潜伏キリシタンの殉教 - 牢屋の窄(さこ)、乙女峠、長崎の鐘
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◯徒然日誌(令和7年12月3日) 潜伏キリシタンの殉教ー牢屋の窄(さこ)、乙女峠、長崎の鐘
信仰の自由なき日本に於て、迫害の下400年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったのでしょうか(永井隆著『長崎の鐘』アルパ文庫P146)
プロローグ
前々回、「徒然日誌(令和7年11月12日) 殉教者の画家村田佳代子個展に思う」の中で、キリスト教殉教者の画家として著名な村田佳代子さんの個展を鑑賞したことを述べた。即ち筆者は、11月9日、村田さんの所属教会である鎌倉の「雪の下カトリック教会」のミサに与り、その後、「鎌倉芸術館」で開かれている村田さんの個展を鑑賞した。村田さんは親切に展示されている絵を説明して下さったが、その中で五島列島における潜伏キリシタンの話になり、特に長崎県五島市久賀島にある「牢屋の窄(さこ)殉教事件」を情熱的に語って下さった。
筆者は、日本におけるキリシタンの迫害と殉教に強い関心があり、長崎の外海や浦上地区の潜伏キリシタン史跡を巡礼したことがあったが、五島列島までは行けていなかったし、恥ずかしいことに「牢屋の窄殉教事件」を知らなかったのである。だが、たまたま五島列島の潜伏キリシタン跡巡礼の計画を立てているという姉妹3人の話を聞いていたので、早速、「牢屋の窄殉教記念教会」を紹介し、ここを巡礼することを勧めたのである。
今回、この「牢屋の窄殉教事件」の顛末を記すと共に、再度キリシタン迫害の象徴と言える「浦上キリシタン」の迫害史を、永井隆の著書『長崎の鐘』と『乙女峠』を通して辿ることにする。
【牢屋の窄(さこ)事件】
2018年(平成30年)6月30日、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が「ユネスコ世界文化遺産」に登録された。登録された12の世界文化遺産のうち五島列島にあるのが、①奈留島の江上集落(江上天主堂、五島市)、②久賀島の集落(牢屋の窄、五島市)、③野崎島の集落(五島小値賀町)、④頭ヶ島の集落(五島新上五島町)の4ヶ所である。これらの地域の潜伏キリシタンは、禁教期に外海地域から移住してきたキリシタンであるが、その内今回取り上げるのが久賀島(ひさかしま)の集落にある牢屋の窄である。

「牢屋の窄(さこ)事件」は、1868年(明治元年)に長崎県五島市久賀島で起きたキリシタン弾圧事件である。徳川幕府から禁教令を引き継いでいた明治新政府により、久賀島内のキリシタン約200人が、12畳ほどの狭い牢屋に8か月間も監禁され、拷問や飢え、過酷な環境で、42人が殉教した。現在、事件現場には「牢屋の窄殉教記念教会」が建てられ殉教者を追悼している。
1865年の大浦天主堂での「信徒発見」以降、長崎県内各地で秘かに信仰を守り続けてきた潜伏キリシタン達も大浦天主堂のプチジャン神父を訪ねた。しかし、依然として日本人に対しての厳しいキリシタン禁制は続いており、江戸幕府は寺請制度など様々なキリシタン検索制度を用いてキリシタンを検挙し、五島列島でも例外ではなかった。自らキリスト教(カトリック)の信仰を表明したために捕らえられた久賀島の「牢屋の窄」事件から始まり全五島に広がった「五島崩れ」である。
牢屋の窄事件では、12畳ほどの狭い牢に200名あまりが押し込められたが、これは畳1枚あたり17人という狭さで、横になることもできず、排泄もその場にしなければならないという想像を絶する惨状だったという。信徒たちは8ヵ月にわたりこの状況を耐えしのんだが、飢えや病、拷問のために39名が死亡し、出牢後の死者3名を加えると42名の信徒が命を落とした凄絶な事件である。即ち、 極寒の海に漬けるなどの激しい拷問、 サツマイモを一切れの粗末な食事、排泄物の中での生活、飢えや病などにより、 8か月の間に39人が死亡し 出牢後さらに3人が死亡し、計42人が殉教した。
なお殉教者は、1~6歳の乳幼児が13名、7~12歳が8名、13~18歳が2名、19~24歳が5名、25~85歳が14名だと言われている。
