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真理の究明に徹したUC創始者の日本留学時代

○つれづれ日誌(令和3年4月7日)-真理の究明に徹したUC創始者の日本留学時代


わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5.1~5)


令和3年4月1日、「文鮮明先生 日本留学80周年記念早稲田・高田馬場聖所巡礼ツアー」があり、筆者も参加いたしました。今回50名くらいの参加でしたが、このツアーは次のみ言を受けて始まったものです。


「早稲田大学の高田馬場の道を、一日に二度ずつ歩きました。よく歩きました。早稲田の戸塚町のそこにある曲がった道、そこにある電信柱など、先生の涙が染み込んでいると考えても間違いありません」(み言集)


日本留学時代の文鮮明先生、早稲田 高田早苗像の前にて(後列中央)


文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)は、1941 年4 月1 日(21才)、「早稲田大学附属早稲田高等工学校」留学のために来日され、1941 年4月から43 年10 月までの2年半を早稲田・高田馬場の地を中心に過ごされました。この日はご来日80 周年でした。UCではこの日が創始者の日本への初来日となり、これを記念して「降日節」(日臨節)と呼んでいます。なお、当高等工学校は、夜間学校として建学されたものです


巡礼コースは、高田馬場駅前→UC創立の地(雄鶏舎跡)→旧戸塚警察跡地→下宿先三橋家跡→早稲田大学、というコースでしたが、今は現代化されて当時の面影はありません。 筆者はこの機会に、単に過去の創始者を懐かしむと言った感傷意識ではなく、創始者の日本留学時代の摂理的意義と実像について、論点を絞ってまとめて見ました。


以下、主に「真の御父母様の生涯路程」(生涯路程)を参考に、順に「日本への旅立ちと日本での2年半」「命を懸けた深刻な真理の究明」「民族主義に関する考察」をテーマに論評していきます。なお参考文献として、『真の御父母様の生涯路程』(み言集)、『真の父母経』(第二篇)、『平和を愛する世界人として』(自叙伝))を引用しました。


【日本への旅立ちと日本での二年半】


21才になられた創始者は、日中戦争(1937年~18945年)と太平洋戦争(1941年~1945年)の最中、1941年に留学のため来日されました。


<祖国愛に涙す>


創始者は日本への旅立ちに際して、『生涯路程』の中で、「先生が1941年に日本に留学するために、釜山に向けてソウル駅をたつ時、ソウル市内を眺めながら、かわいそうなこの民族に誰が責任を負うかを考えながら、たくさん涙を流しました」 と語られ、また「先生が日本留学に出発した1941年4月1日早朝2時に、釜山の埠頭で、韓国を眺めながら祈祷したことが忘れられません。『私は、今祖国を離れるけれども、祖国であるお前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流そう』と約束したのです」と語られました。創始者は国を失った「可哀想な民族」をこよなく愛された愛国者でもあったのです。


<天下一等の労働者>


「血と汗と涙」「父母の心情、僕の体」という言葉ほど、創始者の生活信条をよく表す言葉はありません。創始者は日本留学時代、学業と共に、最高から最底辺のあらゆる生き様を体験されたというのです。


品川の貧民街を総なめし、新宿の娼婦の友となって救い出し、配達夫となって東京27区をリヤカーで走り回り、銀座でもリヤカーを引いて配達をされました。また川崎の鉄工所と造船所で肉体労働をされました。「私は、労働者の中の労働者となりました」と言われ、あらゆる人間とその生活現場を体験されたというのです。こうして「天下一等の労働者」となり、人生哲学ではなく、人間哲学を知らなければならないとも言われました。


では何故このような体験を積まれたのでしょうか。「地獄の撤廃」というメシアとしての使命を全うするためには、先ず自らが地獄を通過することが必要性であり、また日本を愛し知り尽くすという意味もありました。将来数年後には、日本の若者たちが神のために必ず立ち上がると考えたと言われました。


<自己主管>


「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」は、創始者の若き日の標語でした。即ち、心と体、そして神と自分をいかに統一するかということに全身を捧げられました。創始者は、「食欲・睡眠欲・性欲」が肉体の三大欲望であり、克服すべき「三大怨讐」と言われました。  


「一番難しいことは何でしょうか。眠りを主管することです。その次には腹が減るのを主管することです。その次が性欲問題です。これが三大怨讐です」(生涯路程)  


