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勝海舟記念館訪問記 勝海舟とキリスト教

◯つれづれ日誌(令和5年1月11日)-勝海舟記念会館訪問記 勝海舟とキリスト教


オレ は、幕府瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。 (勝海舟)


この1月8日、感じるところあり、礼拝後、大田区の洗足池にある勝海舟記念館と隣接する海舟の墓を訪問しました。実は、安倍晋三さんが吉田松陰や高杉晋作を尊敬されていたこともあって、好奇心を掻き立てられ、年末年始、幕末維新の歴史を詳しくおさらいをし、維新の群像を再認識することになりました。


そうして、筆者の結論として、明治維新は一言で言えば、日本の近代化の夜明けを告げる鐘であり、日本を再臨摂理に用いんがために、「神のご計画の中で導かれた歴史的変革」だったということでした。きら星の如くの維新の群像が出て、その端々に神の足跡を感じ、神の日本に対する期待と愛情の大きさを実感しました。そして、ヤスバースのいう「歴史の枢軸時代」を想起しました。


ちなみに歴史の枢軸時代とは、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが唱えた言葉で、紀元前500年頃に集中して世界的な宗教家、思想家が出現した歴史的エポックを言います。即ち、中国では孔子、インドでは釈尊、イスラエルではマラキ預言者、ギリシャではソクラテスらを輩出して、後世の諸宗教、諸哲学の源流となりました。幕末維新の時代は、日本における「歴史の枢軸時代」とも言える多彩な人材が生まれた時代でした。


そして1853年の黒船来航は、正に神がその手で日本の扉を叩かれた瞬間であり、明治維新という刺激的で壮大なドラマは、事実上この日から幕を開けることになりました。ペリー来航という天の時、大変革を望む地の声、そして目を見張る維新の群像、これらが三位一体となって成し遂げられた日本の歴史上、空前の大改革でした。


今やUCは、安倍事件という天の時、教会改革を望む信徒の声(イスラエルの残れる者の声)があり、そして筆者は既に改革の方案を提言していますので、あと待たれるのは、かの維新の群像のように、改革を断行する勇気あるリーダーの排出です。


【維新の群像】


さて維新の三傑と言えば、西郷隆盛(1828年~1877)、大久保利通(1830~1878)、木戸孝允(1833~1877)であり、情の西郷、意の大久保、知の木戸と言われますが、何と言っても人気があるのは、西郷隆盛、坂本龍馬(1836~1867)、そして勝海舟(1823~1899年)ということになるでしょう。この中でも海舟は、唯一幕府側の異色の人物でした。


そして明治維新は概ね三段階の経緯を経て成し遂げられました。即ち、思想構築の段階、改革実践の段階、改革後の統治の三段階です。先ず、明治維新の立役者である長州藩・薩摩藩には、藩を倒幕、維新へと向かわせた思想的・精神的な支柱となる人物がいました。即ち「維新の父」と呼ばれる長州藩の吉田松陰(1830~1859)、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら・1809~1858)です。


松陰と斉彬は、藩内での立場こそ異なりますが、尊皇攘夷の真の意味、時代を先取りした開明的な思想をいち早く悟り、その後の弟子たちに維新の道筋を示しました。この「維新の父」の薫陶を受けて維新を成し遂げたのが高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らであり、これらの土台の上に伊藤博文(1841~1909)、山県有朋(1838~1922)らが新政府を統治していきました。伊藤は、「明治国家建国の父」としてその政治的手腕を高く評価され、山県は日本陸軍の基礎を築いたことで「国軍の父」とも称されています。


維新の群像たちの明治元年(1868年)時の年齢は、海舟が45才、西郷が40歳、大久保が38歳、木戸が36歳、伊藤が28歳、山県が31歳でした。また吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬らは若くして既に死んでいます。明治国家建国は、これら若者たちの力が大きな原動力となったのです。 これらの維新の志士にあやかって、UCの次代を背負うリーダーたちの出現を切望いたします。


【勝海舟記念館を訪問して】


では今回、筆者が何故勝海舟(1823~1899)に注目したかと言えば、大きく以下の点を挙げることができます。


第一に、海舟があの著名な志士、坂本龍馬と西郷隆盛に大きな影響を与え、(坂本龍馬は海舟の弟子だった)、彼らの世界観を一変させたことです。次に、倒幕派の長州や薩摩の志士と違って、幕府側の要人であり、正に体制側からその幕府の幕引きを図った人物であったことで、江戸城無血開城はその象徴であります。そして第三に、何よりも海舟はキリスト教に関心と理解があり、晩年はキリスト教に帰依したと言われていることであります。


