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聖書における「雨」「水」「井戸」の意義について 梅雨(つゆ)の季節に思う

  • 1 日前
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更新日:1 分前

🔷徒然日誌(令和8年6月24)  聖書における「雨」「水」「井戸」の意義についてー梅雨(つゆ)の季節に思う

 

ヤコブはその旅を続けて東の民の地へ行った。 見ると野に一つの井戸があって、そのかたわらに羊の三つの群れが伏していた。....ヤコブがなお彼らと語っている時に、ラケルは父の羊と一緒にきた。彼女は羊を飼っていたからである。.....ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。(創世記29.1~11)

 

プロローグー恵みの雨

 

6月は雨の季節、日本では「梅雨」(つゆ・ばいう)という。関東の梅雨は6月上旬~7月中旬らしいから、今は梅雨の真っ盛りである。毎朝筆者は、ベランダで柔軟体操をするのが日課になっていることもあり、ベランダ越しの雨を見ながら「今日も雨か」とつい憂鬱な気分になる。だが、梅雨の雨は「恵みの雨」であり、水不足を防ぐ、お米や農作物を育てる、川やダムに水をためる、夏の暑さを和らげる、紫陽花(あじさい)など森や生き物を潤すというように、日本の暮らしにはとても大切な雨であるという。

 

梅雨に雨が多いのは、日本の上空で「冷たい空気」と「暖かく湿った空気」がぶつかるからである。春から夏へ季節が変わる時期、日本の近くでは北側の冷たく乾いた空気(オホーツク海高気圧)と南側の暖かく湿った空気(太平洋高気圧)がせめぎ合う。この二つの空気の境目に梅雨前線ができ、前線付近では暖かい空気が押し上げられ、雲が発生しやすくなるため、雨が続きやすくなるのである。

 

ちなみに「梅雨」という名前の由来は「梅の実が熟す頃の雨」なので「梅雨」と呼ぶそうだ。中国の長江(揚子江)流域では、5月〜6月頃に梅の実が黄色く熟す季節と、雨が多く降る季節がぴったり重なっていて、そのため、この時期の雨を「梅雨(ばいう)」と呼ぶようになったという。

 

梅雨の雨は、日本では古くから「季節の移ろい」や「心の情景」を表す歌や俳句の題材になり、静けさ、もの寂しさ、恵み、美しさなど色々な感情が込められる。松尾芭蕉の有名な一句がある。

 

 五月雨を あつめて早し 最上川

 

実は、雨や水や井戸は聖書の重要な主題でもある。イザヤ書55章1節に、「渇いている者よ、 みな水のところに来たれ」とあり、ヨハネ4章14節には、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」とある。また、ヤコブ が ラケル に出会ったのも井戸のほとりだった(創世記29.1~11)。従って、今回は聖書における「雨」「水」「井戸」をテーマに、梅雨にちなんで、その背景や意義を考えることにする。

 

なお、予想されていた通り、最高裁は6月22日付で、UC側の特別抗告を棄却する決定をし、UCの解散が確定した。この解散問題についての筆者の見解は、次回の徒然日誌で論評することにする。確かなことは、この決定により、国と裁判所は深刻な傷、取り返しのつかない汚点を残したということであり、かつUCは見違える教団として復活する「きっかけ」を与えられたという事実である。

 

【雨、水、井戸は聖書の重要な主題】

 

「日本人は水と安全はタダだと思っている」とは、イザヤ・ベンダサン(山本七平)の著書『日本人とユダヤ人』の中で語られた言葉である。日本では、蛇口をひねれば安全でおいしい水が飲め、当然のように恩恵を受けられる環境にある。しかしこれは「世界の常識」ではなく、海外では水を得るために多大なコストを払わなければならない国がある。

 

 即ち、日本は世界でも有数の水資源に恵まれた国であり、雨が多い、川が多い、水道水がそのまま飲めるという環境がある。しかし世界を見ると、飲み水を得るために何キロも歩く地域(エチオピア、ケニア、南スーダン など)、井戸水しかない地域(アフリカや南アジアの農村部など)、水道水をそのまま飲めない国が少なくない。

 

創世記の舞台であるティグリス川・ユーフラテス川流域は比較的水に恵まれていたが、川から離れた地域、シリア砂漠周辺、カナン(現在のイスラエル・パレスチナ地域)は乾燥しており、水や井戸は生命線だった。特にアブラハム、イサク、ヤコブが活動したカナン南部のネゲブ地方は半乾燥地帯であり、そこでは、水のために井戸を持つことが重要だった。

 

聖書には井戸のほとりで出会った男女、井戸を巡る争い、水の奇跡の記録がある。また新約時代には霊的糧、永遠の命を象徴する水の話が随所にある。以下、聖書における水にまつわる話を見ていこう。

 

<男女の出会い>

 

聖書では「井戸」は、とても象徴的な場所であり、水を得る場所は、当時の共同体の中心であり、人々が集う場所だった。そのため井戸は、出会い、神の導き、命を象徴する舞台になっている。特に旧約聖書では、井戸のほとりで男女が出会い、結婚へつながる場面が何度も登場する。旧約聖書で有名な人物であるヤコブ、イサク、モーセは、配偶者と井戸のほとりで出会っている。

