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加賀百万石前田家の墓参に思う 高山右近を保護した前田利家親子

◯徒然日誌(令和6年7月10日)  加賀百万石前田家の墓参に思うー高山右近を保護した前田利家親子 

 

わたしは主である。

わたしのほかに神はない、ひとりもない。

わたしは主である、わたしのほかに神はない。

わたしは光をつくり、また暗きを創造し、

繁栄をつくり、またわざわいを創造する。

わたしは主である、

すべてこれらの事をなす者である。

(イザヤ45.5~7)

 

7月7日の七夕、筆者はセミナーで金沢を訪問した。約40年ぶりの懐かしい金沢である。そしてあくる日、加賀百万石前田家の墓である野田山の前田家墓所に墓参した。 

 

何故、前田家の墓地を訪ねたか、主に理由は二つある。一つは知人信徒の実母が加賀百万石のお姫様の血筋で、初代藩主の前田利家の墓石の裏に十字架の紋章が刻んであるので、その写真を撮ってきて欲しいということであり、もう一つは、キリシタン大名の高山右近が禁教令で迫害され、城と領地(明石6万石)を失った際、救いの手を差しのべ、食客として家族ともども金沢へ招いて保護し、領内でのキリスト教布教を認めたのが前田利家、前田利長親子だったからであり、この二つの真相を知るべく墓参したのである。 

 

墓参のあと、加賀藩前田家の居城跡につくられた金沢城公園、隣接する日本三名園の兼六園、前田利家と妻まつを祀る尾山神社、金沢文化を代表する茶屋街をかけはしで見て回った。加賀百万石の伝統と文化の一旦をこの身で体感し、キリスト教との関係を確かめたかったからである。 


左から兼六園 尾山神社 茶屋街


【前田利家と高山右近】 

 

キリシタン大名として著名な高山右近(1552~1615年2月4日)は、豊臣・徳川とつづいた禁教政策にあらがって城を没収され、最後は国外へ追放され、ついに異国マニラで没した。実はその右近が、禁教後、26年という長い歳月を加賀前田家のもとで過ごした。つまり前田利家はキリスト教を保護した武将だったのである。 

 

<高山右近>

 

1552年、右近は摂津の地頭・高山飛騨守友照の子として生まれた。父・飛騨守は大和国大名の松永久秀の配下であり、熱心な法華信者であった主君の意を受けキリスト教の放逐に乗りだそうとした。ところが折伏(しゃくぶく)するつもりでロレンソ了斎と激論をかわすうち、かえってその教えに傾倒し、ついには自ら洗礼を受け、ダリヨという洗礼名を与えられた。12才の少年だった右近もこのとき入信し、「義の人」を意味するジュストという洗礼名を与えられた。 



その後、高山右近は熱心に布教し、領内(高槻)におけるキリシタン宗門は、かってないほど盛況を呈し、十字架や教会が、次々と建立され、五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られたのである(フロイス『日本史』) 。 

 

織田信長、豊臣秀吉に重用され明石6万石の大名となった右近だが、天正15(1587)年の秀吉の伴天連(バテレン=宣教師)追放令で大きく運命が変わってしまう。宣教師たちが日本侵略の先兵となることを秀吉が怖れたためともいわれるが、このとき小西行長や黒田官兵衛(孝高)など、多くのキリシタン大名が棄教を迫られることとなった。 

 

当時、洗礼を受ける大名も多く、南蛮人との貿易の窓口になるザビエルら宣教師たちは、当初歓迎されたのである。 彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名な大名として洗礼順に、大村純忠(長崎大村)、高山飛騨守(高槻)、高山右近(高槻・明石)、小西行長(肥後熊本)、大友宗麟(豊後大分)、有馬晴信(肥前佐賀)、蒲生氏郷(伊勢・松坂)、織田信秀(美濃)などで、ザビエル宣教後、60年の間に60人以上のキリシタン大名が出現したと言われている(長嶋総一郎著『日本史の中のキリスト教』PHP 新書P34) 。右近は黒田孝高、蒲生氏鄕、牧村政治らを受洗に導き、細川ガラシャに感化を与えた。 

 

しかし、ここでただ一人、秀吉の禁教命令を拒否し棄教を拒んだのが右近であった。あくまで信仰をえらび、領地と大名の地位を捨てて、一介の浪人となったのである。なお、高山右近については、「つれづれ日誌(令和3年12月15日)-初期宣教とキリシタン大名高山右近」に詳述している。 

