靖国神社参拝記-戦後80年各政党談話と歴史認識 、靖国参拝は偶像礼拝か
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更新日:2 日前
◯徒然日誌(令和7年8月20日) 靖国神社参拝記-戦後80年各政党談話と歴史認識、靖国参拝は偶像礼拝か
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。(ガラテヤ3.24~25)
プロローグ

この8月15日は終戦80年記念日だった。筆者は午前中、靖国神社に参拝し、英霊と日本の行く末を祈念した。靖国神社の祭神は246万6000人の英霊だが、英霊は神そのものではなく「愛国の御霊」であり、靖国参拝は祖国のために犠牲となった同胞への慰霊・追悼であって、偶像礼拝ではなく、また戦争を美化するものでもない。更には、東京をはじめ各都市での爆撃の犠牲者、沖縄における地上戦での犠牲者、そして広島、長崎での原爆投下による犠牲者への追悼であり、靖国神社はこれら戦争犠牲者の象徴と言える。従って、終戦記念日での靖国参拝は、これら戦争犠牲者全体への慰霊・追悼であり、偶像礼拝ではないと筆者は理解している。
ところで、靖国神社参拝には、政教分離原則との関係やA級戦犯の合祀問題、閣僚の公式参拝と中国・韓国の反発(靖国神社を「日本の侵略戦争を美化する施設」と捉え、閣僚の参拝やA級戦犯の合祀に強く反発している)、などの問題があり、世論を二分しているが、前述の通り、靖国神社は祖国に殉じた人々への慰霊施設であり、アメリカのアーリントン国立墓地や韓国のソウル顕忠院(ソウルけんちゅういん)と同様の施設と理解できるのではないだろうか。
以下、先の戦争(大東亜戦争)に対する歴史認識問題、靖国神社参拝の信仰上の論点(聖書的論点)について論考する。
【大東亜戦争の歴史認識】
大東亜戦争(先の戦争について、「太平洋戦争」との呼称もあるが、ここでは「大東亜戦争」と呼ぶ)の歴史認識については、大きく侵略戦争と自衛戦争の二つの見方がある。なお、第二次世界大戦は1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻が発端であり、大東亜戦争は1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し「大東亜戦争」(太平洋戦争)と命名した。しかし、大東亜戦争は大きく満州事変(1931年9月18日)から盧溝橋事件(1937年7月7日)を経て終戦(1945年8月15日)までの全体を指すといってもいいのではないかと思う。
<侵略か自衛か>
50年村山談話では、「わが国は、国策を誤り、戦争への道を歩んで植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と述べ、大東亜戦争を侵略戦争と主張した。一方、70年安倍談話では、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」と述べた上、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも述べ、侵略という言葉は封印した。
即ち、村山談話では「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」という定番の4つの言葉を使ったが、安倍談話では、「反省」と「お詫び」という言葉は使ったが、「侵略」「植民地支配」という言葉は使っていない。そしてこの13年間、反省と言う言葉も封印されてきたが、15日、全国戦没者追悼式(日本武道館)で、石破茂首相は「あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません」と式辞で述べ、「反省」という言葉が復活し、保守言論人から批判されている。「反省」は、先の戦争が日本の罪を一方的に認めたものと捉えられかねないからである。いつの時代でも、戦争には光と影はつきものであり、そろそろ戦後の戦勝国家史観(極東国際軍事裁判史観)から解放され、自虐史観を脱却すべきとの声が上がっている。