 

①イサクとリベカの出会い


創世記 24章には、アブラハムのしもべ(エリエゼル)が、イサクの妻を探すため旅に出て、メソポタミアのナホルの町の井戸でリベカに出会った話がある。井戸で、「ラクダにも水を飲ませてくれる女性こそ、神が備えた人」(創世記24.14)と祈ったところ、そこへ現れたのがリベカだった。リベカは親切に水をくみ、これが縁でリベカはイサクの妻になる。これは、神の導き、結婚の祝福を示す物語として有名である。

 

「彼らはリベカを呼んで言った、『あなたはこの人と一緒に行きますか』。彼女は言った、『行きます』。......イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した」(創世記24.58~67)

 

②ヤコブとラケルの出会い


ヤコブが兄エソウの目を逃れてハランへの旅の途中、ハランにある井戸で羊飼いたちと出会い、そこへ羊を連れたラケルが現れたという。ヤコブは彼女のために井戸の石をどけ、水を飲ませ、そして、ヤコブはラケルと会って「声をあげて泣いた」と記されている。強い運命的出会いとして描かれる有名な場面である。

 

「ヤコブはその旅を続けて東の民の地へ行った。 見ると野に一つの井戸があって、そのかたわらに羊の三つの群れが伏していた。....ヤコブがなお彼らと語っている時に、ラケルは父の羊と一緒にきた。彼女は羊を飼っていたからである。.....ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた」(創世記29.1~11)

 

③モーセとツィポラの出会い

エジプトからミデアン荒野に逃げたモーセは、井戸のそばで休んだ。そこへ娘たちが水を汲みに来るが、羊飼いたちに追い払われそうになったところ、モーセは彼女たちを助け、水を飲ませた。その時の娘の一人ツィポラが、後にモーセの妻になる。

 

「さて、ミデヤンの祭司に七人の娘があった。彼女たちはきて水をくみ、父の羊の群れに飲ませようとしたが、羊飼たちがきて彼女らを追い払ったので、モーセは立ち上がって彼女たちを助け、その羊の群れに水を飲ませた。 彼女たちが父リウエルのところに帰った時、彼は娘たちに言った、『呼んできて、食事をさしあげなさい』。 モーセがこの人と共におることを好んだので、彼は娘のチッポラを妻としてモーセに与えた」(出エジプト2.16~21)

 

ところでモーセは、イスラエルのために岩を打って水を出すという奇跡を2度行っている。

 

一回目は「ホレブの岩」と言われ、荒野で不平不満を言うイスラエルのために杖で岩を打ち、水が湧き出た奇跡である。この出来事は、神が荒野でも民を見捨てず、必要を満たされたことを示す奇跡として理解されている。 

 

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った」(出エジプト17.6)

 

二回目はいわゆる「メリバの水」である(民数記20章)。イスラエルは再び荒野で「水不足の不平」を言う。この時、神はモーセに、「岩に命じなさい」と言われた。モーセは怒って岩を二度打ち、すると水は出たが、神はモーセとアロンに対して、「あなたがたはわたしを聖なる者として示さなかった」(民数記20.12)として、約束の地カナンに入ることを許されなかったという。

 

「モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、『そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか』。モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」(民数記20.9~11)

 

では岩を2度打つ行為が何故罪になったのか、この箇所は難解な神学上の論点で、古くから論議され定説はない。だが、原理はその霊的意味を見事に論証している。(参照-『原理講論』P386~387)

 

ちなみにパウロ はこの岩を象徴的に解釈し、「この岩はキリストにほかならない」(1コリント10.4)と述べている。つまり、荒野で民に命の水を与えた岩は、後に人々に霊的命を与えるイエス・キリストを象徴していると理解した。聖書では「水」は、命、恵み、救い、聖霊を象徴する重要なモチーフである。

 

以上のように、水、井戸は人生のよき男女の出会いの場であり、これら水や井戸を巡る物語はなんと美しく、ロマンに満ちているではないか。

 

<イエスとサマリアの女性の出会い>

 

ヨハネによる福音書 4章には、イエスとサマリアの女との井戸での出会いの話がある。この井戸は「ヤコブの井戸」と呼ばれ、サマリアの町スカルの近くあり、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地、即ち祖先ヤコブゆかりの井戸である。

 

イエスとサマリアの女(カール・ブロッホ画)


「そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。」(ヨハネ5.5~6)

 

ここでは男女の愛ではなく、魂の渇き、生ける水、救いがテーマになっている。イエスは彼女に、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言われた。当時、ユダヤ人はサマリア人を汚れた民として近づかなかったが、イエス・キリストは疎遠にしていたサマリア人を愛することを通して、隣人愛や偏見を越えることを示したと理解されている。

 

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4.14)

 

この場面は、旧約の「井戸での出会い」の伝統を受け継ぎながら、水の意味を、より深い霊的賜物の象徴へと発展させたものである。井戸は単なる水場ではなく、愛・命の源泉、恵み、神の導きを象徴する。

