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思想的視点から安倍事件問題を考える 有神論と無神論の戦い、一神教と多神教の相克



わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる(ガラテヤ6.9)


先日、ある識者食口と被害弁連やマスコミらによるUC叩き、即ち安倍事件とその波紋について意見を交換し、 また、10月8日、久喜で行われた「ユダヤ・キリスト教と神道」をテーマとするセミナーでもこの問題について言及し議論しました。


【三つの重要議論】


その中で、特に集中して論議したのが、献金の「使途の問題」、山上容疑者の「犯行動機の問題」、そして「論客による本質論」でした。先ず、この3点について述べることにいたします。


<議論① 献金の使途の問題>


自民党の世耕弘成参院幹事長は10月6日の参院本会議の代表質問で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と同党との関係について 「『日本人は贖罪(しょくざい)を続けよ』として多額の献金を強いてきたこの団体の教義に賛同するわが党議員は一人もいない」と述べ、「金輪際、われわれは旧統一教会との関係は一切持つことはない」などと断定しました。


この世耕議員の発言が、本音なのか、選挙目当てのパフォーマンスなのかは別として、筆者としては聞き捨てならない発言であり、公開質問状を発して、その真意を糺すべきだと思っています。


もっとも世耕議員は、選択的夫婦別姓制度導入に賛同し、同性婚を制度的に認めるべきと主張していますので、これらに反対するUPF・勝共とは真逆であり、また派閥(清和会)での主導権争いで、比較的UCに理解のある議員と対抗関係にあるとの噂もあり、もともとUCにはよい感情を持っていなかった可能性があります。


ともあれ世耕議員の発言の中で、「日本人は贖罪を続けよとして多額の献金を強いてきたこの団体の教義」と国会の場で、教義に自虐史観があると、ろくに教義を調べもしないで、左傾マスコミが垂れ流す偏向報道を鵜呑みにして明言したことは、看過できない暴言であります。


実際、憲法学者の八木秀次教授は、「自民党はメディアや野党の追及に気押されて旧統一教会を関連団体を含めて、初めから反社会的組織のように位置付け、『絶縁する』と宣言した」とした上、「臭いものにフタ」方式をとり、問題解決の順序を間違えたと指摘されました。(10月7日夕刊フジ)


本来ならば、メディアや野党が「臭い、臭い」と批判していることに対し、「果たして、本当に臭いのか」「臭いの程度はどうなのか」についての検証が必要だったはずで、そのうえで、本当に臭うのであれば絶縁すればいいし、臭くないなら関係を持つことは問題ない、となるはずだとし、現在、旧統一教会は、宗教法人法によって認められた合法的な存在であり、「自民党が現時点において排除するのは、『信条による差別』を禁じた憲法14条1項に反しはしないか」との問題提起をされました。同様に産経新聞論説委員の阿比留留瑠(あびるるい)氏も憲法14条に抵触すると明記されています(11月号Will)。


この八木教授の主張は正に正論で、またこのような議論は多くの論者が指摘しているところでもあり、UCは自民党に対して、訴訟を含む何らかの筋道を通した抗議行動を取ることを検討してもいいのではないかと思われます。一昨日、幸福実現党の幹部で前回の参議院選挙に出馬した方と会食した際、自民党はお世話になった統一教会を、切って捨てるなど「人道に悖ることをした」といい、「統一教会は抗議すべきだ」と言われていました。


さて筆者は前のつれづれ日誌で、アダム国家(韓国)、エバ国家(日本)という摂理上の概念は、あくまでも条件的な相対関係、即ち摂理上の役割を示した相対概念であり、上下主従関係では全くなく、相互に対等関係であり、教義に自虐史観など一切ないことを論証しました。(つれづれ日誌令和4年9月14日)-UC教義に反日思想はない )


また、世界日報は、かって吉田清治の従軍慰安婦に関する捏造本や朝日新聞の追随記事に関し、虚偽を言っているとして反対の論陣を張り、また勝共連合は北朝鮮や中国のスパイ活動に警告を発して「スパイ防止法制定」の愛国的な国民運動を推進してきたことを見ても明白なように、UCに自虐史観などないことは明らであり、世耕議員の発言は妄想であり、侮辱であります。


従って、日本の献金が贖罪として、韓国に渡るなどということなど一切なく、もしあったとすれば、それは世界宣教活動の一貫として位置付けられるものであります。


即ち日本UCは、旧統一教会が推し進める世界福地化を目指す「世界宣教活動」を支援するため、多数の宣教師を世界に送ると共に、物心両面で世界宣教をバックアップしてきたことは事実であり、これらの活動は反日活動であるどころか、むしろ日本の誇りであり、愛国運動であります。


