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原理講論は聖書の新しい解釈論である 劉孝元元協会長と原理講論

◯徒然日誌(令和6年4月10日)   原理講論は聖書の新しい解釈論であるー劉孝元元協会長と原理講論 

 

わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう(ヨハネ16.25)

 

前回4月3日の徒然日誌で、イエス・キリストの受難週と文鮮明先生の北朝鮮での路程(1946年~1950年)がだぶって感じられ、1950年10月14日の興南監獄からの解放は、イエス様の復活と同じに感じられたと述べたが、これを裏付ける文先生のみ言があった。 

 

即ち、1971年12月27、アメリカで話された興南収容所についての説教の中で、文先生は「興南収容所の期間はイエス様の公生涯であった」と、次のように語られた。 

 

「二年八ヶ月、イエス様の公生涯に当たる期間を(興南で)送り、12人を伝道することができました。イエス様が失ってしまったすべての条件を取り戻すことができたのです。自分のやるべきすべてのことを完遂したので、国連軍が私を解放したのです」(武田吉郎著『再臨主の証明』賢仁舎P179)

 

まさに1950年10月14日は、UCのイースターである。この日文先生は、十字架に架かりながら、生きて死を越え、文字通り霊肉の復活を遂げられたのである。イエス・キリストと同じくらいの年齢のことであった。 

 

【ユダヤ教は長男、キリスト教は次男、統一教会は三男】 

 

さて、最近史吉子著『原理に関するみ言の証』を読み直した。この本は原理講論を書かれた初代韓国統一教会会長劉孝元(ユ・ヒョウウォン)氏の配偶者である史吉子(サ・キルジャ)女史が上梓された本で、原理を文鮮明(ムン・ソンミョン)先生のみ言によって、分かりやすく解説されたものである。 

 

誤解を恐れず申せば、文先生のみ言が血肉で、原理講論がその骨格であるとすれば、この本はその上に着る衣服のようなものかもしれない。実は筆者も、自分が書いた本やホームページに載せている文書は、ある意味でみ言や原理講論という聖体に着る衣服のようなものだと感じているからである。つまり、み言や原理の解説書であると共に、人々を原理に引き付けるための一種の出し物と言えなくもない。 

 

その史吉子女史の本の323ページから326ページにかけて、「ユダヤ教は長男、キリスト教は次男、統一教会は三男である」と言われた上で、何故長男と次男が三男に文句を言っているのかの文先生の説明があった。曰く、ユダヤ教徒が何故怒るか、それは文先生が、「ユダヤ人は、イエスをメシアとして受け入れなければならなかったのに、十字架で殺害するという罪を犯した」とアメリカの議会で公表されたからだというのである。またキリスト教徒が何故怒るかと言えば、「イエスは十字架に架かるためにこられたのではなく、従って十字架

の贖罪は完全ではない」と宣布されたからである。だがこれらのことは、恐れず公言しておかなければならないと言われたのである。 

 

しかし一方で文先生は、4000年間、天地を創造された父母なる神に侍ってきたユダヤ人の人類史的功績は不滅であり、イエスをキリストとして2000年間奉じてきたキリスト教の実績は計り知れないと高く評価された。 

 

最近筆者は、この三宗教は三兄弟であると共に、三つの宗教ではなく「一つの宗教」であると心底思うようになった。今やユダヤ教、キリスト教、統一教会は一つの「世界教」であるべきなのである。現に生前文先生は、超宗派・超宗教理想の実現のために、心情と時間と予算を最大限投入された。多くの宗教学者を動員して『世界経典』を編纂されたのはその一つである。そして、「教派分裂した世界のキリスト教を、神霊を中心として統一していく超教派運動は、蕩減復帰歴史の中心軸である」と語られた。 

 

何故なら、神の国は、神の摂理を担ってきた宗教の一致なくして生まれ得ないからである。かって文先生がダンベリー刑務所の中から、超宗教のACLC(アメリカ聖職者指導者協議会)を立ち上げられたように、日本UCは、解散請求という政府による未曾有の宗教弾圧の中から「超宗教運動」を起こしていきたいものである。「雨降って地固まる」の格言の通り、ある意味で解散請求という艱難は「飛躍のチャンス」であり、それは究極的宗教神学とも言うべき原理という真理を有しているUCの責務でもある。 