つまり、坂本龍馬が「薩摩と長州の橋渡し」であるとすれば、海舟は、「薩長倒幕派と幕府の橋渡し」でありました。また「キリスト教西欧文化の理解者」でもあり、正にこれが勝海舟のアイデンティティーだというのです。海舟は、その強い個性故に他との衝突もありましたが、蘭学や海防に精通していただけでなく、率直で屈託なく、人間味あふれる豪放な性格の持ち主でした。


かって新渡戸稲造が日本とアメリカの架橋となるべく、日本を欧米に紹介する『武士道』を書きましたが、その新渡戸にあやかって、この度筆者は、聖書と原理の橋渡し、キリスト教とUCの仲介者をテーマとした神学書『異邦人の体験的神学思想』を出版いたしました。かって互いに憎悪むき出しの薩長が同盟を結んだように、犬猿のキリスト教とUCのいわば「成約の薩長同盟」は果たしてなるのでしょうか。


<勝海舟の人生路程>


さて「勝海舟記念館」ですが、かって筆者も一時期住んだことがある懐かしい洗足池の傍に建っていました。ここには生涯の主な出来事が、写真や遺物、書簡、そして激しい航海を余儀なくされた咸臨丸の動画などが順を追って展示されていました。海舟は貧しい下級の旗本の生まれで、剣の達人でありましたが、蘭学に興味を持ち、辞書を書き写すなどして蘭学を修め、開明思想の持ち主になりました。ちなみに海舟の上背は156cmくらいで、当時男子の平均身長でした。


以下、海舟の人生の主な出来事を振り返りたいと思います。


a.生い立ちから青年まで


1823年、貧しい旗本の子として生まれる。幼名および通称は麟太郎。


1829年(7才)、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞の遊び相手として江戸城へ召される。 1831年(9才)、野良犬に出会って金玉を噛まれ重症。


16才で家督を継ぎ、この頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び、19才で「直心影流剣術の免許皆伝」となる。 兵学は山鹿流を習得している。


1845年(22才)から蘭学を学ぶ。この蘭学修行中、25才で辞書『ドゥーフ・ハルマ』58巻を1年かけて2部筆写した有名な話がある。28才で赤坂田町に蘭学の私塾「氷解塾」を開く。


b.ペリー来航から長崎海軍伝習所まで


1853年(30才)、ペリー艦隊の黒船が来航する。開国を要求され、幕府老中首座阿部正弘は、海防に関する意見書を幕臣はもとより朝廷、諸大名から町人に至るまで広く募集した。


1853年、海舟は「海防意見書」を幕府に提出。意見書は阿部の目に留まり、1855年1月18日、蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たした。


1855年(33才)、安政の改革で才能を見出され、「長崎海軍伝習所」に入所。足掛け5年間を長崎で過ごす。「海」は世界に通じ、海外に目を向ける機会となり、藩や幕府を超えて日本という次元でものを考える世界観を形成。この時、長崎海軍伝習所の教師カッテンディーケからキリスト教の感化を受ける。


c.渡米から江戸城無血開城まで


1860年(38才)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を送り、海舟も咸臨丸で同行し、サンフランシスコを視察した。サンフランシスコでは毎週キリスト教会に通った。


1862年(40才)、帰国後、軍艦奉行並となる。このころ、坂本龍馬が門下生となる。


坂本龍馬は、海舟の元で神戸海軍操練所の塾頭、後に亀山社中・海援隊を組織し、政治的には薩長同盟を成し遂げた。組織に属さず自由な発想で、世界的視野に立って大局的な仕事を完遂した。龍馬を近代日本の「総合商社の父」と評価する声がある。


1863年(41才)、神戸海軍操練所設立


1864年(42才)、軍艦奉行。第一次長州戦争の前に大阪で西郷隆盛と対面し、藩を越えた思想を説き、西郷に大きな影響を与え、幕府対長州の戦争を回避する。勝海舟曰く「薩摩がなんじゃ、長州がなんじゃ、皆日本人じゃなか。国内で争えば外国を利するだけ」


1966年(44才)、軍艦奉行に再任。第二次長州戦争の時に、奇しくも徳川家茂(1866年7月20日、20才没)と孝明天皇(1831年7月22日~1867年1月30日)が相次いで亡くなる。


