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検証 国家神道 - 原理観から見た国家神道と天皇制

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 9月3日
  • 読了時間: 16分

◯徒然日誌(令和7年9月3日)  検証 国家神道-原理観から見た国家神道と天皇制 

 

しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない(ガラテヤ3.23~25)

 

プロローグ 

 

前々回の徒然日誌(8月20日)で、先の大戦について、それが日本の侵略戦争だったのか、もしくはアジア植民地解放の自衛戦争だったのかを検証し、あわせて靖国神社参拝は聖書が禁じる偶像礼拝ではないことを論証した。また前回の徒然日誌(8月27日)では、「何故日本は無謀な対米戦争を行ったのか」について論考した。今回は、戦前、特に満州事変以後の大東亜戦争時において、日本国民を束ねる精神的支柱になった国家神道、及び天皇の神格化問題について、その是非を含め検証する。 

 

原理講論によれば、第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米英仏の天の側国家と、全体主義によって結託した独日伊のサタン側国家との対戦であったとある。米英仏は「民主主義を根本理念とする国家」であり、「キリスト教を支持する国」であるから天の側であり、独日伊は「反民主主義的な全体主義国家」であり、「反キリスト教的な立場に立った国家」であるのでサタン側に区別されるという。(原理講論P546)

 

即ち、枢軸国の中心であったドイツ(ナチス)は、人間の自由を剥奪するファシズムであり、アーリア至上主義的なゲルマンの原始的宗教思想を形成し、600万のユダヤ人を虐殺した。また当時の日本の軍閥は、韓国の教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教信徒たちを日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷したという。日本でも同様のキリスト教会への弾圧があった。 

 

確かにヒットラーナチスの思想は文字通り民族的、人種的偏見によるファシズム(全体主義)であったが、しかし日本は議会制度、政党政治が機能しており、全体主義というより戦時下における「軍部独裁」(独走)という方が的を得ており、また天皇絶対主義は戦時下の一時期であり、全体としては立憲的な天皇親政であったと思われる。 

 

以下、国家神道の背景、定義、特徴、意義、及び功罪について論考する。 

 

【国家神道とは】 

 

国家神道とは、神道の一形態で、近代天皇制国家が政策的につくりだした事実上の国家宗教であり、神社神道を一元的に再編成し、皇室神道と結び付けた祭祀中心の宗教である。明治政府は、天皇をトップとした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として神道を採用したのである。 

 

<定義・背景> 

 

国家神道とは、神道的な道徳的実践を国民統合の支柱とするもので、「神社非宗教論の立場に立った一種の国教的制度(準国教)」である。即ち、国家によって管理され、教派神道とは区別された「非宗教としての神社神道」であると一応定義できる。 

 

明治維新を成し遂げた日本は、幕末維新の理念となった尊皇攘夷・尊皇開国の思想を引き継ぎ、天皇中心の思想を国家統治の基本理念とし、その具体化として国家神道が位置付けられる。 

 

即ち国家神道は、明治新政府が神社神道と皇室神道を結びつけてつくり出した神道で、天皇を神武天皇以来の皇統を引く現人神として祭事を行なう国教的性格を持っていた神道である。もともと「祭政一致による天皇中心の国家をつくる構想」は、江戸末期から国学や水戸学の影響下に盛り上がりを見せていた。即ち江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想に源流があり、記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで国民の統合をはかろうとした。 

 

そして国家の行政的措置によって神道の保護・監督を行い、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけて国民精神のよりどころとしたのである。但し後述するように、国家神道は第二次大戦後、占領軍の神道指令によって解体された。 

 

<歴史>

 

政府は初め、王政復古によって「神武創業の始」に立ち返る趣旨から、「祭政一致」の立場をとり、「神祇官」を再興した。また「宣教使」(教導職)を置き、神道を中心とした国民教化をめざし、1870年、「大教宣布の詔」を出した。ついで神社制度を設け、官幣社、国幣社など神社の社務を定め、祭式を統一するなど、政府の保護のもとに神社神道の普及に力を注いだ。 こうした過程で江戸時代には影が薄かった天皇が強調され、国民にも天皇が古くから日本の統治者(天皇親政)であるという宣伝が行われた。