この事件はプティジャン神父を通じてヨーロッパに伝えられ、日本政府は国際的な批判を受け、浦上四番崩れと共に、この事件がやがて1873年(明治6年)に、明治政府が禁教令を廃止するするきっかけの一つとなった。この地では毎年秋に、殉教者をたたえ先祖の信仰に倣うため、五島内外の信徒や巡礼者が集まって、牢屋の窄殉教祭が行われている。
11月18日〜20日、五島列島の潜伏キリシタンを巡礼した姉妹は、牢屋の窄跡に立って感じた生々しい感想を次のように語っている。
「歴史は容赦のない爪痕を残し無常ともいえる悲しい足跡のみでした。私が最も心に焼きついたのは牢屋のさこ殉教記念跡で、あまりにもの衝撃にしばらく呆然と立ち尽くしました。山に囲まれたひっそりした中に42体の石碑が建てられており、なんとも言えない神様の苦痛と神様を信じるものの歴史的悲哀が重なり、大声で祈りたい気持ちを押さえながら、この地を後にしましました。」
【乙女峠ー殉教者の血は教会の種】
ところで、津和野・乙女峠の殉教者とは、1867年(慶応3年)と1870年(明治3年)、政府による潜伏キリシタン弾圧事件(浦上四番崩れ)で、浦上村のキリシタンが日本各地に流配されたが、そのうち153人が鳥取県津和野に流配され、乙女峠で殉教したキリシタン37人のことである。

永井隆著『乙女峠』は、長崎浦上から流配の地「津和野」へ流された潜伏キリシタンの足跡をたどった生々しい信仰の実話を描いた本である。信仰の表明により弾圧された浦上のキリシタン達は一村総流配の処分を下され(浦上四番崩れ)、約3414名(第1次114名、第2次3300人)もの人々が富山以西の20の藩へ流配された。浦上の人々は、それを「旅」と呼んで感謝して臨んだが、流配先の日々は悲惨だったという。
1867年7月10日、先ず最初に主だった浦上のキリシタン114人が、長崎府知事沢宣嘉から出頭令状で呼び出され、備後の福山、長門の萩、石見の津和野に流罪となることになった。その中で、拷問に屈しなかった高木仙右衛門や、敬虔な信仰を持つ守山国太郎(63才)、甚三郎(21才)父子ら28人が津和野へ流罪となった。甚三郎は国太郎の長男で、姉のマツ(23才)、弟の裕次郎(12才)があり、みんな信仰が堅く、国太郎はキリシタンの総代で、甚三郎は伝道師に選ばれていた(永井隆著『乙女峠』アルバ文庫P15)。その後流罪になった(第2次)マツや裕次郎などキリシタンを合わせて津和野に流されたのは153人に及ぶ。
流配の様子を記録した『仙右衛門覚書』には、長崎を離れる時の様子や、「旅」先の津和野で氷の張る池に放り込まれる責め苦を受けたことや、取調べで改宗を迫る役人との会話などが記されており、想像し難い苦痛を味わった浦上キリシタンの体験を伝えている。
即ち、津和野と言えば、情緒のある町並みや、美しい自然があり、風光明媚な場所というイメージだが、かつてキリシタン弾圧に関わる悲しい歴史があった地である。津和野にある「乙女峠」がその歴史の舞台であり、殉教の象徴「乙女峠マリア聖堂」が建てられている。
キリスト教が厳禁だった明治元年、長崎浦上から津和野に送られてきた153人の潜伏キリシタンは、この場所にあった光琳寺というお寺に収容されるが、津和野藩の改宗のすすめに応じず、ついには拷問によって小さな子供を含め37人が命を落とした。
「三尺牢」という立つこともできない檻に閉じ込めて行われた拷問があり、その際マリアが現れ信者を励ましたという有名な場面の像がある。後に、もっとも過酷だったと覚書にある「氷責め」に使用された池も復元されている。壮絶な苦しみを与えられながらも、信仰を守り生き抜いた人たち、なぜそこまでと思う一方で、自分達の信念を決して曲げない強い信仰に心を打たれる。特に幼い子供たちの責め苦を永井隆は『乙女峠』の中で次のように描いている。
「ある日3歳の子がひとり裁判に呼び出されました。役人はお菓子を見せびらかせ、『キリシタンをやめたらこのお菓子をおまえにやるよ』と誘いました。子供は『お母(かか)がね、キリシタン捨てなばハライソ(天国)へ行ける、と言うたもん』と答えました。また末吉は12才の身寄りのない子供でしたが、両手に油を盛って火をつけられ、じりじり燃える火にもひるまず、教えを捨てませんでした。この子はやがて美しい牢死を遂げました」(『乙女峠』P60)