かって筆者は、1549年のザビエル以来、1614年の徳川幕府の禁教令までの約65年間に、150人ものキリスト教宣教師が日本に派遣され、殉教を含む多大な犠牲と共に、多額の資金が投入されたことを知って愕然とし、激しい羞恥心に襲われたことがあります。


つまり、日本は世界の犠牲の上に立つのみで、「一体日本が世界の為に何をしたと言うのか」という深刻な問い掛けであります。そして日本UCが、福音を携えた世界宣教師を150ヵ国以上に派遣してきたことを改めて認識して、深く安堵したことを告白いたします。


即ち、日本UCは確かに献金の一部を世界宣教に投入したことは事実であり、これは非難されるどころが誇ってもよいことであると言うのです。とりわけ1972年、文鮮明教祖が、神の啓示を受けて自らアメリカに移住され、アメリカが世界宣教本部になってから約40年、アメリカを中心とした神の世界摂理を支えた日本UCは、歴史がしかと記憶することでありましょう。


<議論② 犯行の動機の問題>


さて次に山上容疑者の犯行の動機ですが、巷間、母親のUCへの多額の献金が原因だと喧伝され、あたかもそれが動かせない事実だとの前提で論議が行われているようですが、果たしてそうなのでしょうか。


聞くところによれば、山上家は母親がUCに入信する以前から既に破綻していたと言われており、自殺した父親の酒乱や兄の重い病気もあり、山上はその頃から精神的な傷を負っており、山上の歪んだ性格は既に形成されつつありました。


また自らの思い込みが激しい性格や、人生への絶望的な行き詰まりから、UCに責任転嫁した可能性が多分にあります。また献金が原因と言うより、母親をUCに取られたと言った淋しさから来る幼児的な性向も見られ、言われなきUCへの憎悪という妄想が内心で拡大再生産され、増幅されていったとも考えられます。それに山上容疑者には精神的に疾患を抱えていた可能性があります。


精神鑑定に詳しい高岡健医師は、「母親を憎み切れず、敵意が外に向かったと考えられる」と語りました。また山上をかってよく知るUC信者は、「どこかで壁にぶち当たり、大変なことになると思った」(10月8日産経新聞)と証言し、山上の危うさを指摘しました。


更に本件事件は、母親のUC入信から20年以上も経過しており、母親の献金への恨みという妄想がそんなに長期に渡り続くのかという疑問、またそういった山上の妄想を第三者が利用し、たきつけて、全く的はずれの安倍元総理暗殺という暴挙に出た可能性も排除できません。前記の幸福実現党の幹部も、山上容疑者は安倍元総理を貶めたい勢力に利用されたと言っていました。


以上の通り、山上の犯行動機の形成過程に多くの疑義があり、UCへの多額の献金が原因だという巷の一方的な風潮は危険であり、UCはこの犯行の動機への疑問を主張すべきであると共に、記者会見の際には、先ずこの疑問を呈すべきだと思われます。


アゴラの池田信夫氏も指摘されているように、そもそも如何なる動機であれ、犯罪行為そのものを問題にすべきであり、あたかも犯罪を肯定し、あまつさえ山上を英雄視するかのような風潮は、極めていびつで危険であると言わなければなりません。


<議論③ 論客による本質論>

論客の一人ブロガーの藤原かずえ氏は、「日本国民は日本マスメディア連合というカルトの狂信的な信者である」(月刊Hanada11月号)と述べ、ワイドショー的なマスメディアに完全に洗脳されている日本社会の迎合性を問題にし、岸田総裁は、このマスメディアというカルトに屈したと明言しました。


筆者もまた、藤原氏と同様、日本社会の宗教的未熟性、空気という実体のない同調圧力が蔓延しやすい日本の風潮、左傾下したマスメディアへの無抵抗ぶり、合同結婚式を人権侵害などと断じる浅薄なマスコミの倫理観念などに失望すると共に、危機感さえ感じるものです。


宗教学者の島田裕巳氏も、「今回の事件で分かったのは、政治家も弁護士も専門家も、宗教に関する認識があまりにも甘すぎる」(11月号Will)と明記され、日本の宗教的未熟性を嘆かれました。


