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吉田松陰神社を訪問して 旧統一教会バッシングと明治維新の霊的意味

◯つれづれ日誌(令和4年12月28日)-吉田松陰神社を訪問してー旧統一教会バッシングと明治維新の霊的意味


一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる(ヨハネ12.24)


先週筆者は所用で世田谷法務局に行ったのですが、たまたま近くに吉田松陰を祀った「松陰神社」がありましたので、帰途、吸い寄せられるように、当該神社を訪問いたしました。神社に隣接して松陰の墓所がありましたので、墓にも参拝してきました。


言うまでもなく松陰神社は祭神として吉田松陰が神様として祭ってあるのですが(こうして人間でも神様になるのが日本神道の特徴です)、本殿に安置されている御神体はなんでしょうか。後で神官に尋ねましたら、なんと松陰が携帯していた「脇差」(刀)だということでした。


筆者は松陰神社で、いつになく爽やかな霊感を感じ、何か吉田松陰(1830~1859)に注目しなさいと神が言われているような気がして、改めて松陰と明治維新について学び直した次第です。

吉田松陰は明治維新の思想家、実践家でしたが、何と言っても「優れた教育者」でありました。松陰は若くして藩校明倫館の師範になり、また私塾松下村塾を開き、これら松陰の門下生には、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一の松下村塾四天王を始め、伊藤博文、山縣有朋、桂小五郎(木戸孝允)、前原一誠、品川弥二郎などがいて、2年足らずの松下村塾で、明治維新を担ったそうそうたる面々を排出しています。短い30年の生涯でしたが、後生にこれだけ秀逸な人材を育てた人物は他にいないと言っても過言ではありません。


松陰の松下村塾に並ぶ私塾として、敢えて挙げるとすれば、「内村鑑三の聖書研究会」があります。やはり内村の聖書研究会から、田中耕太郎、塚本虎二、藤井武、矢内原忠雄、南原繁、天野貞祐、有島武郎、大塚久雄、斎藤宗次郎、正宗白鳥など、内村に影響を受けたそうそうたる門下生を排出しています。


そして松陰の弟子の中でも筆者が最も注目した人物が高杉晋作(1839~1867)でした。何故なら、高杉晋作は安倍晋三元総理が同郷の偉人として大変尊敬していた維新の立役者であり、父安倍晋太郎も安倍晋三も高杉晋作の「晋」の字を取って命名しているほどだからです。


筆者は今、吉田松陰、高杉晋作、安倍晋三が一本の線でつながっている霊性を感じると共に、現代を生きる私たちに、大切な何かを示唆しているような気がして、今一度、吉田松陰の死生観と高杉晋作が担った役割、そして安倍晋三に与えた影響などについて、神の救援摂理を意識しつつ考察したいと思います。


【吉田松陰が遺したもの】


先ず最初に、長州藩の倒幕運動の思想的バックボーンになった吉田松陰の人生と思想についておさらいをしておきます。なお、松陰の風貌について、「小男の痩せた赤あばたのある男で、余り風采のよい人とは思われなかった。しかしその炯々(けいけい)たる眼光は直に人の肺腑を貫くというおもむきがあった」という評があります。


明治維新とは言うまでもなく、徳川の幕藩体制から天皇を中心とした中央集権国家への体制変革を実現し、近代化を成し遂げた日本の歴史における最大の革命的な出来事でした。そしてそれは、1853年のペリー率いる四隻の黒船から始まり、大きくは三段階を経てなされたと考えることができるでしょう。


第一段階は維新の思想が形成される時期で、藤田東湖らの尊皇攘夷を掲げる水戸学、開明思想の佐久間象山、そして我が吉田松陰らが担いました。いわゆる尊皇攘夷、尊皇開国、尊皇倒幕の思想です。第二段階は、第一段階で形成された思想に基づいて革命を実践する志士たちの時期であり、高杉晋作や坂本龍馬、薩摩志士らが担いました。最後の第三段階は、これらを踏まえて、実際の国造りをしていく時期で、伊藤博文や山形有朋らがその任に当たりました。


