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検証-解散決定の致命的欠陥 日本の司法の欠陥とUC解散判断の背後にあるもの

  • 7月15日
  • 読了時間: 13分

🔷徒然日誌(令和8年7月15日) 検証-解散決定の致命的欠陥ー日本の司法の欠陥とUC解散判断の背後にあるもの

 

するとピラトは、ユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせない」。祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。(ヨハネ19.4~6)


 ピラトの前のキリスト(ムンカーチ画)


プロローグー歴史の汚点

 

この度の最高裁のUC解散命令決定は、まさに歴史的な裁判所の汚点であり、今後、内外からの批判に晒され、激しい歴史の審判を受けることになる。そこで今回、日本の裁判所のどこが問題であり(官僚体質)、何故解散決定が問題であり(最高裁・高裁の決定の誤謬)、今後どういう対応をすべきか(解散後の戦略)を問うことにした。

 

作家でジャーナリストの門田隆将氏は、著書『裁判官が日本を滅ぼす』で、日本の裁判官が国民の常識から乖離した「事なかれ主義」や「相場主義」に陥っていると厳しく批判し、特に官僚支配の弊害(裁判官が最高裁の方ばかり向き、出世のために前例踏襲や無難な判決ばかりを下している)を指摘した。また文藝評論家の小川榮太郎氏はUCの解散決定は「司法の自殺」と明言した。司法が本来果たすべき法に基づく公正・中立な判断を自ら放棄し、政治的・世論的圧力に迎合してしまうことによって、自らの権威と信頼を失ってしまったという。

 

この点、30年以上裁判官を務め、現在明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志(せぎひろし)氏は、著書『絶望の裁判所』(講談社現代新書)の中で、裁判所(裁判官)の官僚的体質を告発している。即ち、「日本の裁判所の最も目立った特徴とは、最高裁の下にあって司法行政を管理する事務総局中心体制であり、それに基づく、上命下服、上意下達のピラミ型ヒエラルキーである」(P84)と述べ、更に「最高裁長官、事務総長、そして、その意を受けた最高裁判所事務総局人事局は、人事を一手に握っていることにより、いくらでも裁判官の支配、統制を行うことが可能になっている」(P90)と指摘した。「事務総局」の気に入らない判決を書いた裁判官は人事で冷飯を喰うことがあるという。

 

つまり、日本の司法は、政治や世論など法律以外の圧力に迎合する体質があり、内部統制としては、上意下達の官僚体質が横行しているのである。今回の高裁・最高裁の決定は、まさにこのような負の体質が如実に現れた典型例である。

 

【検証-解散決定の致命的欠陥】

 

それにしても今回の高裁・最高裁の解散決定は、 ①司法の中立性、②証拠裁判主義、③信教の自由、④憲法問題・適正手続、のいずれもに禍根を残す極めて問題の多い判断であった。即ち、「先ず、結論ありき」の国策裁判であったこと(司法の中立性の破綻)、偏った資料で、推測や可能性で判断したこと(証拠裁判主義に違背)、裁判官がしてはならない宗教教義の解釈をしたこと(信教の自由違反)、そして宗教団体の解散に非訟事件は妥当かといった問題(適正手続の瑕疵)、等々に重大な問題を残した。(参照-徒然「決定版-最高裁、戦後最悪の汚点」→ https://x.gd/jGSsx )。以下、これらの問題について論考する

 

<司法の中立性への疑問ー司法の闇>

 

第一に、日本の司法には、中立性や公正性が担保されているかという問題である。日本国憲法は、司法の中立性と三権分立を強く保障している。しかし、「制度として保障されていること」と「現実の運用に問題がないこと」は別の問題である。

 

制度面では、日本国憲法第76条は司法権を裁判所だけに与え(憲法76条1項)、また、裁判官は憲法と法律のみに拘束され(憲法76条3項)、行政や国会から指示を受けることは許されないと定めている。

 

憲法76条3項の「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という条文には、三つの意味があると言われている。即ち、①裁判官の独立(裁判官は、内閣や国会、政党、報道機関、世論などから指示を受けて裁判をしてはならない)、②良心に従う (ここでいう「良心」とは、個人的な好き嫌いや思想信条ではなく、法曹としての職業的良心を意味する)、③憲法及び法律にのみ拘束される( 裁判官は、憲法と法律に従って裁判を行い、世論・政治的圧力・行政の意向・利益団体の要求・マスメディアの論調 などには拘束されてはならない)、という3点である。

