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真如苑の寒中修行礼拝に参加して 今、元気な宗教

◯つれづれ日誌(令和4年2月2日)-真如苑の寒中修行礼拝に参加してー今、元気な宗教


去る1月20日、知人のお誘いで、半蔵門にある真如苑会館を訪問いたしました。都心の一等地に8階建てのビルを構え、5階の大礼拝堂は1000名を越える集客の立派なものでした。


今回真如苑訪問の動機は、真如苑が、成長の家、立正佼成会、創価学会など、いわゆる既成の新興宗教が揃って頭打ちにあるところ、唯一伸びている元気な宗教であり、沢口靖子や石原真理子らの有名芸能人も多々入信しているということで、一体「何故元気なのか」、その理由を知りたいということでした。


以下、今回の訪問で見聞きしたことを書き留め、真如苑が如何なる教義のもとに、何故伸びているのかを検証すると共に、真如苑を創立した「伊藤真乗」開祖夫婦がいかなるいきさつで当会を創立し、如何なる理念と信仰を持ったかを探ることにしました。


【真如苑の歴史と理念】


真如苑を知るために一番よい資料は、「真乗」刊行会が出版した『真乗―心に仏を刻む』(中公文庫)だと思われます。編著者には、奈良康明(駒沢大学名誉教授)、仲田順和(総本山醍醐寺第百三世座主)、下田正弘(東京大学大学院教授)、長塚充男(真如苑教務長)などそうそうたるメンバーが名を連ねています。


この本は開祖伊藤真乗の伝記本でありますが、単なる伝記に留まらず、伊藤真乗と関連して、特に真言密教や護摩祭祀、不動尊信仰、大般涅槃教など仏教の本質が簡潔に述べられており、「仏教とは何か」を知る上でも、大変参考になるものでした。


筆者は最近、『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』という本を上梓しましたが、この出版の動機には、28年間も統一教会の会長を務めた久保木会長について、第三者の手による伝記本が一冊もないことに、淋しさと不満を抱いたことがあります。


大抵の宗教団体の教祖・開祖・会長には、学者や作家などの手による伝記本が出ています。前記の『真乗―心に仏を刻む』(中公文庫)をはじめ、この前は作家の佐藤優が『池田大作研究』という分厚い本を出しました。


今後「文鮮明の生涯と愛」、「久保木修己の召命」などといった伝記本が卓越した神学者などの手によって書かれることを祈念してやみません。


<真如苑とは>

さて真如苑は、東京都立川市柴崎町の「真澄寺」(旧・真言宗立川不動尊教会)に本部を置く、「真言宗系在家仏教教団」であります。


本尊は、開祖自刻の釈迦涅槃像である「久遠常住釈迦牟尼如来」、中心経典は「大般涅槃経」(だいはつねはんきょう)とし、加えて真言密教の『大日経』と『金剛頂経』を頂いています。大日経は密教思想を、金剛頂経は信仰実践を中心に説いている経典であります。


開祖は伊藤真乗(しんじょう、1906~1989)、及び妻の伊藤友司(ともじ、1912~1967)、現在の苑主は真乗の三女伊藤真聰(しんそう)で、信徒数公称90万人となっています。


<真如苑、及び真乗の足取り>

以下、真如苑、及び真乗の足取りを記しておきます。

伊藤真乗(出家前は文明)は、1906年(明治39年)、伊藤文二郎・よしえ夫婦の第三子として、山梨県北巨摩郡で生まれました。


天理教信者であった母の影響と、曹洞宗の禅寺の檀家総代でもあった父から禅を学び、また伊藤家一子相伝の家学である易学を受け継ぎました。即ち伊藤家家伝の易学「甲陽流病筮鈔」(びょうぜいしょう)です。


真乗は、高等小学校卒業後、正則英語学校普通科(現・正則学園高等学校)を卒業、ついで高等科に進学するも、青年訓練所に入るため英語学校を辞し、1926年の徴兵令により、東京・立川近衛師団の飛行第五連隊に入営し、航空写真の撮影等に携わりました。


