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🔷宗教改革の二大巨人-ルターとカルバンーその位置付け、召命と回心、神学思想と著書

2 時間前
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🔷徒然日誌(令和8年10月28日) 宗教改革の二大巨人-ルターとカルバンーその位置付け、召命と回心、神学思想と著書


すべてのものは、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン(ロマ11.36、カルバン座右の句)


プロローグールターとカルバン


ルターとカルバン
ルターとカルバン

キリスト教の歴史において、最大の変革と言えば、1517年のマルティン・ルターから事実上始まった宗教改革、即ちプロテスタント(プロテスタンティズム)の誕生と言える。そしてこの大宗教改革の立役者こそ、マルティン・ルターとジャン・カルバンに他ならない。


ルターが宗教改革の口火を切った「宗教改革の父」であるとすれば、カルバンは改革派の教理を体系化した「プロテスタント神学の母」である。


今回、この二人について、a.宗教改革における二人の位置付け、b.召命と回心、c.カルバンの主著『キリスト教綱要』、について論考する。 この作業を通して、私たちの信仰上のよいヒントになれば幸いである。


 1、宗教改革における両者の位置付けについて


ルターとカルバンは「プロテスタント」及び「プロテスタンティズム」の産みの親であるが、以下、両者の宗教改革における位置付けについて考えたい。


ちなみに「プロテスタンティズム」とは、16世紀の宗教改革に起源を持ち、カトリック教会の権威や教義を批判して分離した、キリスト教プロテスタント(新教)各派の思想・神学の総称である。即ち、ルターやカルバンの宗教改革に始まり、その聖書主義に立つ福音的伝統を受け継いで、そこから発展、分化したキリスト教の思想・神学を総称する言葉である。


なお筆者は、ルターやカルバンから始まった宗教改革を、近現代における「第一次宗教改革」とすれば、バプティスト派やピューリタンなどを中心とし、新大陸アメリカで結実していった、いわゆる新プロテスタンティズム運動を「第二次宗教改革」、バルトなどの新正統主義から始まり再臨期の統一思想で結実していく新しいリバイバルを「第三次宗教改革」と位置付けている。


① マルティン・ルター


ルター (1483~1546) は、1517年10月1日、マインツ大司教の指導要綱には「贖宥行為の濫用がみられる」とのラテン語の書簡を、アルブレヒト大司教に送ったが、これがヴィッテンブルグ城教会の北扉に貼り出されたと言われる「95ヶ条の論題」であり、これこそが宗教改革の事実上の口火だった。


ルターはこの論題で、「聖書に根拠がないこと」、「贖宥(免罪)が信仰ではなく業による救いにつながること」、「贖宥行為の濫用がみられること」、「悔い改めを経ずに救いが金で買えること」などを神学的視点から問題にしたのである。


ちなみに論題第27では「お金がチャリンと投げ入れらるや否や、(煉獄から)魂が飛び立つと教える人たちは、神の教えではなく人間的な教えを宣べ伝えている」と記され、第36では「真に痛悔したキリスト者であれば、贖宥の証明書なしでも、その人が当然得ることができるはずの罪と罪過からの十分な赦しを得る」と明記されている。 

 いずれにせよこの論題は大きな反響を呼び、これが世界史の大きな転換となった宗教改革のはじまりとなった。


当初ルターは、単に贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではなかった。しかし、論争が激化する過程で、ルターの頑固な性格とも相俟って、教会批判そのものに向かわざるを得なくなっていったのである。(参照-宗教改革と対抗宗教改革①ールターの召命、回心、宗教改革→https://note.com/humble_lion7426/n/n2c9b61856151)


ルターの根本的な問は、 「罪人は、どのようにして神の前に義とされるのか(正しいものとされるか)」という救済の問題であり、宗教改革の理念として、「信仰義認」「聖書主義」「万人祭司」を掲げ、カトリックの権威と真っ向から対決した。(参照-宗教改革と対抗宗教改革② 宗教改革の理念 ー信仰義認、聖書主義→https://note.com/humble_lion7426/n/n99033b79057b)   


こうしてルターは宗教改革の口火を切り、宗教改革の理念を提示した、まさに宗教改革の祖である。ちなみに宗教改革の摂理的位置付けについて、原理講論には次のようにある。


「法王がローマに帰還したのちの中世におけるキリスト教徒たちは、ルターなどを中心として、宗教の改革運動を起こし、中世暗黒時代の暗雲を貫いて、新しい福音の光に従い、信仰の新しい道を開拓することによって、信仰基台を復帰してきた。」(原理講論p.483)