 

しかし門田隆将氏や小川榮太郎氏がいう「司法の自殺」とは、裁判官が憲法76条第3項の精神から離れ、法ではなく世論や政治的空気に左右される傾向にあり、それは司法が自らの存在意義を損なうことになるという憂慮を表したものである。特に国が原告になっている行政事件で国側勝訴が圧倒的に多く、 「裁判所は行政寄りではないか」 との批判がある。

 

また裁判官の身分は保障されており、簡単に罷免されないようになっているが、一方で、日本の司法には以前から、裁判官の任命の問題があると言われている。即ち、最高裁長官は内閣が指名し、天皇が任命する。その他の最高裁判事も内閣が任命する。そのため、「政権の意向が最高裁の人事に影響するのではないか」との批判がある。

 

更に裁判官の配置や異動や昇進と言った人事評価は「最高裁事務総局」が大きな影響力を持つため、裁判官が組織の意向を気にして「独立した判断をしにくいのではないか」というのだ。従って、現在の憲法学者や法曹界では、制度としては、司法の独立と三権分立は憲法によって保障されているが、しかし運用については、上記した問題が懸念されている。

 

以上の議論を踏まえて、今回の決定は、まさに「先ず解散ありき」の国策裁判で、法ではなく世論や政治的空気に左右された決定であり(それらは高裁・最高裁の決定文を見れば一目瞭然である)、まさに司法の中立性に悖る判断であった。そこには、日本人から集められた金銭が不当に国外に持ち出されているのではないかといった懸念から(実際は、アメリカなど世界宣教への支援であった)、UCは国益に反する教団であるとの国の意思と、それに追随する裁判所の忖度を感じざるを得ない。

 

<証拠裁判主義からの逸脱>

 

次に問題になるのは、今回の決定が証拠裁判主義から、大きく逸脱しているという点である。代理人の福本修也弁護士は、「解散命令決定の欠陥ー絶望の司法」と題して総括し、「具体的な不法行為事実の特定を欠いたまま、抽象的な推測のみで不法行為認定を行うという証拠裁判主義に反する重大な欠陥を、さらに深化・拡大させたもの」と批判した。また高裁の決定には、他に憲法違反、国際法違反などの重大な法律上の問題もあると指摘した。

 

証拠裁判主義とは、「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法第317条)との基本原則であり、裁判官の恣意的な判断や、被告人の自白のみに頼った不当な処罰を防ぎ、公正な裁判を実現するために設けられた。即ち、証拠裁判主義とは、裁判は、法廷で適法に取り調べられた証拠に基づいて事実を認定しなければならないという原則で、これは刑事裁判だけでなく民事裁判にも通じる基本原則である。

 

確かに制度上は証拠裁判主義が確立しているが、しかしその運用において、本当に証拠だけで判断しているのか、それとも裁判官の推認や心証に依存しすぎているのではないかという問題がある。この問題は、近年では宗教法人の解散命令事件や冤罪事件、行政訴訟などでも議論されており、「証拠裁判主義が十分に徹底されているか」ということは、日本の司法制度を考える上で重要なテーマである。

 

この証拠裁判主義の原則は、今回の高裁・最高裁の決定では大きく損なわれた。最高裁決定に先駆けて、3月4日、東京高裁はUCの解散を命じた東京地裁の決定を支持し、UCの即時抗告を棄却した。宗教法人の解散事由に、刑事犯罪に限定していた従来の解釈を、政治的理由で変更し、民事上の不法行為まで広げたことがそもそもの問題の発端であるが、先ずこれを指摘した上で、「証拠裁判主義」からの逸脱を弾劾せざるを得ない。

 

即ち、地裁の段階では(2025年3月25日決定)、コンプライアンス宣言以降の示談や和解があることを理由に不法行為を「推測」し、「相当に根深い」「相当程度存在することが想定される」「問題が残存しているのが合理的」などと憶測と想像を連発し、しかも「見えない被害」「隠れた被害」を推測、想像で事実認定する、法律家の風上にも置けない前代未聞の判定であった。(参照-東京地裁のUC解散命令に思う→ https://x.gd/Dq33v )

 