 

こうして天皇は神聖不可侵の現人神とされ、国家神道の最高祭司として祭祀大権を保持する存在となった。1890年に出された「教育勅語」は、国民に天皇制国家への忠誠を命じるとともに祖先崇拝を強調し、国家神道の事実上の教典となった。また各学校へ配布された天皇・皇后の「御真影」は、国家神道の事実上の聖像として礼拝の対象となった。 

 

しかし、神道による国民教化と神仏分離は国民に十分受け入れられず退潮に向かい、廃仏毀釈は仏教界(特に浄土真宗)からの反発を招いた。また神道に共通する教義体系をつくることは不可能であること、国家が復古神道的な教説で宗教活動を直接に統制することは近代国家にふさわしくないことなどを認識した政府は、1972年には神祇省を教部省と改め、1982年には神官の教導職兼補を廃止した。

 

即ち、神道国教化政策をとるも3年間くらいで挫折したのである。前述の通り、1870年、大教宣布の詔が発布され、王政復古、祭政一致を標榜し、天皇中心国家、神道の国教化を目指し、また神社制度(官幣社、国弊社)が整備された。しかし国民の支持がなく、1872年には神祇省を廃し内務省社寺局に移管し、国教化への試みは失敗した。(神祇官→神祇省→教部省→内務省寺社局→内務省神社局と変遷)

 

こうして神社は,祭祀儀礼を中心とすることになり、独自の教義体系をもつ神道教団は「教派神道」(天理教、黒住教など)として独立した。実際、明治期には政府による国民への神道の強制は、満州事変以後の一時期を除いてほとんどなかったと言われている。 

 

しかし1930年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には、神社は戦争遂行の精神的支柱として重んじられ、キリスト教の教会やキリスト教系の学校などに対しても、伊勢神宮の大麻(神宮のお神札)の奉祀が強制されたりした。日本は万世一系の天皇が統治する神国とされ、八紘一宇が「聖戦」のスローガンとなった。 

 

結局、1945年のGHQ神道指令により、神道を国家から分離するように命じられ、昭和天皇のいわゆる人間宣言(1946年)に始まる一連の国家神道解体へと進んでいった。 

 

<国家神道は宗教にあらずー神社非宗教論> 

 

国家神道とは、神道的な道徳的実践を国民統合の支柱とするものだが、仏教など他宗教への配慮や政教分離の立場から、日本政府は、「国家神道は宗教ではない。宗教を超えたものである」とする「神社非宗教論」の立場に立った。即ち、祭政一致と政教分離の両立を目指したもので、神道を「非宗教」とすることで、「公」の領域で権威を認められた国家神道と、「私」の領域で信教の自由が認められる諸宗教という二重構造が「日本型政教分離」であると言える。 

 

ところで日本の二大宗教を占めていたのは神道と仏教であったが、江戸時代においては、仏教が江戸幕府から檀家制度などによって特別な保護を受けて優勢であり、一方の神道は、神仏習合・本地垂迹説により、仏教の風下におかれていた。明治維新の初期、王政復古の大号令により、「神武創業」への回帰による近代化を開始した政府の中で、「神仏分離令」および「祭政一致の布告」の原則が掲げられ、神道の復権が図られた。 

 

これに対して反攻したのが、浄土真宗であった。真宗は、維新政府の一角を占めた長州藩とは、元々藩内の仏教政策の一翼を担っており、幕末の動乱期に西本願寺が志士の援助するなど、友好関係が強く、政府に対しても影響力をもっていた。真宗の中でも当代一の理論家であった島地黙雷は、宮中祭祀の復活を足掛かりに事実上の神道国教制が成立することを危惧して、皇室神道と、在野の神道の分離を図った。この中で黙雷は、神道を「朝廷の治教」(統治者の教え)と定義し、「神道は宗教ではない」と主張した。 

 