そしてその克服の方法は、「心を強くして体を弱くするのです」と言われました。それゆえに、30才までは1日2食を続け、腹が空かなかった日はなく、古着をまとって下を向いて歩き、固い粗末な寝床で休んだと述懐されました。 何かフランシスコ修道院の戒律「清貧・貞潔・従順」を想起いたします。


とりわけ難しいのは「情欲と女性の誘惑のコントロール」です。創始者は、留学時代、多くの女性の誘惑に遭遇したと告白されています。東京の山手線では、惨めな姿をした先生を女性たちが誘惑し、映画館では、二十代、三十代の女たちが横に座わって我知らず先生の手を握り、立ち食いの寿司屋では「あなたが来るのを待っていました。あなたが好きで、どうしようもありません」と告白しました。有名な財閥の一人娘が、先生のために血書をしたため金銭を貢いだこともあり、女性たちが裸になって、布団の中にこっそり入ってくることが何度かあったと言われました。


こうして女性たちは、先生をたぶらかすために、あらゆることを試みました。しかし創始者は、「日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした」と証言され、これらの誘惑を完全にコントロールされたというのです。故に神は、世界のすべての女を任せてもいい男として、その使命を果たすべく認定されたというのです。


<創始者の意外な一面を発見>


この度筆者は創始者の「数字に強い」という意外な一面を再認識いたしました。創始者は何故電気工学を専攻されたのでしょうか。


一つには、今や現代の科学文明を知らずしては、今後の新しい宗教理念を立てることができないとの信念からでした。そして、大事をしようとするならば、数学的な計算が早くなければならない、鑑定力が早くなければなりません。それは見えないものを管理することなので、宗教と通じるものがあり、実際現象世界では、運動する全てのものに電気現象が発見されるというのです。


「先生は頭が数理的です」といわれました。確かに創始者は、起こったことを「何時何分何秒」まで几帳面に記載されることが多々あり、筆者は「よくもここまで細かく覚えておられるものだ」と感心したことがあります。例えば、ダンベリー刑務所で聖書を通読されたときも、始まりと終わりが何年何月何時何分何秒まで、きちんと所持されていた聖書に記録されていたという次のような証があります。


1991年、創始者と金日成の歴史的な会見の後、北朝鮮からの帰途の中国で、たまたま世界日報の同行記者が、創始者のアタッシュケースを覗いたというのです。その中には、創始者がダンベリー刑務所の中で読まれた韓国語の聖書が入っていました。


なんとその聖書には、創世記から黙示録まで赤鉛筆で線が引かれ、裏表紙には韓国語で「開始1984 年 12 月 11 日午前 0 時、読了 1985 年 1 月 13 日 3 時 33分 34 秒」、「読むのに要した期間、33 日 3 時間 33 分 34秒」と書かれてあり、さらに「神の御旨をすべて明らかした」と書き込まれていたというのです。創始者がこの聖書を読み通された期間は、御一人でダンベリーに残っておられた期間でした。


筆者はこの衝撃的な事実を知って、正に原理が、黙示録5章にある通り、「七つの封印」を解いて聖書の奥義を明らかにした真理であり、創始者が如何に聖書を読み込まれ、聖書の奥義の解明に心血を注がれかを再認識させられたものです。


そう言えば、原理には、数理的蕩減期間や歴史的同時性など「数理性」が強調されています。これら復帰歴史における数理性の発見は、創始者の数理的な頭脳に依るところが大ではないかと、認識を新たにさせられたものです。


【命を懸けた深刻な真理の究明】


『真の父母経』(第二篇)158ページには、「日本に留学して、聖書の未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を5年間研究しても解決出来ないことがあります。この聖書の中の最も難解な箇所を、全て明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが原理のみ言です」としたためられています。


<本質的な問いと真理の探求>


創始者は、幼い時から人生と宇宙の根本問題について旺盛な探求心がありました。12歳の時、曾祖父のお墓を移葬するのを見て、驚きと恐怖に襲われたと述懐され、以後次のような深刻で本質的な問い掛けをしてこられました。 


「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてあるのか」「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」「神が全能の方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」「国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」等々。


そして15歳になった年の復活節を迎える週、猫頭山にてイエス・キリストとの劇的な出会いに遭遇し、神に召されました。この召命をうけてから9年間、真理を究明する死闘の戦いをされ、特に日本留学時代の2年半は、真理探求の最後の格闘をされた時代でありました。