除隊後は、石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機株式会社)に入社し、航空機開発の技術者となりました。


伊藤家に伝承されていた易学を習得した真乗は、会社務めの傍ら、自宅で地域の人々に易占による「よろず相談」に応じていましたが、夜自宅には毎日五~六人の相談者が来ていたといいます。


この易学と共に、1932年(26才)に結婚した6才年下の内田友司から「観音信仰」の影響を受け、一方では実姉から「キリスト教」の影響を受けるなど、宗教家としての遍歴が始まっていました。


そのような中、1934年、易学の取り持ちで一人の真言宗僧侶「大堀修弘」との出会いがあります。大堀は、「真言密教」を真乗に勧め、以後、真乗は真言密教の修法を学んでいくことになりました。そのような中、真乗は本尊として仏像を迎えたいと思うようなり、大堀は「不動明王」を強く勧めました。


実は当時、真乗は易占で人々を導いていましたが、「決して易学を商売にしてはいけない」との先代からの遺言により、無償で相談に応じていました。しかし、易学だけでは解決出来ない悩みや苦しみがあることを知り、その解決の道を仏道に求めたというのです。


ちなみに大堀が勧めた不動明王とは、密教に特有の尊格で「動かざる尊者」を意味し、度しがたい衆生を救うために、大日如来が恐ろしい姿を取って現れたもので、大日如来のひとつの姿(化身)として考えられています。(『真乗―心に仏を刻む』P34)


つまり、不動尊は、密教における宇宙神である「大日如来」と同一視される存在であり、仏教における火の儀礼として知られる「護摩」の修法も、不動明王を本尊として修されるのがもっぱらであります。(同P46)


この真言密教の護摩とは、火を用いた修法であり、本来は供物を焼く炎と煙りを天上に捧げることで、神々が祭祀者の願いを叶えてくれるという祭儀でしたが、密教に取り入られてからは、仏の智慧を象徴する炎が、煩悩を焼き尽くし、あらゆる災厄の根源を断ち切る修法になったと言われています。(同P54)


そうして1935年(29才)、運慶作と言われる「不動明王座像」と出会い、これを 仏師仲丸奥堂から譲り受け、立川の自宅に迎えることになりました。以後、「文明」から法名「天晴」と名乗りました。(文明→天晴→真乗)



<出家・得度・阿闍梨>

遂に真乗は1936年(30才)、石川島飛行機制作所を退社して、赤貧を覚悟の上、宗教に出家専従することを決断しました。


やがて易占や不動尊を中心に宗教的な集まりである「講」が自然発生的に組織されるようなり、醍醐派教師の「野法海浦」の勧めで、不動明王座像を本尊とする成田山新勝寺の教会分社という位置付けで「立照講」を結成しました。


ちなみに「講」とは、もともとは仏典を講義する僧侶の集会を意味しましたが、転じて、信仰上の目的をもって組織された集まりを指すようになりました。


そして1936年、野法海浦の勧めで京都醍醐寺で得度受戒し修行しました。この年、最愛の長男智文と2才で死別しています。


1937年、真言宗京都醍醐寺より分教会の設立許可を得、1938年、醍醐寺から認可を受け、真言宗醍醐派の末寺の「立川不動尊教会」として出発しました。以後、醍醐寺佐伯恵眼大僧正から「真乗」の院号を賜り、天晴から真乗と改名しました。


また1943年には、醍醐寺にて金胎両部の伝法灌頂を修め「阿闍梨」(あじゃり)となりました。阿闍梨とは、師匠の意で、弟子を教導し規則などを教示する立場に立つ僧侶の位階です。


即ち、真乗が醍醐寺第十六世座主、佐伯恵眼大僧正の直弟子であり、佐伯恵眼師に従って、修験道の法流と真言宗教の法流をともに究め、恵印灌頂と金胎両部の伝法灌頂を相承しました。なお、後日真乗は、1966年(60才)に醍醐寺から僧の最高位である大僧正位を授与されています。