また責め苦が続くうちに、前記の甚三郎の父国太郎が、1870年に69才で死に、甚三郎の弟裕次郎も15才のつぼみをささげ天に召されたという(同書P61)。しのぎ通した甚三郎たちは、「人間ひとりの意志の強さだけでは難しい、祈りによって天からの力、聖霊の恵みによってはじめてできる」と証言した(同書P72)。
死んだ甚三郎の弟裕次郎の「子供を泣かすな」という言い残しは姉のマツが養育院を作ることで果たし、「神父を育てるように」との遺言は兄の甚三郎が果たした。甚三郎は結婚し、生まれた長男松三郎を司祭にしたが、この守山松三郎神父こそ永井隆に洗礼を授けた神父だという。そして甚三郎の子孫から神父や修道女がつぎつぎと出たという。
今、津和野の殿町通りには、美しい「津和野カトリック教会」が高い塔を見せ、隣接して「乙女峠展示室」があり、乙女峠に関する様々な資料が展示してあるという。永井隆は「殉教者の血は教会の種」という言葉を記して『乙女峠』を書き終えた。
【長崎の鐘ー浦上キリシタンの数奇な運命】

「長崎の鐘」は、長崎平和公園にある平和のシンボルとしての鐘と、永井隆の著書『長崎の鐘』の2つの意味合いがある。平和公園の鐘は、原爆の犠牲者を悼み、平和を願うために建てられたもので、一方永井の著書『長崎の鐘』は原爆の悲惨さや信仰への思いを綴ったもので、原爆で倒壊した浦上天主堂にあった「アンジェラスの鐘」をモチーフにしている。その鐘の音色は、戦後再建された浦上教会で今も鳴り響いている。
さて、浦上 (うらかみ)は長崎市北部の浦上川に沿った盆地状の地域で(かつての浦上村)、かってはキリシタン大名の大村純忠や有馬晴信の領地であり、キリシタンは全国でも最も多い地域だった。そしてこの浦上のキリシタンほど数奇で過酷な運命を辿った人々はいない。今回特筆する浦上の代表的な出来事こそ、「浦上四番崩れ」と「原爆投下」であり、いずれも浦上のキリシタンは考えられない犠牲を払ったのである。
何の悪いこともせず、ただおのが奉じる神がまことの神だと信じ、その信仰こそ魂の救いの道として人に勧めただけの理由で、拷問を受け、生命を奪われるのであった。しかもただ一言、信仰を捨てるとさえいえば生命を助けられるのに、神への愛とその信仰の証人たるために喜んで死を選んだのである。(片岡弥吉著『浦上四番崩れ』ちくま文庫P28)
<浦上四番崩れ>

信徒発見は、1865年3月17日、長崎・浦上の潜伏キリシタンが同地の外国人居留者向け教会である大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父に信仰告白をした出来事である。これにより、江戸時代の禁教下の日本において、250年にわたって続いたキリシタンの潜伏が知られることとなった。1965年から3年間、浦上には四ヶ所の秘密教会(藁葺き平屋)が建てられ、そこに宣教師が忍び込んで村民に教理を教え、洗礼を授け、ミサを行った。
1867年(慶応3年)、潜伏キリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。浦上のキリシタンたちが宣教師に信仰を表白して、その指導を受けるに至ったことは、きわめて内密に行われたものであったが、やがて明るみに出て、浦上四番崩れという大検挙事件を引き起こすことになった。そのきっかけは自葬事件から起こった。即ち、聖徳寺の僧侶を招かず自葬したことが問題となり、浦上四番崩れと言われる大検挙事件の発端となった。
プロシャ領事、フランス領事、ポルトガル領事、アメリカ公使らは、信教の自由は国内法を越えた自然的人権であり、弾圧は黙視できないと抗議したが、1968年、浦上問題を解決できないまま、幕府は倒れ、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって浦上村民たちは流罪とされた。
1968年7月1日、浦上信徒の中心人物114人の移送が開始され、萩に66名、津和野に28名、福山に20名が流され、思想によって改宗させるべきと主張した津和野藩主にキリシタンの中心人物である高木仙右衛門、守山甚三郎らを預けた。しかし説得によって改宗させることができず、最もひどい拷問を加える結果となった。即ち津和野には、仙右衛門、甚三郎ら最も信仰堅固の者を配流し、続いて1870年(明治3年)に125人が流された。