<聖書の研究と真理の探求>


とりわけ聖書は全巻を反復して読破し、真剣に取り組まれました。著名な建築家の友人厳徳紋氏は、学生時代に創始者の下宿で、下記の事実を目撃したと証言されました。


「下宿した私の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、聖書はすっかり真っ黒になってしまいました」(『自叙伝』P79)


そして聖書について次のようにも語られました。


「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです。創世記3章が堕落の章ならば、黙示録は復帰の章だ。生命の木が(堕落して)このようになったならば、本然の生命の木に復帰されることだ。それが合わなければ聖書は間違いだ」と考えたと言われ、「最初から、聖書という冠をかぶり、聖書を標本としていたなら、このような道を開拓できなかったでしょう」とも語られました。


また真理探求の秘訣について次のように語られました。


「どのようにして天地の秘密を知ったのでしょうか。真の愛を中心として、心と体が共鳴する境地に入っていけば、すべて見えるというのです。神様も見え、天上世界も見え、歴史が見え、すべて見えるのです。何故なら、真の愛を通して因縁を結んで理想的な生活をすることのできる環境的与件が、本来の神様の創造理想の原則なので、その境地に入ってみると、通じない所がないのです。それゆえに、統一教会は真の愛の理想をもって、『神と人、心と体を統一する所』なのです」(生涯路程)


<宇宙の根本の探求>


創始者は、「宇宙の根本は何かという問題に対して、九年間も身もだえして解決しました」と語られ、そして宇宙の根本とは何か、「それは親と子である。父子の関係が宇宙の根本である」との答えでした。更に、「そしてその時、稲妻のようにひらめく悟りがありました。『真の愛は直短距離を通る』。垂直です。神人愛一体は垂直でした」と証言されています。


創始者は、「本の1ページを何カ月も研究し、一つの題目をもって何カ月も深刻に打ち込んだこともあるのです」と語られました。また、「1日に12時間も14時間も祈祷したことが何年も続きました。原理の本には、1ページ毎に血と汗と涙が詰まっています」とも語られています。そして次のように言われました。


「霊界の具体的な内容を知って霊界の義人、聖人、教祖たちにみな会い、天上世界のすべてのことを体験し、そして天法によって善悪をすべて明らかにした上、彼らを屈服させなければなりません。そうして、最後には神様に反対されても定義に立脚して弁論し、天上世界の印を受けなくてはならないのです」


「このように宇宙の根本は父子関係なのです。そして万物は子女のための庭園です。神様をはっきりと知れば、創造原理が自然に出てくるのです。私の心と体はこのような関係になっている、神様を中心として相対基準を造成して四位基台を構成することができる、それを連続的に維持するためには授受作用をしなければならない、このようにして神様をはっきりと知れば、創造原理を自然に悟るようになるのです」 (以上、生涯路程)


<理論闘争と思想の定立>


更に創始者は、聖書の研究をすると共に、宗教関係の書籍や専門的な哲学書を読み、理論闘争をしたといわれました。


学者たちは、宇宙の原理は相応相反といいますが、そうではなく「相応相補作用の原理」であるというのです。それゆえここから出る結論とは何でしょうか。宇宙公約の中で主体と対象を中心として絶対的に一つになれば、プラスとプラス、マイナスとマイナスは互いに反発するけれど、反発するその作用は反作用でなく、保護の作用だというのです。


また早稲田大学で共産主義を信奉する友人と激論をしたり、路傍で大声で演説したこともありました。創始者は、共産主義が間違いであることを既に知っておられたのです。そして進化論の間違いも知っておられました。ダーウィンは、『種の起源』をもって進化論に基づく弱肉強食という論理を提唱し、力をもって世界を秩序付け、新しい文化圏を形成することを正当化しようとしたというのです。種の起源とは何かを考えるとき、結局、神はいるかいないかという問題、今日の哲学的な観点からは、意識が先か物質が先かということが大きな問題として台頭してくるのです。


つまり、存在の根本に目的性や方向性があるのか、あるいはただ理由もなく生まれたと考えるか、の問題です。宇宙の秩序ある運行や生命の神秘の霊妙さを見るまでもなく、全ての存在には、目的性や方向性、即ち意識が先行するというのです。従って、進化論は間違った思想であると言われ、 このように、理論闘争の中から思想を定立していかれました。