これを現下のUCになぞらえれば、先ず教会改革の理念と道筋を示す理念構築の段階、次にこの理念に基づいて改革を断行する一世らによる改革成就の段階、そしてこの改革の上に立った新しい教会造りを成し遂げる次世代(二世)の完成段階ということになります。さしづめ筆者は第一段階を担うことになるのでしょうか。


<吉田松陰の人生と思想>


では吉田松陰の人生と思想はどのようなものだったでしょうか。


松陰は、養子先の吉田家が代々の山鹿流兵法学の指南役の家系であり、6才にして山鹿流兵学の家を継ぎ、9才にして師範代、11歳で毛利藩主毛利慶親に御前講義し、19才で明倫館の教授になるといった天才でありました。また、老子に精通し、陽明学の「知行合一」の体現者でもありました。


また勉学だけでなく、九州から東北まで諸国を遊学して各地の論客と交わり、水戸では水戸学の尊皇攘夷論、江戸では佐久間象山から開明思想を学びました。


ちなみに尊皇攘夷とは、天皇を尊び、外国の流入を拒否するという思想ですが、当時清帝国がアヘン戦争で疲弊し、英国の半植民地状態に追い込まれた事もあり、誰しも西欧列強の侵略植民地化の脅威を感じていました。そして松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、やみくもに鎖国を維持して外国を排斥するということではなく、皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、という考え方で、平たく言えば「国防の思想」であります。そして尊皇攘夷思想は事実上、倒幕のエネルギーとなりました。


そのためにはもはや賞味期限が切れた徳川幕府を倒して天皇を中心とした新政府を作ろうという「倒幕」の道と、幕府と朝廷の力を合わせて国家をまとめようとする「佐幕」の二つの道がありましたが、ともに「尊皇」という点では同じでした。


また「攘夷」も、鎖国を続けたまま戦うという道もあれば、「開国」して西洋の技術を導入しつつ防衛を強化するという道(大攘夷)もあり、どちらにしても「攘夷」という点では同じであります。結局、最終的には「倒幕」による「尊皇」と、「開国」による「攘夷」という道をとったのでした。


神道思想家の葦津珍彦(あいづうずひこ)氏は、攘夷の意義について、次のように語りました。


「日本民族が国際交通を始める前に、まず攘夷の精神によって独立と抵抗の決意を鍛錬したことは、決して無意味だったのではない。この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、国の独立を守りぬくことができなかったであろうし、植民地化せざるをえなかっただろう」


さてこのような松陰の思想は長州藩の尊皇攘夷思想の下地となり、倒幕運動の理念的エネルギーになりましたが、何よりもその「死生観」は門下生に決定的な影響を与えました。常に松陰は、如何に生きるかよりも、如何に死ぬかを考え、また、弟子たちにもそれを身を持って教えました。それは、門下生四天王の久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一は、皆20才代で死んでいることからも明らかです。


また松陰は、酒も煙草もたしなまず、女を近づけることもなく、生涯独身と清貧を貫きました。まるでイエス様や修道僧の生き様です。 この点、29才にして結核で死んだ高杉晋作とは対象的です。高杉はその思想と行動において松陰に動機付けられましたが、私生活においては真逆で、遊廓に入り浸り、おまけに結核菌をもらうという始末です。「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句が高杉の生き様を象徴しています。


そして松陰は、その行動において、よかれと思ったことには、その成否や後先算段を考えることなく、躊躇なく常識を越える行動をしたことでも知られ、これらは次の行動が物語っています、


