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修道院について パンタナール・レダ開拓の意義

◯つれづれ日誌(令和5年7月26日)-修道院について-パンタナール・レダ開拓の意義


パンタナールは南米大陸の子宮であり、パラグワイ川は新しい生命(文明)を生み出す産道である(み言)


この7月22日、溝の口の大山街道ふるさと館にて行われた、「一般社団法人南北米福地開発協会」が主宰する報告会を兼ねた月例礼拝に参加いたしました。


当該法人は、UC創始者の明確な「み言」に基づき、南米パンタナールの自然保護と開発に取り組んできました。つまり、1998年11月からブラジルのオリンポで行われた国家メシア40日修練会に端を発し、任地国の宣教と共に、レダ開拓がUC創始者から「み旨」として託されたものです。


即ち、1999年から、パンタナールの南部に位置するパラグアイのプエルト・レダに拠点をおき、植樹・農業・養殖・食品加工・稚魚放流・現地人教育などを行ってきました。人と自然が調和して暮らす社会、神の理想世界のモデルを目指して、主に日本人UC信者により24年間に渡って物心両面の努力がなされてきたのです。



22日の集会では、レダから一時帰国中の電気技術者山崎茂章氏の現地報告があり、世代交代、経済的自立、インフラ整備の必要性を力説され、経済的自力の方策として、パクーの養殖事業、牛の放牧事業、養豚事業の3点を挙げられました。


そこで今回、筆者が「み言」に基づくレダ及びパンタナール開発、ひいては南米全体に関する「神の摂理」について感じるところを述べることにいたします。即ち、「レダは成約の修道院である」、そして「南米摂理は神の愛の痕跡である」という筆者が得た二つのインスピレーションについての解説であります。


【レダは成約の修道院】


筆者は、2017年11月4日、大山街道ふるさと館で行われた「パンタナール1Dayセミナー」に参加し、講師のレダ在住佐野道雄氏の話を聞きながら、「レダ開拓摂理は成約時代の修道院である」とのインスピレーションを得て、レダ摂理への考え方の転換を経験しました。


<祈り・労働・宣教>


現地では、朝3時半に起床し、4時から祈祷と訓読、6時から労働、この生活を18年間守ってきたというのです。カトリックの修道院では、「祈り、そして働け」とのスローガンを掲げていますが、正にレダは「成約の修道院」です。


修道院と言えば、ひたすら祈りと修道の生活をするといったイメージがありますが、「すべて労働は祈りに繋がる」(ベネディクト)と言われるように、中世以降は自給自足で、農業、印刷、医療、大工仕事まで行い、原野や森林を切り開きました。特に農業、医療分野で貢献し、医療、病院のルーツは修道院にあるとさえいわれ、修道院長のメンデルは遺伝法則の発見で有名です。また後述するように、イエズス会など、修道院は世界宣教の原動力にもなったというのです。


キリスト教の修道院は、「貞潔・清貧・従順」を標語とし、祈りとみ言葉と労働の生活をしました。一見、この世から隔離された世間知らずの隠遁者と写ることもあるかもしれません。しかし、修道院は俗世界と分離・分別された、イエス・キリストの精神と伝統を死守していく「イスラエルの残れる者」として 、信仰の基準を示す群れであり、その霊的意味には極めて大きいものがあります。


日本でも、比叡山や高野山などの山岳仏教の聖地は一種の修道院です。世俗から一歩抜きん出て孤高の精神性の高みを維持し、無言で精神的価値の尊厳性を訴えているのです。人は、一切の世俗を離れた修道者の生き様に、なにがしかの憧れと尊敬の念を抱くというのです。このように、比叡山にしろ、修道院にしろ、世俗的なものを廃して、精神的純粋性を愚直に保つこの群れは、その存在自体に意味があり、ここにこそ修道院の意義があると筆者は感じています。 


この点レダでも、祈りと共に、パクーの養殖、牛の放牧、養豚などの事業を行い、一方、現地人などへの伝道や原理教育も行われ、教育や倫理水準の向上に貢献しているというのです。正にレダは、祈りと修道、労働と開発、そして教育と宣教の「成約版修道院」であると言えるでしょう。



