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東京ジャーミイ訪問記② イスラムの神、キリスト教の神

◯つれづれ日誌(4月28日)-東京ジャーミイ訪問記(2) イスラムの神、キリスト教の神


讃えあれ、アッラー、万の主、

慈悲深く慈愛あまねき御神

審きの日の主宰者。

汝をこそあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。(開扉の言)


前回とだぶるところもありますが、引き続き、イスラムモスク東京ジャーミイを訪問して感じたことを、今回は比較宗教的な視点、即ち、同じ一神教であり、同じアブラハムを祖父と仰ぐ、啓典の民たるユダヤ.キリスト教との対比の中で考察していきたいと思います。


今や世界16億のムスリム(信者)を有するイスラム教ですが、何が魅力で、ここまでの広がりをもたらしたのか、何が人々をムハンマドに引き付けるのか、一体ムハンマドの魅力とは何か、そして同じ啓天の民であるキリスト教と、どこが同じでどこが違うのか、これらは今まで抱えてきたイスラムへの根本的な「問い」でした。


【イスラム教の顕著な特色】


イスラムとは、唯一神アッラーへの「服従」という意味であり、ムスリム(信者)とは、全身全霊でアッラーに服従し、人類は相互に「公正」と「平等」と「思いやり」を持って行動しなければならないとするアッラーの命令を守る者のことであります。


そのために六信(神・天使・啓典・使徒・来世・予定)、五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)が付与され、1日5回平伏して礼拝し、収入の一定割合を貧しい者に「喜捨」(ザカート)して与える義務が課せられました。


ちなみにこの「平伏礼」は、神の前に人間のごうまんや思い上がりを「へし折る」ことを象徴していると言われ、また喜捨はイスラム社会の福祉システムとして、平等社会を担保する役割を果たしました。


コーランに「アッラーを措いて他の何者をも拝んではならぬぞ。礼拝を欠かさず守り、そして喜捨を惜しみなく出せよ」(雌牛ニ.77)とある通りです。


<徹底した唯一神へのこだわり>

イスラム教の最も大きな特徴は、「神は唯一であり、この神の他に神はいない」という神観念であり、この神観は、同じ一神教のユダヤ教やキリスト教より更に徹底しています。


礼拝堂には、ムハンマドを含む一切の人物の彫像や絵画はなく、この空間に存在するのは、天地を創造されたただ一人の神(アッラー)だけです。この神をひたすら地にひれ伏して拝するのです。


その神は、天地を創造し、あらゆるものに通暁して全てを見通される神であり、また慈愛に満ち、強い正義観を持つ超越神であります。


実は、当時の商業都市メッカには、広く多神教が蔓延していました。各部族はそれぞれの神を有し、カーバ神殿は多くの神々で溢れていました。


一方、隣国のビザンチン帝国はキリスト教の神を、ペルシャ帝国はゾロアスターの神を信奉し、それなりに一つにまとまっているのに対して、アラビア半島は複数の神々を信奉し、まとまりがなく内紛や混乱に苦しんでいました。


多くの神々が存在すること、即ち「多神教こそ混乱の原因ではないか」というムハンマドの問題意識です。民心を一つにして、戦乱を収めたい、これこそ、ムハンマドが一つの神にこだわった理由の一つです。


629年、メッカを占領したムハンマドは、多神教の象徴であったカーバ神殿から全ての神々を取り払い、アッラーだけの神殿に新生させました。このカーバはその後イスラム最大の聖地とされ、当にこの場所は、イスラム一神教の象徴となりました。


<神讚美の宗教>

そして、イスラムはまた、徹底した神讚美の宗教であります。 上記した唯一の神を拝し平伏するだけでなく、徹頭徹尾アッラーを讚美いたします。冒頭の開扉の序文は、当に神を讚美する詩文であります。


コーランには、神を讚美する無数の章句が繰り返され、次のように神を称えます。


「これぞこれアッラー、万有を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に集めたまう。天にあるもの、地にあるもの、すべて声高らかに讚美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」(第五九.24)


「天にあるもの、地にあるもの、声たからかにアッラーに讚美の歌を捧げまつる。ああ、全能全知の御神よ」(第五九.1)


このように、本当の意味での称賛、讃えはただ神だけのもの、神だけが真の称賛に値する。他のものは褒めるに値しない、神だけを褒めるべきだというのです。(井筒俊彦著『コーランを読む』P103)


<徹底した偶像否定>

またイスラム教は、神を可視化して像にすることも、如何なる人物、如何なる万象の刻んだ像を造ることも否定いたします。勿論、イエスやマリアを含む如何なる聖像も聖画も拒否しました。


かって極端なイスラム原理主義タリバンが、2001年3月、世界遺産のバーミヤン石像を破壊したことはよく知られた話です。アフガニスタンのタリバンは、人間の形をした彫像や美術品は何であれ、アッラーへの冒涜とみなし、バーミヤンの仏像2体をダイナマイトで爆破しました。


歴史的にイスラム教は、カソリックのマリアや聖人の彫像や聖画を偶像だとして強く批判し、特にイスラム圏と国境を接するビザンツ帝国では大きな影響を受けました。当時、伝道の方便として、イエスやマリアの像が使われるようになっていたのです。


