エキュメニカル運動の理念と課題 高裁に最終主張書面提出
- matsuura-t

- 5 日前
- 読了時間: 14分
更新日:3 日前
◯徒然日誌(令和7年11月26日) エキュメニカル運動の理念と課題-高裁に最終主張書面提出
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである(ガラテヤ3.24)
プロローグ-解散裁判最終主張書面
今回の主題は教会一致(エキュメニカル)の理念に関する考察であるが、山上裁判とUCの解散裁判が山場に差し掛かっているので、先ずこの件について言及しておきたい。
10月28日、山上徹也被告(45)の裁判員裁判が奈良地裁で始まり、令和8年1月21日に判決が降りるという。その間、18回の公判が開かれ、山上本人や母、妹の証人尋問が行われている。オールドメディアはUCによって家庭が破壊されたとの、相変わらずの論調だが、事実はかなり違っている。
10月18日、検察側は山上被告も署名押印している5000万円返金の合意書を示し、月30万~40万円がUCから返金され、毎月13万円が山上被告に振り込まれていたと指摘した。母親はこれらを認め、全額完済されたとした。即ち、UCは2005年から月々40万円を返還し(山上25才)、2009年に正式合意し、2014年には完済したという。なお、母親は事件について「私が加害者だと思う」と親心を吐露したが、UCへの批判はなく、信仰は今後も続けたいと告白した。
母親は2002年に自己破産し、これが献金のせいだと報道されているが、祖父の会社が銀行融資を断られ、多額の負債を抱えていたところ、祖父の死去により母親はこの会社を引き継いでいるので(1998年)、献金のゆえの負債というより、会社の負債を背負っての自己破産だと考える方が合理的であると筆者は思料する。いずれにしてもテロ行為を美化することは決してあってはならない。
なお、片山さつき財務大臣や日本保守党有本香事務総長は、山上単独犯に疑問符を投げ掛けている。山上から転送されてきた内容には高度な政治的知見が見られ、またSNSへの投稿を見ると、極左的で明確な政治的思想性が見られると明言し、反共のUCを問題をすり替えるという一方的な流れを作ったとした。
一方、高裁で審理されているUCの解散命令申立事件であるが、11月21日、UCは最終主張書面を提出し、明年早々に判断が示されると思われる。以下、これまで抗告審でUCが行ってきた主張や証拠と併せて、その要点を端的に述べる。(UC広報渉外局プレスリリースより)
これまで抗告審で提出した主張書面および証拠の概要は以下の通りである。(一審決定への反論)
①コンプライアンス宣言(2009年発出)以降「近時まで途切れることなく」UCの不法行為が続いていると推認した原決定に対する詳細な反論
②コンプライアンス宣言を「弥縫策」であると矮小化した原決定に対する詳細な反論。(コンプライアンス宣言の徹底とその実効性について多数の証拠を追加提出)
③コンプライアンス宣言前の民事裁判事案について、解散命令を根拠づける証拠に当たらないことを具体的に主張。(古い事案や、不法行為を強引に推認している事案など)
④日本における宗教迫害史(特に「大本事件」)、日本国憲法の「信教の自由」の成り立ち、日本社会の体質等を踏まえ、本件申立が許されざる宗教弾圧事件であること。
⑤判例及びこれを踏襲する政府解釈によって長年形成された法律関係を信頼して行動した者を処罰すると、自由な行為と禁止行為の区別がつかなくなり、法的安定性を害することから、国民の行動の自由を保障する罪刑法定主義・遡及処罰の禁止の趣旨に反すること。(憲法31条、同法39条違反)
⑥解散命令は布教行為や宗教結社の自由等に対する直接的制約効果を有するため、その要否の検討は厳格かつ慎重に行われるべきであり、「解散が必要不可欠な公益保護の目的のためであること」、「解散の理由となる公益に対する危険が発生する現在性があること」、「解散以外のより制限的でない手段(LRA)によってはその目的を達成できないこと」等が求められるにもかかわらず、原決定はこれらを全く無視していること。
⑦本件申立は、当法人に対する政府の恣意的な「狙い撃ち」であり、「宗教に圧迫、干渉を加えるもの」に該当し、「政教分離原則」に違反すること。(憲法20条違反)
⑧本件申立や原決定の不当性を指摘した有識者(憲法・法・政治・宗教学者、弁護士、宗教家など)の意見書約50通。
