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試練と苦難の意味とは 神は絶望の果てに姿を現す

  • 3 時間前
  • 読了時間: 17分

○徒然日誌(令和8年4月22日)  試練と苦難の意味とはー神は絶望の果てに姿を現す

 

 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(1コリント10.13)

 

プロローグー不幸の哲学

 

禅の大家道元の著書『正法眼蔵』の第一巻に、「花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん)に生ふる」(現成公案)という言葉があるが、執行草舟氏はこの言葉を座右の銘の一つにしている。この言葉は、花は、愛し惜しんでいるうちに散ってしまうが、草は、嫌って取り除こうとしても、また生えてくるという意味である。つまり、美しいもの、好きなもの、大切なものには「ずっと残ってほしい」と願うが散っていき、逆に、面倒なもの、嫌なこと、苦しみは「なくなってほしい」と願うが草のようにまた生えてくるという、思い通りにならない人生の現実を語っている。まさにこれが現実であるが、それをそのまま受けとめるところに悟りへの入口があると道元は言う。

 

宗教思想家で実業家の執行草舟氏は、絶対負の思想を確立したが、絶対負(神)とは、正に負けた負ではなく、負であること、そのものに絶体的価値を有する負であり、そこから生まれた生命を支える根源的な力となっているという。即ち、敗北・挫折・苦悩・喪失・無名・孤独・死といった負の現実の中にこそ、人間の真実と精神の尊厳があるとする逆説の思想である。

 

この思想には、葉隠的な「死を覚悟して生きる精神」、また三島由紀夫の自決、内村鑑三の6重苦など、日本近代の精神思想への共感も見られ、悲しみ、苦しみ、犠牲、死といった人間にとっての「負」の要素を、むしろ生きるエネルギーの根源(生命エネルギー)と捉え、運命を愛するという死生観である。これは単なる悲観主義ではなく、試練や不幸を受け入れる死生観であり、まさに不幸の美化と言えなくもないが一理ある。 

 

この点、アンドレジイドの『狭き門』において、恋人ジェロームとの結婚を、あえて拒んで修道院に入る決心をした時のアリサの言葉、「人間は幸福になるために生まれたのではない」は深く考えさせられる言葉である。

 

だがキリストの救いの本質は、不幸崇拝でも、不幸の美化でもなく、不幸を受け入れて、なお愛と復活が勝つという希望にある。即ち、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」(ロマ6.8)とある通り、救いは十字架を越えた復活の希望にあり、まさに絶望の中で現れた救いである。執行氏自身は、現住所は葉隠であり、神道であり、仏教であっても、本籍はキリスト教、即ち真性なキリスト教徒だと筆者は理解している。

 

【名作や偉大な思想は不幸のどん底から生まれる】

 

執行氏は、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を深い宇宙観・世界観・人生観を描いた書として高く評価しているが、これらは皆、人生のどん底から生まれているという。

 

ダンテが『神曲』を世に出した背景には、当時のイタリアにおける政争の敗北とフィレンツェからの追放という挫折があり、そして永遠の女性ベアトリーチェへの実らぬ愛がある。『神曲』の冒頭には、「人生の半ばで正道を踏み外した私が、目を覚ました時は暗い森の中にいた」とあり、地獄篇第三歌には、「われを過ぎんとするもは一切の望みを捨てよ」という言葉が、 地獄の門の上に刻まれていたとある。

 

また『失楽園』は、共和政(クロムウェル体制)を支持していたミルトンが、王政復古により政治的に失脚して、投獄も経験し、失明という三重苦の中から生まれた作品である。当時、ミルトンは完全に視力を失い、『失楽園』は娘の口述筆記で完成した。そして妻や子との問題、家庭的不和、複数回の妻との死別などもあり、『失楽園』はこうしたどん底から生まれたのであった。

 

ドストエフスキーも人生の大部分において大きな不幸と苦悩に見舞われ続けた作家である。皇帝を批判した罪で死刑判決(銃殺刑の寸前での恩赦)とシベリアでの4年間の懲役と兵役、重度のてんかんと慢性的な病気、莫大な借金とギャンブル依存、最初の妻や兄の死など愛する人の喪失....。その苦渋の経験は、彼の代表作である『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に色濃く反映されている。しかし彼は「安っぽい幸福よりも、高められた苦悩」を重視する考えを持ち、自分は「不幸である」と自認し、その苦しみと共存する破滅的で情熱的な人生を生きる性格だったという


 


