確かな3つの真実 - 神の言葉の真理性、キリストの救い(贖罪)の完結性、神の摂理の絶対性
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〇徒然日誌(令和8年4月 29日) 確かな3つの真実ー神の言葉の真理性、キリストの救い(贖罪)の完結性、神の摂理の絶対性
わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」と(イザヤ46.10)
プロローグ
今や世界は神の創造理想に反して、なお争いと混沌の中にあり、神の国は未だ暗闇の中にある。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵略してから4年が過ぎた。米国が停戦交渉を呼び掛けているが、ロシア側は死者120万人との推計もある中、応じる姿勢を見せず攻撃に固執し、未だ先行きが不透明である。またイスラエル・アメリカとイランの戦争(2026年2月28日)は、2ヶ月になるが、停戦の兆しはなお余談を許さない。このように世界は争いと混沌の中にある。また日本では、特定の宗教教団(旧統一教会)を狙い打ちにした宗教弾圧が続き、宗教の自由侵害と民度の低下が懸念されている。
一体、神の創造理想は、いつ、いかに成就されるのだろうか。否、この罪悪世界は癒されることなく、いつまでも悪は栄えるのだろうか。この問は、内外の絶望的な現況を見て、誰しもが一度は深刻に問うた問いであり、キリスト教神学では「神義論」の分野に当たる。ちなみに神義論とは「全能で善なる神が造った世界に、何故悪や苦しみが存在するのか」という問に対し、その矛盾を解き、神の正義や善性を弁護する神学のことで、1710年に哲学者ライプニッツが提唱した。
聖書には、「義人がその義のゆえに滅びることがあり、悪人がその悪のゆえに長生きすることがある」(伝道の書7.15)とあり、預言者エレミヤは、「なぜ悪人の道は栄えるのか。裏切り者はなぜ皆、平穏なのか」(エレミヤ12.1)と嘆息した。またヨブも、「なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか」(ヨブ記21.7)と不条理を神に訴え、何故正しい人が苦しむのかという「義人の苦難」を問うている。
果たして、悪が栄え、義人が苦しむ世界はこのまま永続するのか、神の創造理想は本当に実現するのだろうか。以下、この深刻な問に対し、①神の言葉の真理性、②キリストの救い(贖罪)の完結性、③神の救済摂理の絶対性という3つの視点から考察する。
【神の言葉の真理性】
先ず、神の言葉(聖書・原理)の真理性と永遠性について、聖書はどう言っているのだろうか。「 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導く」(1テモテ3.16)とある通り、聖書の言葉が神の霊感によって書かれたと言っている。そして「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24.35、マルコ13.31)とある通り、神の言葉の真理性・永遠性を証言している。
そしてその聖書の奥義を明らかにし、聖書を完全に解釈した原理は、まさに永遠、不変の真理に他ならない。今この時、この神の言葉の真理性に対する揺るぎない確信が必要である。
聖書と原理講論
筆者は「徒然日誌(令和8年4月1日) かけがえのない二つの財産、『神の言葉」』と『信徒の交わり』」において、何故原理(原理講論)を以て、永遠、不変、絶対の真理と確信し、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」との思想に至ったかについて述べているので参照して欲しい→https://x.gd/jyn8c )。
【キリストの救いの真実性・完結性】
キリストの救い(贖罪)の真実性・完結性は、キリスト教の中心思想であり、「人間が自力で神に至るのではなく、キリスト において神ご自身が人類救済を成し遂げられた」という宣言である。これは単なる道徳教訓でも象徴神話でもなく、歴史の中で起こった決定的出来事(十字架と復活)として理解されている。つまり贖罪は、人間の努力への報酬ではなく、神の側の一方的な恩寵であるという。
では贖罪とは何を贖うのか。贖罪(atonement)は単に罰の肩代わりだけではなく、神との断絶の回復・和解、罪責からの赦し、死と虚無への勝利、新しい人格への再創造を含む。つまり罪の帳消しだけでなく「存在そのものの回復」である。
では何故救いが完結すると言えるのだろうか。哲学や仏教などの宗教は、通常、修行する、善行を積む、悟る、功績を立てるという「人間から神への求道」である。しかしキリスト教は逆に、神が人間の底まで降り、十字架において人間の罪と死を引き受けたと語る「神から人間への恩寵」である。つまり、神への宗教と神からの宗教の違いであり、ここにキリスト教の救いの独自性がある。そして人間の能力に依存しないゆえに、救いは相対的努力の結果ではなく絶対的恩寵となる。
故にパウロは、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(1コリント1.18)と言い、使徒行伝は、「この人による以外に救はない」(使徒4:12)と告白している。即ち、キリストの贖罪の真実性とは、それが現実に人を変える神の出来事であること、完結性とは、それに代わる最終的救済は他になく、キリストにおいて成就したということである。即ちキリストは人間の罪の完全な贖い主であり、神と人間との唯一の仲保者であり、人間を罪と死から解放し、新生(ボーン・アゲイン)に導く救い主であると考えられている。然り、「救い」とは、単なる死後の天国行きではなく、罪と死の支配から解放され、神との関係が回復されることを意味する。
だが、イエス・キリストの救い(贖罪)がいかに偉大だとしても、未だ世界は神の国にほど遠く、人間は未だに罪と死の苦しみから完全に解放されたとは言い難い。故にパウロも「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7.22~24)と嘆息し、未だに罪の奴隷であることを告白している。