⑨当法人および当法人の教会員が、国、自治体、地域、職場、学校などにおいて現に「二級市民」であるかのような不当な扱いを受け、多大な人権侵害被害が生じており、仮に解散が決定されれば、被害が極度に深刻化し増大する可能性が高いこと、およびその証拠(陳述書、書簡等は1000件を超える)。また、原決定は、当法人の教会員の人権に解散命令が及ぼす甚大な悪影響への配慮が全くなかったこと。
以上がこれまでの主張書面および証拠の提出であるが、これを踏まえ、今回出された最終主張書面の概要は以下の通りである。
①UC信者2名の証人尋問(10月)を踏まえ、解散命令により当法人の職員・家族及び信徒が受ける人権侵害被害の深刻さ。
②国連の人権専門家が「地裁決定は国際法違反」と警告、当法人が共産主義・左翼勢力から攻撃を受ける背景、及び山上事件の公判を通して露見したメディアの虚構。(テロの容認、デモクラシーに対する凶行への批判をしないで、教会批判へ論点をすり替えした報道等)
③当法人は諸問題の解決に向けて、集団調停への対応や補償委員会の設置などの不断の努力を継続しており、解散命令の必要性はない。
④当法人による悪質な不法行為の存在を裏付ける具体的事実はなく、高裁においても、文化庁は裁判所からの指示にも拘わらず、何らの具体的な事実も示さなかった。「顕在化していない被害」も被害再発の恐れもないのであり、解散事由は存在しない。
以上の通り、UCは詳細に最終主張をした。文科省が裁判で証拠として挙げている被害者の80%は、拉致監禁で強制脱会させられた元統一の信者が、踏み絵と称して無理矢理訴訟させられた、いわば作られた被害者であり、しかもその陳述書の中には偽造されたものがあるという。これに対して、UC側は法的・政治的・社会的観点を含め詳細な主張立証をしており、弁護人をはじめ関係者の尽力に敬意を表するものである。この国策裁判の欺瞞性が明かになり、高裁において一審の決定が覆されることを信じ祈念するものである。だが如何なる事態が生じようとも、私たちは神の御手の中にあり、動じることはない。
【エキュメニカルの理念と課題】
さて本題の「教会一致」(エキュメニカル)の問題であるが、この問題はキリスト教における最大の課題であり、また宗教全体の課題である。本来、一なる神、一なるキリストの下にあるべきキリスト教が、カトリック、ギリシャ正教、プロテスタントと分かれ、更にプロテスタント内では何百という教派に分かれており、このような状況は神が悲しむ現実と言わざるを得ない。
カトリックの第二バチカン公会議(1962年~1965年)では、従来の排他的な在り方(宗教排他主義)を改め、宗教間対話、即ちカトリック以外のキリスト教教会との対話や相互理解、そして他宗教・他者との対話にも大きく舵を切った。1965年には、カトリックと正教会は、1054年以来続いていた東西教会の相互の破門宣告を取り消した。即ちカトリックは、「教会の外に救いなし」といった「宗教排他主義」から「宗教包括主義」へと大きく舵を切ったのである。
このカトリックの宗教包括主義は、更に駒を進めて、「すべての宗教が真理に至る多様な道である」と捉え、「宗教多元主義」へと向かう趨勢にあると言えなくもない。そもそも宗教は神の人類救済理想のための道具であり、神は人種、文化、歴史、あるいはそれぞれの心霊基準に応じて、様々な宗教を起されたが、どのような経路をたどったとしても、それらは最終的に一つのゴール、即ち創造主たる神に向かっているものと言えるからである。
ちなみに筆者が牧師として所属するユニバーサル福音教会(Association of Universai Evangelical Churches)は、このような思想と目標を掲げて、自ら福音宣教に勤しみつつ、他方では宗教一致の理想を掲げる教会であり、基本方針第一条には「われわれは、超教派(エキュメニカル)教会として地球的なキリストの福音宣布を目的とする。私たちは教義の解釈の違いなどを乗り越え、キリスト教各教派間の和解と融合、また他宗教とも対話と協調を進める」とある。
<エキュメニカルとは何か>
ではエキュメニカル運動、即ち即ち「超宗教・超宗派運動」とは何であろうか。エキュメニカルとは、主にキリスト教の「教会一致運動」(エキュメニズム)を言う言葉であり、更にキリスト教以外の宗教を含むこともある。前記した第2バチカン公会議では、「エキュメニカル運動とは、教会の種々の必要と時宜に応じて、キリスト者の一致を促進するために奨励され組織される活動と企て」と定義された。カトリックの他に、正教会やプロテスタントの世界教会協議会(WCC)も中心的な役割を果たしている。