「西暦1517年、ルターを中心とする宗教改革が起こった時から、400年を過ぎて、初めて、再臨主を迎えることができるのである。」(原理講論p.464)


② ジャン・カルバン


カルバン(1509–1564)はロマ書「すべてのものは、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように」(ロマ11.36)の聖句を好み、神の絶対主権を強調し、人間はひたすら「神の栄光のために生きる」ことに意味があるという。プロテスタント神学を体系化した主著『キリスト教綱要』を書いたカルバンらしさが表れている。 

 

実はルターは、新旧対立の場でただひとりの宗教改革者だった訳ではなく、 イギリスの神学者ジョン・ウィクリフやチェコのヤン・フスは宗教改革の駆者であり、ルターより26才年下のカルバンはルターに影響されながらも、その影響圏はむしろルターを凌ぐものがあった。


ルター派が領封国家カトリックの一形態であり、外形的には中世のキリスト教と大きく変わらないものと言われているのに対して、カルバンの改革派教会は、現存の国家組織による整理作業ではなく、既成権力に囚われない急進的な改革で、ジュネーブでは神政政治の実験を試みた。


確かにカルバンは、改革派教会・長老教会を方向づけ、宗教改革の神学を体系化し、教会と社会のあり方にまで改革を及ぼそうとした宗教改革の巨人である。(参照-宗教改革と対抗宗教改革ーカルバンの宗教改→https://note.com/humble_lion7426/n/n38dcb64b3c68)


そしてカルバンは、プロテスタントの信仰を体系的に説明した神学書『キリスト教綱要』を上梓した。後述するこの『キリスト教綱要』は、初版は1535年(24才)で、全6章の比較的小さな著作だったが、その後5度にわたって改訂・増補され、1559年(50才)出版の最終版は4篇80章の分量になった。


またカルバンは、1543年、『教会改革の必要性について』という書簡を書いて、皇帝カール5世に進呈している。  この1543年に執筆された『教会改革の必要性について』は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世とシュパイアー帝国議会に向けて送った、プロテスタント(改革派)の信仰とその改革の正当性を弁明・主張した趣意書(上告文)である。


 この書簡は、なぜ教会改革が必要なのかを皇帝に訴えた宗教改革の弁明書であり、カルバンは、教皇やカトリック教会の権威に異議を唱えながら、同時に皇帝にも改革への同意を求めたのである。即ち、1536年の『キリスト教綱要』がカルバンの信仰を使徒信条の構成に沿って体系化した著作であるのに対し、1543年の『教会改革の必要性について』は、その信仰に基づいて当時の教会と政治に改革を求めた著作である。


なお『教会改革の必要性について』については、「韓民族選民大叙事詩」の中で言及がある。誤解を恐れずに申せば、ルターが厳父だとすれば、カルバンは賢母ということになるのだろうか。そして、この二人は、復帰摂理成就のために、神が召して立てられた摂理的人物に他ならず、原理では、これを機にメシア再降臨準備時代に入るという。


2、ルターとカルバンの召命と回心について


次にルターとカルバンの召命と回心について記しておきたい。 信仰者には、多かれ少なかれ、召命と回心の体験がある。パウロやルターのように劇的ではないが、筆者にも回心体験はある。では、ルターとカルバンはどのように召され、如何なる回心をしたのであろうか。


①ルターの召命と回心


ルター、落雷に遭遇する
ルター、落雷に遭遇する

ルターの召命は落雷だった。それは1505年、ルターが22歳の時のことで、家を出てエアフルトへ向かったルターは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で「激しい雷鳴」に遭遇した。雷鳴と共にルターは地面になぎ倒され、一緒にいた友人は落雷で死んだ。


落雷の恐怖に死すら予感したルターは、思わず「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」と叫んだという。 つまり、この落雷はまさに神の召命だった。この落雷という形の意外な神の召命に、半ば強制されて修道士になって神の道に進んだのである。


かってパウロもダマスコ途上で復活したキリストに出会って召命され回心したが(使途行伝9.3)、パウロ、ルター両者に共通するのは、神からの一方的で不可抗力的な「宿命的な召命」である。


