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メシアの本質とキリスト教のメシア観 ②

◯つれづれ日誌(令和4年6月8日)-メシアの本質とキリスト教のメシア観 ②


わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる(黙示録5.1~5)



前回のつれづれ日誌は、やはり、皆さん関心があると見えて、多くの論客から、 次の通り大変前向きな感想が寄せられました。


「今回のつれづれ日誌には本当に感謝以外にありません。原理の本質を改めて確認させていただきました。吉田先生の論点は何処までも原理的であり、全面的に賛同いたします」


「吉田さんの見解は、聖書と原理講論に基づく最も原理的で正統な解釈であり、ほとんどの食口が同意できるものと思います」

 

「吉田宏さんの論文で多くの兄弟姉妹が混沌状態から解放されてますね、ありがとうございます、感謝します」


中には、すぐさま知人に転送したというメールも頂きました。この論文が食口の「もやもや感」をスッキリさせる一助になれば幸いです。


中には「寝た子を起こす」ようなことになりかねないので、この問題は触れずにそっとしておいた方がいいのではないか、と尤もらしいことを言われる方もいますが、これは「触らぬ神に祟りなし」といった日本人特有の「ことなかれ主義」の典型です。今や心ある多くの食口が悶々としているメシア観の問題に、一度は決着を着けておくことは決して無駄ではないばかりか、健全な信仰生活に不可欠であります。


【お母様を愛されるお父様】


さて今回筆者は、「何故文鮮明先生は『無原罪のひとり子・再臨のメシア』と言えるのかを、改めて考察いたしました。「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は有害である」とアウグスチヌスは言いましたが、以下に論及する内容は、筆者のメシア観に関する神学であると同時に、筆者の個人的な「信仰告白」でもあります。


そのために、「自叙伝」、「真の父母経」、「成約摂理解説」、「御父母様の生涯路程」、「平和の母」、その他の関連文書を、特に、誕生前後の証言を中心に、改めて読み直し、お父様の無原罪誕生はますます筆者の確信になりました。


そして、お父様の自叙伝『平和を愛する世界人として』を再読して、前に読んだ時とは一転して、今回は心に染み込むように、情感の世界が入ってきました。特に、誕生から創草期までの第一章~第三章はお薦めです。


実は、筆者が数年前に読んだ時には、「これは、韓国民族主義の本、反日の本なのかな」との思いがして、畏れ多くも不快感を呈した感想文を書きましたが、今、自らの幼さを恥じ反省しています。


その自叙伝の序文に「すべての難しい峠を共に克服してきた妻である韓鶴子に、無限の愛を送ります」と書かれているフレーズが飛び込んできて、正に「目から鱗」でした。色々紆余曲折あっても、やはり、文先生はお母様を愛しておられたんだな、「愛する妻を得てお父様は幸せだったんだ」と正直思いました。 また「いくら困難で大変な状況の中でも、妻は穏やかな笑顔を忘れずに人生の峠を超えてきました」(自叙伝P212)とあるように、お父様が如何にお母様を愛し気遣ってこられたかは、自叙伝第五章「私の妻、韓鶴子」(P202~212)に縷々印象深く記述されています。


また、お母様も著書『平和の母』の中で、「お父様が聖和以来3年間、毎日侍墓を欠かしたことなく、多くの会話を交わし、夫の考えは私の考えとなり、『神霊と真理によって教会を復興させます』と夫に誓いました」(P30)と夫への愛と献身を語られています。


勿論、お父様は世を救うメシアとして、夫婦と言えども全て公的に捧げて来られましたが、やはり、一人の人間に立ち戻られた時には、愛する妻の存在は何ものにも代えがたい喜びだったのてはないでしょうか。その思いを、人生の総括とも言える自叙伝冒頭に「無限の愛を送ります」と刻まれたのだと思料いたします。