さて大本教の出口王仁三郎は「万教同根」を掲げ、生長の家の谷口雅春は「万教帰一」を唱え、世界真光文明教団の岡田光玉は「地球は元一つ、世界は元一つ、人類は元一つ、万教も元又一つ」と述べた。世界の各宗教ではこの主神のことを、ゴッド、エホバ、アラー、天、ハナニムなどいろいろな名称で呼んでいるが、すべからく天地を創造された唯一の神の別名である。
まさに日本の多神教の神々は、この万教同根の唯一神につなぐための橋渡しの役割を担う「途中神」であり、パウロが述べた「養育係」(ガラテヤ3.24)と言えなくもない。同様に世界の各宗教の神も本源の神に帰一していく神であると思料する。何故なら、そもそも全ての宗教は、創造主の「救済摂理」を、程度や分野や範囲や時代の違いはあっても、それぞれの立場で神から託された役割分担を担うために存在するものといえ、摂理を担うという点において同じ目的を有すると信じるからである。いわば神の摂理のための道具(器)であり、ここにエキュメニカルのアイデンティティがある。
<宗教間対話の神学>
同志社大学学長で牧師の小原克博教授は、宗教間対話を進めるにあたって、宗教の基本的スタンスに3つの類型(タイプ)があるという。即ち、前記で触れたように宗教排他主義、宗教包括主義、宗教多元主義である。
「宗教排他主義」とは、文字通り、他宗教を認めず、自宗教以外に救いはないという考え方である。使徒行伝4章12節に「この人(イエス)による以外に救はない」とある通りである。カトリックは第2バチカン公会議までは、「教会の外に救いなし」との排他的な立場をとってきた。創価学会でも、日蓮があらわした南無妙法蓮華経の文字曼荼羅を御本尊として絶対視し、この御本尊以外に成仏はないとする。
また「宗教包括主義」とは、自宗教が最も優れた教えであるが、他宗教にも救いの可能性があるとし、その意義を認めるものであり、宗教間対話と相互理解を進める立場である。即ち、他の宗教を排除するのではなく、自らの宗教の枠組みの中に「包括」しようとする傾向がある。
カトリックは第2バチカン公会議で、他宗派・他宗教との対話の方針を打ち出し、それまで掲げていた「救いは教会のみ」の文言は放棄され、現在は公式に包括主義の立場に立って他宗教との対話を行っており、カトリックの成熟を象徴している。
また1948年に設立されたプロテスタントを中心とした「世界教会会議」(WCC)もエキュメニカル運動(教会一致運動)を採用し、「神の恵みの普遍性」という神学理念を掲げた。但し、保守的なキリスト教福音派では、エキュメニカル運動に対して、無節操な混合主義に陥るとして懐疑的態度を取っている。つまり、ファンダメンタル(原理主義)な純粋性を保持しようとする姿勢であり、一見かたくなに見えるが、これを排他主義として片づけるわけにはいかない。
第三の「宗教多元主義」だが、「緒宗教の中には固有の真理がある」と捉え、一つの宗教が他のすべての宗教より優れているという考えを退け、それぞれの宗教の独自の価値を認め、相互理解と共存を重視する思想である。それぞれの宗教には皆独自の固有の教えがあるが、それらの独自性は排他的な形で優越性や普遍性を主張すべきではなく、共に平和に共存していくことを目指す。
イギリスのキリスト教哲学者ジョン・ヒックは宗教多元論の主唱者だが、キリスト中心主義ではなく神中心を主張し、唯一の神のまわりをキリスト教を含めた諸宗教がまわる「神中心主義」を唱え、従来のキリスト教からの大転換を計った。まさに出口王仁三郎や谷口雅春が唱える万教同根・万教帰一の思想に近いものがある。
では以上の議論を踏まえた上で、これからの宗教間対話は、どのような理念と姿勢で取り組むべきなのだろうか。端的に言えば、「神の恵みの普遍性」(万人救済思想)の理念のもとに、宗教的包括性を加味した多元主義、即ち、「包括的多元主義」を提唱したいと思う。即ち、自らの宗教の真理性を堅持しながらも、宗教にはそれぞれ固有の真理に至る道と役割があるとの理念に立ち、すべての宗教は唯一の根源者たる神に帰するという開かれた思想である。
だが宗教一致の道はそう簡単ではなく、日暮れて道遠しの感がないではない。だが聖書に「善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6.9)とあるように、疲れず、たゆまず宗教間対話と相互理解を推し進め、神が願う宗教一致の理想を実現したいと思う。(参照→ https://x.gd/fyUmF )