この点戦前の日本政府は、「支那事変」を含めてこの戦争を「大東亜戦争」と呼称し、欧米勢力の植民地支配からアジア諸民族を解放し、アジア人による共存共栄の「大東亜共栄圏」を建設するという自衛の戦争目的を掲げた。1943年11月には南京汪兆銘政府、満州国、タイ、フィリピン、自由インド仮政府が参加して東京で大東亜会議が開催され、欧米の植民地支配脱却と人種差別撤廃を宣言した。
一方、1941年8月、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルによる大西洋憲章では、枢軸国(日独伊3国同盟)の侵略行為を鋭く非難し、現在の戦争がファシズム(全体主義)に対する民主主義防衛戦争であることを宣言した。大西洋憲章が唱う4つの自由とは、言論と意志表明の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由のことで、まさに第二次世界大戦は、全体主義の日独伊枢軸国と民主主義の米英仏連合国との戦いであるとの宣言である(但し日本の場合は全体主義というより、天皇親政、軍部の独走であった)。この点、原理講論546ページには次のようにある。
「第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった。それでは、どうして前者は天の側であり後者はサタン側なのであろうか。前者はアベル型の人生観を中心として、復帰摂理の最終段階の政治理念として立てられた民主主義を根本理念とする国家であるから天の側である。後者はその政治理念がカイン型の人生観を中心としており、反民主主義的な全体主義国家であるゆえにサタン側である。また、前者はキリスト教を支持する国であり、後者は反キリスト教的な立場に立った国家であるので、各々天の側とサタン側とに区別されたのである」(原理講論P546)
<日本保守党の談話ーその歴史認識>
日本国内において、上記のように左派は侵略戦争と主張し、保守は自衛戦争を主張する。8月15日、立憲民主党の野田談話では、「多くの国に与えた侵略と植民地支配による被害と苦痛を深く反省し、アジアをはじめとする諸国の犠牲者に心からの哀悼の意を表します」と述べ、また日本共産党の田村智子委員長は、「日本の侵略戦争によって、アジア・太平洋地域では2000万人以上の命が奪われ、植民地支配のもとで強奪・暴行・性暴力など残虐な被害と苦しみがもたらされました」と主張し、先の戦争を日本の侵略戦争、植民地支配とした。この点、さすがに自民党、国民民主党、参政党は、侵略、植民地支配、反省という言葉は封印した。
他方、日本保守党の談話は、歴史観といい、文書表現といい、バランスの取れたもので、70年安倍談話の理念を踏襲した内容になっている。以下、日本保守党の「戦後八十年に寄せて」(談話)を詳しく見ていこう。
先ず「大東亜戦争がいかに始められたかを総括する必要がある」とし、「大東亜戦争の直接の原因は、昭和16年8月(1041年)のアメリカからの石油の全面禁輸」だとした。当時、日本が全消費量の88%をアメリカに依存していた石油を止められるということは、国としての「死」を意味するというのである。そして日本が「死」を回避するには、ハルノート(満州事変以前に戻す)をのむか、油田を得るためオランダ領インドネシアに侵攻するかの二者択一だったというのだ。
つまり20世紀初頭の世界は、アジア、アフリカ、中南米の有色人種のほとんどが欧米列強の植民地支配に甘んじており、ハルノートを受け入れれば、当時の有色人種と同じく、日本は欧米列強の支配下に置かれる運命にあったという。日本は明治維新後、富国強兵と産業振興に力を入れ、その結果、世界史上でも類を見ないスピードで近代化を成し遂げ、欧米に追いつき、独立を守り抜いたのである。また20世紀初め、日本は南下作戦を取るロシアと戦い勝利したが、このことは欧米を驚かせ、世界の有色人種に大いなる希望を抱かせたという。
日露戦争での勝利や第一次世界大戦の戦勝国となったことで、欧米諸国は日本への警戒を強めることとなり、特にアメリカは満洲の権益で日本と対立するようになって、この頃からアメリカは日本を仮想敵国と見做すようになっていたという。今日、満洲は日本が中華民国から奪ったと認識する向きがあるが、もともと満州は女真族(満州族)の故地であり、中華民国が建国時に満洲を自国領だと宣言したに過ぎず、同国は一度も実効支配していない。
