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かけがえのない二つの財産、「神の言葉」と「信徒の交わり」- 初めての地域集会に思う

  • 13 時間前
  • 読了時間: 13分

○徒然日誌(令和8年4月1日)  かけがえのない二つの財産、「神の言葉」と「信徒の交わり」ー初めての地域集会に思う

 

数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P593~596) 

 

プロローグ

 

先日、筆者が住む近くの信徒の家で、地域集会が開かれた。解散に伴う清算手続きにより、教会施設が使えなくなってから初めての地域での集まりであり、10人余が集った。文字通り原始基督教会時代の「家の教会」であり、神を中心とした信徒の交わりは、神と聖霊が臨在する礼拝の場であり、まさに教会である。そして私たちは神の宮(1コリント3.16)であり、我が内にも教会がある。

 

聖歌賛美と祈祷のあと、筆者は司会者の依頼により、「かけがえのない二つの宝」という題目で、10分ほど手短にメッセージを語った。「宝」と言えば、先ず金銭的な財産や世俗的な地位や名声を想起するが、私たちには最も根源的でかけがえのない宝(財産)がある。それこそ「神の言葉」と「信徒の交わり」に他ならない。

 

【神の言葉】

 

では神の言葉とは何か。先ず「聖書」は最もよく知られた神の言葉である。特に福音派根本主義は「聖書は一字一句誤りなき神の言葉である」と絶対視している。ただ聖書の文字は真理を表現する一つの方法(過渡的な教科書)であって、文字の奴隷になってはならない(原理講論P169)。文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)は、「聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示書である」と言われ、生涯を通して熱心に聖書の研究をされた。

 

そしてまた「原理」はまさに神の言葉である。聖書の奥義(秘密)を解明し、聖書を完全に解釈した原理(原理講論)は完成期的な神の言葉であり、また、天聖経を初めとする「み言」も同様である。

 

まさに神の言葉は人間にとって最大の財産であり、一度しかない人生において真理(原理)に出会えたことは最大の幸運であり、喜びである。原理講論を執筆された劉孝元氏は、創始者の著書『原理原本』を読んで真理を確信して歓喜し、この真理故に献身を決意したという。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(論語里仁篇)とある通り、筆者もまた、真理に出会った今、いつ死んでも後悔はない。

 

では私たちは、この神の言葉の価値と意義をどれほど身に染みて実感しているであろうか、それが問題である。

 

<み言との出会い>

 

さて筆者は20才代に、神体験(22才)、罪(原罪)体験(24才)、み言体験(27才)という聖書・神学の骨格となる聖霊体験をした。本心に内在する神との出会い、内在する罪(エロースの愛)との出会い、命としてのみ言との出会いという「三つの出会い」である。以下、筆者の「み言との出会い」の顛末を記す。

 

20才にして原理に出会って7年を過ぎた頃、筆者は心身共に完全に行き詰まっていた。詳しくは割愛するが、深刻な霊的危機に見舞われていたのである。その時、100日修練会がもたれることになり、筆者は意を決して最初の原理講義の40日修練会(厚木)に参加した。この40修に際して、何としてもこの霊的桎梏(しっこく)を打破したいという切羽詰まった事情もあり、最も大事なものを捧げること(イサク献祭)、毎日3度、真剣な祈り(談判祈祷)をすることを条件とした。それまで、ほとんど祈りらしい祈りをしたことがなかったからである。

 

そして40修も終わらんとしたある時、深刻な祈りの最中、筆者は命としての「み言」と出会ったのである。神の言葉は優れた古典でも哲学書でも文学書でもなく、命の言葉だった。その瞬間、イギリスの聖書学者ウィリアム・バークレー(1907~1978)の『聖書ハンドブック』に書かれていた言葉、「聖書は何十回、何百回読んでも、新たな感動が甦る」の意味が何であるかを理解したのである。然り、これが一回目の命としての神の言葉との出会いである。

 

そして二回目の神の言葉との出会いは古稀を迎えた正月である。本年2月25日の徒然日誌でも言及したが、その頃、筆者は人生のどん底に呻吟していた。そのどん底で聞こえてきたのが、「お前は金持ちだ。神の言葉という最大の財産を持っているではないか」という本心に突き刺さる神の声である。久しく忘れていたこの当然の真理を、改めて思い起こさせるために、神は敢えて筆者をどん底に追いやられたのだろうか。