<丸呑み精神>


「最悪の環境で蕩減復帰」「地獄解放のために地獄に行く」「天下一等の労働者」「善も悪も丸呑み精神」との創始者のレダ開拓に関する「み言」に象徴されるように、レダの地は、電気も水もなく、かって海底であった塩気の多い不毛の地、自然の猛威にさらされ、「現地人も見捨てた地」であるというのです。レダから30キロほどのエスペランサ村民の平均寿命が40代そこそこしかなく、厳しい自然環境が伺えます。レダがある「ALTO PARAGUAY州」は、パラグワイ全体の20%の面積があるのに、人口はパラグワイ総人口(約520万人)の0.3%(約1万5千人)の未開の地だといいます。


しかし、「だからこそレダ開拓には意義がある。レダが豊かな地であれば、(ここを開拓しても)誰も見向きもしないだろう」というのです。


佐野氏の話によれば、レダでは、祈りとみ言葉の生活を行って信仰の伝統を死守し、労働に従事して自然環境の保全や地域社会の発展にも寄与していると聞きました。世界食料問題の解決の方案提示、国際研修センター設立(2002年5月)、ディアナで小学校建設(2003年)、青年奉仕隊の活動、知事や市長や地元との交流、大統領との面会、フランコ元大統領夫婦のサミットミーティング参加(2013年)などの成果をあげ、2013年にはパクーの孵化に成功し、その稚児放流には大統領が立ち会ったり、MBCテレビで韓国全土で放映されました。


そしてその内的姿勢は、古代・中世以来の修道院の精神そのものです。早晩自立し、名実ともに成約の修道院としての霊的位置を確立することも遠くないと信じます。


そしてレダだけではなく、日本での生活そのものも修道院であるというのです。筆者は年のせいか、最近修道院に憧れ、世俗の中にあって、なお修道院の精神と生活を引き継ぎたいと思うようになりました。正に「世俗内修道院」です。創始者は、「現実の実社会の中にあって分別された信仰を保つ生活は、人里離れた所での修道生活に優る」と言われました。そう考えると、我々が立っているこの生活の現場、この場こそ如何なる修道院にも優る修道院であるべきであり、我々はその修道士ではあるまいか、或いはそうであるべきではなかろうかと....。


【神の愛の痕跡としての南米摂理】


筆者は南米でUC創始者がなされてきたことを聞きながら、「これは、神が南米を愛された愛の記録だ」との思いが沸き上がってきました。創始者は、1995年に「サンパウロ宣言」を出されましたが、これは神が南米を愛される「愛の記録の始まり」でした。


即ち、アベル的立場にある北米での勝利と祝福を、カイン的立場にある南米に移転し相続させること、そして北米のプロテスタントと南米のカトリックを統合することは、この宣言の摂理的核心です。更にこの勝利圏を、ユダヤ教、イスラム教、他宗教へと連結していく 、そしてこれはまた必然的に南北朝鮮の統一に帰結するというのです。


創始者は、南米に4カ国の摂理国家(ブラジル・アルゼンチン・ウルグワイ・パラグワイ)を定められ、「パンタナールは南米大陸の子宮であり、パラグワイ川は新しい生命(文明)を生み出す産道である」と言われました。更に、パンタナール・レダは世界最大の湿地地帯で、「万物創生の原点、神の保護地、原焦的・根源的・勝利的聖地」との原理観を語られました。正に神の啓示的で卓越した南米観で、このような南米観を唱えた人は世界で創始者ただ一人です。


創始者は、1995年にサンパウロ宣言を出されたあと、南米に対して物心両面にわたって投入されました。アメリカで培った全てを惜しみなく投じられたのです。人的投入で言えば、UTS卒業生を南米33カ都市に派遣し、4200名の日本女性宣教師を派遣されました。


また物的投入としては、ジャルジンにおける理想家庭教育本部の設立、南米全ての国に教会本部を建設、ウルグアイへの巨額投資(ホテル・銀行・新聞社・船団買収)、アルゼンチンなど南米各地に新聞社の設立、ブラジルでサッカーチームの購入、広大な土地の購入(ジャルジン数万ha・レダ8万ha・カサド60万ha・コリエンテス数万ha)などがあり、そしてこれらを上回る精神的、霊的投入です。