 

<流浪の右近を救った前田利家> 

 

1587年6月の豊臣秀吉の禁教令により、右近は最終的に追放者の身となり小豆島などに放浪したが、城と領地を失った右近へ救いの手を差しのべたのが、豊臣家の五大老・前田利家(1539~1599年4月27日)であった。 


利家は右近について 「武勇のほか茶湯、連歌、俳諧にも達せし人である」といって、秀吉にとりなした。 利家からの招きを受けた右近は「禄は軽くとも苦しからず、 耶蘇宗の一カ寺(キリスト教会)建立下されば参るべし」といい、利家もそれを受け入れた。 こうして右近は、1588年晩夏、その家族とともに前田家お預けの形で金沢へ下ったのである。 利家は築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりしている。 

 

利家は何故このような厚遇を与えたのか、信仰を貫こうとする右近のいさぎよい態度に、若いころ傾奇者(かぶきもの)だった利家の侠気(おとこぎ)が感応したのだろうか。 

 

利家のもとに身を寄せた右近は、小田原の北条氏攻めで武将として活躍し、また文禄の役(1592~93)では、利家に従い肥前名護屋(佐賀県)へ赴いている。利家は嫡子・利長への遺言のなかでも、「南坊(みなみのぼう=右近の号)は律義な人物であるから心をくばってやるように」と記したという。 

 

<2代目前田利長の信仰心> 

 

父利家を継いだ利長は、亡父にまして右近を信頼していたという。もともと築城の才があった右近は1599年に金沢城の修築、1609年には高岡城(富山県)の築造に尽力した。また、最終的に徳川方についた利長は、関ヶ原に先立ち西軍の大聖寺城(石川県)を攻めたが、このとき右近は適切な進言をおこない、前田勢を勝利に導いた。高山右近は、信仰の面だけでなく、武将としても第一級の人物だったのである。(以上、小説家・砂原浩太朗氏の評文より)

 

前田利長は自ら宣教師に洗礼を望んだほどであったことから、 家臣にキリシタンになることを勧め、右近の教会設立やヨーロッパ宣教師の常住を認めた。 金沢をはじめ能登にも2カ所で教会を建てた。加賀・能登の洗礼者は、伝えられる史料によると 1604~1611年までに1000人ほどになったという。 1614(慶長19)年のイエズス会年報によると、金沢は日本で最も栄えた教会の一つとなっていたのである。(ふるさと石川歴史館) 

 

しかし、豊臣にかわり天下の権をにぎった徳川家が禁教令を発布し、1614年、右近は幕府より金沢からの退去を命じられた。前田家の人々は棄教を勧めたが、右近はあくまでも信仰を貫いたという。右近は金沢を追放され、マニラで1615年2月に亡くなった。享年63歳。ローマ法王庁から「聖人」に次ぐ「福者」として認定されたのは、それから400年を経た2016年のことである。 

 

信仰ゆえに苦難の道をあゆんだ高山右近が、前田家から重んじられ、金沢で過ごした26年という年月は、右近にとって幸せな歳月だったのではないだろうか。加賀百万石との縁に、何か神の手厚い愛情を感じるのは、筆者一人でない。 

 

【前田利家と加賀百万石の歴史】 

 

加賀百万石は、NHKの大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語」(2002年1月6日~12月15日)で有名になった。戦国時代、徳川時代を通じて300年間、常に有力藩として存続し続け、影響を与えて続けてきた奇跡の藩「加賀百万石」を概観する。 

 

<前田利家> 

 

「天下を狙うな、天下人はかならず滅びる」とは前田利家の家訓であるが、加賀百万石の土台を作り、高山右近を保護した藩祖前田利家とはどのような人物だったのだろうか。 

 

織田信長は幼少期は「うつけもの」だったというが、前田利家も若いころ、奇抜な出で立ちを好む「傾奇者」(かぶきもの)だったいう。「そろばん好きの大名」、「堅実な性格」として知られる前田利家だが、青年期は織田信長に仕え、喧嘩早く、「うつけ仲間」として派手な長槍を持ち歩いたのである。 

 