 

そこで今回、文先生が解明された原理を、神学的に体系化し、UCの公式経典として認定された原理講論について、改めて考察することにしたい。 

 

【原理講論はこうして生まれた】 

 

かなり前になるが、筆者は、「原理講論は聖書の新しい解釈論である」とのインスピレーションを受けて、「目から鱗」の経験をしたことがある。このことは、ちょっと聖書を研究した信徒なら、当たり前の話しなのだが、真剣に聖書に取り組んだことがなかった異邦人の筆者には大変な発見だったのである。なるほど、原理講論が聖書の解釈論なら、その前提になっている聖書を理解せずして原理は分からないということになる。そして10年ほど前、どん底で神と出会ってから、「聖書の研究をもって天職となす」との人生が始まったのである。 

 

そして更に進んで、「原理(講論)は聖書の奥義を解明した真理である」との結論を得た。即ち、聖書はユダヤ教、キリスト教の経典であるが、この経典には、その文字の底に秘めた、未だ明らかにされざる奥義があり、その奥義をことごとく解明したのが原理であり、その原理を教義として体系化したのが原理講論であるという結論を得たのである。文先生自身も、「この終わりのときに、天地の秘密、神様が隠していた秘密、サタンが隠していた秘密、歴史的秘密、哲学者達の秘密の全てを解決しました」(天聖経第八篇第四章P924)と証言されている。 

 

ヨハネ福音書にも、「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16.25)とある通りである。筆者はこのいわば当然とも言うべき事実を、遅まきながら40年もかかって知り得たのである。 

 

そして原理を解明されたのが文鮮明先生であり、この原理を組織的、体系的に経典としてまとめた神学書が劉孝元氏による原理講論である。原理講論は、文先生の指導と主管の元に、劉氏が書かれた。史吉子著『原理に関するみ言の証』には、「原理講論の文字の一つ一つは、慎重にしなければならない。劉孝元教会長が原理講論を整理したとは言え、全面的にお父様の指導を受けて整理したので、単語の修正など、全ては原著者であるお父様に伺わねばならない」(P113)とある。そして文先生自身が書かれた「原理原本」をもとに原理講論が生まれたのである。 

 

では、原理講論を書かれた劉孝元氏とは如何なる人物であるのだろうか。最近筆者は、劉氏についての情報を暗示のように耳にしており、筆者自身も、真のご父母様に次いで重視している方であることもあり、この際、劉孝元氏と原理講論についてまとめておきたいと思う。 

 

<劉孝元氏について>

 

劉孝元氏(1914~1970)は、1914年 平安北道定州で3人兄弟の次男として出生(文鮮明先生と同郷)、小さいころから神童とよばれ、特に数学が得意で五山高等学校でも教師が舌をまくほどであった。独立運動に身を投じた先祖がいる3代続くキリスト教徒の家系で、母親もクリスチャンでその影響を受け、内村鑑三の無教会派の集会にも参加したという。 

 

その後政治家やオベラ歌手を志望したこともあったが、結局医学の道を選択し、京城帝国大学(現、ソウル大学)医学部に数学満点で入学した。地元の学校始まって以来の出来事に、「定州に天才が現れた」と騒がれ、ハンサムでもあり、故郷では求婚が殺到したという。 

 

しかし6年間の医学部をあと2年で修了という本科4年在学中に「脊椎(せきつい)カリエス」を患って、結局大学中退を余儀なくされ、 人生の挫折を味わい夢は絶たれることになったのである。なお脊椎カリエスとは、結核菌が脊椎をおかしていく病気である。劉氏の場合、それが股関節にまで降りてきていたのに発見が遅れ、手術を余儀なくされた。その時、結核菌におかされて傷んだ骨を切り取ったので、片足が曲げられなくなってしまったのである。 

 

