不死鳥の国「ポーランド」- ロシアのドローン攻撃に思う
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- 9月18日
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◯徒然日誌(令和7年9月17日) 不死鳥の国「ポーランド」- ロシアのドローン攻撃に思う
神は人間の心に神を知ろうとする欲求を植え付けられた。人間の心の遥かな深みには、神を求める欲求と神への郷愁の種が宿っている(教皇ヨハネ・パウロ2世)
プロローグ
近時、内外とも急を告げる事件が相次いでいる。国内では9月7日、石破茂自民党総裁がようやくにして総裁を辞任し、政局は次期自民党総裁を決める総裁選挙に移った。ジャーナリストの三枝玄太郎氏は、「選択的夫婦別姓は賛成。移民は推進。財政規律派、再エネ大賛成。小泉進次郎氏が総裁になったら自民は終わりです」と述べ、京大教授の藤井聡氏は、「小泉進次郎氏が総理総裁になった場合、日本は立ち直れぬ程の深刻なダメージを被る。政治家としては無能」と辛口のコメントを寄せた。筆者は安倍晋三元首相が高市早苗氏を強く推薦されていたことの一点をもって、今回の総裁選で高市氏に一票を投じようと思っている。

一方アメリカでは、9月10日、福音派の敬虔なクリスチャンで、保守の政治活動家チャーリー・カーク氏がユタ州オレムのユタバレー大学で銃撃され死亡した(享年31才)。カーク氏は保守団体ターニング・ポイントUSAの代表を務め、トランプの大統領再選に大きく貢献した立役者である。かってトランプは耳を撃たれて九死に一生を得たが(7月13日)、カークは帰らぬ人となった。トランプ大統領は「チャーリー・カーク氏は同世代の巨人であり、自由の擁護者であり、何百万もの人々を奮い立たせた」 として、文民の最高位である「大統領自由勲章」を授与すると発表した。やはりカーク氏は自由のための「供え物」なのだろうか。
さて本題のポーランドであるが、9月10日未明、ロシアのドローン19機が領空に侵入し、3機が撃墜され、数機が地面に墜落するという事件が起こった。2022年2月24日、ロシアが隣国ウクライナへの全面侵略を開始して以降、ポーランドでは領空侵犯が複数回発生している。しかし、今回の侵入は規模が大きく、ポーランド領内の奥深くまで達したことから、深刻な懸念が広がっている。ドナルド・トゥスク首相は、「ポーランドが第2次世界大戦以来、紛争に最も近づいている」と警告し、NATO条約第4条の発動を要請した。

ちなみにNATOの第4条は、加盟国の領土保全や政治的独立、または安全が脅かされている場合に、いつでも「対応を協議」すると定められ、また、第5条は、加盟国が一
今回、ロシア、ドイツ、オーストリアなどの大国に囲まれ、歴史的に分割や侵略の憂き目に逢い、第2次世界大戦後は東西の狭間で試練に晒されながらも不死鳥の如く甦ったポーランドについて論考する。筆者は宣教のためにワルシャワに13回訪問したことがあり、何かと思い入れの深い国である。また欧州一の親日国家でもある。この度のロシアのドローンによる領空を侵犯は、「ポーランドに注目しなさい」との神の声であり、この機会にポーランドの歴史や文化を検証し、その現代的意味について論考することにした。
【受難の歴史ー分割と侵略】
しばしばポーランドは「不死鳥の国」と言われ「欧州の韓国」だと言われる。それはポーランドも韓国も周囲を大国に囲まれ、歴史的に常に侵略に晒され、国を奪われながらも甦ったからである。即ち、朝鮮半島が中国、ロシア、日本という大国に囲まれているように、ポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアという大国に囲まれて圧迫を受けてきたのである。ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は2回も韓国を訪問し、「試練の韓国史はポーランドに似ている」と語って韓国に格別の思いを表わした。
ポーランドはかって祖国が三つに分断され、それぞれロシア、プロイセン、オーストリアに支配された歴史を持ち、123年間(1795年~1918年)祖国は消滅した。また第二次世界大戦では、ドイツとロシアに攻撃され約440万人(全人口2320万の19%) の犠牲者を出した。あの有名な「ワルシャワ蜂起」(1944年)では20万人もの軍・市民が殺害され、ワルシャワの街は徹底的に破壊された。こうして常に列強の狭間で受難を受け、戦後もスターリンによって共産主義を押し付けられ多くの犠牲を払ってきた。その意味でポーランドはイスラエルや韓国と類似した苦難の歴史性を持っている国である。