 

その直後、神は「聖書を三回通読しなさい」と命じられた。その言葉に従い、筆者は一年をかけて三回の聖書通読、しかもノートを取りながらの精読を完了した。遅まきながら「聖書(神の言葉)の研究を以て天職とす」との新しい人生が始まった。まさに神の言葉(聖書)との出会いである。(参照-信仰を支えた3つの言葉(聖句)→ https://x.gd/2mnED )

 

では何故「み言」が重要であるのか。人類歴史は創造本然の世界を復帰していく神の摂理歴史であり、それは「み言」による再創造の歴史であるからである。即ち、人間はみ言によって創造されたので(ヨハネ1.3)、堕落により失われたみ言(創世記3.6)を再発見し、み言によって再創造され、み言の実体になるべきであるからである。

 

<原理講論は聖書の新しい解釈論である>

 

「原理講論は聖書の新しい解釈論である」、このインスピレーションから筆者の聖書の研究が始まった。

 

聖書は大事なところが比喩や象徴や暗示で書かれ、創始者が指摘されているように、まさに聖書は「秘密(奥義)の啓示書」である。今日、同じ聖書を教義とするキリスト教会の中に、数多くの教派が存在するのは、専ら聖書解釈の違いによる。そしてその聖書の奥義をことごとく明らかにし、聖書を完全に解釈した真理が原理(よる。そしてその聖書の奥義をことごとく明らかにし、聖書を完全に解釈した真理が原理講論に他ならない。ここに至って聖書神学は、文字通り完成した


左:釜山、ボムネッコルで「原理原本」を執筆する文師、隣で鉛筆を削っているのは弟子の金元弼氏。 中:文師が書いた「原理原本」の1ページ目。 右:原理に関するみ言の証し、史吉子女史。

 

私たちはこの原理の価値と絶体性を確信しなければならない。そのためには聖書を研究し、聖書的霊性を相続する必要がある。何故なら聖書は原理を生み出した養分であり、原理は聖書の上に咲いた花であるからである。故に聖書と原理は一体のものであり、旧約聖書、新約聖書、原理講論は一つの書であるといっても過言ではない。従って聖書を研究することによって、原理の理解はより深まるのであり、ここに聖書研究の意義がある。

 

<聖書の奥義とは>

 

ところで創始者は、聖書の奥義について次のように言われた。

 

「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P593~596) 

 

このように、創始者は聖書の真義(奥義)を解明され、これを原理として明らかにされた。(参照-文鮮明先生に見る聖書の研究と聖書の奥義の解明 → https://x.gd/YUQfl )

 

では聖書の奥義とは何か。聖書の奥義とは、いわば聖書の秘められた真髄であり、旧約聖書の奥義はイエス様が明らかにされ、聖書全体の奥義は再臨主が解明される。前述したように、聖書はその重要な部分が比喩や象徴や暗示、即ち奥義として書かれており、この奥義の解釈を巡って果てしない神学論争が続いてきた。聖書は神の創造・堕落・復帰の道が隠された秘密の啓示書であり、来るべきメシアとは、七つの封印を開いて(黙示録5.5)聖書の奥義を読み解き、聖書の完全な解釈をされる方である。

 

さて聖書の奥義は多々あるが、ここでは代表的ないくつかの事例を挙げておく。 

 

a.先ず、神の天地創造を記録した創世記1章と2章の奥義である。原理は神の真像を明確にし、神と被造世界の関係、特に神の宇宙創造の動機と目的について明確に述べている。

 

b.次に創世記3章の奥義である。人間の堕落を描いた「失楽園の物語」は聖書の最大の奥義であるが、キリスト教には様々な説があり、明確に解明できていない。だが原理は、堕落の動機と原因について明確に述べ、罪(原罪)とは何かを明らかにしている。

 

c.また創世記4章の奥義、即ちカインの殺人事件の真相は謎である。「何故、神は弟アベルの供え物を顧みられ、兄カインの供え物は顧みられなかったか」(創世記4.4~5)、「何故カインはアベルを殺害したか」(創世記4.8)、即ち兄カインと弟アベルの葛藤の問題は聖書の謎であり、いまだ、如何なる聖書学者と言えども納得できる説明をなし得ていない。