一つは、盟友宮部鼎蔵(ていぞう)との約束を優先して、藩の許可を受けることなく「脱藩の罪」を犯して東北への遊学を敢行したこと、一つは密航の「国禁を犯して」ペリーの黒船に乗船してアメリカ遊学を直訴したこと、今一つは、天皇に許可を受けることなく締結した日米修好通商条約(違勅調印)に加担した老中間部詮勝(まなべあきかつ)の「暗殺を計画」したこと、に象徴的に現れています。


これらの一見無謀とも思える行動の結果、しばらく長州萩の野山獄に幽囚となった後、生家に蟄居となり、この時に松下村塾を開き、門人の教育に励みました。そして間部暗殺計画では、結局、処刑されました。(享年30才)


では一体、松陰のどこに門下生は魅了されたのでしょうか。思想なのか、学問の深さなのか、教育者としての卓越さなのか....。そのいずれもが妥当すると思われますが、やはり、前述したように、何と言っても松陰の「死生観」です。


<松陰の死生観>


松陰は間部要撃計画を自ら告白したため、処刑されましたが、処刑される前、小伝馬町の牢獄で門弟たちに宛てて書いた書『留魂録』を遺して、自らの死生観をしたためています。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となりました。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」の辞世の短歌で始まる留魂録には、松陰の死生観が端的に示されています。


「今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです」と記したあと、次のように語りました。


「私は今、30歳です。何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに惜しいことでしょう。しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの『収穫の時』を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その収穫の時を、悲しむ必要があるでしょう」


そして、こう続けました。


「もしも同志の人々のなかで、私のささやかな『誠の心』(大義の情)をあわれと思う人がいて、その誠の心を『私が受け継ごう』と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば1粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう」


筆者はこの一節を読んだ時、イエス・キリストの言葉「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12.24)を想起し、松陰の死を前にした悟りの境地に思いを馳せた次第です。いずれにせよ、死に際して、松陰のように「我が人生、悔いなし」との言葉を遺したいものです。


そしてその松陰の志は、その如く松下村塾の門下生らに引き継がれました。高杉晋作は、手紙に「私は、先生の仇を討たないままでは、心安らかに暮らしていくことなど、とてもできません」としたためています。この後高杉は、1865年、天地の前に単独者としてひとり決心し、功山寺で決起しました。高杉は正に天祐により勝利し、長州藩の実権を握ったというのです。その上で、薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐で幕府軍を破り、明治維新への道を開いたことは周知の事実です。私たちも高杉に習って、み旨の前にひとり立ち、先ず単独者として神に回帰したいと思います。


明治新政府が発足すると、松下村塾で学んだ伊藤博文が初代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布し、また同じく塾で学んだ山県有朋も日本陸軍の基礎を築いて、「国軍の父」と称されました。


松陰は生前、門人たちに「たとえ松陰の肉体は死んでしまうとも、魂魄(こんぱく)は此の世に留って、お前たちの身に添うて、必ず私の此の精神を貫く」と語り、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と薫陶しましたが、正にこの言葉通り、松陰の魂は高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らの身に注がれ、日本が天皇の下に一つにまとまって、アジアで唯一近代化に成功した国となりました。


それにしても明治維新は、天の時、地の利、人の和が相俟って、神の霊妙なご計画の中にあって事が運ばれたというしかありません。そして今回の旧統一教会バッシングも、大きくは神の摂理の中にあると筆者は信じています。


<吉田松陰の光と影>


こうして松陰は、思想家、学者、改革者として、そして教育者として、流星の如く駆け抜け、明治維新を成功に導きましたが、一方では、松陰に対する根強い批判もあります。


先ず、水戸学に触発された吉田松陰が松下村塾で更に過激な内容を塾生に伝え、多くの塾生が尊皇攘夷の無法な活動家となり、結果的にテロリストを養成したとの批判があります。松陰の思想を曲解していたとは言え、一部の長州藩士や脱藩者は、過激な攘夷論をかかげ、京都の町を震撼させました。京都の町の半分を焼いた1864年の「禁門の変」などはその象徴です。


