○つれづれ日誌 (9月23日)-トマス・アクィナス① その神秘体験とは
すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)
最近、旧知の知人と再会し神学論議に花咲きました。そしてその知人と最も激しく論議したのが、他ならぬ今回のテーマである「トマス・アクィナスの神秘体験」を巡る解釈であります。トマスは、1273年12月6日、ミサの中で神の圧倒的な霊的体験に遭遇し、未だ見なかった神秘を見て、未完成の主著『神学大全』を絶筆し、以後一切を沈黙したのでした。かのバウロの回心体験(使徒9.3~5)に匹敵する神学上の大事件でした。
一体、彼は何を見て、何故絶筆し、沈黙したのでしょうか。これこそ今回のテーマです。
[トマス・アクィナスとは]
先ずはじめに、トマス・アクィナス(1225年~1274年3月7日)について簡単におさらいをしておきます。
<略歴>
トマスは、13世紀中世のイタリアの神学者・哲学者・聖人で、 スコラ学の代表的な神学者として、「スコラ学」(哲学)を大成したと言われています。スコラ学は中世キリスト教世界に盛んになった学問のスタイルであり、その特徴は、問題を理性的に理づめで答えを導き出し、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することにありました。イタリアの貴族の家に生まれたトマスは、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となり、アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざしました。
トマスはランドルフ伯であった父親の居城、ロッカーセッカ城で生まれ、5才から初等教育を10年間モンテ・カシーノ修道院で学び、学問への姿勢を身につけました。その後、1239年、ナポリ大に入り、論理学、自然学、形而上学などを学びました。特に「アリストテレス哲学」との出会いは、その後の西欧思想史にとって重要な意味を持つことになりました。そしてもう一つの出会いは「ドミニコ会」であり、トマスは大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会しました。ドミニコ会は、スペインの聖ドミニクス(1171~1221)
によって創立され、アッシジの聖フランシスコ(1182~1226)のフランシスコ会と並んで13世紀における精神運動の担い手でした。イエス・キリストの愛に立ち返り、その徹底した修道生活を人里離れた山中から、都市と民衆の中にもたらすもので、高度の学問研究が不可欠の要件でした。
伯父はモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていました。当時修道院にはいって高位聖職者となることは、貴族の子息たちのよくあるキャリアでした。トマスがモンテ・カッシーノ修道院の院長を継ぐことを期待していた家族は、彼がドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的に城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁して翻意を促しました。貴族の息子が喜捨に頼る托鉢修道会に身を投じることは一族の名誉にかかわることで、家族は若い女性を連れてきて、トマスを誘惑までさせたという話しは有名です。着飾った美しい少女を送り込み、あらゆる手立てを使って誘惑させました。トマスは不覚にも肉の衝動が沸き起こるのを感じましたが、炉の中で燃える薪をとって少女を追い出し、その薪で壁に十字架を書きしるし、床に伏して祈ったと言われています。(稲垣良典著「トマス=アクィナス」P46)
その後トマスはケルンを経てパリの修道院に学び、そこで生涯の師である神学の大家アルベルトゥス・マグヌスと出会い、1250年(25才)には司祭に叙階されています。1256年にはパリ大学神学部教授となりましたが、1260年にはパリ大学を辞めてイタリアに帰り、修道院活動や著作活動に励み、1269年には再度パリ大学教授に就任しました。
1274年の初頭、トマスは教皇から第2リヨン公会議への出席を要請され、体調不良を押してナポリからリヨンへ向かいましたが、道中で健康状態を害し、フォッサノヴァ(現プリヴェルノ市)のシトー会修道院で1274年3月7日死去しました。享年49才。