そこで先ず、ポーランドの受難の歴史、即ち分割と侵略の歴史を概観する。
<ポーランドの概観ーカトリックを受容>
ポーランドはバルト海に面した東欧の国で、ポーランド人 は、中東欧に広がるスラヴ人の一派インド・ヨーロッパ語族に属し、ポーランド語を母語としている。現在、ポーランドの人口は、約3800万人で(首都ワルシャワの人口は165万人)、面積は日本の80%、カトリックが85%を占める。
ポーランド人は、ドニエプル川流域にすんでいたスラヴ人の内、西に移住した西スラヴ人に属し、少なくとも9世紀までにポラニェ族(平原の意味)を中心にポーランド国家を建設した。10世紀に西はオーデル川と東はヴィスワ川の間の平原にポーランド王国(ピャスト朝)を建設し、そしてカトリックを受容した。ポーランド民族の洗礼式は966年4月14日に行われ、この洗礼行事は、ポーランドの諸民族がピャスト家の支配下に統一され、民族のキリスト教的なアイデンティティ(自己同一性)を確立していくうえで 、重要な意味を持った。
ローマ・カトリックを国教とするポーランドは、1万以上あるという教会の多さもさることながら、家の中にマリア像やポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の写真が飾ってあるなど、キリスト教的道徳や文化が根付いているのが見て取れる。
<ヤギェウォ王朝とポーランドの分割の悲劇>
ポーランド王国は、ピャスト朝(10世紀 ~1370年)から始まり、14世紀にピャスト朝カジミェシュ3世(大王)の時、中央集権化をはかり、農民を保護して国力を充実させ、1364年には首都クラクフにクラクフ大学を創設した。1386年にカジミェシュ3世の死によって断絶したため、ピャスト朝の女王ヤドヴィカの夫として北方のリトアニア大公のヤゲウォをむかえ、その両者を対等の王とする連合王国としてポーランド・リトアニア王国を形成した。
ポーランド・リトアニア王国のヤギェウォ王朝時代(1386年~1572年)はポーランドの歴史を通して最も輝かしい時代であり、「黄金の世紀」と呼ばれ、経済的にも文化的にも繁栄を謳歌した。女王ヤドビィガは敬虔なカトリック教徒として列聖され、とりわけ聖母マリアに信仰をささげた。
しかし、ポーランド・リトアニア共和国は、ヤギェウォ朝の断絶後、選挙王制(自由国王選挙)をとるようになり、貴族(シェラフタ)の争いと外国の干渉が頻発するようになり、国力が衰えていった。また1700年に始まった北方戦争(ロシアとスウェーデンの戦争)などを契機に、ポーランドが当事者能力を失って行き、周辺の絶対王政を強化した諸国の餌食とされてしまうのである。
なお、1648年のコサックの反乱軍の蜂起に伴い、ポーランドで大規模なユダヤ人迫害が起こった。西欧から追放されたアシュケナージムユダヤ人をポーランドは受け入れ、当時ポーランドには50万人ものユダヤ人がいたのである。ユダヤ人迫害はコサックを支援する為に介入したロシア軍によっても行われ、これによってポーランドのユダヤ人はほぼ壊滅した。
このような中で、東西の狭間にあるポーランドは、第1次(1772年)、第2次(1793年)、第3次(1795年)と領土が3度にわたって周囲の3つの大国(プロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア)により分割された。即ちポーランド分割とは、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語である。
第2次分割後の1794年、ポーランドの愛国者タデウシュ・コシチュシュコは、義勇軍を結成してロシア軍と戦ったが敗北した(コシチュシュコの蜂起)。結局1795年、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国は第3次ポーランド分割を行い、これによってポーランド国家は完全に滅亡し、123年間(1795年~1918年)地図上から姿を消すこととなった。その後、ナポレオンによって一時期解放されポーランド公国が建てられたが、ポーランドが真に独立を回復するのは、第一次世界大戦後の1918年のことである。
<ドイツとロシアによるポーランド侵攻>