また、佐藤優氏は、政教分離の本質的意味、内心の自由の価値、献金の信仰的意義、などキリスト者の視点で宗教の本質論を論評しています。


更に、金沢大学教授で元UC信者の仲正昌樹(なかまさまさき)氏は、UCには、「歴史は神とそれに敵対する堕天使ルーシェル(サタン)との戦い」という歴史観があり、ルーシェルの思想を理論化したのがマスクス主義思想だとしていると述べ、UCの反共主義の思想的淵源まで踏み込んだ発言をしました(10月9日産経新聞)。


島田裕巳氏 佐藤優氏 仲正昌樹氏


こうした論客による本質論に加えて、ドナルド・トランプがUPFに賛同し、ワシントン・タイムズやUPIを傘下に納め、2つの国連NGOを有するなど、グローバルなUCグループの活動実体が明らかになり、一体、これらを指導した文鮮明教祖とは何者で、UC教義は如何なる教えなのかといった、より本質的な問題に関心が向かっている傾向があります。


こうして今回の安倍事件は、日本人に「宗教の根本意義とは何か」という問いを突き付けており、これを検証することは大いに意義があることだと思われます。


【有神論と無神論の戦い、一神教と多神教の相克】


では、10万人足らずとも言われる小規模な宗教団体が(公式発表としては61万人)、何故これだけ大きく騒がれ、天下の自民党が弁明を迫られるほど大きな問題になっているのでしょうか。


それはマルクス主義的な表現を使えば革命の前衛、即ち、神に身を捧げた核心要員によって構成され、明確な理念を持って神主義革命を「献身的に推進する群れ」であるからに他なりません。ここが他のぬるま湯的な宗教団体と違うところであり、つまり、黙示録7章に記された「主を証しする144000人の群れ」であるからに他なりません。


そして誤解を恐れずに問題提起すれば、今回の事件による波紋は、「一神教と多神教の相克」を背景とした「有神論と無神論の戦い」と捉えることができるのではないかと思料したします。


<有神論と無神論の戦い>


苛烈なマスコミのUC叩きの背景には、UCと共産主義との戦いがあることは、多くの識者が指摘しているところであります。実際、かって理論戦で勝共連合に一敗地にまみれたこともある日本共産党は、今回なりふり構わずUC潰しに狂奔しています。つまり、これを思想的に見れば、「有神論と無神論の戦い」と見ることができるというのです。


かって久保木修己元UC会長は、勝共運動の本質は「神の復権にある」と次の通り語られました。(参照-つれづれ日誌3月17日-久保木修己著「愛天愛国愛人」を読んで③)


「共産主義は神と人間を断絶させ、神を葬り去ろうとした思想です。つまり神の敵であり、故に人類の敵です。また全ての宗教者の敵です(著書『愛天愛国愛人』P100)


つまり、勝共運動が、キリスト教的な「神主義」(ゴッドイズム)を基本理念としている点であり、共産主義の本質を「神を否定する思想」、即ち神への反逆の思想と捉える社会啓蒙運動であり、「神を回復する愛国運動」であるというのです。そして会長は、共産主義と戦っても、共産主義者には何の恨みもなく、彼らも救いの対象であると言われました。


そして、会長は次のように結ばれました。


「神の喪失と愛の喪失、これらを見失っているところに、人類の最大の不幸があり、故に勝共運動の本質的意義は、これらの二つを再発見することによって、世界の真の平和を実現することに帰着するのです」(著書P102)


筆者は、上記会長の言葉に接して、勝共運動とは、とりもなおさず「神の復権を目指す福音運動」そのものではないか、と目から鱗でした。 私たちは、今回の安倍事件が日本人に突き付けたものとして、これを「有神論と無神論の戦い」と捉えても、決して的はずれではないと思料したします。


<一神教と多神教の相克>


今回の事件が示したもう一つの問題提起として、「一神教と多神教の相克(葛藤)」という視点があると思われます。


先日筆者は、久喜における「ユダヤ・キリスト教と神道」と題するセミナーの中で、イスラエルの幕屋と日本の神社の構造的な類似性を述べると共に、思想的な違いについて解説しました。


その際筆者は、日本人の根底にある宗教的、精神的情緒を「日本的霊性」と呼び、これを「自然を尊び、先祖を崇め、和と清浄を好む精神性」と定義しました。そしてこの霊性に最も影響を与えてきたのが(古)神道であるという理解であります。