また日本はアジア諸国を侵略したとする論があるが、そもそも日本が戦った相手は、東南アジア諸国を植民地にしていたイギリス、フランス、オランダ、アメリカであった。しかし談話では、これらの地域における日本の占領統治は必ずしも寛大なものではなく、一部には資源の収奪もあったことを率直に認めている。だが結果的に、日本が欧米列強をアジアから追い出したことで、戦後、東南アジア諸国の独立が成った面も確かだという。
シンガポールのゴー・チョクトン元首相は、「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った」と語り、インドのサルヴパッリー・ラーダクリシュナン元大統領は、「インドでは当時、イギリスの不沈艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した」と述べ、ミャンマー(当時はビルマ)のバー・モウ元国家元首は、「歴史的に眺めて見ると、日本ほど、アジアを白人の支配下から解放するのに尽くした国は、他にどこにもない」と賛辞したというのである。
無論、日本の占領を手放しで良しとするわけではないが、日本軍によってアジア諸国の独立が進んだことは確かであり、日本の果たした役割は決して小さくなかった。国内外で、日本の戦争責任を追及する声があるが、大東亜戦争の責任が日本のみにあるという考え方は片手落ちであり、大東亜戦争の本質を理解することはできないという。 戦後の日本は戦争責任が日本にのみあるとの自虐史観に染まり、歴史と戦争への正しい理解を歪め、むしろこれが今日、アジアの一部の国々との関係をおかしくしている一因でもあるとした。そして次の言葉をもって談話を締め括った。
「戦後の日本は、世界が驚倒するほどの復興と経済発展を遂げ、世界平和に貢献しました。戦時に占領した国々を含む途上国へ、多くの援助を行い、敵国だったアメリカとは強固な同盟と親善関係を築いています。戦後八十年、戦争の『罪』は償ったと言えるでしょう。少なくとも、今を生きる日本人がその罪を背負う必要はありません」
以上、当該談話において述べられた歴史認識は、概ね妥当なものであり、筆者はこれを支持したい。しかし当該談話は、いたずらに自己正当化するだけでなく、「日本の占領統治は必ずしも寛大なものではなく、資源の収奪もあった」こと、「日本軍の占領は残虐なものであった」(ゴー・チョクトン元首相)こと、「日本は大東亜戦争において多くの国々で人命を奪った」ことを率直に述べて自戒している。確かに対ソ防衛・祖国防衛のためとは言え、満州事変(1931年)以降の泥沼の日中戦争やインドシナへの南進政策は、軍部の奢りによる独走という一面は否定でない。従って、いたずらに自虐史観に染まって自己卑下することも良くないが、軍部の奢りによる弊害も忘れてはならない。
<日本基督教団の歴史認識>
さてここで、キリスト教会の歴史認識に論及しておきたい。日本における最大のキリスト教の団体で戦後左傾化した「日本基督教団」は、「太平洋戦争は日本の侵略戦争」と位置付け、また多くのキリスト教教会では、靖国神社参拝は戦争美化の象徴であり、また信仰上も偶像崇拝とみなされて否定されている。
日本基督教団は、戦後しばらく自身の戦争責任について自覚的ではなかったが、周辺諸国からの日本への戦争責任を問う糾弾は深い驚きをもって受け止められた。当時すでに、ドイツにおける戦中の告白教会による「バルメン宣言」や、戦後のドイツ福音主義教会による「シュトゥットガルト罪責告白」などはよく知られており、教団としても戦争責任を悔い改めていくべきではないかという声もあって、1967年3月のイースターに、教団総会で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦争責任告白)が発表された。 また、日本基督教団などプロテスタント各教派の連合組織である「日本キリスト教協議会」(NCC)は、首相・閣僚の靖国神社参拝に反対する多くのパンフレットを出版し、たびたび抗議声明を発表している。
しかし、一方では、NCCや日本基督教団の歴史認識に真っ向から異を唱えるキリスト者グループもある。「日本を愛するキリスト者の会」はその一つである。
「日本民族総福音化運動協議会」の総裁で「日本を愛するキリスト者の会」の副総裁であった手束正昭牧師(1944年~2024年)の著書『日本宣教の突破口ー目覚めよ日本』には、「大東亜戦争は本当に侵略戦争だったのか」と題する一章があり、大東亜戦争の日本悪玉論はGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(自虐史観)による洗脳であるとし、また、南京事件の数字にも疑義を呈している。