生涯4回の帝王切開をしながら、夫のために14人もの子供を産むなどは普通の女性にできるものではなく、そして79才にしてなお美しさは衰えることはありません。お父様は韓鶴子という女性に会えて幸せだったし、生涯6回も牢獄生活を余儀なくされた悲惨なお父様に、癒しと喜びを与えて下さったお母様に「ありがとう」を捧げます。


筆者は韓鶴子女史の中に、夫の40代天皇の天武天皇(古事記・日本書記の編纂を始めた天皇)亡き後、後継の第41代天皇(女帝)として立たれ、世に天武持統時代と呼ばれる善政を築かれた「持統天皇」(在位690年~697年)の姿を想起いたします。持統天皇は、「国母の徳あり」と日本書記に書かれている通り、夫天武天皇の意思を忠実に遂行し、国を安定させられた後、孫の42代文武天皇に皇位を譲られました。


そしてお母様自身も、公式の著書『平和の母』の中で、「自らの若き日が、天の独り娘として、天の独り子に出会うための準備だった」(P100)と記し、「私は文総裁を(無原罪の)独り子として迎え、神様のみ旨を成してさしあげると決心しました」(P114)と告白され、そして1960年を「神様の最初の息子、娘である独り子と独り娘の聖婚がなされる祝福の年でした」(P117)と明記されています。


【聖書の奥義を解かれた方】


さて前回筆者は、文鮮明先生が何故「無原罪の再臨主」なのかを次の5点から論考し、実証しました。


1.聖書、原理講論が予定するメシアは、罪なき神のひとり子であることは自明の理であること。


2.七つの封印を解き、聖書の奥義を解明されたのが文鮮明先生であり、これはサタンの讒訴がない無原罪の再臨主でなければ解けないこと。


3.お父様のみ言自体に、無原罪のメシアとして生まれたことが明言されていること。


4.お父様誕生前後の時代背景、家庭や氏族の事情、これらは正に再臨の予兆を明示していること。


5.筆者は既に、文鮮明先生が無原罪の再臨主であることを信仰告白していること。



また筆者は、本年秋に出版記念会を予定している拙著『異邦人の体験的神学思想』の中で「UC創始者は何故メシアと言えるか」とのテーマで次の3点を挙げて論述しました。


先ず第一に、何と言っても「聖書とその奥義を解明されたこと」であります。聖書の奥義をことごとく解明した原理は、神の啓示としてお父様に与えられました。つまり黙示録5章に預言されたの7つの封印を解いた「ダビデの若枝」こそお父様その人であるというのです。


「すると、長老のひとりがわたしに言った、泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)


ある神学者は、お父様は8つの分野、即ち「神・サタン(罪)・人間・霊界・イエス・聖書・歴史・真の家庭」に精通したチャンピオンだと指摘しました。この8つの分野の第一人者であると言うのです。(平和神経平和メッセージ13) 


しかし、その中でも聖書の奥義を解明され、聖書を完全に解釈されたことは、特に抜きん出た業績であり、これは、「サタンが讒訴出来ない無原罪のメシアでしか出来ない仕事」であります。


そしてその奥義の最たるものしては、前述した歴史の二流、即ちカイン・アベル、エソウ・ヤコブ、タマルによるゼラ・ベレツなどにおいて、兄が弟に屈服するという長子権回復を通しての「血統転換の秘義」であります。そして原理講論は、この聖書の奥義を神学的に体系化しました。お父様自身も、「この終わりのときに、天地の秘密、神様が隠していた秘密、サタンが隠していた秘密、歴史的秘密、哲学者達の秘密の全てを解決しました」(天聖経第八篇第四章P924)と証言され、次のように語られました。


「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P593~596)


次に、お父様が何故メシアと言えるかの第二の理由は、お父様がお母様と共に「真の父母」として、完成期的な救いの担い手、即ち完全な霊と肉の両面に渡る「重生」(新生)の摂理を成就された方であるという事実で、これが救済論的には最も意味のある役事です。


イエス・キリストは「私はまた来る」(黙示録20.12)と言われましたが、何故再び来なければならないのでしょうか。つまり、イエス様がやり残した救いの摂理を成就をされるために再臨されるというのです。