絶望の中で定州に帰って長い闘病生活が始まり、何度か自殺も試みたが、母親の涙の祈りもあり、真理の探求に情熱をかけるようになった。特に「善悪の問題」に苦しみ、聖書に真理があるのではないかと、ラテン語を習得して聖書を原語で読み、聖書の研究に没頭した。しかしそれでも真理を見つけることができず、むしろ聖書解釈の矛盾や理解出来ない聖書箇所の疑問に苦しむようになり、こうして地元の教員をしながら苦悩の日々が続いた。そして40歳の1953年、遂に「原理」に出会ったのである。 

 

筆者は劉氏の病魔について、パウロがもっていた肉体的な「トゲ」(ハンディキャップ)を想起した。パウロ自身、「私は、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」(1コリント12.7)と言っているように、神はパウロに謙虚になるよう肉体的ハンデを与えられたというのである。まさに劉氏の病魔は、原理に出会うための神の試練だった。 

 

未婚だった40才の劉氏は、親戚の梨花女子大学音楽教師である梁允永(ヤン・ユニョン)女史の妹梁允信(ヤン・ユンシン)女史から教会を紹介された。梁允信女史は既に原理を学んでいたからである。彼女は、「私の親戚にとても信仰深い者がいます。彼は病床の身ですが、熱心に聖書研究をしているので一度訪ねてください」と願い、信徒の婦人と二人で影島の劉氏を訪ねたのである。。 

 

そして劉氏の部屋に入るや否や祈りが始まったという。劉氏は、それまで人間的な同情は嫌っていたというが、その婦人の祈りが終わった時、込み上げるものがあり、なりふり構わず泣いたという。霊的に感じるものがあったからである。そして劉氏曰く、「あなたたちは何か真理を持っているのではないですか」と。 

 

婦人の話しだけでは理解できず、興味を持った劉氏は、水晶洞の釜山教会を訪ねたのである。「何か、その先生が書かれた本はないのですか」と尋ねると、対応した李鳳雲氏は文先生が書かれた本を貸し与えた。それが、文先生が1951年5月11日から1年をかけて釜山で書かれた『原理原本』だったのである。原理原本は5冊のノートに鉛筆で書かれたもので、1952年5月10日に書き終えた原理の骨格となる本である。 

 

実は最近筆者は、ハングルに詳しい信徒が翻訳したという日本版原理原本を手に入れて目を通した。そこには、創造、堕落、イエスと再臨問題、復帰歴史という原理の骨格となる内容が聖書を引用しながら解かれていた。 

 

例えばイエスの「地獄伝道」について、1ペテロの手紙「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(1ペテロ3.19)や、「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」(1ペテロ4.6)を引用しつつ、「イエスは地獄の霊人たちに特別な恩赦を与え地獄を撤廃することをされた」と記してあり、いわゆる「セカンドチャンス論」に理解を示されている。 

 

セカンドチャンス論とは、「キリストの福音を地上で聞くことなく死んだ人々も、死後、黄泉(よみ)の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられる」という教理であり、1ペテロ3章19節が根拠になっている。つまり、イエス・キリストは、十字架で死んだのち、3日間黄泉に下り、そこで福音を宣教されたと言うのである。このセカンドチャンス論は、「つれづれ日誌(令和4年1月12日)ーセカンド・チャンス論の検証」で詳述しているが、キリスト教会では賛否両論あり、神学上の激しい論争になっている。しかし文先生は、セカンドチャンス論を肯定されており、肯定派の筆者は安堵したのであった。 

 

特に創造原理の解説は、科学的、哲学的な用語が用いられ、初心者にはやや難しいかも知れないが、しかし文先生と同様、理科系で科学的思考に強い劉孝元氏は一気に読んで理解し、そのうれしさのあまり『原理原本』を抱いて泣き、筆写したという。今まで苦悶してきた聖書の疑問が全て解け、自らが為すべきことを理解し、責任と使命を感じたというのである。まさに「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(論語里仁)の心境であった。 

 

劉氏は原理原本を読んで、1953年12月10日、「人間に対する最後の声明書というべき真理を知った今、一身を捧げる栄光の日を願う」という内容の手紙を文先生に書き送った。未だ文先生に出会う前に献身を決意したというのである。その年12月24日釜山で文鮮明先生に初めて出会い、そのまま21時間語り明かした。真理を求めてきた劉氏と、その人を探していた文先生との劇的な出会いは、まさに成約摂理の重要な基点になる出来事だった。 