これらは皆、世界のメシアとしての愛の投入に他なりません。創始者は世界のメシアとして、韓国を愛し、日本を愛し、アメリカを愛し、ヨーロッパを愛し、アフリカを愛し、中東を愛し、そして南米を愛さなければなりません。とりわけ、南北アメリカは世界の象徴で、時間とエネルギーと心情を惜しみ無く投入されました。


かってイスラエル民族が霊肉共に極度の試練に見舞われた時、紅海で、レピデムで、そしてシナイの山で神に愛された愛の記憶を想起して立ち直ったように、将来南米が大きな困難に遭遇した時、神が南米を愛された愛の記録を手掛りにして、きっと立ち上がるに違いありません。そして、レダはまさに「神が南米を愛された愛の記録の象徴」なのです。


【補講ー修道院とは何か】


おしまいに、修道院について更に言及しておきます。なお、本稿は、「つれづれ日誌(令和2年6月27日)-修道院を考える」を参考にしました。

<修道院とはーその起源と思想>


筆者は20年ほど前、オーストリアのドナウ河下流域の「メルク修道院」を訪問したことがあります。バロック建築の壮麗な外観と格式ある図書館が印象的でした。一体、この孤高の修道院は、何のために存在し、何を目指しているのか、その存在意味について考えさせられたことがあり、今回改めてこれらを考えたいと思います。


キリスト教での修道院とは、第一義的には、信仰を広げる場である教会に対して、俗界を離れて禁欲的規律を守り、宗教的共同生活をおくることで信仰を深める場所であります。


すでに4世紀ごろからエジプトやシリアなどの東方のキリスト教徒の中に、現世から離脱して苦行を重ねる修道士が現れました。「 苦行と禁欲による霊魂の救い」を求める修道士の活動は先ず4世紀のエジプトに起こりました。


古代教会時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒がいました。修道士( Monk )を意味するラテン語は「ひとり孤独に暮らす」の意味で、イエスの福音の教えに従い、家族と離れ、結婚もせず、すべてを捨て、ひたすら神を捜し求める人であります。


313年にローマ帝国でキリスト教が公認されて迫害が終わり、殉教するものがいなくなると、返って信仰は弛緩し、より徹底したキリスト教徒としての生活を求める人々が生まれてきました。殉教に代わって苦行する修道士が、我が身を神に捧げた者として崇敬されるようになり、修道士は「血を流さない殉教者」と呼ばれたのです。


しかし、孤独な修道士の在り方だけではなく、共同体を作り、生活をともにしながら修行する修道院もまた4世紀のエジプトで始まりました。やがて、ラテン語による聖書の習得や写本の製作を通じ、学識と芸術の殿堂としての権威を確立し、政治的権力からも自治権を認められる存在となっていきました。


修道院文化は学術に留まらず、自給自足が原則でありましたので、農作物の栽培、家畜の飼育、織機の耕具の製造などの技術にも及び、技術センターの役割も果たしました。また、修道院が先進技術の発展に貢献した例は多数あり、前記したように、医療、病院のルーツとなり、修道院長も務めたグレゴール・メンデル (1822~1884) は、遺伝に関する法則(メンデルの法則)を発見した事で有名であります。


<モンテ・カシノ修道院、フランシスコ会>


ヨーロッパ・キリスト教世界での修道院の始まりであると共に、最も重要な修道院となったのは、529年、ベネディクトゥスが中部イタリア山中に建設した「モンテ・カシノ修道院」であり、そこで始まったベネディクト派の運動が修道院の原点であると言われています。


ヌルシアのベネディクトゥス(480年頃 ~547年)は、「清貧・貞潔・服従」を誓願し、「祈り、働け」をモットーとして純粋な信仰を深め、毎日4~5時間の祈りと、6~7時間の労働(農耕・建築・書写など)に従事しました。


ローマ教皇グレゴリウス1世(在位:590年~604年)はベネディクト派の修道院運動を支持し、同派の修道士をヨーロッパ各地に派遣し、特にアリウス派のゲルマン人への布教を展開し信仰の復興を行いました。これによってローマカトリック教会は西ヨーロッパに広く定着していくことになりますが、その先兵となったのがベネディクト派修道会でありました。


