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佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く③ 創価学会の世界宗教の道 その光と課題

◯つれづれ日誌(令和5年12月13日)-佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く③ー創価学会の世界宗教の道ーその光と課題 

 

人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。(ロマ書10.11~13)

 

今の日本の政治ほど劣化している政治はなく、今や完全に衆愚政治に陥っています。「旧統一教会になら何を言っても許される」という雰囲気があり、今回も前代未聞の法令が衆議院を通過しました。即ち、法令違反で解散命令を請求された宗教法人が不動産を処分する場合、国や都道府県へ通知することを義務化し、通知のない処分は無効とするとし、また3ヶ月ごとに所轄庁への財産書類提出するというものです。 

 

これは、まだ解散命令請求が裁判所で確定していないにも係わらず、解散命令請求が出ることを前提として、財産保全を図ろうとするもので、法の前提を欠くと共に、明らかに信教の自由違反であり、財産権の権利侵害であります。ましてや統一教会は、被害者救済の手立てとして、上限100億円を国に供託することまで提案しているのであり、現在訴訟や和解交渉の懸案で、多めに見積もっても計40億円を越えることはありませんので、これで充分カバーできることになります。つまり、立憲や維新が出した今回の法案は「人気取りのパフォ-マンス」でしかありません。正にここまで日本の政治は劣化いたしました。 

 

【破門。そして世界宗教への飛躍と課題】 

 

さて、1991年11月28日、宗門から創価学会へ破門通告書が届き、学会は破門されました。その中には「創価学会の指導を受け入れ、同調している全てのSGI(創価学会インターナショナル)組織、並びにこれに準ずる組織に対しても破門を通告する」とありました。 

 

この破門の背景には、創価学会は出家、在家の双方に通じる役割を果たしており、創価学会の会館や研修所は「現代の寺院である」といった池田氏の発言が宗門批判であると受け止められたり、また創価学会の会合でベートーベン第九「歓喜の歌」を用いたことが「外道礼讃」であり、「謗法」(ほうぼう)であるとされたことなどなど、宗門と学会の間の長年に渡る抜き差しならぬ対立がありました。 

 

この破門に際して学会は、「創価学会は宗門の差別主義、権威主義の鎖を断ち切り、世界宗教への飛躍を開始ししました。破門通告書の日付11月28日は創価学会にとって『魂の独立記念日』になった」(『池田大作研究』P558)と宣言し、名実ともに創価学会が独立する契機となり、本格的な世界宗教化の道に舵を切りました。 

 

佐藤優氏は、創価学会の世界宗教化について、「ここで重要なのは、池田の主導で創価学会の世界宗教化が始まったという指摘だ。日蓮仏法の思想を普遍的なヒューマニズムの哲学に転換するというアプローチを池田は取り、今日に至っている」(『池田大作研究』P28)と述べ、日蓮仏法をいかに普遍的なものにするかのチャレンジが始まりました。ともかく学会は日蓮正宗大石寺から独立し、霊友会や立正佼成会のように単立の新しい日蓮系宗教として出発しました。 

 

<「本門の本尊」の問題>

 

ところで、当該破門において、創価学会の最大の問題になるのは、信仰の対象である御本尊を何に求めるかという深刻な問題です。そして創価学会は2014年に会則を改変し、「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と決定しました。これは、創価学会の前身である創価教育学会が1930年に設立されて以来、80数年にわたって信徒が等しく信仰の対象として尊崇してきた日蓮大聖人弘安二年十月十二日所顕の「本門戒壇の大御本尊」(一閻浮提総与の御本尊)を放棄することを意味します。 

 

仏教の世界において、礼拝の対象たる本尊は信仰の生命線であります。本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法の中でも「本門の本尊」がもっとも重要であり、今回、創価学会が行った本尊義の改変は、教団の存立基盤を揺るがし、80数年の歴史を覆す大事件です。日蓮大聖人を末法の本仏としながら、大聖人出世の本懐たる大石寺の大御本尊を放棄するという致命的な過ちを犯したのではないかというのです。創価学会はこの深刻な問題をどのように解決するのでしょうか。2023年に出版された『創価学会教学要綱』は次のように記しています。 

 

「大石寺戒壇の御本尊を特別な御本尊であるとする解釈は、大聖人の御書にも日興上人の著作類にも見られない説である。大聖人は多くの御本尊を顕されたが(130幅)、それらの御本尊に優劣を定めるような教示は御書には存在しない。教理的には本来、本門の本尊は『弘安二年の御本尊』に限定されるものではなく、末法の衆生のために大聖人御自身顕された御本尊と、それを書写した御本尊は、すべて根本の法である『南無妙法蓮華経』を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』である」(『創価学会教学要綱』P150)

 

