信仰を支えた3つの言葉(聖句) - 神を知ることは知識のはじめ
- 2月27日
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更新日:4 日前
○徒然日誌(令和8年2月25日) 信仰を支えた3つの言葉(聖句)ー神を知ることは知識のはじめ
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに変ることはない(イザヤ40.8)
プロローグ
いよいよ3月4日にUC解散請求裁判の高裁判断が降る。堀正一会長は「死刑囚が死刑を待つ気持ちだ」と語り、また別の説話では、「一つの通過点に過ぎない」とも述べた。筆者はイエス・キリストがゲッセマネの祈りの中で、血の汗を滴らせながら、最後は完全に神に身を委ね、自ら「贖罪者としての道」を覚悟されたイエスの心情を追体験した。そして私たちもまた、同様の覚悟を持ちたいと思う(参照→ https://x.gd/KSAqk )。
だが、一つの通過点であることもまた確かである。何故なら、高裁判断の如何に係わらず、み旨の道は永遠にして不変であり、神は、ご計画に従って召された者たちと共に働いて「万事を益となるようにして下さる」(ロマ8.28)からである。試練もまた恵みの内にあり、「神は耐えられないような試練に会わせることはなく、のがれる道も備えて下さる」(1コリント10.13)とある通りである。天地を創造し、救いの歴史を司られる「父母なる神」の復帰摂理は絶対であり、その神への信頼は揺らぐことはない。文鮮明先生は「神のみ業は、常に最も衝撃的、革命的な逆転の業である」(『御旨と世界』光言社P696)と言われた。
さてこの3月21日、執行草舟氏の半蔵門にある会社(株式会社日本生物科学)を訪問し、会社ビル内に展示されている悲哀と慟哭の画家戸嶋靖昌(としまやすまさ)の美術品を鑑賞した。前回の徒然日誌でも触れたが、執行氏は『葉隠』と『聖書』を座右の書とし、「私は生涯を貫いて、この葉隠だけを信じ、この思想のみで生き、また死のうと決意している」(『超葉隠論』P21~22)とした。葉隠的な生き方とは、即ち死に方であり、死に方が決まれば、生き方が決まるという(著書『根源へ』講談社P14)。

戸嶋靖昌記念館
そして、浅薄なヒューマニズムや人間的な合理主義を嫌う執行氏は、聖書の「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ10.34)を聖書の核心として座右の言葉とする。また自ら『葉隠』の根本思想を「葉隠十戒」としてまとめ、それを人生の指針としてきた。こうして言葉に生き、死生観こそ最も大切だという執行氏は、死の哲学と言える「絶対負」の思想を確立した。
今回、執行氏にあやかり、特に筆者が人生と信仰の岐路の中で出会い、そして励まされた聖書の言葉を記しておきたい。何かの参考になれば幸いである。聖書に、「初めに言があった。言は神と共にあった。この言に命があった」(ヨハネ1.1~4)とある通り、言葉には霊が宿り、人を生かし、人間を変え、命を与えてくれるからである。
【聖書の3つの言葉】
ところで、筆者の信仰人生は決して手放しで喜べるようなものではなく、何回も危ない橋を渡ってきた。むしろ、不条理と葛藤と試練の連続と言ってもよく、その意味で信仰的破綻者であった。しかし、その苦境の度に、神は言葉を与えて下さった。以下は筆者を導いた「三つの言葉」であり、「葉隠十戒」ならず「聖書三戒」である。
1、神を知る(恐れる)ことは知識のはじめ(箴言1.7)
筆者は拙著『異邦人の体験的神学思想』を手にされた方には、箴言1章7節の「神を知る(恐れる)ことは知識のはじめ」を揮毫することにしている。また詩篇111篇10節にも「主を恐れる(知る)ことは知恵の初め」とあり、伝道の書12章1節には「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とある。

世界には数多の知識が溢れ、情報は氾濫している。しかし、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10.42)とある通り、神を知る知識こそ最大、最高の知識であり、神なき知識は、たとえ万巻の書を読破するも虚しく、むしろ有害である。故に神を教え、神の言葉である聖書が古典の最高峰とされ、人類史上最大のベストセラーとされる所以であり、聖書一冊は万巻の書に優る。