こうしてこれら古典の最高峰にある作品は、皆、極限の苦しみ、どん底の中から生まれたものである。それはまた「イエスの受難」や「文鮮明先生に見る6度の牢獄」という極限的な受難を想起させる。この二人の聖人(キリスト)は、まさにこれ以上ない苦難と不条理のどん底から「贖罪による復活の救い」という人類最大の作品を残されたのである。

 

ちなみに大本教の開祖出口なおの人生も壮絶だった。なおが神がかりに至った背景には、極度の貧困と家族の不幸という精神的・肉体的限界状況があった。夫の死後、なおは8人の子供を抱え、糸ひきやボロ買いなどの賃労働で生計を立てた。この極貧生活のなか、子供が精神を病んだりして、自身も精神的な限界に達していたのである。そして1892年、57歳のなおは突然「丑寅の金神」 (うしとらのごんじん)と称する神がかり状態になり、「世の建て替え(世直し)」を説くようになった。  「丑寅の金神」とは大本教では「国常立神」(くにのとこたちのかみ)が世の立替え・立直しとして現れたともの考えられている。

 

しかし当初は「きつね憑き」として周囲から疎まれ、警察からマークされたり、家族からも理解が得られず、非常に苦しい状況だったという。そして大本は「皇道」を標榜しつつも、天皇制を否定しかねない教義が警戒され、また出口王仁三郎の独裁的な教団と見なされ、政府から「危険組織」として徹底的に弾圧された。だが王仁三郎は、「弾圧も神のみ旨のうち」と言い、賠償も求めなかったという。なお高橋和巳著『邪宗門』は大本教を主要な題材にした作品と理解されている。(参照-大本弾圧、日本における宗教弾圧→ https://x.gd/eVcS7 )

 

【文鮮明先生に見る生涯6度の牢獄の受難】

 

ところで、イエス・キリストと文鮮明先生は、文字通り、典型的な試練と受難の道を歩まれた聖人である。

 

キリスト教には、ガルバリの丘を十字架を担いでいかれたイエス・キリストの受難と殉教を想起して同参する「受難週」の行事がある。特にキリストの受難と復活を記念する聖なる「過越の3日間」(木曜日の主の晩餐・金曜日の十字架・土曜日の復活前の晩)は受難と十字架を通して、死から生命へ移られたキリストの過越の神秘を祝う3日間である。かって筆者は、東京都文京区関口にある「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(カトリック関口教会)の「過越の3日間」の儀典に参加したことがあるが、確かに神霊に迫るものがあった。

 

筆者はこのイエスの受難と、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)の北朝鮮での苦難の路程に象徴される「生涯6度の牢獄」を重ね合わせて思いを馳せた。即ち、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マルコ14.34)と悲痛な祈りをされたゲッセマネの祈りと同参すると共に、創始者の北の獄中での深刻な祈りを想起した。 

 

『真の御父母様の生涯路程(2)』には、「先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません」とある。 

 

では「生涯6度の牢獄」(six times imprisoned)、即ち、生きながらの「殉教」とは何だろうか。創始者は、生涯6度、冤罪で投獄され牢獄生活を余儀なくされ、如何なる歴史上の人物にもまして受難の道を歩まれた方である。以下は創始者が経験された牢獄受難の記録であり、今この時、もう一度、これらの受難を想起し、試練と苦難の意味を考えたいと思料する。

 

①京畿道警察部での受難 →1944年10月~45年2月、4ヶ月間、24才。 

 

最初の牢獄は韓国京畿道警察部での受難である。

1944年10月、結婚間もなく突然ソウルの自宅に日本の警察がやってきて、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、創始者を京畿道警察部に連行した。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、創始者の名前が出て、共産主義者として疑われたからである。(自叙伝『平和を愛する世界人として』P92) 

 

日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれ、大量の水を飲まされ、血を吐いて、生死の境を通過したという。創始者は「怨讐を愛せ」という精神で堪え忍ばれた。 

 

②平壌大同保安署の受難 →1946年8月11日~11月21日、3ヶ月間、26才。 

 

1946年5月27日、38度線を越えて北へ行けとの神の命により38度線を超え、1946年6月6日に平壌に着いた。その2ヶ月後の8月11日、創始者は北朝鮮の共産党により、米軍のスパイとして告発され、また宗教と称して詐欺をしたという理由で、平壌大同保安署に投獄された。

 

