい』(1テサロニケ5.17)という聖書のみ言があります。これはとても重要なみ言です。なぜかというと、サタンは、一日中、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめるからです。一方で神様は、ただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的な方向(神霊)からのみ、力を及ぼすことができるのです。ですから、絶えず祈祷しなければなりません」(御言選集)
<霊性の啓発とインスピレーション、啓示・黙示・役事について>
以上を前提に、以下の項では、神霊と真理との交わりを通して、私たちの心霊と知能が啓発される時、インスピレーション(暗示)→啓示→黙示→役事というように、段階的に霊的恩寵が深まっていくことを見ていくことにいたします。
天聖経第七篇「地上生活と霊界」によると、私たちは、心の門(心門)に合わせて心田(霊性)を啓発し、神霊と真理で礼拝していくと、先ず始めに「暗示・夢・幻・直感」などによってインスピレーションを与えられるといいます。
そして次の段階が「啓示」です。前記で見ましたように、啓示(revelation)とは、人間の理性を越えたもので神により開示され、天啓または神示ともいわれています。宗教の教祖はそれぞれ啓示を受けました。
即ち、啓示は神の言葉に他ならず、神学の前提をなすもので、信仰によって受け取られるものであります。啓示によって真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教を、「啓示宗教」と呼び、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は典型的な啓示宗教、啓典の民であります。
聖書は一貫して、「神はモーセに言われた、わたしは主である」(出エジプト6.2)、「その時、主の言葉がサムエルに臨んだ」(1サムエ15.10)、「主はわたしに言われた」(イザヤ8.1)の如く、神からの言葉(啓示)で始まっています。先ず「神の言葉ありき」です。
キリスト教は自らを「啓示宗教」(revealed religion)とし、神自身がその行為と言葉において聖書を通じて自身を啓示されているとし、人間は神について聖書を通して認識することができるというのです。
そうして、啓示の次に来るのが「黙示」です。黙示によって、四六時中霊界の中に入り、神の生活感情に触れるという体恤的信仰を体験します。ヨハネ黙示録はその典型で、エゼキエル書、ダニエル書にも黙示が書かれています。
黙示とは、暗黙のうちに意思を表示することという一般的な意味もありますが、ユダヤ教やキリスト教では、神が特別の方法により、通常の才能や知識では測り知ることのできない「隠された真理を開示すること」 であると言われています。
神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録した書を黙示文学といい、黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要な位置を占めています。
そして最後は「役事」です。啓示、黙示の具体化として、癒しや再臨復活などの役事が始まります。
イエス様は、肉身の死後、3日目に霊的な自由の体(復活の体)で復活されました。そして霊界にいき「墓で眠っていた」先祖は、子孫に協助して自分たちがやり残したものを代理でやってもらうという「再臨復活現象」 の役事が起こってきます。洗礼ヨハネに再臨復活したと言われるエリアなどはその典型であります。この霊人の再臨現象は往々にして輪廻転生に見えることがありますが、各個体は自己同一性を保っており、輪廻ではありません。
また、再臨期における死人の復活は、伝統的キリスト教が信じるような肉体を伴うものではなく、イエスがそうであったように、あくまでも霊人のより高い霊への復活、即ち、霊形体から生命体へ、生命体から生霊体への復活であります。そして創始者は、善の天使世界が降りてきて、悪の天使圏の悪霊たちを全て追放すると言われました。
以上、神霊と真理の概念、そしてインスピレーション、啓示、黙示、役事について見てきました。こうして、インスピレーション→啓示→黙示→役事という流れの中で、あるいは同時並行的に、私たちの心霊的背景は順次高められていくことになります。今回筆者が安倍元総理の死について感じたインスピレーションは、一種の神霊的な「神の声」であることを信じるものです。(了)