明治新政府も当初キリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに弾圧は長崎一帯の村々に及んた。浦上キリシタンは、この流罪を「旅」と名付け、旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、562人が亡くなった。前記したように、永井隆は、浦上のキリシタンが島根県津和野に流刑され、そこで殉教した37人のキリシタンを描いた『乙女峠』を書いている。
後に浦上ばかりでなく、長崎県各地や熊本県天草などを合わせて数万人の人々が、二百数十年という長い継続した世界無比といわれるほどのきびしい禁教政治の下で、一人の宣教師もないのに、主要な教理や祈りをほとんど誤りなく伝承し、信仰を保持してきたことは、世界宗教史上比類ないケースとしてヨーロッパに広く知られることになった。(片岡弥吉著『浦上四番崩れ』ちくま文庫P54)
このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は維新の立役者であった木戸孝允や井上馨らだったが、明治政府は、欧米の強い圧力もあり、ようやく1873年(明治6)に禁教令を廃止し、家康の1614年の禁教令から260年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復した。(参照→ https://x.gd/YZ4qS )
<原爆投下と浦上天主堂>
浦上四番崩れで全村3414名が流罪された浦上の信徒であったが、神は浦上に更なる試練を与えたもうた。
1945年8月9日午前11時2分、浦上天主堂がある長崎市浦上の真上に原子爆弾が炸裂したのである。このプルトニウム型核攻撃により、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。
1873年禁教が解かれ、流刑の地から浦上に帰ったキリシタンたちによって、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として浦上天主堂が建てられたが、原爆により壊滅した。原爆投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に集まっており、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭ラファエル西田三郎、助任司祭シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡し、浦上地域の信徒12000人の内、8500名が犠牲になった。
永井隆(1908~1951)は、当時長崎医科大学(長崎大学医学部)の助教授で、夫婦共に浦上教会の敬虔なカトリック教徒だったが、大学で放射線研究の最中、原子爆弾が炸裂した。自らも被爆し、右側頭動脈切断というひどい傷を受けたが、被爆者の世話をして医師としての務めを果たし、4日後自宅に帰宅すると、潜伏キリシタンの末裔である最愛の妻緑さんは黒焦げになって焼け死んでおり、傍にロザリオだけが残されていた。
「長崎の鐘」とは、浦上天主堂にかかげられていた、祈りの時刻を告げるアンゼラスの鐘のことで、原爆投下後、天主堂が炎上した際も、ひび一つ入らずに無事に掘り出され、その年のクリスマスの日から、再び平和の鐘として鳴らされているという。
永井は、後日この原爆体験を著書『長崎の鐘』に書き記し、この『長崎の鐘』を歌にした「長崎の鐘」は大ヒットし、国民の涙を誘い、人々に勇気と希望を与えた。
永井隆は神に強く問いかけた。即ち、原爆合同葬弔辞冒頭で、「一発の原子爆弾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去った」(永井隆著『長崎の鐘』アルパ文庫P144)と述べ、「一体、何故長崎に、しかも長い禁教下の中で信仰を守り、幾多の迫害と殉教を経て、当時なお日本で最も多くのキリスト教徒を擁していた浦上が、よりにもよって何故爆心地にならなければならなかったのか」と。