ポーランド侵攻とは、1939年9月1日にドイツが国境を超えてポーランドに侵攻し、続いて1939年9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻した出来事である。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが、9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。
ポーランド戦線でヒトラーは電撃戦を成功させ、ドイツ軍は1ヶ月でポーランド占領し、またソ連(スターリン政権)は東側からポーランドに侵攻し、1939年9月28日、ポーランドはドイツとソ連によって分割されてしまった。これは18世紀末の3次にわたるポーランド分割に続く、「第4次ポーランド分割」であり、再び国土を失ってポーランドは消滅したのである。
ドイツは支配地域のゲルマン化をすすめ、ユダヤ人に対する絶滅政策を強行し、多くのユダヤ系ポーランド人を殺害した。一方のソ連は人種的な差別政策は採らなかったが、ポーランド軍の将校など2万人以上を秘密裏に殺害した。カチンの森事件である。ちなみに「カチンの森事件」とは、第二次世界大戦中にソ連のスモレンスク近郊に位置するカチンの森で、約22000人~25000人のポーランドの指導者(軍将校、警官、官僚、聖職者)が、スターリンのソ連によって虐殺された事件である。
当初ソ連は、カチンの森事件をドイツの仕業と主張した。しかし1990年4月、ロシア政府は事件の非を認め、公式にポーランドに謝罪し、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表した。カチンの森事件は、ポーランドの歴史の中でも特筆すべき悲惨な事件だった。
さてポーランドを占領したナチスドイツは、ユダヤ人絶滅政策を強行し、1940年1月からユダヤ人居住区(ゲットー)を封鎖し、さらに1942年からは「ユダヤ人問題の最終解決」と称してポーランドのアウシュヴィッツ等の絶滅収容所に移送してユダヤ人の大量殺害を実行した。当時、ヨーロッパ在住のユダヤ人の多くが東欧に居住しており、約500万人のユダヤ人がポーランドとソ連に住んでいたという。 絶滅政策の犠牲となったユダヤ系ポーランド人はあわせて270万人と推定されている。(『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新装世界各国史山川出版社P268)
またドイツ支配下のポーランドの首都ワルシャワで1944年8月1日からポーランド国内軍と市民による反ドイツの蜂起が始まった。この「ワルシャワ蜂起」は63日にわたる戦闘の末、10月2日にドイツ軍によって鎮圧され、兵士1万8千人と市民約15万人が死んだ。
戦後ポーランドはスターリンによって共産化され社会主義政権が成立し、「ポーランド人民共和国」としてソ連圏の一員となった。こうしてポーランドは大国の狭間、東西の狭間で受難の歴史を余儀なくされたのである。
<自由化とウクライナ戦争>
1989年、東欧革命が勃発した。即ち東ヨーロッパ社会主義圏の諸国で、社会主義体制から市場経済体制へ、一党独裁制から複数政党制による議会制度への民主化を実現させた東欧革命が勃発し、ポーランドは先頭に立って脱共産化、自由化、民主化を実現した。まさに不死鳥の国ポーランド「3度目の復活」である。ポーランドは1999年にNATOに加盟し、2004年にはEU加盟を果たし、NATO及びEUとの協力強化を通じて国の安全と繁栄を確保していくとの道筋ができた。
そうして2022年2月24日、ロシアは国際法を侵して突如ウクライナに侵攻した。ウクライナ戦争の勃発である。隣国ポーランドは、ロシアの侵攻に対する非難決議を満場一致で採択し、ウクライナを支援し、武器・弾薬の供給と人道支援を決定した。国内に9カ所の受け入れ拠点を設け、ウクライナからの大量の難民を受け入れ、またポーランドのドゥダ大統領はキエフを訪問し、ウクライナへの連帯と支援を宣言した。
ポーランドは隣国ウクライナ向け武器・弾薬、支援物資の一大集積地であり、 ウクライナを欧州の最前線で支え、同時にロシアに対する防波堤となっている。今や欧州でポーランドの存在感が高まっており、分割・侵略の中で不死鳥のように甦ってきた真価が発揮される時である。そしてこのような最中、ロシアのドローン19機がポーランド領空に侵入するという事件が勃発したのである。歴史的に何度も国家の滅亡を体験し、何度もロシアから侵略されたポーランドにとって、過去の悪夢がよぎったとしても不思議ではない。東西の最前線で戦うポーランドのために祈りたい。