ルターが雷に打たれたシュトッテルンハイムの草原には、「歴史の転換点」と刻まれた石碑が立ち、この石碑は、この落雷の一撃がルターの生涯を変えただけでなく、西欧社会のあり方をも根本から変えたことを物語っている。(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書p.18)


そしてアウクスチヌス修道院に入って聖書を研究し、誰よりも熱心に修道したルターは、以下のように「回心」を遂げることになる。


ルターの塔の回心
ルターの塔の回心

20才まで聖書を見たことがなかったというルターだったが、アウグスチヌス修道会では、ひたすら「ラテン語聖書を暗記するまで読む」という生活で、早朝3時から夜9時まで7回の定時祈祷で、毎日詩篇50篇を唱えるのが日課だった。 

 

もともと禁欲的なルターは、修道院で「誰よりも厳格な修行生活」を送ったという。 しかし厳しい修道生活で、「いかに欠点のない修道をしても、罪人である不安を感じ、神が満足される確信を持てなかった」と告白し、修道院で度々行った「告解」は女性の問題ではなく、真剣な魂の問題だった。 


ルターは修道院時代、「私はほとんど情欲を感じなかったし、女性も見なかった。ただ、肉体の自然な欲求のための夢精を経験したことはあった。」と述懐している(『ルター自伝』新教新書p.51)。この点は、情欲との戦いに苦悩したアウグスティヌスとの大きな違いである。 


そうして聖書研究への集中と修道院での極限の修業の末、結局「人間の努力によっては神の怒りから解放されず、神の救い(義)には至れない」との結論(確信)に至った。「信仰義認」という信仰原理は、この確信と同時に芽生えたものである。


1507年(24歳)、ルターは司祭に叙階され、1512年(29才)、神学博士になると同時にヴィッテンベルク大学の聖書学の教授となった。そしてその頃からルターの心を捉えて離さなかったのは、パウロのロマ書に出ている「神の義」の思想だったという。 


 そしてルターは、激しい内的葛藤の中で、光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をすることになる。そこで得た確信は、「人間は善行(業)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされる」こと、つまり人間を義、即ち、罪なきもの、正しいものであることとされるのは、すべて神が与える「恩寵の賜物」である、そしてこの義を受動的に受け入れるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができたのである。 

  

即ちルターは、ロマ書をずっと味読し続けていたが、屋外トイレにいるときに、遂に回心の瞬間が訪れ、「聖霊は、わたしが用をたしているとき、この秘儀を授けたもうた」と述懐した。このときはじめて、「義人は信仰によって生きる」ということばの意味を理解したというのである。 


ルターは「このようにして、私は全く生まれ変わって、開かれた門を通ってパラダイスそのものの中に入ったように感じた」(ルター選集2 ) と述べ、これがルターがキリスト教を開眼したヴィッテンベルク修道院の塔の書斎で回心した「塔の体験」である。  ロマ書1章17節はルターの回心聖句である。


「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ロマ1.17)


②カルバンの召命と回心


ではカルバンの召命・回心はどのようであったのだろうか。 


若きカルバン
若きカルバン

1509年7月10日、パリ北部のノワイヨンで行政官の子として生まれ、パリ大学の名門マルシュ学寮およびモンテーギュ学寮で、カトリックの聖職者を目ざしてスコラ学を修めたカルバンだが、のちに父親の意向に添って法学に転じ、ブールジュ、オルレアン両大学で法律を学んだ。 


カルバンは、若き日、人文主義(ヒューマニズム)を研究し、実際に人文主義的な学者として著作を発表した。 彼は最初から神学者を目指していたわけではなく、ラテン語、古典文学、哲学、法律などを学び、その学問的な訓練が、後の『キリスト教綱要』や『聖書注解』の形成に深く関わっている。   


そして人文主義を基盤とするフランス国内の教会改革運動に触れ、父親の死後はパリに戻って古典研究に没頭し、1533年(24才)には処女作としてセネカの『寛容論注解』を出版している。   

ちなみに人文主義とは、中世キリスト教の「神」中心の世界観や権威主義に対し、古代ギリシャ・ローマの古典(文学、哲学、歴史など)を学び直すことで、人間本来の尊厳や自由、主体性を取り戻そうとする思想や運動である。   