筆者は、この幕屋と神社、即ちユダヤ・キリスト教と日本的霊性(神道)の思想の違いについて、先ず一神教と多神教という神観の違いを述べたあと、その神観の違いが、分別思想の有無、贖罪思想の有無につながっていると指摘しました。


特に一神教の顕著な特徴として「分別思想」を挙げることができるでしょう。キリスト教には、善と悪、神とサタンというように、白黒をはっきりさせる思考(分別思想)があり、内村鑑三も著書『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』の中で「キリスト教の優れた特質は、この光と闇、生と死との峻別であります」(P227)と語っています。


この点、日本の霊性には「和」という思想があり、何でもかんでも白黒つけたがる聖書的な聖別(分別)思想は、日本の和の精神と馴染まないところがあり、ザビエル以来キリスト教信者は1%を越えることができませんでした。


確かに聖書には、物事を善と悪、アベルとカインに分け、和よりも分別を重んじる傾向があるようです。ヤハウエの神は、ヨシュアにカナン7族の殲滅を命じられ(申命記7.1)、サウル王にアマレクのジェノサイドを命じられました(1サムエル15.3)。聖書的に見れば、これらは神の名による正義の実現でしょうが、日本人には理解できません。


つまり、日本の多神教には、和の力として、多様な主張を一つにまとめる長所があり、世界の紛争を和解させるために、多神教的な和の思想を持つ日本の役割が期待されています。


しかし一方では、「あいまいでぬるま湯的」との批判があり、前述した八木教授の指摘の通り、物事の是非弁別をすることなく、臭いものにはふたをするといった自民党の在り方に典型的に表れています。


かってイエス・キリストが山上の説教において、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5.44)と究極の愛のあり方を示されましたが、一方では、信仰の妨げになるものは徹底して排除すべきことも語られました。


「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である」(マタイ5.29)


このようなイエスの容赦のない厳しさは、途中の一切の曖昧さを許しません。イエスには、ある程度とか、ほどほどにということがなく、信仰には白か黒しかなく、中間の灰色はないというのです。


また、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎ(分裂)を投げ込むためにきたのである」(マタイ10.34) と言われ、「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10.35~37)とも言われました。


これらのイエスの言葉は、一見、日本の多神教的な社会常識通念とは著しくかけ離れた道徳観念で、正に左傾化したマスコミには到底理解できない言説でありましょう。しかし、実はここに一神教の信仰の本質、分別の思想があるのです。こうしてイエスの教えは、本来、厳しく二者択一を迫る、 実に「狭き門」だというのです。


そして更にイエスは、次のように言われました。


「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10.38~39)


こうしてイエスの弟子たちは、職業や家族を捨て、持ち物を売り払ってイエスに従っていきました。かの「平和の祈り」で有名な聖フランチェスコも、豊かな商人の息子でしたが、全ての財産を貧しい人々に施して教会に献身しました。


しかしイエスは、文字通り平和や、夫婦・親子・兄妹の関係を壊そうとされたのではありません。そのような地上の絆を一旦分別し清算して、神の国にふさわしい新しい関係の再構築を説かれたというのです。


こうして多神教における和の思想にも光と影があり、偏った和の思想は、「親泣かせの原理運動」、あるいは逆に「子泣かせの二世問題」に象徴されるように、一神教的な分別の思想を理解できず、献金への過度な警戒や、日韓交差結婚を含む合同結婚式を人権侵害だと断ずるような的はずれの批判が生まれて来る土壌にもなっています。


即ち、現下のマスコミのUC叩きの背景には、上記してきた一神教と多神教の葛藤と相克があるというのです。


しかし古今東西、豊かになって滅んだ宗教はあっても、迫害で滅んだ宗教はなく、叩かれれば叩かれるほど結束するのが宗教の本質であり、殉教は「福音の種子」との言葉が、それをよく象徴しています


私たちは、「善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6.9)との聖書の言葉の通り、これらの思想的な戦いに忍耐強く向き合い、克服したいものです。


「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」 (詩篇126.5)とある通りです。


以上の通り、現下の日本社会の異常なUCバッシングの思想的な背景に、有神論と無神論の熾烈な戦いがあり、加えてキリスト教的な一神教と日本の多神教との相克(葛藤)があることを指摘しました。果たしてこのような見解は、筆者の思い込みがなせる業でしょうか。


これを踏まえ、次回は、ユダヤ・キリスト教一神教のもう一つの特徴である「贖罪思想」、及び「新生」について、安倍元総理の死と関連して論及したいと思います。(了)



写真:上*八木秀次氏  下*藤原かずえ氏