高裁決定書では「不法行為の件数や被害額は、コンプライアンス宣言後も、それまでと同水準で推移したものと『推認』される」と言い、「不法行為があったと認定はできないが、可能性は否定できない」という不相当勧誘行為の「可能性」や「おそれがある」といった曖昧な言葉を使って判断した(高裁決定P163)。この判断は、証拠裁判主義の法理から大きく逸脱している。即ち、高裁の決定は、地裁の決定をほとんど踏襲し、そして最高裁の決定は、高裁の決定をそのままなぞったものであり、証拠裁判主義から大きく逸脱している。

 

しかも裁判所が採用した証拠は、霊感弁連の資料に依存し、その過半数が強制脱会させられた元信者の資料(陳述書)であった。中山達樹弁護士は、拉致監禁問題には一切触れず、陳述書捏造問題にも一切触れず、国際法違反にも一切触れていないことを問題視し、特に2009年のコンプライアンス宣言後、いわゆる被害は激減しており、2016年3月から9年間、一件の訴訟もなく、教団改革の成果が顕著に表れていることも黙殺されたと批判した。また、令和5年にUCを狙い打ちに施行された「不当寄付勧誘防止法」だが、この法に抵触する違反事件は一件もない。

 

中山弁護士は、『家庭連合の「解散命令」に異議あり』(グッドタイム出版)の中で次のように述べている。

 

「家庭連合信者の拉致監禁が解散命令の一因になっています。解散命令請求をすると文科省が宣言した2023年10月、22件の民事裁判を根拠にしていました。その原告の55.4%は拉致監禁被害者です。ちょうど符号するように、文科省が解散命令請求の根拠として出している陳述書233通の55.8%は、拉致監禁被害者が書いたものです。」(P255)

 

<信教の自由の侵害ー教義内容の歪んだ解釈>

 

 今回の決定文で、最高裁・高裁は宗教教義の解釈に踏み込んだが、これは明らかに憲法20条(信教の自由)に違反する。教理研究院の太田朝久氏は22ページにわたる反論書を最高裁に提出し、「(高裁決定は)教理内容に踏み込み、教理を勝手に解釈・断定した土台の上で書かれている」と強く批判した。

 

本来、裁判所は宗教の教義には足を踏み入れないのが大原則だが、高裁は「万物復帰等の教義及び文鮮明や抗告人の幹部の発言」(高裁決定文P15~19)という一項目を立て、長々と教義に対して踏み込んだ判断を行っている。例えば文鮮明師の言葉、「日本は世界の母親として、たとえ飢えたとしても世界の国々を保護し、経済的援助をして育てていくのです」(P16)、「死ぬようなことがあっても万物復帰をすることに合格しなければならない」(P17)などとの言説を切り取って、これらを献金強要の証拠とした。これらの「切り取り」は左傾メディアのお家芸である。

 

これらの文師の言葉は、「他者の為に生きよ、国のため世界の為に生きよ」という人間の基本的な在り方を示す宗教的倫理を教示したものであり、これら教祖の言説を切り取ったり、「万物復帰」や「エバ国家」と言った宗教教義を身勝手に解釈して裁判の場に持ち込み不法行為の理由にするのは、教義の内容に立ち入った、裁判所による信教への侵害である(参照-徒然日誌「高裁の決定を受けて」→ https://x.gd/jlsc7 )。宗教教義に立ち入ってはならないとの原則は、創価学会の板曼陀羅事件の判例(1981年4月7日、最高裁)でも確認されている。

 

ちなみに「万物復帰」とは、人間が堕落によって失ってしまった万物への正しい主管性を、神→人間→万物という本然の位置に取り戻す過程を指し(万物に対する主管性の復帰)、純然たる宗教用語であり、献金の勧誘や財を捧げることとは無関係である。また「アダム国家・エバ国家」とは神の世界復帰摂理の中で生まれる国の摂理的役割を位置付けたもので、「エバ国家日本は、アダム国家韓国に尽くさなければならない」(高裁決定文P15~16)と言った教義解釈とは似て非なるものであり、エバ国家・アダム国家に上下の関係はない。(参照-間違ったアダム国家・エバ国家論を糺す→ https://x.gd/Sunh9 )

 

また最高裁でも、「日本の信者らが無理をしてでも世界の国々のために経済援助をすべきとの抗告人の教義の創始者等の方針」(最高裁決定文P3)と述べ、宗教教義の解釈に踏み込んだ。裁判所が宗教の教義そのものの真偽や正当性を判断することは、まさに信教の自由に大きく抵触する。

 