このように、修道院・修道会は、祈りとみ言の修道の場であり、また宣教、教育、福祉活動の奉仕者となり、弛緩した教会の改革や信仰の復興にも重要な働きをしました。そして何よりも、優れた神の兵士を前線に送り込む「人材の供給源」になったのです。


中世の修道院・修道会を中心とした教会の改革運動である修道院運動の波はその後もいくどかの高揚期を見せ、「クリュニー修道院」を中心に展開された11世紀の修道院運動、次に12~13世紀の「シトー修道会」による大改革時代の展開、さらに13世紀の「托鉢修道会」による修道院運動が起こりました。 


托鉢修道会は、ローマ・カトリック教会における修道会の形態のひとつであり、修道会会則により、私有財産を認めない修道会をいい、特に、「ドミニコ会」、「フランシス会」、「聖アウグスチノ修道会」、「カルメル会」のことを指します。中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省として生まれました。ルターは聖アウグスチノ修道院に入っています。 


またフランシスコ会は、1208年、アッシジのフランチェスコが始めた托鉢修道会で、清貧を徹底する修道会として教皇インノケンティウス3世によって公認され、以後、世界最大の修道会として、世界宣教や異端の取り締まりに活躍しました。


フランチェスコが神の啓示を受けて示したという会則は、それまでの修道会会則から見れば前代未聞のもので、すべての聖職者がその簡潔さと妥協の余地のないきびしさに驚きました。会則は3カ条だけで、いずれも新約聖書(福音書)にあるイエスの言葉によるものでした。私達も「他山の石」としたいものです。


第一条 「汝、もし全(まっ)たからんと欲せば、行きて有(たも)でるものを売り、これを貧者に施せ、しからば天において宝を得ん、しかして来たり手吾に従え」(マタイ伝19章21節)


第二条 「金、銀または銭を汝の帯に持つことなかれ、行囊(こうのう=袋)も二枚の下着も、靴も杖もまた同じ」(マタイ伝10章9~10節)


第三条 「みともし吾に従わんと欲せば、己れをすてて、おのが十字架をとりて、吾に従え」(マルコ伝8章34節)


現在、修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会があり、プロテスタントにはほとんどありません。


<イエズス会について>


次に日本のキリスト教歴史とも関係が深い「イエズス会」について述べておきます。


1534年8月15日、イグナチオ・ロヨラとパリ大学の学友だったフランシスコ・ザビエルなど6名の同志がパリ郊外のモンマルトルの丘のサン・ドニ大修道院教会堂に集まり、生涯を神にささげる誓いを立てました。この日がイエズス会修道院の創立日とされています。


彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、または教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てました。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めました。


イエズス会はプロテスタントに対抗する「対抗宗教改革」の一環として創設されたと言われており、ローマ教皇に対する忠誠というイエズス会の精神を死守し、会員たちは活動を通してカトリック信仰を堅持させることに成功しました。


イエズス会は教皇に直結し、活動分野は主に次の3つです。第一は高等教育であり、イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴でした。第二の活動分野は宣教活動で、第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることでした。


イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツやポーランド、オーストリアなどのプロテスタンタントは衰退し、カトリックが再び復興しました。また、南米や中国、日本へ宣教師を送りました。一方、教皇への服従を唱えながらも、カトリック教会の内部に目を向けることろの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判しました。


イエズス会員たちは個人の回心のための方法としてロヨラの編み出した霊的指導、いわゆる「霊操」を用いました。霊操は、沈黙のうちに行う一ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを祈り求めていきます。


1556年のロヨラの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していました。1913年創立の上智大学はその一つです。世界のイエズス会の統一教育指針となった学事規定は信仰教育だけでなく、ラテン語・ギリシア語および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課しました。


また、イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣しました。日本を宣教したのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルであり、南米パラグアイのグアラニー族を改宗したのはやはりイエスズ会でした。なお、現在の教皇フランシスコはイエズス会出身で、フランシスコの名前は、托鉢修道会のアッシジのフランシスコからとっています。


以上、今回は、レダ摂理と南米摂理の意義、そして修道院の意味と歴史について論考いたしました。(了)

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