ではそのカルバンが、如何にして人文主義やカトリックから福音主義(プロテスタント)へ転向したのであろうか。   


カルバン自身が「突然の回心」と呼ぶ福音主義への転向が、いつどのような経過で生起したのかは、いまなお論議がある。しかし1533年(24才)秋には明らかに「信仰上の理由」(プロテスタントへの転向)で、フランスからバーゼルへ亡命を余儀なくされ、各地を転ずる間にチューリヒやストラスブールなどの改革者たちと知り合っている。

   

即ち、若き人文主義者カルバンが、如何にして宗教改革者に変身したのか、その詳細は多くを語っていないが、1557年に書いた『詩篇註解』序文に、次のようにしたためている。   


「私は教皇主義の迷信に、はなはだ頑なに溺れきっていたので、これほどに深い泥沼から私を引き上げることは、極めて困難だったに違いないが、神は思いもかけない回心によって、年のわりにはあまりにもにも頑なになっていた私の心を屈服させて、従順なものへと変えられた。」(『詩篇注解』序文)


この回心こそ、彼の思想と信仰を一変することになり、カルバンはヒューマニストから一転して、神主義、それも徹底した「絶対的神主義者」に変身したのである。    これをカルバン研究の第一人者である東京告白教会の渡辺信夫牧師は、「彼は神に全てを明け渡さずにおれなくなった。神が全てであり、自分が無であるような関係が始まった」と述べ、「神が屈服させたもうた人」と呼んだ。(渡辺信夫書『カルヴァン』清水書院p.42)   


また、渡辺牧師は、「カルヴァンは、神の絶対的決定の思想を持ち、それも単なる思想ではなく体験として捉えた。カルヴァンは回心によって神を捉えたのではなく、逆に神に捉えられた。」(同書P44)と記している。


まさにカルバンは、神の絶対召命により回心し、神に捉えられた人になり、 ここにカルバンの徹底した神中心主義が確立されたのである。 つまり、カルバンの福音主義への回心は、ある瞬間一挙に突然訪れたというより、次第に思考が熟していき、あたかも蚕が孵化するように、ある時の「決断」によって飛躍を遂げ、福音主義に変身したと思われる。


筆者も、信仰ないしは信仰告白とは、ある種の「決断」とそれに伴う飛躍であると言えるのではないかと思っており、それは、神を信じる決断、キリストを受け入れる決断、罪を告白する決断、罪の贖いを信じる決断、新生に預かる決断である。


3、カルバン著『キリスト教綱要』について 


さてルターは小論文を中心に生涯3000点にも登る著作を残したが、カルバンは、主著『キリスト教綱要』だけでなく、聖書注解、説教、信仰問答、教会改革に関する論文、書簡など、膨大な著作(全集で59巻)を残した。総じて、カルバンが改革派神学を体系的に整理したとすれば、ルターは、信仰と教会をめぐる切実な問題に対して、論文やパンフレットを通じて次々と応答した人物、と捉えると理解しやすい。 


カルバン著『キリスト教綱要』
カルバン著『キリスト教綱要』

今回、カルバンの代表作であり、プロテスタント改革派神学を体系的にまとめた組織神学『キリスト教綱要』について、その骨子を解説する。   


①使徒信条を雛型にした『キリスト教綱要』


カルバンの『キリスト教綱要』は、プロテスタント(改革派)の神学を体系化した作品であるが、「使徒信条」を基本的な構成の手本として、キリスト教の教理を体系的に説明した著作である。 特に、1559年の最終版は全4巻から成り、使徒信条の構造との対応が明確である。


即ち、第1巻は「神を創造主として知る」ことの解説であり、これは使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に対応し、第2巻は「キリストを贖い主として知る」ことが明らかにされており、これは使徒信条「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」に対応する。


また第3巻は「聖霊によってキリストの恵みにあずかる」ことが意義付けられており、これは使徒信条「我は聖霊を信ず」に対応し、第4巻は「教会と救いの恵みの手段」についての解説であり、これは使徒信条「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」に対応する。 


 実は筆者は、2023年(令和5年)1月21日、拙著『異邦人の体験的神学思想』の出版記念会をホテル「アルカディア市ヶ谷」で行ったが、この著書は、やはり使徒信条を雛型にしてキリスト教神学を解説した本である。使徒信条にはキリスト教の基本的エキスが端的に表明されていると思ったからである。


我知らず、そして計らずもカルバンと同じ問題意識に立って書いたとは驚きであり、また筆者の観点が間違いでなかったことを確認できて安堵すると共に、『キリスト教綱要』への親しみが、一層沸いてきたことを告白する。