以上の通り、創始者の日本留学時代は、文字通り真理探求の路程でした。そして黙示録5章の7つの封印を最終的に紐解かれた場所が、正に日本の地であったことに、万感の感動と喜びを禁じえません。神はかくも日本を愛されたというのです。


【論点―民族主義に関する考察】


さてここで、果たして創始者は、韓国中心の民族主義者だったのか、あるいは民族主義を超越した世界主義に立脚されていたのか、という重要な問題を解決しておきたいと思います。


<問題提起>


しかし、このようなことを言えば、創始者が超民族・超国家の世界主義、あるいは天宙主義(神主義)に立っておられるのは自明の理であり、そもそもキリストの本質が神の一人子として全人類の救いにある以上、このような議論をすることに自体、論外であり、また不謹慎である、と言われそうです。


しかし何故敢えてこのような問題を提起すというのでしょうか。それは、創始者に関する上記で引用した著書には、一見韓国中心主義的と思われるような愛国的表現が散見され、一方、戦前の日帝による植民地支配への苦言が多々見られるからであります。これらをどう解釈するかという厄介な問題であり、この問題に決着をつけて置かなければなりません。


<日帝への義憤と日本人への愛情>


実際日本では、創始者は抗日地下学生運動のリーダーであり、要注意人物としてしばしば新宿の警察に拘束され拷問を受けたと述懐され、日本留学に際し次のように語られています。


「私は二十代のころに、この民族を救おうと誓いました。必ず日帝は滅びると信じました。日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろうと思いました」


また、自叙伝には次のように記されています。


「家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、我が家の前を通り過ぎていきました」「祖国が日本の植民地統治下で呻吟していたのです。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました」(P22、P79)  


しかし一方では、次のようにも語られ、日本への愛情を示されています。


「日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。この本(自叙伝)が終われば、第二巻(第二自叙伝)には日本民族を愛さなければならない道があるというのです」「私が戦うのは日帝であって、日本の民ではありません。神様が戦うのはサタンであって、サタンの指揮下にいる人ではありません。それは確かだというのです。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました」(生涯路程)


【背景と事情ー創始者における世界性の考察】


創始者は「(世界平和のためには)宗教の壁、民族の壁、国境の壁を撤廃する運動をすることです」(『平和神教』P44~45)と語られ、1983年6月5日、ベルベディアにて、「私たちは世界主義が必要です。神様も世界主義であるに違いありません。統一教会は、共産党よりもキリスト教よりも世界主義であることを理解させなければなりません」と語っておられます。


このように、創始者は民族主義では世界は救われない、UCは世界主義でいかなければならないと色々な場面で繰り返し強調され、創始者の本質が徹底的な世界主義であることは明らかです。


しかし、一方では、「韓半島で世界の文明が結実する」「韓国4300年の歴史」と表現され、一見韓国を美化して語られているかのようです。つまり、客観的事実に照らして韓国至上主義とも思われかねない表現があり、上記に見てきたように、自叙伝にも、反日的民族主義と誤解されかねない箇所があります。


この際、創始者のこのような言葉の背後にどのような背景や事情があるのか、以下の通りまとめました。


<可哀想な民族>


先ず、歴史的に韓国は受難の民、可哀想な民族であるという事実です。


「生涯路程1」の記述によれば、創始者は10代の若き日に、朝鮮半島の隅々まで見て回り、「朝鮮半島の背負った苦難の意味」を考えたと言われました。その結論は「(歴史的にも現実的にも)可哀想な民族である」ということでした。つまり可哀想な神様の心情の相対に立ち得る民ということでしょうか。


創始者は、15歳でイエス様から使命を受ける前、「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」という真剣な問いかけをされ、「悲運の運命、天の前で退歩したその悲運の歴史は、私たち先祖の血筋を通して今日私にまでつながってきて、今終着点を立てることを願っているに違いないと考えました」(生涯路程1)と語られています。


朝鮮半島には、日韓併合のみならず、古代朝鮮の古より、中国や北方民族に常に侵略され忍従を強いられてきた「恨の歴史」があるというのです。韓国人は、この受難の歴史をイスラエルになぞらえて「東洋のイスラエル」という言い方をします。


ユダヤ民族は、神から選ばれた「聖なる民」「宝の民」として立てられました(申命記7.6)。この選びは、神がイスラエル民族を通して世界を救われようとされたものですが(創世記12.3)、しかし一方では他国の誤解や嫉妬にさらされ、迫害を受ける苦難の民を意味していました。神の言葉がユダヤ人にゆだねられた(ロマ書3.2)代わりに、歴史を背負って「苦難を負う責務」が課せられたというのです。朝鮮民族は、これらイスラエルの運命を自らの運命にダブらせてきたのです。そして日本からの独立後も、分断国家としての悲哀を余儀なくされました。