ここに、神仏両派の間で、神道の「治教」としての特別な地位は認めつつ、宗教とは別のものと定義し、その宗教的活動には制約を付ける、という暗黙的な妥協が成立することとなった。この一連の処置によって、近代日本の政教分離の骨格は固まった。こうして神道は、一部は皇室及び官国幣社の祭祀として「治教」、府県社以下の神社及び教派神道は「宗教」として分離し、前者を特に国家神道と呼ぶようになった。 

 

これら神道の非宗教化は、ヒンズーナショナリズムと類似性がある。インドのヒンズー教において、公的領域はヒンズーで全国民を対象とするも、私的領域では仏教、モスレム、キリスト教などを自由に信仰した。そして一神教的な神ブラーフマンの再生やヴェーダの聖典化も行い、一と多を統合するヒンズー教の一神教化が図られた。 

 

【国家神道の功罪】 

 

前述の通り、国家神道とは何かを論じてきたが、次に「国家神道が軍国主義や超国家主義の温床となった」「国家神道が戦争の大きな原因となった」という戦後の通説は正しいか、即ち国家神道の光と影、及び宗教と国家の関係を考える。

 

<国家神道の意義> 

 

国家神道の意義については次のことが指摘される。 

 

①国民統合のアイデンティティ、国家統合の象徴として機能した。西欧列強への対抗という意味もあり、明治政府は、天皇をトップとした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として神道を採用した。


②一君万民の理念により、儒教的身分制度を打破して四民平等への道を開いた。


③檀家制度による仏教支配からの脱却を促した。


④キリスト教への防波堤、和魂洋才の理念となった。日本は欧米から近代的制度や技術などの文明は取り入れるも、宗教や精神性などの文化は取り入れなかった。1873年、徳川以来260年間に渡るキリスト教禁令を廃止したが、明治政府は文明とキリスト教を区別する政策を行った。「文明国になりたいならキリスト教を受け入れるべき」「キリスト教無しに文明化は可能か」と言った問いが宣教師などから呈されたが、しかし明治5年には蒸気機関車が走り、キリスト教無しに文明化は可能であることを証明したのである。

 

前述の通り、1882年、内務省通達により神社は宗教ではないとする日本型政教分離政策を取り、神道は「国家の宗祀」であって「宗教」ではないというのが政府当局の見解で、国家神道は国教ではないが、国教に準ずる扱いを受けた。神社は公的な法人であり、神職には官吏の地位が与えられていた。 

 

即ち、公的領域では道徳としての国家神道や教育勅語を国民精神とし、私的領域ではそれぞれ宗教としての仏教、キリスト教などを認めた。また天理教、黒住教、金光教などの教派神道は神道から分離独立し、教派神道は宗教、神社は非宗教と位置付けられた。こうして神社は非宗教ということになり、祭祀のみ行うということになった。国民統合のために全国民を神社に参拝させるためには、浄土真宗門徒やキリスト教徒が参拝できるように、非宗教にすることを要したのである。 

 

もっとも神道には宗教の3要素である教祖・教義・戒律がなく、そもそも神道は宗教なのか、という議論は当時からあった。つまり、日本が古代から続けてきた神道は、他の宗教と区別される普遍的な民族精神であるという見解があった。 

 

<大日本帝国憲法と教育勅語> 

 

大日本帝国憲法と教育勅語は、天皇制と密接な関係にある国家神道に思想的、法的根拠を与えた。 

 

1890年11月29日に施行された大日本国憲法は、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(第1条)、「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ」(第4条)とあり、天皇主権が唱われている。また「天皇は神聖にして侵すへからす」(第3条)とあり、天皇の超越性が宣言された。しかし、古来日本の天皇には政治的権力が無く、権威の象徴的色彩が強く大祭司的な位置付けにあった。 


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大日本帝国憲法には「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)しその責に任ず」(第55条1項)との規定があり、天皇単独で決定できず、また「(天皇の統治権は)この憲法の条規により之を行う」(第4条)とあるように、天皇といえども「憲法の条規に従う」という立憲君主制の理念があり、事実上天皇が単独で権限を行使することはなかった。尚、第3条の「天皇は神聖にしてで侵すべからず」とは、天皇の神格化を謳うものではなく、天皇に政治的責任を取らせない(取らない)ための条項であると言われている。 