②『キリスト教綱要』骨子


トマス・アクィナスの『神学大全』がカトリック神学を体系化した著作であるのに対し、『キリスト教要綱』は、聖書に基づいてキリスト教の教えを体系的に説明した組織神学で、宗教改革期のプロテスタント神学を代表する著作である。


1536年3月(27才)、スイスのバーゼル滞在中に、福音主義弁証の目的をもって執筆された『キリスト教綱要』(初版本6章)を刊行したが、この本は広く読まれ、論客として認められ一目置かれるようになった、云わばカルバンの宗教改革者としてのデビュー作である。

この書はカルバン自身の回心体験から数年余のことであり、 単なる理論的な神学書ではなく、信仰体験から出た熱烈な思いが込められたものである。渡辺信夫牧師は次のように述べている。


「綱要はキリスト教を体系的に述べたもののように感じられるが、そうではなく信仰の教えを述べようとしたものであり、学問的な書物でもあるが実際的な信仰書でもある。カルヴァンがこの書物にまとめた理論は、彼自身の信仰体験を凝縮させたきわめて独自的なものである」(渡辺信夫書『カルヴァン』清水書院p.48~50)


前記したように、初版は比較的小さな、6章からなる入門書だったが、カルバンは生涯にわたって改訂と増補を重ね、1559年の最終版では、全4巻80章からなる大規模な神学体系へと発展させた。そして使徒信条の構成を基本的な手がかりとして、使徒信条の構成と対応する四巻から成っている。 


第1巻は創造者なる神についての論考である。神とはどのようなお方か(神の存在)、人間はどのように神を知るのか (神の認識)、 聖書の権威と聖霊の証し 、 三位一体の教理、天地創造、神の主権、神の摂理についての考察である。


第2巻は、キリストにおける贖い主なる神について、即ち罪に陥った人間は、どのように救われるのかの論考である。アダムの堕落、原罪、人間の罪と無力、律法、旧約と新約の関係、キリストの神性と人性、十字架と復活などが考察されている。   


但し、カルヴァンは第2巻で、善悪の果を「取って食べるな」と言われたのは(創世記3.3)、神の服従の試練であり、取って食べたのは(創世記3.6)、「不服従の罪」だったと次のように述べている。


「善悪を知る木に触れるなとの禁止は服従の試験であって、アダムが神の命令に心から服従するかどうかを明らかにするものであった。.....戒めの目指すところは、アダムが己の地位に満足し、悪しき欲望によって更に高くなろうとなさないことに他ならない。」(『キリスト教綱要』新教出版社p.267)


またカルバンは世襲的な原罪を認めたものの、「不信が反逆の根であり、更にこれに野心と傲慢が加えられた」と指摘し、次のように堕落の原因を不信と不服従と傲慢に見た。


「不信が反逆の根であり、更にこれに野心と傲慢が現れ、忘恩がそれに付け加えられた。すなわち、アダムは自らに許された以上のものを欲しがり、神が豊かに与えたもうた寛大さを浅ましくも軽蔑した。」(同書p.268)


「これが子孫にまで蔓延したとしても何ら道理に反していない。......子孫をも同じ悲惨の中に包みいれまた沈めた。これが古代教会の人たちが『原罪』と名付けた世襲的な腐敗である。」(同書p.269)


しかし、このカルバンの「傲慢原罪説」は、原理がいう「姦淫原罪論」とは根本的に異なっている。総じてキリスト教は、人類始祖の堕落の原因を、高慢と自己中心性に見てきたが、原理は天使と人間の不倫(姦淫)にあったと明快に解いている。

 

第3巻はキリストの恵みを受ける方法を論じ、キリストの救いは、どのように私たちのものとなるのかという論考である。即ち、聖霊の働きと信仰生活 、信仰と回心 、 義認と聖化 、祈りとキリスト者の生活、神の選びと予定説 、 最後の復活と永遠の命などが考察されている。 


この第3巻で述べられているカルバンの「予定説」は、歴史的に賛否両論の議論がなされてきた。カルバンの予定説 (『キリスト教綱要』の第3巻第21章~24章)とは、人間が救われて天国に行けるか、滅びて地獄に行くかは、本人の善行や信仰心の有無に関係なく、「すべて神によってあらかじめ決定されている」とするカルヴィニズムの宗教思想である。即ち、カルバンは救われる者(選ばれた者)だけでなく、滅びる者(見捨てられた者)もあらかじめ神が定めているとする「二重予定説」を表明し、人間の自由意志を黙視した。 ちなみに原理講論は、次のようにカルバンの予定説を批判している。