【親日国家ポーランドを訪ねて】
さて、ポーランドと言えば、コペルニクス、キューリ夫人、そしてショパンがすぐに想起される。筆者はワルシャワ郊外にあるショパンの生家を訪問したことがあるが(今は大きな庭園になっている)、家の中からショパンのバラード一番が聞こえてきて、とても爽やかな印象を受けたことを覚えている。以来、ショパンの虜になった。5年に一度、ワルシャワで開かれるショパンコンクールは日本人にも大変人気がある。
ところで1996年9月5日(50才)、筆者は神の命によりポーランド宣教の任を受けた。筆者は日本での法律関係の仕事があり、交通費、滞在費、献金などもっぱら経済面での後方支援をすることにし、実際のポーランド宣教は配偶者が現地で歩むことになった。またポーランド宣教師の地区は愛媛の姉妹が担当となり、その他に既に3年間ポーランドで宣教に携わった1600名人事の姉妹や、新しく決まった430名人事の姉妹達もポーランドが任地国で宣教に尽力した。
ポーランドUCは共産政権の間は地下活動を行なっていたが、あのワレサ率いる連帯が共産主義を倒して民主化されたときから正式に発足した。民主化された当時、西側の応援を得て一時期伝道が多いに進んだ時期があったが、その後色々困難が生じていた。筆者は、かれこれ13回ポーランドを訪問したが、その訪問で見聞きしたポーランドの歴史や文化について、以下、特筆したい4項目、即ち「親日国家ポーランド」「アウシュヴィッツ」「ヤスナ・グラ修道院の黒い聖母」「ヨハネ・パウロ2世」についてつれづれに書き留めることにする。
<親日国家ポーランド>
ポーランドは世界有数の親日国家である。これには歴史的なつながり、日本の文化や価値観に対する高い親近感、そして日ポ間の良好な関係が背景にある。ポーランドでは、日本の文化、特にアニメ、漫画、ゲーム、日本の伝統芸術などが非常に人気があり、ワルシャワ大学には日本学科があり、日本語のみならず、日本の歴史や文化を学ぶ人が多い。
しかし、ポーランドが親日である最大の理由は、第一次世界大戦後、シベリア流刑地に残されたポーランド人孤児765人を救ったからであり、ポーランドはこの恩義を決して忘れていない。
ポーランド分割で祖国を失ったポーランドは、その後形式的に再び独立国となるが、君主はロシア皇帝とされ、ロシアに従属することが強いられた。これに対してポーランドは何度もロシアに叛乱を起こすが、いずれも鎮圧された。ちなみに1831年7月、パリに向かう途中、ショパンはワルシャワ陥落のニュースを聞くが、その衝撃を曲にした作品が練習曲「革命」である。ロシアは反抗的なポーランド人を次々に国内からシベリアに流刑し、さらに流刑先で重労働を課したのである。
1914年からの第一次世界大戦、1917年のロシア革命と続き、シベリアの各地で反革命軍が赤軍と交戦し、血で血を洗う内戦となった。その内戦により、シベリア在住のポーランド人も少なからず戦死し、ポーランドからの流刑難民も餓死、病死、自殺、凍死、虐殺など次々と命を落としていった。このような想像を絶する悲惨な環境の中で、両親と生き別れ、死に別れ、死の淵を彷徨っていたポーランド人孤児たち(計765人)を救出したのが他ならぬ日本だった。
日本政府は、ポーランドの子供たちの救出要請に応え、1920年~22年にシベリア出兵中の陸軍が計765人を救出し、日本赤十字社の手厚い看護を受けた。飢餓状態、虱だらけだった子供たちは回復し、日本からポーランドまで送り返したのである。孤児たちは帰国後も「日本への感謝の念を忘れない」が合言葉で、「日本から受けた親切は宝物。日本はまるで天国のようなところだった」などと溢れる涙で語ったという。
<アウシュヴィッツ>
筆者はポーランドの古都クラクフから南西約50kmのオシフィエンチム市の郊外にあるナチスの絶滅収容所「アウシュヴィッツ」を2度訪問したことがある。ガス室、処刑台、立牢・餓死牢、焼却炉、重労働、人権侵害、人体実験、劣悪な住環境、粗末な食事など、「緩慢な死刑」と呼ぶに相応しい凄まじさで、吐き気がする思いで、文鮮明先生の興南刑務所を想起した。アウシュヴィッツ収容所で150万人以上が殺害され、50万人が病気と飢餓で死亡したと言われており、90%がユダヤ人だった。
筆者はこの時の体験で、「ここまで迫害されるユダヤ人とは何か」という強烈な問題意識が与えられ、以後、旧約聖書を研究する動機となった。今なお旧約聖書は最大の座右の書である。