イスラムからの批判を受けて、聖像論争が勃発し、結局、726年、ビザンツ皇帝レオン3世は聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と破壊を命じるという事態にまで発展しました。


そしてこの聖像崇拝論争は、東方教会内部の論争に留まらず、東方教会と西方教会の対立に発展し、最終的には両教会は1054年に互いに破門し合って、東西に分裂することに至ります。


<アッラーもとの平等思想>

イスラム教の今一つの顕著な特色は、アッラーのもとの平等思想です。礼拝は、王も大統領も庶民も奴隷も、皆横一列にならんで礼拝を行います。


そして神と信者の間には如何なる媒介者もなく、それぞれが直接的な神との一対一の関係に立っています。従って、イスラムには、人を神との仲介者である神父や牧師と言った聖職者はいません、一人一人が神と直接つながるのがイスラムの基本的な在り方であるのです。


そして、この平等思想を外的側面から担保するのが、前述の喜捨の規定であります。この喜捨の制度は平等社会を実現する上で、福祉システムの役割を果たしました。


こうして、神のもとの平等思想は、信仰的にも、現実面にも大きな影響を与えました。


【決定的なキリスト論の違い】


イスラムとキリスト教の最も大きな違いは、いわゆるキリスト論の問題です。そして上記した聖像論争は、キリストの本質を「神性」とするか、「人性」とするか、言いかえればイエスが「神であるのか、人であるのか」「キリストとは誰か」というキリスト論に一石を投じました。


三位一体説は、「父と子と聖霊はそれぞれが神であるが、三者は同一本質で一体であり一つの神である」としました。そして結局あいまいに「キリストは神でもあり人でもある」とされ、神性と人性の関係は「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」(カルケドン公会議の決定)ということにされました。そのようなことが起こることこそが奇蹟なのだ、というのです。


しかしイスラム教は、このキリスト教の三位一体論は多神教だとして、強く批判しました。ムハンマド自身が神ではないように、イエス.キリストも神ではなく、一人の預言者であると主張しました。ムハンマドは自らを、モーセやイエスと並ぶ、あるいはそれ以上の、そして最後の預言者であると主張しましたが、「市場に行き、飯をくらい、服を着る」普通の人間であると証言しました。


即ち、ムハンマドは、イエスは神ではなく人間であり、またメシアとは認めず、一人の優れた預言者であるとのキリスト観を示しました。ユダヤの律法学者は、イエスを偽預言者、あるいは悪霊の頭ベルベゼルの化身だと言いましたから、それでもまだムハンマドの方がましだとも言えます。


いずれにせよ、この「イエス.キリストが誰か」、そして「ムハンマドが誰か」の捉え方の違いこそ、イスラム教とキリスト教の最大の相違点であります。ムハンマドは、イエスが人間であり、且つ(無原罪の)メシアでなく一預言者に過ぎないと主張しましたので、これはキリスト教にとって看過できない由々しき問題でありました。従って、キリスト教徒は、一夫多妻などイスラムの非聖書的な異教の風習と相俟って、ムハンマドを、ぺてん師、精神病者、反キリストなどとのレッテルを貼りました。


ちなみに、伝統的キリスト教から異端とされている教派である、エホバの証人、モルモン教、UC、ユニテリアンなどは、例外なく三位一体の神を否定しています。無論、ユダヤ教、イスラム教会も同様であります。しかし、キリスト教は、断固として、三位一体の神を堅持してきました。


【その他のイスラム教とキリスト教の異同について】


<唯一神>

イスラム教、キリスト教、どちらも「唯一神」を信じる一神教で、信じる神は同じです。イスラム教のアッラーとイスラエルのヤハウエ、キリスト教の父なる神は皆同じ神であります。


<預言者>

また、預言者を信じることも同じです。預言とは「神の言葉を預かる人」のことで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに預言者がいます。ユダヤ教ではノア、アブラハム、モーセ、キリスト教ではイエス、そしてイスラム教ではムハンマドで、この5人をイスラムでは五大預言者として認めでいます。


<聖典>

イスラム教の聖典「コーラン」には、25人の預言者が登場しますが、その中で神からの最後で最高のメッセージを預かったのがムハンマドだと解釈し、以後預言者は出ないし、出る必要もないとしています。しかしキリスト教は、イエスまでの預言者を認め、ムハンマドは預言者と認めていません。


キリスト教では聖書、イスラム教ではコーランが聖典となり、イスラム教では他にモーセ五書、ダビデの詩篇、新約の福音書が聖典とされています。


しかし、イスラム教では、「聖書」は複数の人々により書かれた人間が書いたものだが、「コーラン」は神が語った言葉をそのまままとめたもので、人間が書いた文章は入っていないと主張します。



以上、イスラム教における顕著な特徴、及びキリスト教との異同について見て参りました。これで、一旦イスラム教に関する考察を終わることに致します。


かって久保木会長が、立正佼成会で法華経を学んだことが、原理を理解する上で大変役に立ったと述懐されたことがあります。他の宗教と対比することで、原理がより深く理解できるというのです。


確かにこれは一面の真理を言い表しております。筆者も今回、イスラムを学ぶことによって、神について、神との関係について、宗教の在り方について、大変参考になり、また刺激を受けました。感謝です。(了)




上記絵画:予言者ムハンマドによる「カーバの黒石」聖別の図