◯徒然日誌(令和6年5月22日) 伝説の日本人伝道師ロレンソ了斉ーザビエル、了斉、三好長慶、高山右近、そして細川ガラシャへ
神がこう仰せになる。終りの時には、私の霊をすべての人に注ごう。(使徒行伝2.17)
前回の徒然日誌で、江戸、旧仙台藩大籠(一関市藤沢町大籠)、 濃尾(美濃・尾張)など長崎以外の地におけるキリシタンの殉教を辿ったが、5月8日に行われた大東地域平和祝祭で語られた伏谷修氏の河内キリシタンに関する講話「ロレンソの愛した平和の都大東」は大変参考になった。
実は筆者は、高山右近親子をキリスト教に導いた「ロレンソ了斉」や高山右近の領地だった「大槻・茨木のキリシタン」など、大阪地方のキリシタンについても書かなくてはならないと気になっていたのである。
【伝説の日本人宣教師ロレンソ了斎】
高山右近の領地高槻・茨木でキリスト教が広まるより前に、先ず大阪河内(大東市)にキリスト教が広まったという。1551年、大内義隆の領地山口で、フランシスコ・ザビエルから路傍伝道でキリスト教に導かれた琵琶法師ロレンソ了斉は、その後、イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラと共に河内に来訪し、当時事実上の天下人であった三好長慶(みよしながよし、1522~1564年)とその家臣をキリスト教に導いたのである。三好公は、1563年、飯盛城下(大東市・四條畷市)での布教を許可し、キリスト教の保護を命じたことで、多くの家臣が受洗・入信し、河内地域においてキリスト教が広く受容されていった。
<飯盛山城で73名の集団受洗>
即ち、1564年、飯盛山城に集まった三好長慶配下の武士たちは、盲目の修道士ロレンソ了斉の説教を聴き、73名が集団洗礼を受け、さらに60~70名の武士が続いて洗礼を受けたのである。この中には、三箇城主の三箇頼照(洗礼名サンチョ)、田原城主の田原礼幡(洗礼名レイマン)、八尾城主となった池田教正(洗礼名シメアン)、岡山城の結城弥平次(ゆうきやへいじ)、そして高槻城主・高山飛騨守とその子高山右近(洗礼名ジュスト)、更に後に長崎で殉教した二十六聖人の一人・三木パウロの父親・三木半太夫らがいたという。飯盛城がそびえる河内国では家臣である各地の城主が改宗したことで、キリスト教が広まり、三箇(さんが)地区(大東市)と砂地区(四條畷市)に教会が建てられた。まさに河内キリシタンの誕生である。
ちなみに三箇頼照(さんがよりてる)は飯盛城眼下にあった深野大池、その中の島にあった三箇城主であり、1563年に飯盛城で洗礼を受けた彼は、すぐに妻子をキリストに導き、彼の家臣3千名が次々に信仰を持ち始めた。そして新しい三箇教会(大さきな湖にある島の教会)を建てたという。
そこで今回、この地に決定的な影響を与えた伝説の日本人伝道師「ロレンソ了斉」について書き留めることにする。
<ロレンソ了斉>
ロレンソ了斎(1526年~1592年2月3日)は、日本人イエズス会員で名説教家として知られ、精力的な布教活動を行って、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした人物である。
了斉は、1526年、現在の長崎県平戸市に生まれるが、目が不自由(片目は全盲、片目はぼんやり)であったため、琵琶法師として生計を立てることになる。ちなみに琵琶法師とは、平安時代中期におこった琵琶の伴奏により経文を弾くことを職業とした盲目僧の芸人である。琵琶の伴奏により経文を唱えた盲僧の流れと、叙事詩を謡った盲目の放浪芸人の流れがあり、後者は鎌倉中期以降、もっぱら平家物語を語るようになった。
1551年、了斉は周防国山口の路傍で説教するフランシスコ・ザビエルの話を聞き、自身の疑問をぶつけてザビエルの応答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、遂に洗礼を受けてロレンソという洗礼名を受けた。ザビエルらが、何万キロも離れた外国から様々な危険や困難を冒して日本にやって来て、何一つ現世の利益を求めるでもなく、人々の霊魂の教化という唯一の目的のために働いていることに感動し、自分も神に仕えるため、全生涯を捧げる決心をしたという。
ザビエルは京都を離れ平戸に戻った後、当時西の京と称されていた山口に拠点を移し、山内義隆から布教許可をもらって、日に二度辻説法をするなど布教に務め、4か月あまりで数百人に洗礼を授けたが、この受洗者の中に、盲目の琵琶法師ロレンソ了斉がいたのである。ザビエルが日本で活動したのは、2年3ヶ月ほどだったが、その間に700名ほどの人に洗礼を授け、その日本人の中で、その後の日本の宣教発展に大きな影響を与えた人物がロレンソ了斎であった。
ちなみに、ザビエルと同じように、令和元年から6年間、船橋駅前で毎週日曜日に欠かさず路傍伝道を続けている見上げたUC信徒が数名がいる。韓鶴子著『平和の母』を用いて伝道し、これまで伝道対象者に300冊も渡した信徒もいるという。まさに路傍伝道は伝道のアルファでありオメガである。
さてロレンソは、ザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年、宣教師のガスパル・ヴィレラと共に京に入り、将軍・足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可を受けた。また、当時の畿内の実質的な支配者だった三好長慶(飯盛山城主)にも会い布教許可を得たのである。前述したように、後日飯盛山城で三好公配下の家臣73名に洗礼を施している。
三好長慶の家臣で法華経に帰依していた松永久秀が、宗論のために自らの領地にヴィレラと了斉を招いた時、ロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えたという。論議の場に居合わせた高山飛騨守友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請うた。感動した飛騨守友照は、子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けたのである。
了斉は1563年に正式にイエズス会に入会し、修道士(イルマン)となった。1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へと移り、1592年に長崎で死去した。享年66才。
フロイスの著述「フロイス日本史」に、ロレンソの最後が書かれている。