当時共産党は、北朝鮮全域において宗教団体に対する弾圧を始めており、信者から金品を詐取したとして許孝彬(ホ・ホビン)の腹中教が摘発されていた。腹中教の幹部は、「獄中で再臨主を迎える」と許孝彬に啓示されていたという内容を信じていた。また、創始者の逮捕の背景には既成キリスト教会の反発があった。教会の有力な信徒が創始者の教会に来たからである。結局、無罪だということが判明し、11月21日に門の外に放り出されて釈放された。 

 

獄中で許孝彬へ届けた「許孝彬が受けた啓示の内容を否定して保安署から出なさい。私が何者なのか、祈ってみなさい」といった内容の創始者の手紙が、共産党の監視員に見つかってしまい、創始者はひどい拷問を受けた。キリスト教を代表する立場にあった許孝彬が不信した結果、摂理が再び失敗したのである。それが1946年9月18日であった。

 

創始者が釈放された時は、全身を殴られたため動けず、口も利けず、血を吐き、生きた人間の姿ではなかったという。弟子たちは教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしたが、ついに意識を失ってしまい、弟子たちは死んでしまうと叫びながら泣いたという。だが10日以上して、奇跡的に意識を回復し生き返ったのである。文字通り死から生への甦りであり、創始者は死の十字架を生きて越えられたのである。なお許孝彬集団は、許孝彬以下、すべての監獄にいた人々は、後日殺害されてしまった。 

 

③平壌内務署の受難、平壌刑務所の受難→ 「平壌内務署」(1948年2月22日~4月7日)、「平壌刑務所」 (1948年4月7日~6月21日)  、 計4ヶ月間、28才。 

 

創始者による伝道活動により、既成キリスト教会の多くの信徒が、霊的に導かれて創始者の教会に来た。そのため、既成教会の牧師たちは嫉妬心で創始者を何十回も告発した。また北朝鮮政府の政策は、すべての宗教を抹殺することであり、スパイ容疑で1948年2月22日に拘束された。この間創始者は、丸刈りにされ、厳しい取り調べと血を吐くような拷問を受けたという。 

 

そうして1948年4月7日、社会秩序紊乱罪で5年実刑(強制労働)の判決を受け、その後劣悪な環境の平壌刑務所に移監され、そこで2ヵ月半収監された。判決文には、「無知な人たちを甘い言葉で誘惑して虚偽を捏造し、多くの金品を搾取し、キリスト教徒の家庭や社会を破綻させた」と記されていた。

 

④興南監獄での強制労働の受難→ 1948年6月21日~50年10月14日、 2年4ヶ月、28才~30才。 

 

創始者は1948年6月21日、平壌内務署の尋問により5年の刑を受け平壌刑務所に移監されたあと、興南徳里特別労務者収容所に移監され、肥料工場で強制労働を強いられた。いわゆる「興南監獄」である。

 

金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を激しい労働に動員し、死ぬまで働かせたのである。そこは1年以内にほとんどが死ぬという緩慢な屠殺場であり、想像を絶する環境下にあった。この収容所での状況は自叙伝『平和を愛する世界人として』(P104~116)に詳述されている。筆者は自叙伝を読みながら、「これはナチスのアウシュヴィッツよりひどい」と絶句した。創始者は、ここで2年4ヶ月間、地獄の責苦を余儀なくされたのである。 


 興南収容所   収容所労働者   興南硫安・アンモニア工場


それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエスが十字架の道を行かれたのと同じ背景があり(キリスト教を代表する金百文が創始者に躓いたことなど)、人類史をかけた戦いであった。しかし、獄中にあって、12名の弟子を伝道され、イエスが越えられなかった峠を蕩減復帰されたのである。 

 

そうして、韓国動乱(1950年6月25日~53年7月27日)が勃発し、国連軍の興南爆撃と上陸により、1650年10月14日、創始者は奇跡的に解放された。解放前の10月12日には、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどが山中で殺されたという。神は「絶望の果てに姿を現す」と言われるが、この時創始者は、イエスが目の前に現れて涙を流して去っていかれる姿を目撃されたという。 

 

次が創始者の処刑の番だったところ、奇しくも14日未明2時頃、マッカーサー元帥の国連軍により劇的に解放されたのである。これは神の恩寵による「奇跡の復活」というしかなく、まさに十字架と復活は絶望の中で現れた救いである。こうして創始者は十字架の殉教から生きて復活されたのである。この日1650年10月14日は、UCの解放記念日として永遠に記憶しなければならないと創始者は言われた。この日は、再臨主の霊肉の復活の日であり、まさにUCのイースターである。こうして神は北朝鮮での全路程を、その御手をもって手厚く保護されたのである。国連軍世界17ヶ国が参加した朝鮮戦争とその勝利は、文字通り創始者を解放する戦争であった。 