学会は、「1993年以来、日寛書写の御本尊を会員に授与しているが、それは日蓮聖人と日興上人の真意に則った『本門の本尊』であるからである」(同P150)と明言し、その上で、それら本門の本尊の中で創価学会員が信仰の対象とするのは、日蓮大聖人御遺命の広宣流布を事実の上で進める「創価学会が授持の対象として認定した御本尊」であるとしました(同P82)。即ち、何が創価学会員が拝む本尊であるかは、創価学会が認定するというのです。 

 

つまり、日蓮聖人が図顕された130余の曼荼羅御本尊は等しく本門の本尊であり、どの御本尊を受持するかは学会が認定するというのであり、これは創立以来弘安二年の御本尊を唯一の本門の本尊として信仰の対象としてきた本尊観を根本から変更するもので、末端信者の動揺は否定できません。こうして創価学会は 「謗法の地」にある大石寺本門戒壇の御本尊に依拠せずともよくなり、文字通り大石寺から独立することになりました。ちなみに、身延派は釈迦如来を、浄土真宗は阿弥陀仏を、真言密教は大日如来をそれぞれ本尊としています。 

 

また、本門の本尊を信受し本門の題目を唱えることこそが戒の本質であるので、広宣流布大誓堂や各地の会館をはじめ、創価学会会員各自がそれぞれの家庭などで御本尊に向かって唱える場が「本門の戒壇」であるというのです(『創価学会教学要綱』P86)。この戒壇の考え方は、祭壇は教会にあり、家庭にあり、我がうちにあり、そして大自然の中にあるという筆者の祭壇観に近いものがあります。そして創価学会は、どこまでも「御書根本」「大聖人直結」を貫くとしました。仏・法・僧の関係で言えば、日蓮が仏、南無妙法蓮華経が法、創価学会が僧ということなります。ちなみに、身延派では釈迦如来を仏、法華経を法、日蓮を僧としています。 

 

<日蓮世界宗創価学会ーパウロ、ルターとのアナロジー>

 

ともかく創価学会は、1991年の破門以来、日蓮正宗から独立し、日蓮系新宗教として再出発いたしました。池田大作氏は1991年12月15日、「日蓮世界宗創価学会」と揮毫をしたため、創価学会こそが日蓮大聖人の仏法を世界に広宣流布していく教団であることを示しました。特に池田氏が強調したのが、「御書根本」「日蓮大聖人直結」であり、それは創価学会が成し遂げた宗教革命が、大聖人の教えの原点に立ち返り、その本質的な意義を現代に展開するものであることを意味しています。あたかもマルティン・ルターが「聖書の原点にかえれ」と唱えたあの叫びと同様です。 

 

創価学会では、日蓮大聖人を「末法の御本仏」とし、単に「南無妙法蓮華経」を弘める菩薩であるにとどまらず、仏と同じ権能を有して、「末法の一切衆生を救う教えを説いた教主である」としています。そして日蓮大聖人は、『法華経』の題目である「南無妙法蓮華経」こそ法華経の肝心、即ち宇宙と生命を貫く根本の法であり、末法の衆生が成仏(一生成仏・即身成仏)するための法であると確信し、南無妙法蓮華経を信じて唱える唱題行によって皆救われるという易行を打ち立てたというのです。(『教学要綱』P86)

 

ところでこの南無妙法蓮華経の唱題は、南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀の名を信じて唱題すれば浄土に生まれ変わることができるという浄土宗とは、唱える題目は違いますが、唱題という点で共通しています。聖書に、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ロマ書10.13)とある通り、浄土宗は阿弥陀如来の名をひたすら唱える唱名念仏を衆生に教えましたが、これは日蓮仏法の題目唱題と瓜二つであります。 

 

さて当時池田氏は、創価学会が世界宗教に発展するためには、宗門との関係に最終的な決着をつけなくてはならない時機に至ったとの認識を抱いていました。宗門は、学会がベートーベンの第九「歓喜の歌」を歌うのは、キリスト教の神を賛嘆する行為であり、「外道礼賛」ではないか、さらに、池田氏が受章したガーター勲章が十字の紋章であったことも非難の対象としました。 

 

しかし佐藤優氏は、そもそもあらゆる民族のあらゆる文化において宗教的基盤をいっさい抜きに語ることは不可能であり、ベートーベンの「歓喜の歌」もまた、宗教性を帯びつつも宗派性を超えて全人類普遍の芸術文化へと昇華していると主張します。宗教否定の共産主義国だったソ連や東ドイツですら「歓喜の歌」を禁止していないのに、宗門のキリスト教観はそれ以上に偏狭だというのです。 

 