イエスは十字架で霊的復活を遂げられましたが、肉体はサタンに蹂躙されました。従って、来たるべきメシアは、霊と肉の双方において重生の役事をなされるというのであり、この霊肉重生によって、人間を完全に贖われるのがご父母様の本質でありすます。


即ち、救いのための重生には真の父と共に、真の母が必要であり、前回も述べたとおり、衆目が一致し異論がない「無原罪の真の父母」という点で、私たちは大同団結することができるでしょう。


更に第三の理由は、共産主義を屈服させられたことです。カイン的ヘレニズム思想の集大成ともいうべき共産主義を崩壊に導かれ、共産主義に代わる新しい神主義に基づく「新しいヘブライズム思想」(頭翼思想)を提示されたことです。


1968年に国際勝共連合を設立され、1970年代から共産主義の指導理念である唯物弁証法と唯物史観の間違いを指摘されてきたお父様は、ソ連共産主義が70年、8代を超えることが出来ないことを予告されていました。そして1985年に行われた第2回世界平和教授アカデミー国際会議で「ソ連帝国の崩壊」をテーマに掲げられ、「ソ連共産主義は70年を超えられない」と共産主義の崩壊を明確に預言されたのであります。その予告通り、1991年にソ連は崩壊しました。


そしてその共産主義崩壊に至る背後で、ゴルバチョフ、レーガン、ブッシュなど世界の主だった要人を叱咤激励し、創刊された「ワシントン・タイムズ」を通じて、明確な理念と方向性を示されて、共産主義崩壊の決定的な役割を果たされました。


その後1991年、北朝鮮の金日成主席と会われ、「主体思想は間違いである」ことを明言された上、神主義・頭翼主義でなければならないことを教示されました。正にこれらは、メシアにしか出来ないことであると言っても過言ではありません。


以上の通り、お父様がメシアである理由を3点述べましたが、その他にも幾つもの理由を挙げることができるでしょう。


【聖書的メシア像】


さて、ここで聖書におけるメシア像、ないしはメシア観を見ておきたいと思います。聖書の最も大きな特徴として、「一貫したメシア思想がある」ことですが、これを考察することによって、第三アダムとしての再臨主のメシア像が鮮明になるからであります。


今、お父様が無原罪でお生まれになったか否かが一部で議論になっていますが、そもそも聖書が予定するメシアは、「罪(原罪)なきメシア」として、しかも第三アダムとして、神から遣わされる方であることは「自明の理」であって、このことは議論の余地のない大前提となっています。そしてこのことは原理講論においても同様です。


<聖書に見るメシア預言>

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7.14)、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる」とあるなど、旧約聖書には300回ものメシア預言があると言われています。


また新約聖書には、多くの再臨預言があり、例えば、「ラッパのうちに天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)、「ユダ族の獅子、ダビデの若枝が勝利を得たので7つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)、「見よ私はすぐに来る」(黙示22.12)などを挙げることができるでしょう。


メシア観とは「メシアが誰であり、どのような方と見るか」ということであり、従来、メシアには「王」「祭司」「預言者」という3つの役割があると言われてきました。


特にイスラエルでは、民族を異民族から解放する政治的、軍事的指導者、即ち王としてのメシア像が主流を占めていましたが、 しかし、最も本質的なメシアの本質は、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)に象徴されるように、「罪を取り除き、神の国をもたらす者」であるというのです。


そして聖書が予定するメシアは、前述のとおり、罪(原罪)なきメシア(アダム)として、神から遣わされる方であります。


<キリスト教のメシア観と再臨観>

キリスト教におけるメシア観の推移について、初期のユダヤ教的キリスト教時代は、「神とメシア(イエス)は別存在」と理解していました。しかし地中海世界の異邦人キリスト教時代に入ると、「イエスは神」と理解されて世界的キリスト教時代に広がっていきました。キリスト論とは、一言で言えば、イエスが神(神性)であるか、人(人性)であるか、或いはその両者(両性)であるかを論じる神学であります。