こうして伝法灌頂を受けるということは、阿闍梨になるということであり、それは真乗が師として、弟子に灌頂を授けることができるということを意味しています。灌頂とは仏位受職の儀式で、キリスト教的に言えば、信徒を牧師や司祭などに就かせる際に行われる按手礼と言えるでしょう。


つまり、真乗は真言宗教の法燈を、研鑽を積んだ弟子に相承することができる資格を得たわけであります。後日、あえて醍醐寺の庇護を離れて、真澄寺という小寺院に拠り、新たな教団を設立したのは、あらゆるとらわれを捨てて、密教の法燈を掲げていきたいという思いのあらわれでありました。


こうして真乗は、厳しい修行をして、密教的行者の霊的能力を身に付けました。病気の治癒や憑霊現象など、信者の様々な障害を、密教の修法によって取り除き、立川不動尊教会は信者を増やしていきました。当時は、病気になったら行者に加持祈祷を頼むということはよく行われていたのです。こうして易占(病筮鈔)での相談や加持祈祷による病気治癒を施しました。


しかし、ここで極めて重要なのは、真乗が、真言宗教の加持祈祷の修法によって、かりに病気が治ったとしても、決してそれ自体が目的ではないと考えていることです。病が治るのは、仏を求め、悟りを求めていく心、つまりは菩提心が向上していく過程において起こることであり、その意味で易占や加持祈祷は副次的なものであって、それらの癒し自体は、宗教の、あるいは真言密教の本質ではないというのです。そうした現象面にのみとらわれると、仏道の本質を見失ってしまうことを、真乗は強く戒めました。(真乗刊行会編『真乗ー心に仏を刻む』P128)


正にこの指摘は、「他山の石」として、私たちの信仰の在り方のよい教訓になります。ややもすれば利益的な願い事信仰に流れ、今やUC全体が、天地正教的な霊界に陥っているのではないかとの声もあり、真摯にこの真乗の声に耳を傾けたいものです。


<立宗ー真如苑・大般涅槃経>

そして戦後の1946年、宗教法人令公布に伴ない、立川不動尊教会は真言宗を離脱し、新たに宗団を形成していきます。


即ち1948年、真言宗醍醐派には戻らず、醍醐寺から独立して「真澄寺」と改称し、新たに在家仏教教団を設立しました。これが、真如苑の前身となる「まこと教団」であります。真乗42才のことです。


そして従来の僧衣を平服に、剃髪から有髪とし、出家・在家の隔てを超えての革新的在家教団として出発しました。


しかし1951年(45才)には、後述する元弟子からの告訴冤罪事件もあり、まこと教団を「真如苑」と改称し、教主を真乗、苑主を友司として、1953年には宗教法人として認証を受けました。


なお1952年には、告訴法難の最中、次男友一が1年間の闘病の末、15才で病死しています。


そうして更なる重要な転機が訪れました。1956年(50才)、真乗が大般涅槃経の一節に共鳴したことをきっかけに、大般涅槃経を真如苑の経典としました。また涅槃像を自刻し、1957年(51才)には、大涅槃像を完成させ、今までの不動明王から、釈尊涅槃の「久遠常住釈迦牟尼如来」を真如苑の本尊としたのです。併せて根本聖典『一如の道』を発刊し、かくして真如苑は真言系在家新興宗教としての体裁を整えました。


真乗は、大般涅槃経次の一句で回心しました。


「即ち、衆生をして我が身中において搭廟の想を起こして礼拝供養せしむ、是の如きの衆生、我が法身を以て帰依処となす」(大般涅槃経如来性品)


「聴法の因縁にして大般涅槃に近づくことを得るか。一切衆生、法を聴くを以

ての故に、則ち信根を具す」(大般涅槃経高貴徳王菩薩品)


大般涅槃経(涅槃経)の「涅槃」とは、一切の迷いから脱した完全な悟りの境地、即ち「常楽我浄」の境地を意味しています。如来が常にあるという「如来常住」、全ての者には仏性が宿っているという「一切衆生悉有仏性」が二大理念であり、その実践的修行として、密教的禅定である「接心」があり、極悪人にさえ、救いの道があるとしました。