創始者は、「韓民族がこれまでに経験してきた悲惨な歴史には、深い意味があります。韓国が世界平和の前進基地になる運命なので、このように多くの苦難を経験してきたのです」(自叙伝P287)と語られていますように、ここに創始者の「民族観、愛国心の源流」があります。この可哀想な民族への情が、自叙伝に記載されたような愛国的な表現になったと思われ、決して「我が民族」といった私的感情ではありませんでした。


なお、自叙伝については、「あとがき」で小山田秀生氏も言及されているように、読者の主な対象を韓国民に置かれたために、民族性が色濃く出た傾向があるという指摘があります。つまりこの自叙伝は、当初国内の韓国人向けに書かれたもので、「韓民族よ立ち上がれ」といった激励文とも言える傾向があるというのです。


<民族愛は自然の情・神の復帰戦略>


次に、正しい民族愛は非難されるものではないということです。


自らの民族・国家を愛することは自然の情であります。内村鑑三も新渡戸稲造も良きキリスト者であり、また良き愛国者でありました。内村の「私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、全ては神のために」との墓碑銘は有名です。


創始者も同様です。『御旨と世界』の中で「私は家庭のために存在し、家庭は社会のために存在し、社会は国家のために、国家は世界のために、世界は神のために、そして神は全人類のために存在する」(1973年10月20日ワシントン、人間に対する神の希望)と語られました。民族、国家を愛してこそ世界を愛しうる、つまり真の世界主義に立つためには、民族愛、国家愛は通過しなければならない関門であるともいえるのです。従って、韓国人文鮮明師が韓国民族を愛したからと言って非難される理由はありません。


この点、久保木修己元UC会長も愛国者でした。そのお陰で、創始者が韓国人であっても、久保木会長の尊敬する先生なら問題は無いと多くの国家指導者が安心して繋がってきたのです。岸信介、中曽根康弘、安部晋三と流れる日本の本流をしっかり繋げてこられました。これほど多くの国家指導者から信頼されたのも、久保木会長が真の愛国者であることを感じておられたからに他なりません。ちなみに会長は中国大陸生活時代、親子二代に渡って 朝鮮人と深い友情を温められましたので、「朝鮮人文鮮明」に対して何の違和感もなかったと述懐されました。


創始者がよく言われる復帰の8段階があります。これは、個人→家庭→氏族→民族→国家→世界→天宙→神 ですが、世界に至る前に民族と国家を通過しなければなりません。民族と国家を通過しない世界主義は、根無し草になってしまうからです。「国を愛することのできない人々が、天を愛することができますか。国を愛することができない人は、天を愛することはできません」(生涯路程1)と語られているとおりです。


更に、そこに神の復帰戦略、一点突破の作戦があるというのです。


神はその救済計画において、先ず一つの国を探すこと、神の前進基地を確保することが重要でした。そしてそれにはむしろ小さな国、弱い国がいいというのです。復帰が容易だからです。創始者は、その条件として、単一民族で長い歴史を持つこと、侵略性の無い善の民族であること、敬天思想があり唯一神の伝統があること、などを挙げられ、その条件に合う国はイスラエルか韓国しかないことを指摘されました(御旨と世界)。 


しかし皮肉にも、UC創立以後の韓国において、最も創始者を迫害したのは韓国のキリスト教と韓国国家になってしまいました。創始者が最も闘かわれたのは他ならぬ韓国のキリスト教と韓国国家だというのです。そしてその闘いを克服し、民族・国家を愛したという基準を立てた上で、文字通り世界主義へと昇華され、1972年、国境を越えてアメリカの世界宣教へと旅立たれていかれました。創始者が堅固な世界主義(天宙主義)に立っておられることは明らかです。


しかし、創始者が生まれた国、メシアを生み出した国である韓国が、神の復帰摂理の第一義的な国として想定されていたことに疑いの余地はありません。ここに創始者が韓国を強調される所以があるのです。韓国に、「イスラエルの残れる者」(イザヤ10.19~22)がいることを願っておられることでしょう。ただ、民族の受難を語るだけでなく、かのバビロン捕囚時代の預言者が指摘したように、受難を余儀なくされたことへの「民族の悔い改め」が必要であることは言うまでもありません。