先ず、「イエスは神」であるとの観念は、神秘的宗教指導者としてのメシア像を顕す次のような聖句が根拠となっています。


「全てのものが造られる前に生まれ」(コロサイ1.15)


「アブラハムが生まれる前から私はある」(ヨハネ8.58)


「世界が造られる前に、みもとで持っていた栄光」(ヨハネ17.5)


「天地創造の前から愛して下さった」(ヨハネ17.24)


次にメシア(再臨)は如何に来られるかという問題があります。キリスト教徒の代表的な来臨の考え方の根拠になっているのが次の聖句です。


「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)


「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)


つまり、再臨は、肉体を持って復活し(変えられて復活の体となったイエス)、昇天されたイエスが、再び天から来られると信じています。


この点は、我が内村鑑三も、「イエスが身体を以て復活し給ふた」と信じ、再臨のあり方についても同様のことを信じていました。内村は次のように述べています。


「キリストは其身体を以て復活し給ふた、而して其復活体を以て今尚存在し給ふとは聖書の亦明に示す所である、彼は栄光化されたる人の身体を以て父の許に還り給ふたのである、而して時至れば其身体を以て再び現はれ給ふとは是れ亦聖書の明かに示す所である、基督教の奥義は此に在るのである。(全集24巻 P118「復活と再臨」「聖書之研究」213号)


<メシアに関する新しい解釈>

しかし原理は、メシアは神自体ではなく、「創造目的を完成したアダム(人間)」と捉え、また同時に「神聖な価値を持たれた方」と考えています。


同様に、アリウス派、エホバの証人、ユニテリアン等々もイエスを神聖な人格を有した被造物(人間)とし、勿論、ユダヤ教、イスラム教もイエスを人間と見ています。


また再臨がどのように来られるかについて、イエス自身が「雲に乗って天から下る」とは考えていません。


預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言しました(マラキ4.5)ので、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていましたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのでした。


ところが意外にも、イエスも洗礼ヨハネを指して、「彼こそがエリヤである」と、明言されている通り(マタイ11.14)、ザカリヤの息子として生まれてきました(ルカ1.13)。この事実は、エリヤと洗礼ヨハネは、使命的に見て同体であるということであって、エリヤその人が下って来るという意味ではないことを意味しています。


同様に、使命的に見れば、洗礼ヨハネがエリヤの再来であったように、イエス自身がまた来られるというのは、あくまで使命的に見た見方であるというのです。従って再臨は、イエス自体が下って来られるのではなく、イエスと同じ使命を持ち、イエスが果たし得なかった使命まで果たす方が来られるというのです。


また今までクリスチャンの中には、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル7.13)と記録されている通り、メシヤが雲に乗って降臨されると信ずる信徒たちもいました。 しかし結局、イエスはマリアから生まれたのです。同様に再臨も文字通り「雲に乗って天から」来られるのではなく、女の腹から地上に生まれるというのです。


しかし再臨は、雲に乗って天から来られるのではないにしても、それに象徴されるように、天的な由来と血統を持って、無原罪のメシアとして来られるというのであり、これが聖書と原理講論が予定するメシア観であります。


「文総裁は何なのでしょうか。神様によって生命の種を受け継いできた代表者であり、真の父母なのです」(1991年8月25日のみ言「ファミリー」275号P33)とあり、「イエス様と同様に、再臨主も生まれながらに堕落前のアダムの立場で来られる」(『成約摂理解説』P192)とある通りです。


従って、再臨が生まれた時は原罪があるが、メシアになる可能性を持って生まれたため、途中から(イエスの召命によって)、無原罪のメシアになったなどという主張は、非聖書的、非原理的であるばかりか、滑稽でさえあります。俗な言葉で言えば、罪の中から生まれたメシアなど「有りがたくも何もない」というのが正直な気持ちであります。