詩人でもあったトマスは、何よりも「神とは何か」を探求しました。そしてトマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことであると言われています。即ち、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移し、信仰と理性、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念の難しい課題の統合を図りました。トマスはパウロやアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、1323年7月18日、聖人にあげられました。またアリストテレス哲学の基礎の上にカトリック神学・哲学の体系を築き、その哲学がカトリック公認の哲学とされ、1880年全カトリック教育機関の守護聖人となりました。なお トマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったと言われています。
<神学大全>
トマスの代表的な著作が『神学大全』(1265~1273年ごろ)で、神の存在と教会の正当性を論証する大著として、後世のキリスト教に大きな影響を与えました。「哲学は神学の婢(はしため)」という彼の言葉は、神学をすべての学問の上位におくという思想を表しています。
『神学大全』は、序文によれば神学の初学者向けの教科書として書かれたものであるといいますが、きわめて明快に啓示(信仰)と理性の融合がはかられ、読者がキリスト教信仰に関する事柄でも理性で納得できるように書かれていると言われます。トマスは1265年ごろから『神学大全』の著述にとりかかっていますが、後述するように、第三部の完成を目指して著述を続けていた1273年12月6日、ミサを捧げていたトマスに、突然神の圧倒的な霊的体験に遭遇し、秘跡の部の途中まで完成していましたが、以後一切の著述をやめてしまいました。
『神学大全』の全体構成は三部構成からなっています。即ち、第一部は「神について」、第二部 は「人間について」、第三部は「キリストについて」であります。神学の骨格は、「神」「罪」「救い」の三本柱と言われていますが、本書もその構成になっています。即ち、全体の構成としては、第一部で、神による創造を描き、第二部で神へと向かう被造物である人間について描き、第三部で、神へと向かう際の道しるべであるキリストについて描くという構想に基づくものです。
論議の進め方としては、冒頭に「問題」(テーゼ)が提示され、 次に「異論」が挙げられ、そして異論に対する「対論」(反論)が提示され、 最後にこれらを踏まえた「解答」が示されるという形式になっており、解答は異論あるいは対論をそのまま採用したものではなく、全体を統合した解答になっているというのです。
[トマス・アクィナスの神秘体験とは]
トマス・アクィナスは、1273年12月6日(48才)、聖ニコラウス礼拝堂でミサを捧げていた時、突如心境の変化に襲われ神秘体験をすることになります。神の圧倒的な霊的体験をしたのです。そしてその後絶筆し、一切を沈黙しました。この謎、即ちトマスが絶筆を余儀なくされ、以後一切の沈黙を守ることにまで至ったこの「霊的体験」とは何だったのか、このことこそ前記の知人との深刻な論議でした。
さて、トマスは、理性では知り得ない事柄として、「三位一体の神秘」(神学大全)という表現を使い、これは論証されることではなく信じられるべきことだとしました。神秘とは、「あまりにも隠されているために理解することが出来ない神的な神秘」であるという意味です(山本芳久著「トマス・アクィナス-理性と神秘」P43)。トマスは他にも「キリストの神秘」「受肉の神秘」「信仰の神秘」「恩寵の神秘」といった神秘という言葉を多用しており、如何にトマスが信仰と理性の問題と戦い、人間の理性の限界を誰よりも知っていたかが分かります。だからこそ逆に、神学における理性の重要性を認識していたとも言えるのです。