<戦前と戦後の区別>


そして重要なことは、反日問題について、戦前と戦後の区別が必要だという点です。


ある古参信者は「戦前の日本と戦後の日本の区別が必要である」と指摘されています。自叙伝や原理講論再臨論などに見られる反日との誤解を受ける表現は、もっぱら戦前の日帝時代の日本についての記述であり、戦後の日本への創始者の評価はこれとは全く異なるということです。この指摘は注目に値するものです。


勿論、戦前と戦後をどのように評価するかは、学識者の間でも色々と見解が分かれるかれるところですが、少なくとも太平洋戦争(大東亜戦争)直前の日本はとことん追い詰められており、概ね軍閥による独裁傾向、乃至は軍部による独走の様相があったことは認めざるを得ないでしょう。その意味で創始者は、この時代の日本をヒットラーもドイツと共にサタン側と評価し、韓国を迫害する国として問題提起されました。この創始者の指摘は私情から出たものではなく天的なものであり、無理からぬものがあったと筆者は理解しています。しかし、大東亜戦争を欧米の植民地的収奪からアジアを開放した「解放戦争」と見る日本の愛国者からすれば、公平さを欠く主張だと感じる一面があるようです。


一方、戦後の民主主義国家として生まれ変わった日本に対しては、創始者の言葉に反日的表現は一切ありません。むしろ戦後の日本に対しては神側に立つとはっきり評価され、現に日本は母親国家として摂理上大きく用いられています。明治維新以後から日露戦争にかけて、欧米列強に追い付き追い越せと切磋琢磨したこの時代の日本を、「アジアで唯一近代国家に成功した国」として高く評価されています。


更に創始者がその本質において知日家・親日家である根拠として、日本語が流暢であられ日本語を自在に使われること、日本を知るために日本に留学されたこと(2年半)、その間日本の労働者・農民・貧しい人の友として愛され共に過ごされたこと、卒業後は日本の鹿島建設に就職されたこと、などを挙げることが出来ます。もし筋金入りの反日家であれば、このようなことはされないというのです。


実際、韓国民族が、8・15解放後に歓喜の歌を歌った時も、創始者はそれを眺めて、小部屋で涙を流しながら祈祷されたというのです。「哀れなのは敗れた日本である。既に主権を失ってしまい、ひざまずいてわびる人を殴る者は、神様が罰する」と諭され、また韓国で追われている日本人を密かに呼んで、拷問される前に早く帰りなさいと言って、荷物を整理してあげたりもされました。


「1945年は、大韓民国においては解放を迎えた喜ばしい年ですが、日本においては戦争に負けた悲しい年です。それゆえ世界的に共に喜ぶことができる日、このような時をもたなければならないのです」(以上、生涯路程1)


そして終戦後は、蒋介石に自ら手紙を書き、日本を4島に分断してはならないこと、日本から「戦争賠償金をとるべきではない」ことを訴えられ、蒋介石から「恨みに報ゆるに徳を以てす」(老子六三章)という言葉を引き出されたというのです(三時代大転換四位基台の入籍統一祝福式、2004年9月26日) 。実際、文先生は「日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました」と語られています。


創始者はその信仰世界において、「敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マタイ5.44)とのイエスの言葉を強調され、自らも「恩讐を愛せ」という言葉を何度も使われ、ニクソンの政治スキャンダルに際しては「許せ、愛せ、団結せよ」と表明されました。これらは、キリスト教精神の真髄であり、創始者の信仰的核心であります。かって筆者が学生時代、水沢里での修練会に参加したことがありますが、その際「日本のしたことは全て忘れたよ」と言われた創始者の言葉を思い出します。このように考えると、当然のことながら創始者の本質が愛日家であり、真正な世界主義者であることは明らかです。


以上、述べてきましたように、「文鮮明先生は民族主義者なのか」という問いかけについて、明確な結論が出たように思います。無論、篤実な信徒にとっては、「そもそもこのような内容については、議論する余地の無い自明の理だ」とお叱りを受けるかも知れません。しかしこれらの問題に終止符を打ち決着することは、現実の日本信者の精神衛生にとって、筆者を含め、極めて重要なことであるのです。


以上をもって、4・1高田馬場聖所巡礼ツアーに際してのコメントといたします。読者の異論・反論は歓迎いたします。(了)

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