 

以上、1946年5月27日に、38度線を越えて北へ行けとの神の命を受け、使い古した聖書一冊だけをもって平壌に向かった日から、1950年10月14日に解放されるまでの4年5ヵ月は、文字通り受難の歳月であり、キリスト教の蕩減復帰の期間であった。特に1948年2月22日から1950年10月14日に解放されるまで、2年7ヵ月と21日間に渡る平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄での受難は、まさにイエス様の公生涯を蕩減復帰する期間であったという。

 

即ち、前記②③④に見る北朝鮮での創始者の路程は4年5ヶ月に渡り、その期間において生死の境をさ迷い、イエス様と同様、呪われ、嘲られ、飢え、打たれ、迫害され、裏切られた想像を絶する悲惨な立場を通過しながら、なすべきことをなしてこられた。イエス・キリストは文字通り十字架で亡くなられ、霊的復活を遂げてキリスト教の起源になられたが、創始者は十字架に架かりながら、生きて越えられ、霊肉に渡る完全な重生の贖いを全うされたのである。

 

私たちは、イエス・キリストの受難週を辿りながら、一度はその痛みと悲しみを共有すると共に、それにもまして創始者の北での受難を同苦し、共有したいものである。こうして神のみ業は、常に最も衝撃的革命的な逆転の業であり、それはこれら二人の聖人の歩みが如実に物語っている。(参照-徒然日誌「文鮮明先生の北朝鮮での受難・殉教路程を思う」→ https://x.gd/V6Jw5 )

 

⑤西大門刑務所の受難→1955年7月4日~10月4日、3ヶ月、35才。 

 

更に1955年3月から7月にかけて、梨花女子大と延世大退職・退学事件が勃発した。1954年5月に世界基督教統一神霊協会が創立されてから約1年後のことである。延世大学と梨花女子大学は、それぞれアメリカの長老派とメソジスト教団によって設立された大学である。

 

アメリカの宣教師らが背後で操り、梨花女子大総長の金活蘭(キムファルラン)と副総長の朴マリヤらが主導して偽りの証言を行い、大統領官邸を動かして告発し、創始者は、1955年7月4日「兵役法違反」と「不法監禁」の罪で逮捕収監された。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の5大長官が、創始者と統一教会を潰すために挙国的に動員されたのである。

 

確かにその容疑は「兵役法違反」と「不法監禁」だったが、当局が狙っていたのは、特にメソジスト派と連携して、「姦淫問題」(血分け問題)で立件し、創始者を陥れてUCを邪教として叩き潰すことにあった。結局、姦淫とされた当事者で、嫌疑をかけられた関係者らの告訴が無く、姦淫関係の事実は立件されなかったのである。(参照-統一教会の教義は金百文のパクリなのか→https://x.gd/DMQvF )

 

結局公判廷で無罪釈放となり、1955年10月4日、創始者は西大門刑務所を出監した。こうして創始者は、共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験されたのである。 

 

この背景には、梨花女子大学、延世大学が統一教会を除去するように、宣教師らが背後で操って、金活蘭を動かしてきた事実がある。これはまさにイエス様の時代にユダヤ教が反対したように、再臨主のために準備されていたキリスト教が反対の立場に立つことになってしまった。こうしてキリスト教の離反は決定的になった。

 

⑥ダンベリーの受難→1984年7月20日~85年8月20日、1年1ヶ月、65才。 

 

創始者の6度目の牢獄はダンベリーの受難である。このダンベリー牢獄には、背景に国策裁判という性格が根深いものがあり、これは、現下に行われているUCの解散裁判の性格とも類似する。

 

アメリカコネチカット州ダンベリーの受難は、1973年から75年の3年間、宗教代表者である創始者名義の銀行預金の利息の所得申告を怠っていたという 「脱税容疑」である。これは明らかに冤罪であった。アメリカでは、宗教団体の財産は最高責任者名義で管理されるのが普通で、このことはアメリカの憲法も認めている。そのため、統一教会も、その資金を創始者名義で銀行に預金していたのであり合法である。

 

ところが、1981年10月、前記した銀行預金の利息について納税申告を怠っていたという些細な脱税容疑で、ニューヨーク州連邦地方裁判所に起訴されたという酷い裁判である。