トマス神学の魅力は、問題を理性の力によって探求していこうとする姿勢と、神によって啓示された神秘を手がかりに真理を明らかにしていこうという姿勢が絶妙に統合されているところにあると言えるでしょう。そしてトマスは、大著「神学大全」の執筆に1265年(40才)ころから取り掛かりました。しかし前記したように、ミサの中で神からの強烈な霊的体験に遭遇し、第三部の「秘蹟の部」の途中で筆を置き、以後一切の著作活動を放棄し、かくして神学大全は未完に終わったのであります。(トマスの死後、弟子たちが師の構想を引き継いで第三部の残りの部分「秘跡と終末」を完成させました)
トマスは著作の続行を勧める友人レギナルドスに「私にはできない。私は大変なものを見てしまった。私が見、私に示されたことに比べれば、私が書いた全てのことは藁屑(わらくず)のように見える」と語ったと言われています。そしてその体験の3ヶ月後の1274年3月7日、地上での用を終えるかのように49才で他界いたしました。一体、トマスはミサの中で何を見、何を啓示されたのでしょうか。そして何故、絶筆し以後一切を沈黙したのでしょうか。この問いに、今まで如何なる神学者と言えども正面から論評しことも、納得できる解答を与えたこともありません。いわば、永遠の神秘であるのです。
[7つの封印の巻物を見てしまったトマス]
前記知人は、それをヨハネ黙示録5章の「7つの封印の巻物」(黙示録5.5)の中身を覗き見たからだと主張します。三位一体、十字架、贖罪、復活、再臨と言った聖書の根本奥義の驚くべき解釈を示されたというのです。激しく泣いていたヨハネ(黙示録5.4)に神が臨んだようにです。ロマ書16章25節に、「今や代々に渡って隠されていた神秘は、その奥義の啓示によって知らされる」とある通りです。
この体験により、トマスは、十字架の教理やイエスの再臨など、伝統的なキリスト教教理からのコペルニクス的転回を余儀なくされたのではないかと言うのです。また、そのように考えなければ、トマスの絶筆と沈黙の意味を説明できない、トマスは神に沈黙を迫られたのだ、と....。ある著名な学者は、「理性の限界を決定的に感じさせられる体験」をして自らの神学に自信が持てなくなったのではないかと解釈し、その結果、カトリック教理の弁証と証明に費やしていたそれまでの著作に、何の価値も見い出せなくなったのでなはいかと述べました。
一方、東大准教授の山本芳久氏は、これまでに書いたものを「藁屑に過ぎない」とトマスが言ったのは、聖書の「文字通りの意味」を指したのだと解釈し、聖書の「霊的な意味」は、文字的な意味の真意を明らかにするものだから、神秘体験はそれまでの執筆活動を否定したのではなくむしろその「真義を明らかにした」のだと主張しました。更に山本氏は、「その宗教体験によって与えられた洞察が、神学大全に書かれてあるトマスの立場を根本的に否定するようなものであったならば、トマスは決して筆を折らなかったのではないだろうか」(「トマス・アクィナス-理性と神秘」P40)と述べ「それほどまでの深い宗教体験を得ることができたこと自体が、トマスのそれまでの神学研究の成果なのではないだろうか」(同)と肯定的に解釈しました。
しかしこれでは「絶筆と沈黙」の意味を説明できません。しかもトマスは、この体験から3ヶ月後に、トマスが得た最終的な洞察を神学大全に書き込まないまま他界し、この謎は封印されたまま永遠の謎として残されることになったのですから。
筆者は前記の知人の見解にかなり近い見解を持っています。神学大全で主張してきたように、神秘と理性の調和を目指すトマスの神学理論が、決定的なダメージを受けるようなある衝撃、理性を越えた神秘に出くわしてしまったのは間違いありません。特にカトリックやトマスの今までの十字架理解にノーを突きつけられたのではないか、そして三位一体の理解、原罪・復活・再臨の理解に根本的な修正を迫られたのはないかと思料いたします。
だからこそ、「私は大変なものを見てしまった。私が書いた全てのことは藁屑のように見える」と友人に語ったのだと思われます。あたかもパウロが、それまでの律法主義からのコペルニクス転回を余儀なくされ、これまでの人生を全否定されたようにです。しかしトマスは、パウロが回心し、以後キリストの使徒として福音伝道に殉じたようにはいきませんでした。未だ再臨の時至らず、ただ沈黙するしかなかったのです。このトマスの謎は、キリスト教自身の手によって解明されることが望まれます。
さてトマスは、一体何を見たのか、如何なる霊的体験をしたのか、読者はどのように解釈されるでしょうか。(了)→次回に続く