 

「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロマ9.13) とある通り、聖書には兄よりも弟を愛された伝統がある。カインとアベル然り、エソウとヤコブ然り、ゼラとベレツ然り、マナセとエフライム然り。一体、何故神は兄よりも弟を先に祝福されたのか、この大きな謎を、原理は堕落の動機と経路に遡り、歴史の二流として解明している。


d.創世記38章のユダとタマルの物語は深い奥義である。38章には「罪ある血統の中から、如何にして罪なき無原罪のメシアが生まれ得るか」という神学上の最大の難問を解く鍵がある。キリスト教では、創世記38章は不道徳の章と言われることがあるが、創始者は次のように言われた。 

 

「創世記38章28節に、出産の時ひとりの子が手を出したので、産婆は、『これがさきに出た』と言い、緋の糸を取って、その手に結んだとあるが、これを聖書が書いてくれていたお陰で、血統転換の教理を整合性を持って説明することができた。このようなことが書かれていること自体、聖書が神の救いの経綸を記した神の言葉である証左である」(創始者の言葉) 


 e.マリアの処女懐胎の神秘(マタイ1.20、ルカ1.35)も聖書の奥義である。マリアが聖霊によって身籠ったという聖書の記述は多くの解釈がある大きな謎である。 だが原理は聖書的根拠を示し「祭司ザカリヤによって身籠った」と解いている。

 

f.聖書の終末論を巡る解釈は多くの混乱を招いている。多くのキリスト教信者たちは、歴史の終末においては天と地がみな火に焼かれて消滅し(2ペテロ3.12)、日と月が光を失い、星が天から落ち(マタイ24.29)、天使長のラッパの音とともに死人たちがよみがえり、生き残った人たちはみな雲に包まれて引きあげられ、空中においてイエスを迎えるだろう(1テサロニケ4.16~17)と信じている。(原理講論P133)

 

だが聖書の多くの重要な部分がそうであるように、このみ言も比喩として語られているのであり、この終末論の奥義は、原理講論の「人類歴史の終末論」(P147~P156)で解説されている。即ち人類歴史は、創造本然の世界を復帰していく神の復帰摂理歴史であり、終末とはサタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代、即ち善悪二つの主権の歴史路程が交差するときであって、天変地異が起こる恐怖の時ではない。また聖書の「火」の審判とは「み言」の審判であり、再臨主によるみ言により善悪が分別される時でもある。

 

以上の通り聖書の主だった奥義を見てきたが、その他、聖書には多くの難解な解釈の章句がある。いわば聖書は謎に満ちた書物であり、その解釈を巡って、数多くのキリスト教教派が生まれる要因になっており、教派分裂の第一原因は聖書自体にある。

 

また、キリスト教教理における神学的な論点があり、これらも大きくは聖書の奥義と言えるだろう。a.イエスは神(神性)か人(人性)か、b.イエスの十字架は神の予定か否か、c.十字架の贖罪は完全か否か、d.イエスの復活は肉体の復活か否か、e.再臨主は雲に乗って天から来臨されるか否か、f.終末には天変地異が起こるか否か、f.神の救援歴史(復帰摂理)の原則と歴史の繰り返しの真相とは何か、等々。こういった聖書の奥義や未解決の教理は、未だに深い闇の中にあり、多くの神学論争を生み出している。

 

そして原理(講論)は、以上挙げた聖書の奥義をことごとく明らかにした。まさに私たちのかけがえのない宝である。(参照-原理講論は聖書の新しい解釈論である→ https://x.gd/uVVtM )

 

【信徒の交わり】

 

さてかけがえのない二つの財産の内、もう一つは「信徒の交わり」である。筆者はUC信徒の関係ほど強く豊かで、信頼できるものはないと考えている。一般的に、他人との深い信頼関係に至るためには、少なくとも3年以上のお付き合いとたゆまぬ努力が必要である。だが、UC信徒(食口)は一夜にして強い信頼関係を築くことができる。

 

今筆者は「聖書の研究をもって天職とす」との日々を歩んでいるが、もともと法律家であり、多くの見知らぬ信徒から様々な法律相談を受けてきた。だがその際、神の言葉(原理)を共有しているというだけで、ただちに旧知の友人のような信頼関係に入ることができ、契約書も約束事も不要であった。