筆者は、パウロが「異なる福音」(2コリ11.4)、即ち異端的な教えがコリント教会に蔓延していると危惧したように、UC内にも、「お父様原罪誕生論」が意外にはびこっていることを知って唖然とすると共に、危機感を抱いています。そもそもメシアの前に「無原罪の」といった形容詞を、わざわざ使わなくてはならないこと自体が問題で、聖書や原理講論が予定するメシアが無原罪であることは「当然の理」であるというのです。


なお、韓国に伝わるメシア預言としては、「格庵遺録」(キョガムヨロク)があります。これは16Cの南師古(ナムサコ)による預言書で、具成謨(クソンモ)による解釈によると、メシアの条件として、北に生まれること、日本に一時渡ること、 宗教一致を目指すこと、男女を結婚させること、非難中傷を浴びること、獄中生活すること、などが指摘されています。


また李王朝中期の「鄭鑑録」では 正道令(義の王)の到来が預言され、宗教の開祖が韓国に再臨するという啓示やイエスが韓国に再臨すると言う啓示があると言われています。そしてこれ等が予定するメシアは、皆、天的背景を持った男子です。


【理想カップル】


実は筆者は、1967年、文鮮明・韓鶴子ご夫婦が大阪の鶴橋教会に来られた時に感じた真の父母に関する鮮烈な印象があります。その折り、二人が共に歩かれる姿を一目みて、このようなぴったりしたカップルは見たことがない、何かこの世にない一体感が醸し出され、このカップルはただ者ではないと直感したものです。当時筆者は、この夫婦が再臨のメシアであることなど明確には認識していなかった時の話しです。


これが筆者の真の父母への偽らざる原体験ですが、今回お父様の自叙伝を読み直し、「無限の愛を送る」という冒頭の言葉に、このカップルの全てが言い表されている、あの時の直感は間違っていなかったと実感しています。


特にお父様の聖和以後、ちまたにはお母様のお父様に関する発言(風聞)に、「姫、ご乱心」といった声を聞くことがありますが、筆者は風評の類いではなく、真正に文字で書かれた情報、例えば「自叙伝」などの記述を唯一信頼するものです。


そもそも夫婦というものは、傍から見ても分からないもので、夫婦問題に他人がとやかくいうのは「余計なお世話」というものです。そして筆者はなお、この夫婦は相思相愛だと信じています。


それが証拠に、お母様はお父様を解放して差し上げたいと言われ、3年間侍墓生活を経て、かの持統天皇のように、夫の理想を引き継いで必死で実現されようとされています。筆者の見る限り、多少の違いはあっても、その基本的な方向性は、お父様が引かれたビジョンの上に正しく立っておられます。


そしてお母様は、キリスト教時代においては、神様の男性格である「天の父」でしたが、神様の女性格である「天の母」の立場は隠され、神様は「天の父母様」になることが出来なかったと指摘され、天の父母様の立場を取り戻して差し上げたいと語られています(著書『平和の母』P4)。このお母様の言葉は、神の二性性相から見て、決して間違いではありません。


ちなみに宗教には分派がつきものであるように(あの天理教でさえ50もの分派がある)、夫婦には夫婦喧嘩はつきもので、時には背負う重荷(試練)の大きさのあまり、愚痴の一つも言いたくなる時があるのが夫婦というもので、むしろこれは仮面の夫婦でない証左であり、そこには夫婦でしか分からない世界があるのではないかと思料いたします。筆者などは、子供の前で、何度バトルをやったことでしょうか。お陰で子供には大変な迷惑だったと、今では深く反省しています。


さてかの久保木修己会長は、「神の復権」を勝共のスローガンに掲げられましたが、筆者は今ここに、「お父様の復権」、そして「真の父母の顕現」を宣言するものです。


なお筆者はこの拙文を、あくまで自らの信仰告白として述べてきましたので、この筆者の見解に異論・反論があれば、遠慮なくご指摘下さい。(了)


家庭連合ポーランド宣教師吉田宏