 

日本でいう国体とは「天皇を中心とする統治秩序、国のあり方」であるが、天界(高天原)の主宰神である天照大御神から日本の統治を委任(神勅)された天照の子孫、即ち天皇が未来永劫に日本を統治するという天皇統治の正当性が記紀によって明らかにされた。しかし歴史上、日本の天皇には権威はあっても権力を有しなかったので、日本では、王朝交代、易姓革命、市民革命が起こらなかったのである。 

 

一方、信教の自由の規定があり、第28条は「日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」とした。この背景には、不平等条約を解消すること、そのためには文明国の条件であった「信教の自由」を規定した憲法が外交上必要だったという事情があった。しかし、条件付き信教の自由であり、「人民たるの義務とは何か」で議論が噴出した。人民たるの義務とは、一応、国体論を前提とする「天皇崇敬に背かない限り」という意味だと考えられる。従って、国体に背くと見なされた共産主義やキリスト教思想は弾圧を受けた。1891年、内村鑑三の教育勅語に最敬礼義務を怠るという不敬事件は有名である。 

 

また、1890には教育勅語が発布され、非宗教的な国民道徳として国体思想を昂揚した。教育勅語には皇国史観的な天皇への忠孝に結び付けられたことに問題があるという見解と、普遍的な道徳的価値を表現したものであるという見解の両論がある。 

 

<国家神道の光と影>

 

前記において、国家神道の意義について述べたが、一方では辛辣な批判もある。国家神道は、超国家主義(ファシズム)、天皇絶対主義、軍国主義の源泉であるといった負のイメージである。これは、戦後GHQによる対日方針と神道指令に見られる偏った神道観や、左翼の思想宣伝、国家神道への正しい知識の欠如などに負うところが大きい。

 

GHQは「降伏後に於ける米国の初期の対日方針(1945年9月6日)として、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及安全の脅威とならざることを確実にすること」を掲げた。この方針のもと、GHQは、軍隊の解散、公職追放、戦争裁判、憲法改正、財閥解体、農地解放、労働立法などの外的側面の改革だけでなく、行き過ぎた「精神的武装解除」を行った。 

 

そしてその標的が軍国主義、国家主義の担い手と誤認された国家神道であり、国家と宗教の厳格な分離を要求した。確かに、戦時中の国家主義、民族主義が「一部の神道思想」と結びついたものとも言えなくもない。しかし、開戦前夜の日本の神国聖戦思想・超国家思想・軍国主義は、国家神道というより、在野の右翼など神道人外の政治イデオロギーの影響が大きく、また民間からわき上がって支持が広がったものだったと言えなくもない。国家神道思想は、開戦前夜における軍部の台頭によって国民動員に利用されたと言える一面がある。 

 

また国家神道の天皇が現人神だという思想の実際は、1930年代以降に顕著になったものと言える。即ち、「現人神」「八紘一宇」という言葉は、明治以後一貫して存在していたのではなく、満州事変以後の話しであり、筑波大名誉教授の副田義也氏は天皇の神格化は1930年以降であるとしている。 

 

天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末には天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和14年以降になって、天皇は神であるという天皇教とも言える表現に代わってきた。昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発し、日中戦争、対米戦争は軍部の独走という側面があった。日中戦争勃発以後、天皇中心の中央集権国家、国民動員への時代的要請があり、皇室神道と結びついた神道が、政治イデオロギーとして利用されたことは否めない。 

 

他方、天皇現人神論の考え方について、東京大学宗教学教授加藤玄智氏は著書『我が国体の本義』で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」と述べ、天皇を神として神格化する思想も現れたことを付け加えて置く。なお「八紘一宇」とは、優越した日本民族が、天皇統治の下に世界天皇として世界を一つにするといった膨張主義の代名詞ではなく、「天の下では、民族を超えて皆平等であり一つの家の同朋である」という人類皆兄弟といった古来日本の人道的、普遍的な原理を意味したものであるが、誤解されて喧伝された。 