 

この二人が会った時、もうお互いを紹介し合う必要もなく、すぐに原理講義が始まった。即ち1953年12月24から21日間、劉氏を含む兄弟、親族ら10人ぐらいが集まり、文先生による全力投球の原理講義が行われたのである。劉氏は確実に理解できるまで、とことん質疑応答したと言われ、21日間が終わる頃には、劉氏は立派な原理講師に変身したのである。 

 

こうして劉氏は原理講師として立ち、その後3年8カ月の間、毎日16時間、全身全霊を傾けて原理講義をしたのである。劉氏の講義を聴いた者たちは、その霊的迫力で信者にならざるをえない雰囲気だったという。まさにメシヤを証す「洗礼ヨハネ」であり、人々を神の救いに導く最良の原理講師だった。文鮮明先生は、1954年5月1日、ソウル北鶴洞(ポクハクドン)において「世界基督教統一神霊協会」を創立し、劉孝元氏は初代協会長に選任された。そうして1970年、肝臓癌で死去した。享年56才。 

 

文先生は、劉孝元氏が聖和(ソンファ)された後、「あなたがたは、私たち二人がどれほど深い因縁で結び合っているのか知らないだろう。迫害の中、どうすることもできなくて、2人で抱き合って慟哭した日を忘れることはできない」としみじみ語られたという。

 

<原講論は完成期の経典> 

 

さて劉氏の最大の使命は、文先生が解明された原理を神学的に体系化し、統一教会の経典として「原理解説」に続いて、「原理講論」を執筆することであった。極端に言えば、原理講論を書くために試練を受け、訓練され、そして召された人と言えなくもない。そうして創始者が書かれた『原理原本』を一つ一つ解読していく作業が始まったのである。 

 




原理原本は1951年5月11日から、興南収容所で弟子になった釜山在住の金元徳(キムウォンドグ)氏の家で執筆が始まり、1952年5月10日、ボンネッコルの小屋で書き終えたものである。金元弼(キム・ウォンピル)氏の話しによると、創始者は平壌にいる時、既に原理原本の土台になるようなものをノートにまとめておられたという。創始者は15才で神の召命をうけてから、本格的に真理を探求し、その大半は1945年8月15日の終戦(光復節)までに解明していたのである。 

 

ちなみに『原理解説』は1957年8月15日、『原理講論』は1966年5月1日に発刊されているが、『原理原本』は蘇生期、『原理解説』は長成期、『原理講論』は完成期の経典と言える。 

 

原理講論は原理原本と文先生のみ言をもとに緻密に体系化され、一つの単語、一つのフレーズに至るまで、文先生の細かい検閲を受け、また激論を交わして、最終的に承認を受けたものである。貧しい困難な環境の中にあって、3年間、文化部長の柳光烈氏らからも語彙の助言をもらいながら完成した。配偶者の史吉子女史は次のように証されている。 


「こうして大きな使命をいただいた夫は、日ごろお父様の語られることを参考にしながら、『原理原本』を一つ一つ解読していく作業を始めました。お父様が、『今日は、ここまでやりなさい』と線を引いてくださるので、その指示に従うのです。それは、彼にとって大変に難しいことでした。毎日、静かな場所を探しては書き進め、できた分をお父様の前で読み上げるのです。その姿は、まるで学生のようでした。お父様は単語一つ、文章、内容のすべてを注意深く聞かれました。そして、間違っていたら、『そうではない。このように直しな

さい』などと指示を下さるのです」 

 

劉氏によると、原理講論は、一般の信徒に向けて書いたというより、将来を見据え、著名な学者や神学者が読んでも耐えられることを意識したという。著名な韓国の神学者は、「韓国が生んだ世界的な神学書、組織神学の根幹を完璧に整理した経典である」と評した。確かにヘンリー・シーセンの『組織神学』やアリスター・マクグラスの神学書など、欧米の優れた神学書と較べても遜色はない。 

 