涅槃経の信奉は、真乗の「釈尊への回帰」とも言えます。真言密教では宇宙の本体たる大日如来との直接的な神秘的結合を目指すものでしたが、真乗は 、救済者としての釈尊に回帰し、釈尊を大日如来と凡夫をつなぐ仲介者として位置づけ、大日如来、ダルマ(法)、そして釈尊が、正に三位一体となった境地を目指しました。キリスト教的に言えば、神、ロゴス(み言)、キリスト(真の父母)の三位一体ということになるでしょう。


<教義と修行体系>

真如苑の教えは、「伝燈法脈」、「大般涅槃経」、「真如霊能」の三つの柱からなっています。


「伝燈法脈」とは、教主真乗が醍醐寺で修行し、醍醐寺座主から受け継いだ真言密教の法脈であります。のちにそれを基盤として、真乗は「真如密」を確立することとなります。


「大般涅槃経」は、真如苑の経典であり、教えの根本とされています。「大般涅槃経」の要旨は、如来は不滅であり、永遠に存在するという「如来常住」、生きとし生けるものはすべて仏になれる性質を持つという「一切衆生悉有仏性」、闡提(せんだい=大悪人)でも成仏できるという「一闡提成仏」、さらに理想の境地とされる「常楽我浄」の4つからなっています。


「真如霊能」とは、教主真乗が受け継いだ家伝易学による霊能と、苑主友司が祖母、伯母を通じて継承した霊能が一体となり湧出したものであり、今日の「接心」修行の基盤であるとされています。また、このときこの世とあの世は一つにつながっているという「顕幽一如」という教えが示されました。


あの世の諸霊は、その子孫や縁故者に対して影響を及ぼすことがあるとされ、あの世の諸霊に廻向(供養)をし、この世に生きている者が修行して因縁を清めていけば、その結果として諸霊・現世の者も幸福が得られるという教えです。ひらたく言えば先祖供養でしょうか。


なお真如苑では、六波羅蜜を集約したとする「3つのあゆみ」の実践が修行とされ、「3つのあゆみ」とは、「歓喜」(布施行)、「お助け」(布教活動)、「ご奉仕」(教団内外における奉仕活動)をいいます。 その他、朝夕の読経、法要参座、接心も主な修行とされています。教義面では、密教の他に、諸宗教・スピリチュアリズム・易などの影響がみられます。


<接心・霊能>

真如苑では、「接心」と呼ばれる瞑想修行が行われています。接心修行は、日常生活における自分の心の在り方や自分の持つ傾向性を霊能者(ミーディアム)を通して、見つめ直すもので、日常生活の中で覆われてしまった仏性が開発されるとい言われています。


接心には、有相接心と無相接心の2種類があり、「有相接心」では、霊能者と信者が対座し、霊能者から信者に対して、心を磨くために必要なアドバイスが「霊言」として伝えられます。霊能者から伝えられた霊言の内容を、自己反省し深め、日常生活の中で実践していくことを「無相接心」と呼んでいます。これはキリスト教で言えば、いわゆる「牧会」、あるいは「告解」にあたるのでしょうか。


真如苑では、大乗→歓喜→大歓喜→霊能という4つの霊位が設定され、霊位向上のための「相乗会座」という修行があります。


「相乗会座」において祈りが深まり、ふさわしい境涯に達していると判定されることで次の段階の霊位を得られ、最終的に「霊能者」となることで、接心において「霊言」を受ける側から、与える側となります。霊能者とは、涅槃の境涯を体得した人で、いわば優れた牧会者と言えるでしょう。


心霊科学者の梅原伸太郎は、真如苑の霊能者を用いる方法は、日本心霊科学協会やその前身に学んでいるとしています。


【伊藤真乗の受難と回心】


以下において、真乗の深刻な試練と、その試練からの回心について、語っておきたいと思います。即ち、一つは二人の息子の夭折であり、今一つは愛弟子の反乱であります。


<二人の息子の死>

真乗は、1936年(30才)、長男智文を2才で、1952年(46才)、次男友一を15才で亡くしています。


真乗は、長男が病死した際に、長男は皆の苦しみを代わりに引き受けるために死亡したと解釈し(抜苦代受)、死んだ子供には救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動の中で重要な役割を担うようになりました。