そして永井は、「終戦と浦上潰滅との間には深い関係があるのではないか、つまり戦争という罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ『清き子羊』として選ばれたのではないか」と問いかけ、「これまで幾度も終戦の機会はあり、全滅した日本の都市も少なくなかったが、それは犠牲としてふさわしくなく、神は未だこれを善しと容れ給わなかった」と語り、「然るに浦上が屠られた瞬間、初めて神はこれを受け入れられ、天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うた」(同書P146)と述べた。そして次のように語った。
「信仰の自由なき日本に於て 、迫害の400年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかった浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったのでしょうか」(『長崎の鐘』P146)
永井は、この犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたとし、次のように記した。
「汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。潔き子羊として神の御胸にやすらう霊魂の幸よ」(『長崎の鐘』P146)
そして永井は、「生き残ったものは、償いを果たしていなかったから残された」と告白し、残されたものは、この賠償の道を歩みゆかねばならないと語り、そして最後にこう結んだ。
「主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。アーメン」(永井隆著『長崎の鐘』アルパ文庫P148)
以上のように、カトリック信者である永井隆は、浦上天主堂は、神への「贖いの供え物」であり、その尊い犠牲によって戦争が終結し、信仰の自由がもたらされ、日本が生まれ変わり、世界の平和が再来する機会となったと認識した。生き残った人々は、長崎の復興に努めることを呼び掛け、それがキリスト教の信仰の証だと、原爆の意味をそのように解釈したのである。
永井は1951年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで亡くなった。市営坂本国際墓地に妻の緑さんと一緒に埋葬され、その墓石には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17.10)と刻まれている。
2022年3月7日、筆者は再建された浦上天主堂の礼拝堂で祈りながら次のような思いが込み上げてきた。
「日本の歴代総理は、毎年お正月には伊勢神宮に参拝するが、伊勢神宮と共に、ここ浦上天主堂に参拝して祈りを捧げるべきではないか。神の救済摂理の中心に立つキリスト教の福音の象徴として、日本を代表して殉教の道を行き、日本が生まれ変わるために贖罪の羊になった浦上と浦上天主堂こそ、日本の聖地にふさわしい」
そして2022年(令和4年)7月8日、安倍元首相が凶弾に倒れた夜、筆者はこの長崎の鐘の「贖罪の羊」という言葉が想起され、安倍さんは日本とUCを新生させるための「贖いの供え物」として逝かれたのだとの思いが込み上げてきたのである。
以上、「潜伏キリシタンの殉教ー牢屋の窄(さこ)、乙女峠、長崎の鐘」とのテーマで、牢屋の窄、乙女峠、長崎の鐘について、その凄絶な殉教の歴史を述懐した。そしてこの一文を殉教したすべてのキリシタンの御霊に捧ぐ。
我ら統一の群れも、激しいバッシングの最中にあって、今や殉教の道を辿っている。確かに今はかってのような血の殉教こそあり得ないが、精神的・霊的殉教の道を歩んでいる。そして心なしか、この霊的殉教の道は、永井隆が著書『長崎の鐘』の中で「迫害の400年、信仰を守り通した浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき潔き子羊ではなかったか」と語ったように、全てを捨てて神と日本のために献身してきた統一の群れこそ、神の祭壇に献げらるべき「潔き子羊」ではないかとの思いが込み上げる。然り、殉教の血は教会の種子!(了)
牧師・宣教師 吉田宏