また聖書は西洋文化の倫理的・哲学的基礎となり、ダンテの『神曲』やミルトンの『失楽園』などの名作は、聖書の世界観に基づいており、聖書を知らなければ西洋の古典文学は理解できない。聖書は信者にとっては「神の言葉(聖典)」であり、研究者にとっては「文学的古典」という側面がある。
人間の堕落とは神と断絶したこと、即ち神を見失ったことである。神は真理と生命と愛の根源者であり、神との和解なくして救いはない。故に悠久なる人類歴史は神を探し求める歴史、神との邂逅を果たす歴史であり、主に宗教がそれを担い、特に神は聖書という「神との断絶を治癒する書」を与えたもうた。そして神はまた、聖書の最大の解説書(注解書)であり、聖書の奥義を解明し、聖書を完全に解釈した「原理」(原理講論)を与えたもうた。従って人間は、聖書を通し、原理を通して神に立ち返ることが出来る。(参照 「原理講論は聖書の新しい解釈論である」→ https://x.gd/aOAy1 )
筆者にも神体験がある。詳細は拙著『異邦人の体験的神学思想』(P28)に記しているが、彦根で開拓の途上(22才)、ある出来事をきっかけに、心身の限界の末、筆者は人間を神とする偶像崇拝者から、人間という偶像を捨てることによって一神教の信者に変貌した。そしてそこで出会った神は「山のあなたの空遠く」に住む神ではなく、自らの本心(良心)にいましたまう神であった。神は天地を創造された「超越神」であるだけでなく、自らの本心に内在する「内在神」でもあったのである。「本心の神」、これが筆者が出会った最初の神だった。それは強烈な聖霊体験と言ってもいい。「あなた方は神の宮」(1コリント3.6)とあり、また「自分のからだは聖霊の宮」(1コリント6.19)とある通りである。
そして、「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とあるように、人の良心(本心)は究極的に、永遠なる神の世界に憧れているというのである。ローマ教皇パウロ二世は、「人間の心の奥底には、神を求める郷愁の種がある」と語り、また文鮮明先生は、「良心は師に優り、親に優り、神に優る」と言われ、これからの時代は「み言と良心が導く」と語られた。
こうして筆者は一神教の信者として立ち、今日まで紆余曲折はあったものの、神が存在することを疑ったことはなく、本心にはいつも神がいましたまう。無論、後述するように、その後筆者が体験した神は、「本心の神」だけでなく、「導きの神」であり、「共にある神」であり、「どん底で出会った神」でもあった。神こそ、価値の根源、目的の根源、生命の根源、そして存在の根源であり、およそ神なき人生は盲目に等しい。
また「諸学の女王」と言われる神学とは、まさに「神についての学」であり、宣教学博士の奥山実牧師は「人生の目的は神を礼拝することであり、人間は神を礼拝するために生まれてきた」と言われた。一度しかない人生において、神と出会い、神を礼拝できる幸いに優るものはない。なお、神についての考察は、「徒然日誌(令和6年10月16日) 聖書の三大思想と神についての考察」で論考している。(参照→ https://x.gd/wIC4Z )
ちなみにイスラエルの最も大事な信仰告白「シェマ・イスラエル」(イスラエルよ、聞け)は申命記の次の一節である。
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6.4~5)
2、まず神の国と神の義を求めよ(マタイ 6.33)
次に、イエス・キリストの言葉「まず神の国と神の義を求めよ」(マタイ6.33)は、迷いや思いわずらいを払拭し、決断する時の最も頼りになる言葉である。イエスはこう言われた。

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな」(マタイ6.31~34)
イエスのこの「山上の説教」ほど力強く、励みになる言葉はない。このイエスの言葉は、何が一番優先されるべきかという、人生の優先順位を根本から転換する教えであり、「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4.4)とある通り、神と神のみ旨に生きるという神の義を絶対的に信頼する逆説の思想である。