「長年の迫害と老齢で極めて衰弱し、骨と皮だけの残すばかりの身体となっていた。数日前から話をするのも困難になっていたが、いよいよ最後の時を悟ったのか室内にいた他の修道士達を室外に去らせ、絶えずつききりで世話をしてくれている下僕に『起き上がるのを手伝って欲しい』と頼み、下僕が両腕を抱えて起き上がらせようとした時、イエズスの名前を呼びながら下僕も気付かぬ短い時間の間に、安らぎのうちに息を引き取った」
<卓越した伝道師了斉>
琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かった了斉は、その知識と説得力ある弁舌を生かしてキリスト教を布教し、救いを求める多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことは了斉の布教活動に負うところが大きいと言われている。
琵琶法師であった小柄な了斉は、学問は耳学問だけで文字も読めなかったが、抜群の記憶力を有し、またプロの琵琶法師として説得力に富み、言葉の操り方に長けていた。また、あちらこちらのお寺を巡り歩いていたので、あらゆる仏教宗派の教えに通じていたのである。
ロレンソ了斎は、将軍足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、三好長慶、小西行長、高山飛騨守など、名だたる人物に謁見し、身分を問わず日本人の心に響く言葉でキリスト教を説いて親しく交った。比叡山延暦寺などの僧とも明晰な論理で宗論を戦わせ、各地に伝道しては人を惹きつけ、有力者との重要な交渉事も担ったのである。
『日本史』を書いたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは次のように書いている。
「彼は人並み優れた知識と才能と恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼を聞くものはすべて共感した」
また宣教師たちの多くが共通して「視力が余りなかったが、神から照らされている」と評したという。まさに了斉は、「終りの時には、私の霊をすべての人に注ごう」(使徒行伝2.17)とあるよう、イエス・キリストを宣べ伝えるために、神の霊・聖霊が与えられていたのである。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」(使徒行伝1.8)とある通りである。
ザビエルと了斉の路上での出会いから始まり、ザビエルから了斉、了斉から三好長慶、そして高山右近親子、小西行長、細川ガラシャへとつながっていく。宣教師から「生ける車輪」と評された了斉は、まさに異邦人の使徒パウロを彷彿とさせる。そしてあの時神が了斉に聖霊を注がれたように、神は成約時代の私たちにもその霊を注がれるに違いない。成約の了斉よ、出でよ!
【高山右近の領地、高槻・茨木のキリシタン】
ところで、大阪には大東市と並んで、高山右近の領地高槻・茨木にも多くのキリシタンがいた。茨木市立キリシタン遺物史料館(大阪府茨木市千提寺にある史料館)には、大正時代に発見された潜伏キリシタンの遺物を紹介している。「隠れキリシタンの里」として知られている茨木市北部の千提寺や忍頂寺などでは、潜伏キリシタンの貴重な史料や墓碑などが発見され、この地でのキリスト教の信仰にまつわる事実が明らかとなった。
キリシタン聖具を秘蔵していた東家の「あけずの櫃(ひつ)」も公開され、櫃の中には、聖フランシスコ・ザビエル像をはじめとする数々の貴重な聖画や聖具が入っていた。さらに縁続きの中谷家でも遺物が発見され、この地の300年にわたる信仰が明らかになったのである。
さて、摂津国三島郡(現在の豊能町)の生まれである高山右近(1552年~1615年2月3日)は、ロレンソ了斉から親子で感化された熱心な「キリシタン大名」として知られている。洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト。
1573年に高槻城主となり、1578年には現在の茨木市下音羽を織田信長から領地として与えられた。高槻城の城主となった高山右近は、城内に教会堂や、宣教師たちの住院、神学校も作るなどして熱心に布教活動に励み、身分ある家臣たちもキリシタンとなっていった。人徳が厚く影響力の大きかった右近の領内では、住民の7割以上がキリスト教に改宗し、三島区はキリスト教の一大中心地になったという。
左・高山右近像 右・マリア十五玄義図(左にイグナチウス・ロヨラ、右にフランシスコ・ザビエルが描かれている)
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立され、五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」とある。
またカトリック高槻教会レポートには、「1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には1年間に4000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれました。同年、高槻の領民25000人のうち、18000(72%)がキリシタンでした」とある。
ところが信長の死後、豊臣秀吉、次いで徳川家康もキリスト教の布教と信仰を禁止した。右近は最後まで信仰を貫いたために弾圧され、1614年フィリピンのマニラへ追放され、翌年に病のため息絶えたのである。右近は次のように答えたという。
「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」
右近の影響で、蒲生氏郷、黒田官兵衛、小西行長など秀吉の側近の多くが入信し、特筆すべきは、細川ガラシャに影響を与えたことである。ガラシャの信仰において、右近との出会いは決定的な意味を持った。
以上、大阪河内(大東市)、高槻・茨木のキリシタンについて述べ、ロレンソ了斉について証しした。長崎を始め全国各地に、こうしたキリスト教(一神教)の信仰の伝統があったことは驚きであると共に、この事実はまさに「日本の宝」である。願わくば、これら霊界のキリシタンが、再臨摂理を担うUCとその信徒に復活し、その道を照らされんことを祈念して、この項を閉じることにする。(了) 宣教師 吉田宏
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