また松陰は、著書『正氣の歌』において、「既にキリスト教の禁令が破られ、鎖国を止めて開港を話し合う始末だ。このことに帝は心を痛められて、国の周囲には妖気が盛んに満ちて来ている」と記しているように、開国により異教のキリスト教が流入することを警戒しています。つまり松陰は、藩を超えて日本という視点で見ることができる愛国者でしたが、所詮は国を越えた世界観までは遠く及ばない「民族主義」だったかも知れません。


この点は内村鑑三の世界観「われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため」との大きな違いです。ここに、義と誠に生きた愛国者吉田松陰の素晴らしさとその限界があります。


実は明治新政府も当初キリスト教禁止の幕府政策を継続したというのです。明治政府は浦上村のキリシタン全村民流罪という決定を下し、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに弾圧は長崎一帯の村々に及びました。この「キリシタン全村民流罪」という決定は、さしづめ富山市議会や大阪市議会などで「統一教会と一切断絶する」と決議された暴挙と瓜二つです。


浦上キリシタンは、旅先で迫害を受け、この流罪を「旅」と名付けました。旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、562人が亡くなりました。 まるで理不尽なマスコミの魔女狩りにあって迫害を受けている旧統一教会信者を見るようです。


そしてこのキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は、松陰の薫陶を受けた木戸孝允や井上馨でした。明治政府は、ようやく1873年(明治6)に禁教令を廃止し、家康の1612年の天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復したというのです。


【明治維新の摂理的意味】


文鮮明先生は、日本はアジアの中で、唯一近代化に成功した国」と評価され、明治維新後の日本の目覚ましい発展は、神が保護された期間であり、それは「日本の天職」を全うするための祝福だと言われました。


日本の天職とは、西側からの西欧文明を右手で受け取り、東側大陸に左手で受け渡すと共に、東側の東洋思想を西側につなげる「媒介者」になることであります。そして、日本に与えられた神の祝福を世界福地化のために還元することに他なりません。


久保木会長は、著書の中で、「日本の天職(使命)は、東西大陸の橋渡しになると共に、西洋文明を吸収し、韓半島を通じてアジア大陸に連結することであり、そして逆に、韓半島・アジア大陸から東洋文明を相続して西洋につなぐことにある」と語られました。


即ち、西洋からキリスト教文明を吸収すると同時に、東洋の代弁者となり、西洋と東洋を連結させ、世界文明の2大潮流を統合することに日本の使命があると説かれました。


維新から120年間、敗戦という試練があったものの、全体として神は日本を祝福され、大きく繁栄しました。日本の摂理的、歴史的使命について、文先生は次のように語られています。


「このような文明史の推移を、神様の摂理として理解すれば、今日、天運の中心的立場に置かれている島嶼国家は、正に日本であると考えざるを得ません。日本は神様の摂理を通して、人類歴史の舞台に立ったのです」(平和経P1365)


確かに、日本に幕府に代わる天皇という中心軸がなければ、明治維新は成功できなかったし、この中心軸の下に一致団結した国柄がなければ、その後の発展も覚束なかったはずであります。この意味で、日本の天皇制は歴史的役割を果たし、明治維新という画期的な大事業を成功させ、アジアで唯一近代化に成功した国に導いたと評価できるでしょう。


しかし一方では、天皇を神の座に担ぎ上げて偶像崇拝に陥った時、軍部独裁の「全体主義」をもたらして、敗戦という試練を受けたこともまた事実であり、このような歴史の教訓をしかと記憶しなければなりません。


この点髙井康行弁護士は産経新聞12月25日付け オピニオン欄で、「全体主義が微笑んでいる」との表題で投稿されました。その中で、「その社会が自由であるかどうかは、その社会が少数者あるいは異端の存在を認めているかどうかで決まる」とされ、次のように指摘されています。