「うしろを振り返るな」(創世記19.17)、「明日のことをわずらうな」(マタイ6.34)、そして「先ず、神の国と神の義とを求めよ」は、筆者が重大な決断をするときの決定的な指針になった言葉である。
即ち、この「先ず、神の国と神の義を求めよ」は、筆者が世界宣教のための清平40日修練会に参加することを迷っていた時(50才)、背中を押して参加を決めた時の決め手になった聖句である。その頃筆者は、法務コンサルタント事務所を新大久保で開き、多くの懸案を抱えていた最中であり、色々な事情で長期に渡って日本を留守にするわけにはいかなかった。また、世界宣教という未知の世界への不安もあった。
だが、一人座って神に祈った時、「先ず、神の国と神の義を求めよ」との神の声が本心に響いてきたのである。諸々の事情と環境を分別して、「40修に行きなさい」との神の託宣である。この言葉ですべての迷いを振り切り、こうして筆者は夫婦で清平に旅立った。そしてかの地にて多くの霊的糧を得、ポーランドという愛すべき任地を与えられた。なお配偶者は筆者の代わりにポーランドで9年間に渡って宣教に携わり、筆者は専ら経済面でサポートした。(参照 不死鳥の国「ポーランド」→ https://x.gd/s77jn )
然り! 迷った時は「先ず、神の国と神の義を求めよ」である。
3、キリストのゆえに、私はすべてを失ったが、それはキリストを得るためである(ピリピ3.8)
「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3.8)の一節は、まさに筆者の回心聖句である。

またこのパウロの言葉は、厳格な律法学者として宗教的エリートであり、社会的地位を持つパウロだったが、キリストを受け入れたが故に、名誉、実績、宗教的誇りなど一切を失ったばかりではなく、迫害や嘲笑の的とさえなった時の、パウロ回心の言葉でもある。
この一句は、何よりも神を優先するという価値の大転換を意味し、同じ趣旨の聖句に 「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ8.36)がある。また、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ16.25)という聖句も同趣旨の逆説的真理であり、それは、究極の価値に出会った者の告白である。
清教徒革命期に共和政を支持し、クロムウェルと共に戦ったジョン・ミルトン(1608年~1674年)は、イギリスの偉大な詩人であるが、代表作『失楽園』は、すべてを奪われ、すべてを失ったが故に生まれた創世記を中心とした一大叙事詩である。即ち、王政復古で政治的立場を失って挫折し、投獄され、さらに失明という三重苦の中で、娘による口述筆記により完成した。
だがミルトンの動機の中心は信仰的確信であり、すべてを失ったがピューリタンの信仰は残ったのである。彼は『失楽園』の序文で「神の正義を人に示す」と宣言したが、これは復讐や絶望ではなく、神の摂理への確かな信頼であり、神のみ業の正統性を説いた弁神論である。そしてこのミルトンのピューリタンの信仰はアメリカという新天新地で花開いた。今や我がUCも苦境にあるが、仮にすべての社会的立場を失ったとしても、ミルトンの『失楽園』のように、信仰は残り、神の摂理は完遂される。
さて筆者の回心聖句は、上記ビリピ書3章8節であるが、この言葉に行き着いたいきさつは以下の通りである。(参照『異邦人の体験的神学思想』P18~P19)
筆者は2011年7月(65才)、ラスベガスで行われた世界宣教セミナー終了後、一人残ってアメリカでも有数のパワースポットであるアリゾナ州セドナを訪問した。そして山上にあるカトリックの聖十字架教会礼拝堂で一世一代の信仰告白を行った。そしてそのすぐあと(10月)、筆者は神の鉄槌を受けることになった。恵みのあとの試練である。
即ち、営業マンの熱心な薦めで「金の先物取引」に手を出していた筆者は、2011年秋の金の暴騰とその後の暴落で逆張りをしてしまい、大きな損失を被り、無一文の無産者に転落した。当時法務コンサルタント事務所を池尻大橋で開いていたが、これを合図に、重要な取引先、顧問先、顧客を失い、長年築いてきた経済基盤は一夜にして崩壊したのである。