佐藤氏は、異邦人の使徒パウロが、エルサレム会議(使徒行伝15章)で、割礼を伴うユダヤ教という宗門から分離しなければ、キリスト教の世界化はなかったとし、同様に創価学会も日蓮正宗という宗門から訣別しなければ世界宗教のスタートを切ることは出来ないと持論を述べました。また、マルティン・ルターがカトリック教皇から破門され、カトリックと訣別をすることによって聖書主義・万人祭司(僧俗平等)による宗教改革を成し遂げ、プロテスタントを生み出したように、創価学会も仏教におけるプロテスタントの道を歩んでいるのではないかと述べています。 

 

創価大学の山岡ホームページにはSGIについて、次のような一文が掲載されています。(以下、引用)

 

第二次宗門問題を契機に偏狭で排他的な宗門と訣別した創価学会は、その結果として日蓮仏法の本義に基づく純粋な信仰の道を邁進できることとなった。1995年には創価学会インタナショナルとして「SGI憲章」を制定するが、その第七項には次の条文がある。 

 

 「SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」(創価学会公式サイトより) 

 

宗門との訣別によって日蓮仏法本来の寛容の精神を存分に発揮できるようになった創価学会は、世界宗教として飛躍的な発展を遂げることとなった。今や創価学会インタナショナルは、世界の192カ国・地域に及んでおり(2021年5月現在)、民族・国家・文化を超えた連帯を築き上げている。(引用終わり)


SGI *左からUSA  ポルトガル  アルゼンチン    


更に佐藤氏は、「その時代の百科事典で世界宗教の項を引くと、キリスト教、イスラム教に並んで創価学会が出ているであろう」(『池田大作研究』P569)と創価学会を高く評価していますが、これはちょっと持ち上げ過ぎかなと思わざるを得ません。日本のローカル宗教に過ぎない日蓮仏法が、前回指摘した通り、一神教たるキリスト教とは、神観・世界観・人間観の埋めがたい違いや文化的な差異があり、世界宗教となるには、乗り越えなけれはならないかなりの課題があるのではないかと思料いたします。 

 

【創価学会の法華経観】 

 

ところで創価学会は、御書根本・日蓮直結を標榜しますが、その日蓮が依拠した仏典こそ「法華経」であります。従って、日蓮ないしは学会が法華経をどのように位置付け、どのように解釈しているのかを知ることが肝要になります。 

 

法華経即ち妙法蓮華経は大乗仏教の経典であり、紀元1世紀ごろ編纂されたと言われていますが著者は不明です。法華経はそれまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人平等、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることをに日蓮は強調しています。 

 

日蓮は得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り思索を重ねた結果、ある日、各宗派や一切経の勝劣(優劣)を知るという重要な宗教的インスピレーションを得ました。そして各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになります。 

 

比叡山で日蓮は、妙法蓮華経(法華経)を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学びました。そして十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で法華経が最勝(最も優れた)の経典であること、天台宗を除く諸宗が法華経の最勝を否認する謗法を犯していること、時代が既に末法に入っていることなどを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の唱題弘通を開始することになりました。立宗宣言です。 

 

日蓮が最高の経典とした妙法蓮華経は、28品(章)から成り、天台大師は前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈しました。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想で、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとします。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗(声聞・縁覚)と三乗(声聞・縁覚・菩薩)の教えが説かれているが、法華経では、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとしました。 

 

また法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かしました。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れています。 

 

後半の本門の中心思想は「久遠実成(くおんじつじょう)」であり、すなわち、釈尊が久遠の昔に実は成仏していたと明かす法理であります。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示しました。 

 

そして、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっています。地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌(じゆ)の菩薩が出現することが示され、如来神力品第21において釈尊が地涌の上行菩薩に滅後弘通の使命を付託することが説かれています。そして法華経に予言されたどおりの法難に遭遇した日蓮は、正に「日本第一の法華経の行者」であり、「末法の上行菩薩」だというのです。 

 

牧口常三郎は「一切経の肝心は法華経で、他の諸経はこれに至るまでの方便経であり、序文である。例えば塔を建てるに当たっての足場如きものに過ぎない。しかるにそれは末法の日蓮大聖人を通さなければ理解されない」(牧口常三郎全集)と述べました。また戸田城聖は獄中で4回法華経を読誦し、無量義経の「34の非ず」の意味の実体を生命と観じ、1946年から1950年まで、法華経の講義を行いました。池田大作氏も1962年から1967年まで、法華経についての日蓮の解釈を書き留めた『御義口伝』の講義を行い、『私の釈尊観』『私の仏教観』を出版しています。 

 

筆者は、日蓮や創価学会は法華経を新しく解釈したのではないか、即ち「法華経の新しい解釈論」を提示したのだと思料しています。 

 

以上、三回に渡って池田大作論、創価学会論、そして日蓮論を論じてきました。創価学会がより普遍的価値を指向して世界宗教に脱皮することには、筆者も大賛成であります。今、UCは、WCLCなど宗教一致を目指す超教派・超宗教の活動を展開しており、是非、共に取り組む日がくることを祈念して止みません。(了)

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