 

【天皇制の意義と評価】 

 

最後に、天皇制の意義とその評価、国家と宗教の在り方について持論を述べたいと思う。 

 

先ず、現憲法下における国民主権の下での国民統合の象徴としての天皇の位置づけは大いに評価できる。古来、日本の天皇は権威の象徴であって権力は持たなかったが、日本国憲法によって改めて強調され担保された。「君臨すれども統治せず」との法治による立憲君主制は、イギリスと同様、日本の歴史と国民性に合致し、政治的、社会的な安定をもたらしている。また天皇への尊敬心は、日本の道徳(忠孝)の根源になり、世界でも有数の道義と礼節の国民性を育んだ。 

 

ではこれからの国家と宗教の関係はどのような在り方が望ましいのだろうか。 

 

古来日本の伝統思想である、敬神・崇祖・愛人の宗教的情操は国の教育の中に生かされるべきである。そして国家の完全な非宗教性は現実的ではない。国家は宗教に干渉すべきではないが、一定の歯止めの中で、国家の宗教性は認められるべきであり、この点、アメリカにおける政教分離の在り方は、今後の日本のモデルになる。アメリカ大統領は就任式に聖書に手を置いて宣誓し、牧師が祈祷する。最初のトランプ大統領の就任宣誓式(2017年)には、ポーラ・ホワイト牧師が代表祈祷した。    

 

アメリカに見えざる国教としての市民宗教と呼ばれる「アメリカ的霊性」があるように、見えざる国教(日本教)としての「日本的霊性」への理解が必要である。日本的霊性とは、古神道(縄文神道)を基層として、仏教的霊性と儒教的精神(武士道)が加味された精神性で、「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む精神性」と一応定義できる。 即ち、古来日本人は、自然、先祖(天皇)、和を大切にし、清浄を好んだが、この精神性は、神道、仏教、儒教が源泉となり、特にその中でも古神道が日本の精神性の核をなしていると考えられる。(参考→ https://x.gd/nE507 )

 

この穏健な日本的霊性こそ、まさにパウロがガラテヤ3章23節から25節で述べた「わたしたちをキリストに連れて行く養育掛」、即ち真の神への途中神である。そして日本的霊性は国家神道に代わる疑似宗教と言え、私たちには、この日本的霊性、即ち日本教を真の神につなぐ事業が残っている。 

 

筆者は前回の徒然日誌で、「あの無謀な対米戦争は何故起こったのか」を論考し、様々な内外の要因が考えらるものの、「十字架と復活」という文脈の中で理解した。満州事変に端を発する対米戦争は、人間の思惑を越えた様々な必然や偶然が重なって、我知らずのうちに起こった戦争、目に見えない摂理に支配された宿命的な戦争に見える。だがいずれにしても、戦時下の一時期における天皇制と結び付いた国家神道と軍部の独裁は全体主義的であり、非キリスト教的であるので、日本は独伊と共にサタン側と認定されざるを得なかったのである。

 

内村鑑三の弟子矢内原忠雄東大教授は「神の国」演説の中で、「日本を生かすために、ひとまずこの国を葬って下さい」と述べ、永井隆は著書『長崎の鐘』の中で、原爆によって天に召された浦上天主堂8000人のクリスチャンは、日本が生まれ変わるための「贖罪の羊」であると述べた。筆者もまた、あの戦争で犠牲になった300万強の人々は、日本が生まれ変わるための「燔祭」であり、実際、その犠牲の上に戦後日本は生まれ変わり、世界有数の民主主義国家、技術・経済大国に発展したと思料する。そして、イギリスに代わって、再臨期に神の最終摂理を担う母国となり、印を押された144000人(黙示録7.14)を立てて、その如くの役割を果たしたのである。 

 

以上、「検証 国家神道ー原理観から見た国家神道と天皇制」とのテーマで、国家神道と天皇制を論じ、先の戦争を総括すると共に、国家と宗教の在り方について持論を述べた。即ち日本人なら避けて通れない国家と天皇について考察した。(了)

 

牧師・宣教師  吉田宏

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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