故にイエスも、「 そのとき、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見る」(マタイ24.30)と言われ、「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22.12)と「再臨」を預言されたのである。もしイエスにおいて救いが完結していれば、何故再臨が必要になるのであろうか。つまり、原理観から言えば、イエスによる十字架の救いは「霊的救い」(霊的贖罪)に留まり、肉的救いを含む霊肉の完全な救いは再臨によるしかないのである。何故ならイエスの肉体は十字架でサタンに蹂躙され、サタンが所有する結果になったからである。従ってキリスト教の救いは、未だ霊的救いに留まっていると言わざるを得ないのであり、キリスト教が霊的宗教と言われる所以である。
そして、イエスによる救いの限界を超え、霊だけではなく肉における救いでもある「霊肉重生」の道を開かれたのが、まさに文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)に他ならない。創始者は「生涯6度の牢獄」の受難を生きて越えられ、霊肉重生の道を開かれた。即ち、イエス・キリストは文字通り十字架で亡くなられ、霊的復活を遂げてキリスト教の起源になられたが、創始者は十字架に架かりながら、生きて越え、「霊肉に渡る完全な重生の贖い」を全うされたのである。
イエス・キリスト(ハインリヒ・ホフマン画) 文鮮明・韓鶴子夫妻(真の父母)
では、何故創始者が完全な贖罪者たる再臨のメシアと言えるのであろか。それは大きく、①聖書の奥義を解明した原理を明らかにされ、聖書を完全に解釈されたこと、②霊肉重生の道を開かれ、完全な救いを成就されたこと、③サタンの最終思想である共産主義を屈服されたことである。この詳細は「つれづれ日誌(令和4年8月10日)-文鮮明先生は何故メシアと言えるか」で論考しているので参照して欲しい→ https://x.gd/sLVFO 。
即ち、モーセ、イエスから引き継がれた救いのみ業は、創始者において完全な贖罪による重生と神との和解が成就し、救いは完結した。然り、ユダヤ教、キリスト教、統一教会は3つの宗教であって一つの宗教であり、モーセ、イエス、創始者は3人の聖人であって一人の聖人であると言える。
【神の救援摂理の絶対性】
さてプロローグで問題提起したように、一体、神の創造理想は、いつ、いかに成就されるのだろうか。この罪悪世界は癒されることなく、いつまでも悪は栄えるのだろうか。否、聖書は、悪は最終的支配者ではなく、悪は永続しないと語っている。神の救済意思は偶然でも限定的でもなく、歴史全体を貫く「絶対的な摂理」であると宣言している。
パウロは、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ロマ8.19)と延べ、被造物全体がうめきながら解放を待っているという。即ち、世界は完成していないが、完成へ向かう途上にあるというのであり、また「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ2.4)と記され、神は万人を救うと約束されている。
ヨハネの黙示録には、「 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た」(黙示録21.1~2)とある。これは単なる慰めではなく、創造の回復であり、神は世界を放棄せず、自らが造った世界を贖い、完成させると約束されている。そしてイザヤ書には、「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ46.10)と力強く宣言されている。
即ち、神の救済意思は偶然でも限定的でもなく、歴史全体を貫く絶対的な摂理であり、神は御旨の奥義を、あらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さり(エペソ1.9)、その計画は時の満ちるに及んで必ず実現される。そしてその救いは個人救済だけでなく、宇宙的・歴史的完成を含むことを示す壮大な摂理(プロヴィデンス)である。
宇宙の創造(上)、アダムの創造(下)(ミケランジェロ画)
故に、未だ世界に紛争が鳴り止まず、UCとその信徒が如何なる運命に翻弄されようとも、歴史を司られる神の救済摂理は不変であり、永遠であり、絶対である。この事実を固く信じようではないか。
奇しくも 1992年8月24日、第1回「世界文化体育大典」合同晩餐会(韓国)で創始者夫妻は、メシア宣言をされた。即ち創始者は満を持して「私(文鮮明師)と妻の韓鶴子女史は、人類の真の父母であり、救世主・再臨主であり、メシアであると宣布します」と公に宣言されたのである。まさにこの日こそ文字通り「主の公現」に他ならない。
創始者は、イエス様でさえその公生涯において果たし得なかったメシア宣言をなされたのであり、この日まで、アメリカを中心に営々と基盤を作られてきた苦労が偲ばれる。そして2012年8月13日、「最終的な復帰摂理を完成、完結、完了し、全てを成し遂げました」との最後の宣布と祈りを捧げられたのである。
かくして創始者は、宗教、思想、学術、言論、文化、芸術、政治、経済などあらゆる分野でビジョンを示され、その広範な活動を通して、神の国の雛形、天国の方案を預言的に示して、2012年9月3日午前1時54分、聖和(死去)された。 今後、これらの理念と理想は、30年後、50年後、100年後には、徐々にその全貌が形を整えて顕れてくることは明らかである。
以上、「確かな3つの真実ー神の言葉の真理性、キリストの救い(贖罪)の完結性、神の摂理の絶対性」と題して、聖書と原理の神の言葉が普遍的真理であること、創始者、即ち真の父母により救いが完結していること、そして神の救済摂理は絶対的であることを述べた。私たちはこの3つの事実を固く信じ、かつ告白するものである。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに変ることはない」(イザヤ40.8)とのイザヤの言葉に象徴されるように、世の中がどのように変転しようとも、真理は不変であり、変化する時局の背後に厳然たる神の摂理がある。然り、我信ず! 人類歴史は神の救援歴史であり、この神の復帰摂理は時を経て必ず成就することを。 アーメン、アージュ(了)
牧師・宣教師 吉田宏