つまり大東亜戦争は、欧米の支配からアジアを解放するという目的を持った「自存自衛の戦い」であると共に、アジアに自由互恵の新秩序を打ち立んとした「アジア解放戦争」だったという(『日本宣教の突破口』P293) 。 また、日本の歴史・伝統とヘブル文化を関連付ける「聖書と日本フォーラム」(代表島田秀夫牧師)も、神社や天皇に敬意を表し、自虐史観を否定している。
さてこの項を終えるに当たり、二人のキリスト教徒の言葉を記しておきたい。
内村鑑三は、日清戦争には賛成したが、日露戦争には「非戦論」を唱えて反対した。内村の非戦論は軍人の奢りや戦争に傾く日本を案じてのキリスト教徒しての矜持であり、売国奴との謗りにもかかわらず、深い愛国的心情から出たものである。即ち内村は、日本を一旦見限り、「神は日本を滅ぼすことを決定されました。復活するために一度日本を葬って下さい」と祈ったという。内村には日本の運命が、バビロン捕囚で滅亡したイスラエルが、帰還して復活再建したあの歴史とだぶっていたに違いない。
また内村鑑三の弟子である矢内原忠雄東大教授は、1937年10月に日比谷市政講堂で、東大を追われる決定的事件となった「神の国」演説を行った。彼は戦争にひた走る日本を憂いて、「今日が我が日本の告別式であります」と述べ、講演の終わりを次のように締めくくった。
「今日は、虚偽の世において、われわれのかくも愛したる日本の国の理想を失った日本の葬りの席であります。どうぞ皆さん、日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬って下さい」
彼は預言者のように、満州事変から日中戦争へ、日中戦争から世界大戦へとひた走る日本のいく末を見通し、イエス・キリストの十字架での葬りと、死からの復活に思いを寄せて「一旦、この国を葬ってください」と語ったのである。つまり、古く罪深い日本が死んで、「新しく清い日本に生まれ変われ」という意味だろうか。しかし、まさに歴史は矢内原の預言の如く展開するのである。自覚していたか無自覚だったかはともかく、気がつけば無謀な対米戦争に巻き込まれ、無条件降伏を余儀なくされた日本近現代史は、一旦死んで新生するための神の見えざる深謀遠慮だったのかも知れない。
【靖国神社参拝は偶像礼拝か】
さて終りに「靖国神社参拝は偶像礼拝に当たるか」という信仰上、もしくは神学上の問題について論考する。
靖国神社は1869年(明治2年)、勅命により「東京招魂社」として創建され、1879年(明治12年)に「靖国神社」と改称された。主に「対外戦争の戦没者」と「明治維新前後の国事殉難者」など1853年以降の国事に殉難した人の霊246万6千柱を祭神として祀っている。英霊など人間が死ぬとカミになるという考えは神道の考え方にあったのである。1887年(明20年)から陸海軍が管轄し、第二次世界大戦後、国家の管理を離れて一宗教法人となった。
<神道の神は偶像か>
さて偶像礼拝とは、神仏像、祖先像、聖人像、獣像、さらには樹木や岩石などの形象物を崇拝すること、即ち神でないものを神として、あるいは神のようなものとして崇めることである。しかし偶像には、神、仏、超自然力などのまったく抽象的な信仰対象に具体的な姿(形)をもたせ、人々な明確な信仰対象を与える力がある。仏教の仏像や各神社の神々・ご神体、あるいはカトリックのマリア像などがそれである。(但し、聖母マリアは「崇拝」の対象ではなく「崇敬」の対象である)
神道には教祖、教義、戒律という宗教の3要素がなく、「儀式と祭り」が中心になり、自然と祖霊を崇拝し、共生と和を重んじる自然宗教である。また神道は古事記や日本書紀に出てくる神々、土着の神々、自然や聖人を神としてきた多神教である。即ち、本居宣長が述べたように「世の常ならずすぐれたる徳のありて畏き物」を神として祀った。従って各神社の祭神やご神体は神社ごとに異なっている。神道は縄文神道のアニミズムと氏神崇拝に端を発し、陰陽道や仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から現人神とされる天皇に至る皇統を中心として位置づけられた。 第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされた。