また原理には、愛の神と科学の神が内容としてあり、聖書、神学、哲学、文学、自然科学が総合的に含まれている根本真理であり、また原理はUCのためだけの教理ではなく、神が作られた「全ての存在のための自然の法則である」とも言われている(『原理に関するみ言の証』P47)。劉氏は自らの日記の中で、「読めば読むほど、瞑想すれば瞑想するほど、深くて奥妙なのが後編第五章だ。今まで誰も探し出すことが出来なかった復帰摂理の年代と年数を、お父様が探して下さった」と、数学専門家らしい感想を記した(『原理に関するみ言の証』P338)。 

 

しかし、原理講論は文先生が悟られた全てを記しているわけではなく、時が来れば、再度書き加えなければならないとも言われ、原理講論総序には次のようにある。 

 

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」(原理講論総序P38)

 

この点、多くのキリスト教派では、聖書は、それ自体で完全無欠の完結した書であり、これに書き加えても取り除いてもいけないという姿勢をとっている(黙示録22.18~19) 。しかし原理講論は「ここに発表するみ言はその真理の一部分である」として、そのような四角四面な態度を取っていない。 

 

確かに、文先生の「み言」にあるイエス誕生の真実、イエスの少年時代、洗礼ヨハネの妹と結婚すへきだったこと、血統転換の解明などの霊妙かつ微妙なな奥義については、原理講論に記載されていない。また、再臨論の、いわゆる日帝が朝鮮半島で行った罪状の記述は、自虐的で書き換えが必要だとの声もある。しかし、原理講論はあくまで原理の骨格であり、その骨格自体は不変不動の真理である。後はみ言などで肉付けして補っていけばいいのではないかと思料する。 

 

<二人の討論の結実>

 

時には、文先生と劉氏は、原理の解釈を巡って討論になることもあったという。 

 

たとえば、「知情意」か、「情知意」か、つまり「知」が先か「情」が先かという問題である。劉氏は、「堕落したものは愛も何も知らない。だから、まず本当か嘘かを分別しなければなりません。ですから真理が先で、それから感じて行動するので、『知情意』の順番が望ましいと思います」と主張する。 

 

すると文先生は、「いや、そうではない。人間がどんなに堕落して原罪を持っていたとしても、人間はもともと、神様から来た者なので、本心は神様に未だにつながっている。だから 何も分別しなくても、まず感ずる世界があるのだ。いいものか悪いものか、本心が知っている。だから『情』が先で、それから初めて分かって行動するのだ」と言われた。 

 

結局、「今までの論理が『知情意』と言ってきました。突然にこれを変えても、ちょっと困るのではないでしょうか」と劉氏が申し上げて、とうとう文先生が「今はそうだね」と譲って、負けてくださったこともあったという。従って時に文先生は、「原理講論のある箇所は直す所もある」と言われるという。 

 

また劉氏の日記には次の通り書かれている。 

 

「陰陽の調和で性相と形状が形成されるか、を質問したところ、先生の答えは反対で、『性相と形状の調和で成される』と言われた。青天の霹靂だ。全ての存在が陰陽の調和で成されるという、従来の説が覆された。神様は性相と形状の調和をもって陽的存在としておられるために、陰的世界の創造が必要になったとおっしゃった」(1966年1月31日日記)

 

「創造原理第1節をもう一度書かなければならない。性相と形状が全ての存在の根本になるという論証だ。先生は真理の本体であることをもう一度悟らされた」(1966年2月3日日記)(以上、『原理に関するみ言の証』P73)

 

こうして原理講論は心情的・霊的に一体となった二人の宗教的天才の手によって、慎重かつ大胆に書き上げられ、神と文鮮明先生の認定の上に、UCの聖典として宣布されたのである。原理講論は、天一国三大経典(天聖経・父母経・平和経)と相俟って、聖書の奥義を明らかにし、聖書66巻を完全に解釈した宗教真理であり、まさに神の言葉である。文先生は聖書をくまなく研究されたが、聖書によって真理を見出だされたのではなく、自らが神との一問一答の中で悟り得た真理を聖書によって照合・確認され、聖書の新しい解釈論として発表されたのである。即ち、これらみ言は、文先生がサタンと戦って勝ち取った勝利の記録であり、原理講論総序には次のようにある。 

 

「先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである」(P38)。  (了)   

  家庭連合宣教師  吉田宏

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