 

【井戸を巡る争い、雨乞い】

 

聖書には井戸を巡る争いがあり、また干魃には雨乞いの祈りもあった。前記したように、アブラハム、イサク、ヤコブ の物語の舞台は、カナン南部の乾燥地域、ネゲブ地方であり、ネゲブ は、半乾燥〜砂漠性気候で雨が少なく、牧畜中心の生活で井戸が生命線 という環境だった。そのため族長物語では、井戸争い、水の確保が非常に重要テーマになる。

 

<井戸を巡る争い>

 

旧約聖書における井戸の争いは、アブラハムとその息子イサクの2世代にわたり、先住民族であるペリシテ人(ゲラルの王アビメレクの家臣たち)との間で激しく繰り返された。( 創世記21章、26章)

 

アブラハムはカナンの地で遊牧生活をしていたが、水は極めて重要であり、当時、井戸は、生存、家畜の育成、領有権に関わる重大問題だった。ところが、アブラハムの掘った井戸を、アビメレク側の者たちが奪ったため、争いが起こった。しかしアビメレクはアブラハムに見る神の加護を見て、「神はあなたのすることすべてにおいて、あなたと共におられます」(創世記21.22)と告白し、互いに害を与えない盟約を求めた。両者は、互いに欺かない、攻撃しない、平和を保つことを誓い、最終的にベエル・シェバ(誓いの井戸)という場所で契約を結ぶことになる。

 

「アブラハムはアビメレクの家来たちが、水の井戸を奪い取ったことについてアビメルクを責めた。しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」 そこでアブラハムは羊と牛とを取ってアビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。」(創世記21.24~27)

 

息子のイサクもまたこの地でアビメレク王と平和の契約(不可侵条約)を結び、食事を共にして誓いを交わした。何度も井戸を奪われながらも、イサクは決して武力で戦わず、次の場所へ移動しては淡々と新しい井戸を掘り続けた。その姿を見たアビメレク王は「神があなたと共にいる」と畏怖し、最終的にベエル・シェバで、互いに侵略しないという平和条約(契約)を結ぶことになった。(創世記26.14~33)

 

<雨乞い>

 

また聖書には「雨を神に願い、干ばつの中で雨を祈り求める」場面がある。特に有名なのは、預言者エリヤの祈りである。

 

1列王記18章では、預言者 エリヤ が、長い干ばつの後に雨を願って祈る場面がある。背景としてイスラエルは偶像神バアル礼拝に傾いていたこと、エリヤは「数年間、雨が降らない」と預言していたこと、カルメル山でバアルの預言者たちと対決したことなどがあった。

 

その後、エリヤは山頂で地に伏して祈り続けた。しもべに何度も海の方を見るよう命じ、七度目に「人の手のひらほどの小さな雲」が現れ、やがて大雨になった。これは聖書で最も代表的な「雨を求める祈り」の場面である。(1列王記18.41~46)

 

また1列王記8章では、ソロモン が、民が罪を犯して天が閉ざされ雨が降らなくなった時、神に立ち返って祈るなら雨を与えてくださいと祈っている。

ここでは、雨は神の祝福のしるしとして描かれている。

 

「あなたは天で聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるし、彼らに歩むべき良い道を教えて、あなたが、あなたの民に嗣業として与えられた地に雨を降らせてください」(1列王記8.36)

 

更にゼカリヤ書10章1節には、かなり直接的に、「 あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる」という言葉があり、春の雨を与えるのは主である、と語られている。

 

農耕社会だった古代イスラエルでは、雨は生存そのものに関わるため、雨、水は神の恵みの象徴だったのである。

 

【水は永遠の命を象徴する】

 

このように聖書では「雨」は恵みの雨であり、また単なる飲み水ではなく、恵み、清め、救い、永遠の命を象徴する大切なものとしても繰り返し語られている。 詩編 23編の「主は羊飼い」の詩は有名である。

 

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわ(水)に伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」(詩篇23.2~3)

 

また詩編 42編1節には、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」とあり、イザヤ書 55章1節には、「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」とある。

 

そしてイエス・キリストは、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」(ヨハネ4.14)と言われ、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7.37)と語られた。まさにキリストは「生ける水」だった

 

以上、「聖書における雨、水、井戸の意義についてー梅雨(つゆ)の季節に思う」とのテーマで、雨、水、井戸について論じた、まさに水は生活上の生命線であると同時に、「この言に命があった」(ヨハネ1.4)とある通り、人間に永遠の命を与える神の言葉の象徴でもある。こうして見てくると、この鬱陶しい(うっとしい)梅雨の雨も、心なしか恵みの雨に思えてくるのは不思議である。然り、「神の言葉」は命の水である。(了)

 

牧師・宣教師  吉田宏



上段*リベカとエリエゼル(ムリーリョ画)、中段*ヤコブとラケルの出会い(ウィリアム・ダイス画)、下段*イエスとサマリアの女(カール・ブロッホ画)

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