「全体主義は為政者によってもたらされるだけでなく、民衆によってももたらされる。安倍晋三元総理が銃撃されてから、一部野党やマスコミは一斉に旧統一教会と議員、特に自民党議員との接触の有無を追求し、わずかでも接点があれば激しく非難し追求した。その姿勢は、まるで合法的な宗教法人である旧統一教会及びその信徒の存在を絶対悪と決めつけているもので、その風潮は、我々の社会における自由が脆弱な面を持つことを露わにし、自由主義社会と全体主義社が背中合わせになっている」


【今や、草莽崛起(そうもうくっき)の時】


凶弾に倒れた安倍晋三元総理は、地元山口の生まれでもある吉田松陰を尊敬しておられ、吉田松陰の言葉「至誠にして動かざる者未だ之れ有らざるなり」を座右の銘とされていたことは前回のつれづれ日誌で述べた通りです。また上記したように、安倍晋三の「晋」の字は高杉晋作の「晋」から取られたもので、いかに同郷のこの二人を敬愛されていたかが分かります。


安倍元総理は、松陰から愛国的心情と死生観を引き継がれ、死を賭けて事を為す勇気を晋作から学ばれました。その強い意思は、アベノミクスで遺憾なく発揮され、安保法制で証明されたというのです。


ここに「草莽崛起」(そうもうくっき)という吉田松陰の言葉があります。草莽(そうもう)とは一般大衆を意味し、崛起(くっき)とは一斉に立ち上がることを指しています。平たく言えば「在野の人よ、立ち上がれ!」という意味であります。


筆者は、富山の旧統一教会の一信者が、富山市議会が行った「統一教会と断絶する」との決議に対して「決議取消し訴訟」を提起した時、これは令和の「功山寺決起」だと心底思ったものです。正に「草莽崛起」の見本であり、これからは草の根的な在野の信者がひとり立ち、あるいはグループで立ち上がる時代であります。かの伊藤博文が力士隊を率い、山県有朋が奇兵隊を率いて高杉の決起に合流したようにです。


この12月16日、富山で開かれた記者会見を動画で拝見しましたが、正直「溜飲が下がる」とはこのことでした。この原告信者の訴訟の弁「全ては、一国のトップたる岸田首相の『今後統一教会と断絶する』との軽率な発言が元凶である」は、正に的を突いた発言でした。そしてこの記者会見は、心ある信者の気持ちを余すところなく代弁して言い表した力強いものでした(記者会見の動画を視聴下さい)。あわせてUPF大阪支部(天宙平和連合)が同様の訴訟を大阪市と富田林市を相手取って提起しましたが、これも画期的なものでした。


そして訴訟代理人の徳永信一弁護士の説明も、理路整然とし、沈着かつ断固としたもので、「今回の議会決議は明らかに誓願権などの違反であり、さすがにやりすぎだ」と、誰もが納得せざるを得ない内容でした。徳永氏は思想的造形も深く、弁護士としても一流だとお見受けし、正に神が予定した人物との感がいたします。


この訴訟は、単に一富山市の議会決議取消し訴訟に留まらず、一方的なマスコミや左翼の魔女狩りに反論するよい機会であり、UC側が公の場で自らの主張を述べる願ってもないチャンスであると思料いたします。


さて冒頭で申したように、この度筆者は、はからずも松陰神社に導かれ、改めて幕末維新の顛末をおさらいする機会が与えられました。今まで何度も聞いた話ではありますが、明治維新の何であるかの「もやもや感」は否めず、今回、明確に整理できてスッキリいたしました。そして神が人類歴史の最終章に日本という国を選ばれ、世界史的役割を付与せんがために明治維新という大変革を導かれたという霊的(摂理的)意味を深く認識した次第です。


そして、今魔女狩りに遭遇しているUCが、実は反日団体どころか、日本がこの世界史的役割をまっとうするために立てられた「真性な愛国団体」であることが早晩明らかになることは自明の理であり、その時こそ、「断絶する」と言った岸田首相が断罪される時であります。(了)

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