実際、長男・次男の死後には、信者の病人が救われるなどの救いの力が示されたと言われ、また、長男・次男の他界により、霊界との道すじが開かれ、円滑な接心修行が可能となったとされています。


従って真如苑では、伊藤夫妻の夭折した2人の息子を「両童子」と呼び、霊界の両童子が信者の苦しみを身代わりとなって引き受けてくれるとして、これを「抜苦代受」と呼んでいます。


<長男智文の死>

長男が死去した時は、真乗が会社を辞めて出家し、醍醐寺で得度し、修行に入っている最中のことでした。その頃は、赤貧の中にあり、先行きがまだ見えない時であり、可愛いい智文だけが夫婦の希望であり慰めでありました。真乗は回想録で、次のように語っています。


「信仰専従の生活に入った私共一家は、日夜分かたぬ修行の明け暮れに肉体的にも極限に至り、物質的にもたちまち窮乏し、まさに冬野のように荒涼とした様になりました。そうした中に、当時数えで三歳だった智文の無邪気な動作が、わが家の唯一の憩いでした」(苑史回想)


長男智文の一見風邪のような症状は、一進一退で治らないままであり、一方、加持を頼みに来た人々は目に見えて回復しましたので、信者から「智文さんは、信者の病気災難を全部受けて下さっている」といった声が挙がるようになりました。


智文の死に直面した妻友司(24才)の悲嘆を、真乗は次のように回想しました。


「すべてを投げうって、道一筋の歩みをはじめて四ヶ月、そして先ず与えられたのは愛児の死という悲嘆だった。み仏とは、このように無慈悲なものか。み仏の道は、このように過酷なものか、み仏の慈悲とは一体何か、と妻はもだえ、且つ悲愁に沈んでいた」(一如の道)

しかし、「み仏の慈悲とは一体何か」と疑わざるを得ない愛児の死に遭遇して、真乗はそれを仏に対するより深い帰依をうながすものとして受け止め、また友司は、愛児可愛さの情からの祈りは、自己本位の信仰でしかないことに気付いたというのです。


この試練に際しての真乗・友司の態度は、かのイスラエルが、全てを失ったバビロン捕囚に遭遇した時、この過酷な試練を、より深いヤハウェとの結合に回心していった信仰を想起させられます。


<次男友一の死>

後述する元弟子の告訴によって、教団が未曾有の危機に晒されている最中、追い討ちをかけるように、次男友一が 、わずか15才で病死しました。


友一は生まれつき病弱でしたが、幼くして宗教家としての優れた資質を示し、十才にして本尊と深く感応し、宗教的行者能力を発現し、信者の相談にも応じるほどだったといいます。(『真乗ー心に仏を刻む』P191)


しかし友一は、十一才で股関節カリエスを患い、順天堂病院に入院し、松葉杖にすがって歩く身となりました。入院中の友一との会話を真乗が次のように記録しています。


「僕という人間はどうして病気ばかりしなければならないのだろうか。多くの信者の相談相手になるには体験が必要だから、み仏がさして呉れて居るんだよ。だけど、体験とは大変だな、苦しいものだよ。体験は苦しい。その苦しい体験が大切なんだ!友一。」


友一は、病気自体の苦痛に耐えるばかりでなく、脊髄注射や心臓に針を刺して溜まった水を取るための激痛を伴う治療にも、「注射が痛いと思うのは、まだ僕には感謝が足りないから」と語ったといいます。


1952年7月2日、友一は真如苑発足を見届けるかのように仏の元に旅立ちました。翌1953年、「宗教法人真如苑」は文部大臣の認証を受け、登記も完了しました。


真乗は、友一の通夜に際して、次のように綴りました。


その通夜の夜、私は枕辺に侍って、いまは答えない骸に父としての言葉をささげた。「友一、帰ってきたね。今夜はお父さんと一緒にいようね。お前の病気中は法難のため、あわただしい日を送るばかりで、何もしてあげられなかった。今夜は、ゆっくり一緒にいてあげようね」(一如の道)