前田利家(1539~1599)は、1539年、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主「前田利春」の四男として生まれた。はじめ小姓として14歳のころから織田信長に仕え、織田家家中で「槍の又左衛門」と言われた槍の名手で、 「萱津の戦い」(かやづのたたかい)、「稲生の戦い」(いのうのたたかい)、「浮野の戦い」(うきののたたかい)に従軍し首級をあげるなど手柄を挙げ、前田利家の強さは多くの人に知られるようになった。織田信長も、前田利家を称賛し、早々に信長の親衛隊である「赤母衣衆」(あかほろしゅう)の筆頭になる。 

 

ところで22歳の前田利家は、当時12歳だった「まつ」と結婚することになる。まつは織田の家臣・篠原一計の娘として、尾張国海東郡沖島(現在の愛知県あま市)で生まれたが、容姿端麗で賢く、読み書きそろばんにも通じた才媛だった。利家とまつのエピソードは、NHK大河ドラマ「利家とまつ」でも話題となった。生涯をかけて前田利家を支え、前田利家の死後も自分の身を犠牲にして前田家を守ったまつは、まさに戦国女性の鏡である。前田利家とまつは非常に仲が良く、生涯で11人の子供を産んだ。なお利家は細身(身長約180cm)で端正な顔立ちで、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。 

 

しかし、才媛である妻と結婚し、織田信長から寵愛を受けて順風満帆に見えた利家だが、血気盛んな性格が災いし、大きな事件を起こしてしまう。いわゆる「笄斬り」(こうがいぎり)である。利家は、織田信長に仕える信長お気に入りの同朋衆(将軍の近くで仕える人)の拾阿弥(じゅうあみ)を、トラブルがもとで斬殺(ざんさつ)してしまった。信長から激怒されて勘当(出仕停止処分)とされ、2年間の放浪を余儀なくされたのである。 

 

織田家から追放され、浪人の身となった前田利家だが、しかし、利家が真価を発揮するのは、このどん底からの巻き返しである。以後、織田家への帰参を果たそうと数々の戦績を挙げ、織田信長へ忠誠心を示した。1560年の「桶狭間の戦い」では、織田側の軍勢として無断で戦闘に参加するなどし、ようやく織田家に戻ることが認められた。 

 

利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年、信長から兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。利久に実子がなく、また病弱のため武士としての役目を果たせない状態にあったからだという。 

 

織田信長からの信頼を取り戻したあと、朝倉義景との「金ヶ崎の戦い」、浅井・朝倉との「姉川の戦い」(1570年)、石山本願寺との「春日井堤の戦い」、朝倉義景との「一乗谷城の戦い」、本願寺との「長島一向一揆の戦い」、武田勝頼との「長篠の戦い」などで戦果をあげ、信長からさらに厚い信頼を得ると、前田利家の名声は戦国の世に広く知られるようになる。 

 

1575年、越前の一向一揆を平定したことで「佐々成政」(さっさなりまさ)、「不破光治」(ふわみつはる)と共に越前府中(現在の福井県北東部)10万石を与えられ、こうして利家は「府中三人衆」のひとりとなり越前国を治めることとなったのである。1581年には織田信長から能登23万石の領有を任されている。 

 

しかし「本能寺の変」で織田信長が横死したあと、前田利家は大きな転機を迎えることとなる。豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」のあと、織田家の後継者について話し合う「清洲会議」が行なわれたが、利家と協力関係にあった柴田勝家は、豊臣秀吉と真っ向から対立した。どちらに付けば良いのか、利家は判断に迷い苦しんだが、協力関係にあった柴田勝家側に付くこととなる。 

 

しかし、変化の激しい戦国の世、最終的に前田利家は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勢を裏切り、親交のあった豊臣秀吉側に付くという大きな決断を下したのである。1583年4月、最初、前田利家は柴田勝家側の軍勢として戦いに出陣したが、戦いの最中、前田利家は豊臣秀吉側からの誘いもあり、合戦中に突然自軍すべてを撤退させたのである。そのことがきっかけで柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は敗走を余儀なくされることになる。 

 

こうして賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利し、以降、豊臣秀吉からの信頼を勝ち取った利家は秀吉に仕え、新たに加賀二郡の領地を得ることとなった。加賀に新たな領地を得た利家は、本拠地を小丸山城から「尾山城」(現在の金沢城)に移し、北陸地方の統治を強化して行く。 

 

その後、北陸の雄佐々成政を倒し、こうして前田利家は、加賀・越前・能登の三国を支配し、加賀百万石初代の大名として北陸を治めるに至ったのである。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力した。この間、前述の通り、1587年6月の豊臣秀吉の禁教令により、浪人となった高山右近を金沢に招いている。1599年4月27日、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。享年60才。 