また「信教の自由」は、①信仰の自由(内心の自由、②宗教的行為の自由、③宗教的結社の自由の3つの自由を含む基本的人権であるが、UCへの解散命令は②と③に明らかに侵害している(臨済宗住職水田真道氏)。現に礼拝施設を奪われ、儀式、礼拝、祈り、布教などの宗教行為に支障をきたしている。法人の財産が没収されれば信徒の宗教活動の自由は深刻な制限を受けることになるからである。法人も人権享有主体であり、宗教団体を恣意的に解散すること自体が信教の自由の侵害であると言える。

 

<宗教団体の解散に非訟事件は妥当かー憲法問題>

 

そして今回の決定には、宗教団体の解散手続きにおいて「非訟事件手続」は妥当かという問題(適正手続の瑕疵)や憲法違反問題がある。憲法学者で弁護士である慶應義塾大学名誉教授の小林節氏は月刊日本8月号において、UCの解散請求手続きについて「違憲」だとする 文書を発表した。

 

即ち、岸田政権は「民法」まで解散要件に入れたが、これは「有権解釈の変更」で、国会による立法権の侵害であること、また、宗教法人の解散は後見的な行政監督ではなく「法律上の争訟」(特にUCの場合は申立人である国と当事者である教団が真っ向から対立する事案である)で、非訟事件手続(宗教法人法81条7項)ではなく「訴訟事件」で扱うべきで、この解散請求手続きは「違憲」であると明言した。(参照-国策裁判の憲法問題→ https://x.gd/aUK6y )

 

即ち小林氏は、この手続きは信教の自由を不当に制限し、違憲・違法な枠組みで宗教法人を「国家が解体」しようとするものであり、これは「宗教に対する国家権力の乱用」であり、自由民主主義国家において決して許されてはならないと警告した。 そして、本件は信教の自由という優越的人権に関わる事例であり、その規制は「明白かつ現在の危険」

(CPD)がある場合に限り、かつ「より弾圧的でない手段」(LRA)を選択すべきであるところ、高裁決定は行き過ぎた判断をしたとした。(令和8年3月23日、最高裁への小林節氏の意見書)

 

そして、憲法20条(信教の自由の保障)、憲法31条(法定手続きの保障)、憲法32条(裁判を受ける権利)、憲法82条(公開裁判の原則)、憲法14条(法の下の平等)、憲法98条2項(条約遵守義務、国際人権規約B規約との整合性)などに明確に違反していると指摘し、多重に違憲・違法状態であると主張した。 

 

この点、元武蔵野大学教授杉原誠四郎氏も、「この解散命令決定で最も問題になるのは、人であれば死刑に当たる宗教法人の解散につき、憲法82条に定める公開裁判を受けさせないまま解散させようとしていることです」(月刊Hanada9月号P274)と述べている。しかるに、最高裁は、厳格な審査基準(憲法20条・21条違反)と裁判公開原則違反(憲法82条、32条)について簡単に触れるのみで、その余の主張はことごとく無視し、憲法判断を回避した。

 

以上、「検証-解散決定の致命的欠陥ー日本の司法の欠陥とUC解散判断の背後にあるもの」とのテーマで、高裁・最高裁の解散決定が、 司法の中立性、証拠裁判主義、信教の自由、適正手続、等に違背する致命的な欠陥を孕んだものであることを述べた。 

 

何度も言うが、今回の裁判は「先ず結論ありき」の国策裁判であり、背後にUCを反国益教団と決めつけ、解散させるという国家権力の意図が厳然とあり、そしてそれに裁判所が追随したと思わざるを得ない。そして私たちは清算過程の中で、宗教弾圧というものがどういうものかを肌で感じている。だが、この理不尽な裁判に反対し、今や「NO」を突き付ける言論が至る所で沸き上がっており、やがてその声は洪水のように、日本を席巻するだろう。

 

ピラトが「この人になんの罪も見いだせない」と言えども、群衆は叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」(ヨハネ19.4~6)と叫んだ時、イエスは「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23.34)と言って「許された」とある。故に私たちは、イエス・キリストや文鮮明先生に習って、あえて贖罪の道、蕩減の道を行く覚悟を前向きに決断したいと思う。それは困難な道だが、その先には甦りの朝、復活の希望が待っているからだ。そして神が自ら審判されるだろう。


ピラトの裁判  この人を見よ(アントニオ・チゼリ画)


「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ロマ12.19)

(了)

 

牧師・宣教師    吉田宏

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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