では、何故、ユダヤ人は迫害されたのだろうか。先ず第一に宗教的要因。周りと同化しないユダヤ教独特の違和感に加えて、キリスト教世界からの「キリスト殺し」への憎悪がある。第二は、経済的・政治的・社会的要因。貸金業で富を築いたユダヤ人への反感と嫉妬、ペスト(黒死病)の流行をユダヤ人のせいにするなどの陰謀論、などである。第三が劣等民族としての人種的偏見。ヒットラー・ナチスの世界観は、「人類史の実相は、優等人種アーリア人と劣等人種ユダヤ人の抗争に還元される」(大田俊寛著『一神教全史下』河出新書P276)というもので、この人種的反ユダヤ主義がユダヤ人弾圧を容赦ない過酷なものにし、その象徴がアウシュヴィッツである。(参考→HP「聖書の知識92-反ユダヤ主義とは何かーアウシュビッツとイスラエルの回復」)
しかし、ユダヤ人迫害の最も根源的な要因は、ユダヤ人が選民であること自体から来る宿命、即ちあらゆる受難を経てこそメシアを迎える選民たる民族としての資格があるという、救済摂理上(蕩減復帰)の宿命的な要請があると筆者は思料している。なお、アウシュヴィッツの管理費用は日本政府が拠出しているという。
<ヤスナ・グラ修道院の「黒い聖母」>
ところで、ポーランドの聖地「ヤスナ・グラ修道院」の名前を聞いたことがあるだろうか。ヤスナ・グラ修道院は聖母マリアに捧げられたカトリック教会の修道院で、古都クラクフ近郊のチェンストホヴァにあり、ポーランド中から巡礼が訪れる聖地である。

筆者はヤスナ・グラ修道院に2度訪問したが、大いに啓発されたあの日が、つい昨日のように思い起こされる。礼拝堂の横には、「黒い聖母」に癒されて、要らなくなった義足や松葉杖がところ狭しと展示されていた。
ヤスナ・グラ修道院の「ヤスナ・グラの聖母」は、イエス・キリストを抱いたマリア像の絵画(イコン)であり、戦争で修道院に火が点けられた時のすすで黒くなっているので、別名「黒い聖母」の異名がある。多くの奇跡を起こしたことで、ポーランド国民から崇敬されてきた。流石にカトリックの国ポーランドの真骨頂で、ポーランドではマリア信仰が根付いている。(参考「マリア信仰とは何か」→
<ヨハネ・パウロ2世>
さて第264代ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世(在位 1978年~ 2005年)は、ポーランドのクラクフ近郊出身の教皇である。史上初のポーランド人教皇であり、神学と哲学の2つの博士号を持つ優れた教皇だった。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれ、聖人として列聖された。ヨハネ・パウロ2世は次の含蓄深い言葉を残している。
「神は人間の心に神を知ろうとする欲求を植え付けられた。人間の心の遥かな深みには、神を求める欲求と神への郷愁の種が宿っている」
また、エキュメニズム(教会一致)の精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。
ポーランド人としてナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いたことが、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドの民主化活動の精神的支柱となった。教皇は、着任8か月後の1979年6月2日から10日にかけて初めての故国を訪問をし、熱狂的歓迎をもって迎えられた。教皇はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「恐れるな」と訴えた。その4か月後、ワレサが率いた独立自主管理労働組合「連帯」のストライキなどを経て政権は妥協路線を走り始め、1980年代後半の冷戦終結時には民意に押されて政権が民主路線へ転換した。
また1981年2月23日にローマ教皇として初めて来日し、広島市と長崎市を訪問して、核兵器の廃絶を訴えた。まさにポーランドはヨハネ・パウロ2世という傑出した教皇を世界に排出したのである。
以上、「不死鳥の国ポーランドーロシアのドローン攻撃に思う」と題してポーランドの歴史や現況について論考した。9月10日、ロシアのドローン19機がポーランドの領空を侵犯して侵入するという事件が起こったが、これは「ポーランドに注目しなさい」との神の声だと直感し、この際、ポーランドの歴史や文化や特徴についてまとめることにした。(了)
牧師・宣教師 吉田宏