 

<加賀百万石の生き残り処方術> 

 

加賀藩は前田利家死後、存亡の危機に立たされている。徳川家康が天下取りに動いた1599年である。関ヶ原の戦いの前に前田利長謀反の讒言(ざんげん)をきっかけに家康は加賀征伐を企てたのである。この時は、家老・横山長知(ながちか)が弁明し、芳春院(ほうしゅんいん、利家正室まつ)が人質として江戸に下ることで和睦した。こうして前田利長は、関ヶ原の戦いで徳川方につき、東軍として出陣し「浅井畷(なわて)の戦い」(北陸の関ヶ原)で戦果をあげた。こうして関ヶ原の戦い後、利長は加賀・越前・能登3カ国120万石を領有した。 

 

豊臣政権下の重臣「五大老」の中で関が原合戦後に、滅亡・減封・転封とならず、旧領をそのまま安堵され、おまけに加増という優遇を受けたのは、前田利長ただひとりである。領地を没収され八丈島流刑となった哀れな宇喜田秀家や、112万から35万石に転落した毛利輝元、120万石から35万石に減封された上杉景勝とは好対照を成している。 

 

前田家は、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を見限って豊臣秀吉側に付くという道を選び、また関ヶ原の戦いでも豊臣五大老でありながら徳川方につくという大きな決断を下したのである。まさに「機を見るに敏」であり、したたかな生き残りの処方術を持っていたと言うしかない。 

 

こうして何度かの危機を乗り越えた前田藩は、戦国時代から徳川時代300年間、常に雄藩として権力を支える立場に立ち、その間、北陸の京都として絢爛な文化と伝統を形成したのである。ただでさえ浮き沈みの激しい戦乱の世で、前田百万石存続の歴史はまさに奇跡とも言える。 

 

【野田山墓参】 

 

筆者は、7月8日、2人の信徒と共に3人で、野田山の前田家墓所を皮切りに、前田利家と歴代藩主によりつくられた「金沢城跡」、城と隣接する「兼六園」や前田家の大名道具を展示する「成巽閣」(せいそんかく)、前田利家とお松の方を祀る「尾山神社」、そして金沢文化を代表し和の趣を感じる「茶屋街」など、加賀百万石の歴史を辿った。筆者は40年前金沢を訪れたことがあるが、歴史を鳥瞰しての今回の訪問は、一段と意義深いものであった。 

 

先ず私たちは、野田山の前田家墓地に墓参し、前田利家、妻まつ、そして二代前田利長の墓前で祈りの一時を持った。キリシタン大名として秀吉から追われた高山右近を保護し、キリスト教に大きな理解を示したこの3人に心からお礼を述べると共に、前田百万石がこよなく愛した金沢の地に、福音運動の大復興、即ち、リバイバルが勃興することを祈念した。そしてこの成約時代に、前田家14代が利家親子と共に再臨復活し協助することを嘆願したのである。奇しくも金沢から二人のUC会長を出しているが、これも加賀百万石の置き土産なのだろうか。ただ、知人信徒から頼まれていた前田利家の墓に十字架は見つからなかった。 

 

ちなみに野田山墓地は、金沢城から直線距離にして南西に約3.5キロメートルほどのところに広がる一大霊園地であり、前田家墓所は、藩祖前田利家を頂点とした歴代藩主墓をとりまく正室・子女等の墓約80基からなっている。形態は、土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、特に藩主墓は三段に盛り上げた方形墳の独特の形態を採っている。 

 

7日のセミナーの講師の一人である金沢殉愛キリスト教会の山縣實牧師は、熱烈に高山右近の信仰と前田家の関係を語られると共に、前田利家・まつの4女で宇喜多秀家の正室である豪姫が、キリシタンで洗礼名はマリアであったことを証された。ちなみに筆者はセミナーで、一神教の意味、唯一の神、即ち、イザヤ書「わたしは主である、わたしのほかに神はない」(イザヤ45.5~7)の意味を解説した。 

 

こうして加賀百万石の文化と伝統を探索する短い旅が終わった。炎天下の中、徒歩で約7kmは優に歩いた旅だったが、筆者の人生にまた一つのよい思い出が加わった。はからずもこのような機会を与えて下さった神、唯一にして天地を創造された父母なる神に、思いを込めて讚美し感謝する。 ユニバーサル福音教会牧師  トマス吉田宏

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