1968年(46才)、海軍奉行並びに陸軍総裁。3月13日江戸薩摩藩邸で、4月9日池上本願寺で西郷隆盛と会見。江戸城無血開城。 戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現した。


明治政府では、海軍卿などを歴任し、日本海軍の基礎を作る。最後まで、主君だった徳川慶喜を守った。晩年、キリスト教に傾く。


<勝海舟とキリスト教>


こうして勝海舟は、幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を成功させ江戸を戦火から守りましたが、この成功には西郷と海舟の信頼関係があったことがあると思われます。即ち第一次長州戦争の際に、海舟は西郷に「内乱は外国を利するだけであり、また薩摩、長州といった藩の枠を超えて、日本をどう守るかが重要である」ことを説きました。西郷は海舟の世界観に魅了され第一次長州戦争を和解に導きました。坂本龍馬も海舟の世界を見る目に敬服して弟子入りしています。


では、このような海舟の世界観は如何にして生まれたのでしょうか。これを知る鍵は「海」にあります。海舟は蘭学を学び、日本のしっかりした海軍を作ることの重要性を早くから唱え、長崎海軍伝習所で海に親しみ、龍馬と共に神戸海軍操練所を立ち上げました。また日米修好通商条約の批准書交換に同行して太平洋を渡っています。即ち海舟にとって海は身近にあり、そして「海」は世界に通じ、藩や幕府を越えたグローバルな見方を養ったというのです。


勝海舟はサンフランシスコに滞在中、アメリカの進んだ文明に驚愕する共に、西欧文化の根本にあるキリスト教に関心を持ち、毎週キリスト教会の礼拝に通ったと言われています。その背景には長崎海軍伝習所時代にクリスチャンのオランダ人教師カッテンディーケとの出会いかありました。このカッテンディーケとの出会いが、キリスト教を学ぶ契機となったというのです。海舟は長崎海軍伝習所に航海術の教師として赴任したカッテンディーケが、毎週日曜日に熱心に教会の礼拝に行く姿を見て感動し、キリスト教に関心を持ち、オランダ語の讃美歌を日本語に翻訳しています。つまり、日本で最初に外国の讃美歌を翻訳したのは勝海舟でした。


さらに、世界に目を向けていた海舟は、伊藤博文らとともにキリシタン禁制に対する「耶蘇教黙許意見」を政府に提言し、これが、1871年(明治3年)のキリシタン禁制の撤廃へとつながって行きました。当時、木戸孝允、井上馨などの長州出身者は、長崎浦上のキリシタン3000名余を 他藩に流すなどして維新後もキリスト教を弾圧しましたが、海舟はキリスト教に理解を示しました。


維新後は明治新政府の政治顧問のような役職を歴任しますが、 敬虔なクリスチャン家族 ホイットニー家との深い交友などを通じて、晩年はキリスト教に接近し、漢訳聖書を座右の書としていました。 死期の最後に「私はキリストを信じる」との信仰告白をするに到り、こうして日本と世界との間に架け橋を設けた海舟の思想の根底に、キリストの福音があったというのです。(元クリスチャン新聞編集長守部喜雅 談)


以上が勝海舟についての概略ですが、長州、薩摩らの倒幕派の志士とは一味違った、幕府側の維新の立役者を見て感じることは、やはり目に見えない神の配剤があったということです。神が適材適所に人材を配置され、全体として日本の近代化を導かれ、日本を再臨摂理に用いようとされた神の足跡を感じざるを得ません。


なお、日本の初期のキリスト教の指導者は、勝海舟に象徴されるように、没落した佐幕派の士族階層が中心でした。植村正久、内村鑑三、新島襄にしても、ほとんどがいわゆる佐幕派の武士出身であり、薩長が主導権を握る明治政府から閉め出された佐幕派が、英語やキリスト教に人生の活路を見いだしたとも言えるでしょう。


勝海舟の主な業績としては、龍馬と西郷に影響を与えたこと、江戸城の無血開城と徳川幕府260年の幕引きをなしたこと、日本海軍の基礎を作ったこと、キリスト教の理解者だったこと、の4つを挙げることができるでしょう。当時勝海舟が、藩の意識を越えられなかった時代に、藩を越えた日本という視点を既に持っていたように、現代においては、日本人、韓国人、アメリカ人といった民族や国家の枠を超えた「地球人としての視点」に立つことが肝要だということだと思われます。(了)

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