 

結果1982年7月、第一審で懲役18か月、罰金2万5000ドルの有罪判決が下され、そして84年5月、約3年間に渡る血の滲む裁判闘争の末、連邦最高裁判所で上告棄却となり判決が確定した。その結果を受けて、1984年7月20日午後11時、創始者は、ダンベリー連邦刑務所に収監され、13ヵ月間拘束されたのである。それにしても悪意なき些細な所得申告漏れという容疑(脱税)で起訴され、1年以上の実刑判決を受けるとは、いかにも政府・司法はやり過ぎであり、まさに「宗教弾圧による冤罪」というしかない。

 

この収監の背景には、創始者のイエスの十字架解釈を巡る批判があり、一部ユダヤ人や既成キリスト教会からの攻撃があった。また共産主義者からの反対もあったのであり、色濃く国策裁判の性格が滲む「為にする」裁判であり、特定教団を狙い打ちにする宗教弾圧事件であった。この点、日本のUC解散裁判と瓜二つである。

 

ダンベリーでは、創始者は「黙って働く人」「本を詠む人」「瞑想する人」と呼ばれ、囚人や看守とも親しくなったという。そして宗教の自由を侵害したアメリカ政府に対して、著名なテレビ伝道師ジェリー・ファウエル牧師や公民権運動の立役者ジョセフ・ローリー牧師ら聖職者7000人以上が創始者の救出に立ち上がったのである。 

 

創始者は模範囚として6ヶ月減刑され、1985年8月20日に釈放された。そしてその日の夜、「神と自由のバンケット・出監歓迎晩餐会」が開催され、全米からユダヤ教ラビを含む60以上の教派から1700名もの聖職者が参加した。創始者は「神は宗派主義者でも教派主義者でもなく、教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです」と語られ、超宗派・超宗教を訴えられたのである。 

 

またこの間、キリスト教とアメリカを中心とする民主世界の失敗を蕩減復帰するため、全米30万人の牧師たちに原理のビデオテープと説教集などを配布し、原理の研修ゼミに参加するよう呼びかけた。その結果、4万名の人々がゼミに参加し、7000名以上の牧師たちが日本と韓国の統一教会を訪問するに至ったのである。ダンベリー獄中受難に起源を有するこれらの成果は、アメリカを中心としたACLC(米聖職者指導者協議会)やWCLC(世界キリスト教聖職者指導者協議会)として結実している。(参照-アメリカの超宗教・超宗派活動→ https://x.gd/izsIU

 

以上が創始者が生涯において実体験された、6回に渡る牢獄路程である。復帰摂理歴史は人間堕落の所産であり、堕落のゆえに救援摂理が必要となった。従って復帰の道は、地獄の最低の立場から出発して、あらゆる人間の立場を全て体験しながら上がっていかなければならないというのである。まさに創始者はイエス様と同様、罪(原罪)なきメシアとして誕生されながら受難の道を歩まれ、真理を理論的に解明し発表されただけでなく、真理に生きた人であった。そして万能の栄光の神だけではなく、何よりも悲しい涙の神を理解されたキリストであった。

 

創始者は、1996年4月16日、ワシントンDCのヒルトンホテルで行われた「ワシントンタイムズ財団」創設記念会で「救援摂理史の原理観」と題して講演され、政界・宗教界・言論界のVIPを前に、再臨の主は「創造理想を完成する、サタンの讒訴条件のない真の本然の赤ん坊の種として来る」(「救援摂理史の原理観」平和経P125)と語られ、無原罪誕生の真実を繰り返し明言されたのである。

 

以上、「試練と苦難の意味とはー神は絶望の果てに姿を現す」とのテーマで試練と苦難の意味を論考した。上記に見てきたように、優れた文学や思想や宗教は、すべからく苦難のどん底から生まれている。試練と苦難はよき文学・思想・宗教の養分であり、また信仰路程における不可避・不可欠の峠(道)である。だが試練は人間を鍛練し、悔い改めの機会を与え、より深い信仰に到らせる契機になる。

 

問題はこれらの苦難を受け入れる覚悟と、その先にある復活の希望を見失わない信仰である。私たちは、イエスと創始者が歩まれた道を想起し、この覚悟、この信仰を決してないがしろにしてはならない。然り、神は絶望の果てに姿を現す。使徒パウロはこう言っている。

 

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10.13)      (了)

 

牧師・宣教師.  吉田宏

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​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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