この友一の死は、1983年12月22日、文鮮明夫妻の次男興進氏の死を想起されられます。その死を清い祭物として捧げ、「統一式」をなされました。ユダヤ教とキリスト教と統一教会が一つであり、その次には、日本とアメリカとドイツと韓国が一つであり、自由世界と民主世界が一つだという式をされたというのです。


また、地上と霊界の壁を打ち破る「天勝日」を制定されました。文先生は、「興進が行く道は、愛によって死亡圏に勝ったという道です。死亡圏に勝ちました。死の境地において、愛によって死亡圏に勝ったので、涙を流してはいけません」と語られました。


友一が15才にして父の信仰と宗教理念を悟っていたように、17才の興進氏は、既に原理の何であるかを全て知っていたというのです。


<愛弟子の反乱>

1950年8月21日、女性信者との不祥事により教団を去った元教務総長(教団No.2)の地位にあった青年僧が、修行を名目に体罰を受けたと真乗を告訴したことにより、真乗が逮捕されるという事件が勃発しました。真乗が15才の時から父親がわりに面倒を見てきた若干25才の愛弟子の反乱であり、真乗は正に飼い犬に噛まれたというのです。


1954年1月30日、東京高等裁判所の控訴審判決では、一審の判決を変更し、体罰に関しては、真乗自らが手を下したことでもなく、また宗教上の行為として無罪としつつも、教団の監督者としての責任を問われ、真乗に傷害罪懲役8月・執行猶予3年の判決を下しました。


この事件は「まこと教団事件」と言われ、マスコミをにぎわせ、教団は正に壊滅の危機に立たされました。しかし真乗は、妻友司の献身的な支えもあって立て直しをはかり、1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称、真乗は管長を辞し教主となり、友司が苑主に就任しました。こうして天性の宗教的天稟と敬虔な信仰に恵まれた霊能者としての妻友司の存在は、窮地の真乗を助けました。


この愛弟子の反乱は、イエスを売ったユダの裏切りを彷彿させます。何が辛いかと言っても、身内からの反乱ほど痛いことはありません。そう言えば、幸福の科学の大川総裁も、長男大川宏洋(ひろし)の反乱に遭遇しています。今やユーチューバーとして売れっ子になっている長男から、内情を暴露されるなど、容赦ない批判に晒されています。


しかし真乗は、愛弟子からの裏切りという最悪の事態に際して、この憎むべき反乱者を、仏の慈悲に習って許しました。


こうして真乗は、二人の愛児の死と、愛弟子の裏切りという、未曾有の試練を受けましたが、真乗夫婦の優れたところは、この試練を信仰の飛躍へと転化したところであります。


聖書に、「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」(1コリン10.13)とあり、「共に働いて、万事を益となす」(ロマ8.28)とある通り、正に「試練は恵みなり」であります。


【おわりに】


こうして真如苑は、新興宗教としては比較的健闘していますが、真乗・友司夫妻の生き様や、教団の歴史、理念を検証して、その理由が腑に落ちました。


真言密教をただしく相続しつつ、大般涅槃経を大胆に取り入れ、自らの信仰体験を加味して、真如苑独自の教義体系と修行方法を確立したことで、在家仏教教団として成長しました。


UCもまた、旧約、新約の聖書的伝統を正しく相続し、その上で原理という新たな教理を掲げました。この真如苑の在り方は、UCの在り方と似ているところがあり、学ぶところ大であります。


ただ、真乗の死後、三女伊藤真聰が真如苑苑主として教団の跡を継いでいますが、長女、次女の跡目争いがあり、長女と次女は他宗教(創価学会?)に改宗しているとの情報も流れています。そのせいか、次の苑主には、真乗の血筋ではない、ある東大薬学部を出た一般職員が決まっているようです。(了)