【UCにおける超宗教・超宗派運動】
ところで、エキュメニカル(教会一致)運動、即ち超宗教・超宗派活動は、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)が最も重要視された分野である。
1985年8月20日、ダンベリー監獄から出監した創始者は、その夜、宗教自由連盟主催の出監獄歓迎晩餐会(ワシントンDCのオムニ・ショーハムホテル)に出席された。ユダヤ教ラビやキリスト教牧師ら宗教指導者1700人が歓迎して迎えたのである。創始者曰く、「神は宗派主義者でも教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての心情は、民族と人種の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。今日のキリスト教は大きく覚醒し一つに団結しなければなりません。新しい宗教革命が起こらなければならないのです」(自叙伝『平和を愛する世界人として』光言社P197)と....。
その後、7000名以上の牧師が釜山のボムネッコル(初期開拓教会)を訪ね、ソウルで原理を学び、これを基盤にアメリカ聖職者協議会(ACLC)が組織された。そしてACLCを基盤に、WCLC(世界キリスト教聖職者指導者協議会)が設立され、続いてKCLC(韓国聖職者指導者協議会)、JCLC(日本聖職者指導者協議会)が展開されている。この組織は宗教間の葛藤を超え、聖職者たちが一つの神のもとに人類一家族理想を目指す運動であり、特にACLCは創始者のダンベリー獄中受難に起源を有するものである。
アメリカでは、平和と開発のための宗教者協議会(IAPD)北米議長のジョージ・スターリングス大司教、グラミー賞を受賞したヘゼカイア・ウォーカー牧師、シカゴのT.L.バレット牧師、ロシア正教会のウラジミール・フェドロフ大司教、金起勲(キム・ギフン)WCLC推進委員長、ルオン・ルースACLC共同議長、トランプ大統領の宗教特別顧問のポーラ・ホワイト牧師、シティー・オブ・レフュージ教会のノエル・ジョーンズ牧師、エバンジェル大聖堂のドン・メアーズ牧師などがACLCリーダーとして活動している。現在アメリカには、「5000名の祝福を成功させた教会」や、「400カップルもの牧師カップルが40日聖別と3日儀式を経て、自分の信徒達を祝福に導き教育している」といった証がある。

特筆すべきは『世界経典』の編纂である。1991年、創始者は全世界の宗教学者40人を集め『世界経典』を編纂されたが、これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など世界の経典の教えをテーマごとに比較研究してまとめたものである。創始者は次のように言われた。
「沢山の宗教の教えの中で、7割は同じことを言っていました。残りの3割だけが、各宗教の特徴を表す言葉でした。その外見は違いますが、宇宙の根本を求め、創造主の御旨を推し量ろうとする点では、すべて同じです」(『平和を愛する世界人として』P244)
以下、主なUC主導の超宗教・超宗派活動を概観する。
1981年-神様会議
1991年-世界平和宗教連合(IRFWP)
1991年-「世界経典」編纂
1999年-世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)
2000年-米国聖職者指導者会議(ACLA)
2003年-イエス様平和の王戴冠式
2019年-世界聖職者指導者協議会(WCLA)
2019年-韓国聖職者指導者協議会(KCLC)
2005年-天宙平和連合(UPF)創設
2025年-「世界宗教指導者会議」開催
こうして創始者は超宗教・超宗派活動に心血を注がれたのであり、まさに「包括的多元主義」の実践である。また生前創始者は、国連改革を強調され、宗教代表者からなる上院の設立を提唱された。平和の鍵は宗教であり、宗教の垣根を崩すことなくして平和はないとの創始者の信念である。
以上、「エキュメニカル運動の理念と課題-高裁に最終主張書面提出」と題して、UC関連裁判の現況を概観すると共に、宗教一致の理念と実践を述べ、創始者の宗教一致にかけた情熱を再確認した。(了)
牧師・宣教師 吉田宏