 

ユダヤ人が何故ダイヤモンドや金融分野など世界的ビジネスで成功し得たか、それは世界に散らばるディアスポラ・ユダヤ人の強い人間関係の故である。彼らは律法・割礼・安息日を共有しているというだけで、ただちに深い信頼関係を築くことができたのである。私たちUCの人間関係は、ユダヤ人より強く、クリスチャンより豊かであり、このUCの信徒の交わりは人生のかけがえのない宝である。

 

<家の教会> 

 

原始基督教会時代、教会は「家の教会」であった。そこにあるのは信徒の交わりであり、信者は信徒の家に集まってみ言を学び礼拝した。使徒行伝2章の聖霊降臨(ペンテコステ)の時も、篤実な信徒の家、いわゆる「家の教会(ハウスチャーチ)」に集まっていた。

 

札幌農学校初代教頭のクラーク博士は、1876年(明治9年)から約8ヶ月半の滞在期間中、学生たちに農業技術だけでなく、キリスト教に基づく高い倫理観を説いた。クラーク博士の自宅で行われた礼拝(聖書研究)は、クラーク博士が講師となり、聖書を読んで解釈し、学生たちにイエス・キリストの教えを伝えた。この家での礼拝を通じてキリスト教の精神に触れ、やがて佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造らをはじめとする多くの学生が信仰を持つようになったのである。

 

教会は建物ではなく神によって呼び出された「信徒の集まり」であり、この交わりにおいて神を礼拝し、み言を学ぶ。そして交わりの根源は神でありキリストでありみ言である。然り、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とある通り、二人三人でもキリストに与るところは、すべからく教会である。

 

私たちは解散による清算手続きの中で、教会堂こそ失ったが信徒の交わりという立派な教会がある。更に、「あなたがたは神の宮である」(1コリント3.16)とあるように、私たち自身が神の神殿(教会)であり、一人ひとりはその内なる神殿、内なる教会の祭司であり牧師である。

 

宣教師訓練センター所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と言われ、インド最大の古典『マガバッダ・ギータ』には「人間は神の供物として生まれた。生きることそのものが礼拝である」とある。

 

<福音のリバイバルを!>

 

筆者は、この解散という国家の仕打ちを受けて、「み言の勉強会」をもって応えたいと思っている。数年前やっていた「新生聖書勉強会」を復活させ、今回、新たに「成約聖書勉強会」を持つことにした。成約聖書勉強会は、①旧約、新約、成約を一つの神の言葉(摂理)と捉え、聖書と原理の対比の中で、原理のより深い理解に至らせる、②神の言葉は最大の財産であり、人生の宝であるという思想を体恤する、③聖書と原理、キリスト教とUCの橋渡しを目指す、との3点を趣旨とする。かって創始者は、本来、旧約、新約、成約の垣根はないと言われたことがある。

 

そこで3人以上の信徒が集って勉強会を開く場があれば、何処にでも出かけて行きたいと思っているので、気軽に一報されたし(→ 090-3504-6430)。教材は聖書と原理講論の他に、拙著『異邦人の体験的神学思想』やホームページ「令和リバイバル」の記事(現在510本)を考えている。

 

 バビロン捕囚で神殿を破壊されたイスラエルは、各地にみ言葉(律法)を中心としたシナゴーグ(会堂)を作って信仰共同体を維持し、信徒の団結は強固になった。然り、UCは建物を失っても「信徒の交わり」という宝がある。この信徒の交わりの中から福音のリバイバルが始まるはずである。

 

以上、「かけがえのない二つの宝-神の言葉と信徒の交わりー初めての地域集会に思う」とのテーマで、「神の言葉」と「信徒の交わり」の価値と意義を述べた。神の言葉と信徒の交わりは人生の二つの貴重な宝であり、この宝を掲げて降りかかる試練を乗り越えていきたい。ポーラ・ホワイト牧師曰く、「しかし、神は違います! 覚えておいてください。人生において、私たちの自然な目には挫折に見えることも、多くの場合、神の計画の一部なのです」(了)

 

                           牧師・宣教師 吉田宏

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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