運勢というものは不思議なもので、「蟻の一穴」という通り、一旦崩れ始めると全てが暗転をはじめ、文字通り「坂を転げ落ちるように」転落するのである。事務所を取り払い、長年住み慣れたマンションを追われ、人生ではじめて「鬱病」を患って半年間精神病院の世話になることになり、おまけに家庭問題まで勃発する始末である。一瞬「自殺」という言葉が頭をかすめ、遺書までしたため、知人に「一緒に死んでくれないか」とあきれた相談までした。
これら筆者が被った災難は、確かに外的には「金の先物取引に端を発する災難」であったが、実際は自らの罪業そのもの、人生の生き様そのものへの「神の総審判・総決算」であった。その後筆者は数年間、どん底の悲哀を余儀なくされたのである。
そしてそのどん底で聞こえてきたのが、「お前は金持ちだ。神の言葉という唯一最大の財産を持っているではないか」という本心に突き刺さる神の声である。久しく忘れていたこの当然の真理を、改めて思い起こさせるために、神は敢えて筆者をどん底に追いやられたのだろうか。そのどん底で、神は筆者に「神の言葉のために、ただ神の言葉だけのために生きよ」と命じられ、この時、パウロの「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」との言葉の意味を心底理解した。すべてを失った代わりに神の言葉を得たのである。前述した「本心の神」に引き続き、今回は「どん底で出会った神」であった。
その直後、神は「聖書を三回通読しなさい」と命じられ、その言葉に従い、筆者は一年をかけて三回の聖書通読、しかもノートを取りながらの精読を完了した。遅まきながら「聖書(神の言葉)の研究を以て天職とす」との新しい人生が始まったのである。その後、「新生聖書勉強会」を主宰し、ユニバーサル福音教会牧師の按手礼(あんしゅれい)を受けた筆者は、本格的にキリスト教神学と原理の研究に集中していった。
そして2023年1月、「キリスト教の本質とその課題」との副題のもとに、550ページの『異邦人の体験的神学思想』(グッドタイム出版)を発刊し、更に知人の手を借りてホームページ「令和リバイバル」を開設した。現在ホームページには505本の記事が掲載され、幸いにも多くの方から好評価を頂いている。こうして筆者は、すべてを失ったどん底から解放され、復活したのである。
以上が、筆者の回心のいきさつであり、何故「聖書(神の言葉)の研究を以て天職とす」との新たな人生を出発したかの顛末である。こうして神は、「罪人の頭」(1テモテ1.15)たる筆者をも、共にあって導いて下さった。
【神に還れ、神の言葉に帰れ!】
前述してきた通り、人間は一つの言葉、一つの処世訓、一つの聖句で人生が変わることがある。言葉には霊が宿り、命があるからである。筆者も前記した3つの聖書の言葉で、励まされ、悟りを得、決断してきた。まさに「神に還れ、神の言葉に帰れ」である。
実は筆者は、20才で原理に出会うまでは、聖書やキリスト教の世界とは対極にある正真正銘の異邦人であった。今、聖書と原理講論を座右の書とし、キリスト教の本まで出したことに、誰よりも自分自身が驚いている。これは神なくしてあり得ないことであり、今、誰よりも教父テルトゥリアヌスの言葉「不合理故にわれ信ず」を実感している。文鮮明先生は次のように言われた。
「事実は特別な啓示を受けたわけでもなく、人並み優れた高い良心基準をもっていたわけでもなく、別段エリートらしき何ものもない、たまたまそこに居合わせた見物人のような立場でありながら、どうして幸運にもここに来ることができた(献身生活のできる人間に変えられた)のでしょうか。それは原理自体の力によるのです。原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P594)
まさに神の言葉、原理の力は偉大であり、筆者は今年傘寿を迎えるが、残された人生の時間を「聖書(神の言葉)の研究を以て天職とす」との歩みを以て、多少なりとも神のみ旨に参与し、「悔いなく」霊界に旅立ちたいと思料している。
以上、「信仰を支えた3つの言葉(聖句)ー神を知ることは知識のはじめ」と題して、神の言葉の死活的意味を論考した。然り、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに変ることはない」(イザヤ40.8)。(了)
牧師・宣教師 吉田宏
上段:アダムの創造(ミケランジェロ画) 中段*山上の垂訓(カール・ブロッホ画) 下段:聖パウロの回心(カラバッジョ画)