ところでユダヤ教,キリスト教,イスラム教などの一神教は唯一神の視覚化を厳しく戒めており、モーセはことにきびしく偶像崇拝を禁じ、「如何なる像も造ってはならない」(出エジプト20.4)とした。そして偶像崇拝を禁じる一神教から、神道の神々や仏教寺院の仏像は偶像だとの批判がある。
これに対し、仏教を分かりやすく見える形にしたのが仏像で、一種の方便という考え方がある。浄土宗では、ご本尊という物を崇拝しているのではなく、ご本尊として衆生のための方便として現れた阿弥陀如来を崇拝している、つまり信仰の対象は仏像そのものではなく、その仏像に化身された如来を拝んでいるのだから仏像は偶像ではない、との見解である。
同様に、神社の祭神は畏きものとしての象徴であり、ご神体は神聖なものの象徴であって偶像ではないと言えるのではないか。伊勢神宮のご神体は鏡であるが、鏡は神が降臨される拠代、真理の象徴であって真理そのものではなく、また偶像でもない。鏡に象徴される背後の真理、神々しいもの(God)を祭っているというのである。イスラエルの幕屋の至聖所に安置されている契約の箱の中の三種の神器(石版、アロンの杖、マナの壷)が、偶像ではなく、神聖さを示すものであるのと同じである。幕屋では契約の箱自体を拝んだのではなく、そこに降臨される目に見えない神(ヤハウエ)を拝むのである。つまり、幕屋も神社も「目に見えない神を拝む」という共通要素がある。 このように神社の本殿にご神体(鏡、玉、剣など)が置かれているが、これは偶像ではなく、そこに臨在される目に見えない方の象徴であり、表彰である。従って厳格な意味では偶像崇拝には当たらない。像を造ることが偶像崇拝となるのは、彫像が礼拝や服従の対象となったり、礼拝の不可欠な一部となる場合においてである。
また神社に祭られる祭神には、自然、記紀の神々、歴史上の人物、地域の神々などがあるが、これらは日本人特有の神観である「畏きもの」であり唯一絶対の創造神ではない。むしろ真の神に至るための途中神、パウロの言う「養育係」と言えるのではないか (ガラテヤ3.24)。即ち、パウロが、その方を知らずに拝んでいる(使徒17.23)といい、旧約時代の神(律法)を新約時代の福音への養育係と形容したように、神道の神々をより高い真理(神)への「途中神」と考えればどうだろうか。それは、釈尊が最高真理の法華経へ導くために、今まで仮の教え(方便)を説いて導いてきたように(法華経方便品第二)、神道のカミを究極の教えに導くための方便と言えなくもない。神道の祭神・神体は、究極的な真理に至る中間段階における「カミ」ないしは象徴であり、従って神道のカミは、相対的で多様なカミであるが偶像ではなく、一神教を目指す途中神であると言える。
<靖国神社参拝は偶像礼拝ではない>
德永信一弁護士は「X」にて、「日本人として靖国神社に参拝することは戦争戦没者に対する感謝と慰霊を目的とし、その目的は特定の宗教を行うものではなく、その効果も特定の宗教を抑圧するものでもありません」と投稿された。アメリカを訪れた日本の首相がアーリントン墓地に参拝する外交儀礼と何ら変わりはないというのである。
前述したように、靖国神社の祭神はペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国のために殉じた軍人、軍属等の246万6千柱の戦没者であり、祖国のために殉じた愛国者の御霊であって、神として(あるいは神のような存在として)祀られているが神そのものではない。従って靖国参拝は戦没者への慰霊・追悼であって神礼拝ではなく、偶像礼拝には当たらない。
戦前靖国神社は、連合国より超国家主義と軍国主義の象徴、天皇神格化の象徴とみなされたが、戦後は国家管理のもとを離れて、一宗教法人となり、国家・国民を代表して英霊を祀る役割を担う民間施設に過ぎない。従って、国民は勿論、首相や閣僚が参拝することに如何なる支障もあり得ない。
以上、「靖国神社参拝記-戦後70年安倍談話を検証する」とのテーマで、先の戦争(大東亜戦争)に対する歴史認識問題、及び靖国神社参拝の信仰上の論点について論考した。祖国に殉じた御霊の冥福を祈ると共に、願わくばこの成約時代に善霊となって再臨復活の役事をなされんことを祈念する。(了)
牧師・宣教師 吉田宏