「復帰摂理の目的を完成するに当たって、神の責任分担と人間の責任分担との間には、果たしてどのような関係があるのかを知らずに、すべての『み旨成就』を、神の単独行使として見てきたところに誤りが生じてくるのであり、カルバンのように、頑固な予定説を主張する人が出てくるのである。」(原理講論p.250)   


しかし、カルバンの予定説の真意は、神の主権の絶対性を強調せんがための救済観であると筆者は思料している。 つまり、救いの根拠は、人間の功績ではなく神の恵みであり、「神の選び(救い)は、人間の行いではない」という神の主権の絶対性を強調したものだと思っている。


従ってカルバンの予定説は「人間は何をしても無意味だ」という運命論ではなく、神が定められた救いの目的を、信仰、福音の宣教、ひいては「天職」(職業)などの手段を通して実現されると考えたと言えなくもない。


第4巻は教会と救いの外的な手段について、即ち教会はどのように信仰者を養い、信仰を支えるのかについての論考である。教会の本質と職制、洗礼、聖餐、教会の規律と統治、教皇権への批判、国家と政治権力などを論じている。


これらの構成を見ると、カルバンが予定説だけを論じた神学者ではなく、神、聖書、罪、キリストの贖い、信仰、教会、国家まで、キリスト教信仰全体を一つの体系として説明しようとしたことが分かる。即ち、「神・罪・救い」という、聖書・キリスト教神学の典型的な構成になっている。ちなみに原理講論も神(創造原理)、罪(堕落論)、救い(復帰原理)という3段階の構成になっている。


総じてルターは、罪の苦悩の中で「どうすれば神の前で義とされるのか」という問いを強く追究し、一方、カルバンは、聖書全体を通して、神の創造、罪からの救い、教会、歴史に至るまで、神がどのように働かれるのかを体系的に説明しようとした。


即ち、カルヴァンの『キリスト教綱要』は、プロテスタント神学、とりわけ改革派神学の最も重要な基本書の一つであり、ルターが宗教改革の扉を開いた人物だとすれば、カルバンは聖書に基づくキリスト教信仰を、体系的な神学として整理した人物といえる。


③おしまいに


おしまいに筆者は、カルバンに感謝しなければならない。



『キリスト教綱要』の序文に「私は進歩しつつ書き、書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」という一節が書かれている。これはアウグスチヌスの「書簡第7」からの引用であるが、筆者が最近考えていたことと瓜二つであり、まさに「我が意を得たり」の感がした。


今、筆者のホームページ 「令和リバイバル」には、現時点で「542本の記事」が投稿されているが、年を経るごとに知識や思想が深化し、過去の記事を修正・加筆することがある。つまり、カルバンの言うように、「進歩しつつ書き、書きつつ進歩する」のである。

 

 そしてカルバンの『キリスト教綱要』は、1536年3月(27才)、「初版本6章」で刊行されたが、その後5度にわたって改訂・増補され、1559年(50才)出版の最終版は「4篇80章」の分量になった。実にカルバンは、20年以上に渡って推敲を重ねて完成させたのである。


 実は筆者も、4年ほど前『異邦人の体験的神学思想』の初版を出したが、4年過ぎた今、これを再度抜本的に修正・加筆して「改訂版」を出さなければならないと思っている。カルバンがそうであったように、筆者もまた深化しているからである。


また、前述したように、拙著『異邦人の体験的神学思想』は、『キリスト教綱要』と同様、使徒信条を雛型にしている。そして渡辺信夫牧師が「綱要はカルバン自身の信仰体験を凝縮させたきわめて独自的なものである」と言われているように、『異邦人』は、まさに自らの信仰体験を主軸にしたものである。願わくばカルバンにちなんで、改訂版が日の目を見ることを祈念するものである。 


以上、「宗教改革の二大巨人-ルターとカルバンーその位置付け、召命と回心、神学思想と著書 」とのテーマで、宗教改革者ルターとカルバンについて、宗教改革における位置付け、召命と回心体験、著書『キリスト教綱要』について論考した。 


「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(詩篇90.1~2)            (了)


吉田宏記



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