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西方キリスト教と東方キリスト教の葛藤と一致② ギリシャ正教の教理と実像

◯つれづれ日誌(令和4年5月11日)-西方キリスト教と東方キリスト教の葛藤と一致②  ギリシャ正教の教理と実像


そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」(創世記4.6~7)


4月24日、モスクワのロシア正教大聖堂での復活大祭の様子が日本テレビで放映され、プーチンが聖母子イコンに接吻している場面が写されました。プーチンのロシア正教への信仰は半端なものではなく、キリル総主教との蜜月も明らかになりました。


【21世紀の十字軍】


キリル総主教は2月24日のウクライナ進攻に、次のような声明を発表して、ロシア軍に免罪符を与えました。正に、十字軍戦争です。


「あなたはロシアの戦士です。あなたの義務は、ウクライナの民族主義者から祖国を守ることです。あなたの仕事はウクライナの民族主義を一掃することです。あなたの敵は人間の魂に罪深いダメージを与えるイデオロギーです」


5月9日のロシア戦勝記念日を前に、キリル総主教とフランシスコ教皇が、40分、ズーム会談を持ちました。キリルは相変わらず、長々とウクライナ進攻の正統性を述べたといいますが、教皇は、理解できないと応じ、キリルに、プーチンの侍者にならないよう忠告したということです。


さて、月刊誌『レムナント』を発行する久保有政牧師は、その6月号で「ロシアとエゼキエル預言」という題名の論文を投稿し、エゼキエル書38章の預言 は、今のロシアのことだと指摘されました。つまり北のロシアから攻められることが、エゼキエル書に預言されているといいます。


久保氏は、「ロシアとの約束は必ず破られる。嘘つきと昔から言われてきた国である」と指摘した上、「今も同じことをしている。侵略しないと言いながらウクライナを侵略し、市民を殺さないと言いながら殺している」(P18)と明言し、「ロシアは横暴な独裁者が誕生しやすい国だ」と述べました。


筆者は心なしか、ロシアがミサイル発射をしたり、核をちらつかせたりして力を誇示するのは、神に背を向け、エデンから追放されたカインの末裔(創世記4.6~16)の代表として、何かを訴えて、泣き叫んでいるような気がいたします。ロシア、及びロシア国民には、今まで西側に入りたい憧れを抱きながらも、結局入り切れなかったジレンマや寂しさを感じます。


そして今回のウクライナ国民の犠牲は、原爆に直撃され、8000人のクリスチャンと共に崩壊し、「長崎の鐘」の舞台となった「浦上天主堂」のように、世界が生まれ変わるための「贖罪の羊」なのではないかとの思いを禁じ得ません。


この5月9日に行われたナチス戦勝記念パレードにおいて、プーチンは、結局成果を示せず、国家総動員の発動もできず、また外国からの要人の出席もなく、従来通りの自己正当化に終始するだけで、ロシアの孤立化が鮮明になりました。そしてウクライナ進攻が、事実上失敗に終わったことを暗に認めた形になりました。


このプーチンが信奉し、キリル総主教が取り仕切るロシア正教(ギリシャ正教)とは、一体、如何なる思想と教義を持っているのでしょうか。


【原罪論の再確認】


前回、西方キリスト教との対比の中で、 ギリシャ正教の「原罪論」を中心に考察しましたが、はじめにこのギリシャ正教の原罪観念をおさらいしたいと思います。


正教では、罪とは神への背き、あるべき姿(神の像)を破損したこと、即ち神から離反して、神への不従順を「自由意思で選択」したことで、西方キリスト教の「アダム以来、遺伝的に受け継がれてきた罪」という原罪の観念を否定しました。


罪があるべき姿を失うことであるなら、救いとはそれを取り戻すこと、罪が神との分離、神の像の破損であるなら、救いとは神との一致であり、神の像の回復であります。罪が、悪魔、苦難、死と一つのものなら、救いとは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。これら全てをなさったのが、ハリストス(イエス)、即ち「人となった神ハリストス」の十字架と復活であるとしました。


ハリストスの「受肉・十字架・復活」は一体となった救いの業であり、復活によって救いは完結し、信徒は、罪と悪魔と苦難と死から解放されるというのです。


こうして完全な神の像であるハリストスによって、私たちの破損した神の像は回復され、ハリストスは、死を自らの死によって敗北させました。復活祭では、「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と賛美します。


以上が正教の原罪観であり救済観であります。しかし正教会自身が、原罪について厳密に定義することをためらい、曖昧にしている通り、罪(原罪)の真相が不明確であり、これでは真の悔い改めと回心に至ることは出来ないことは前回指摘した通りであります。


これらを土台に、以下において更に幾つかの特質を見ていきたいと思います。


【ギリシャ正教の特質】


さて私たち日本人は、キリスト教と言えば西方キリスト教(カトリック+プロテスタント)のことであり、ギリシャ正教(ロシア正教)は、縁遠い存在でありました。しかし、好むと好まざると、今回のウクライナ戦争は「ギリシャ正教とは何か」について関心を持たざるを得ない機会になりました。


<ギリシャ正教の特質>

宗教学者の田口貞夫氏によると、東西教会の違いや正教の特徴について、以下のように指摘しています。


① 東方正教は西のキリスト教に比べて、義よりも愛、罪よりも救い、十字架よりも復活を 重んずると言われ、神人一体を強調します。 従って、西のキリスト教が聖と俗を区別し、政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は聖俗一 致、政教一致の傾向があります。


②カトリック神学が思弁的、体系的で、神について知的に学ぶ傾向があるのに対し、正教では信仰体験即神学であるという神秘主義的傾向があり、正教では、神学は論文としてよりも、聖歌、イコン、主教たちの書簡や説教の 形で表面されます。


③正教では、イエスは神が人となった方(=籍身)、即ち神が受肉し神格が人間性を取って完全に「人間になった神」とし、マリアを神を産みし女「生神女」と呼び、永遠の処女を意味する「童貞女」と呼ばれ、キリストとほぼ同等の神格を与えられています。但し、童貞女(処女)がいかにしてイエスを産んだかは「分からない」として棚上げしています。


以上のような特質を持ったギリシャ正教ですが、ロシア正教会司祭の高橋保行氏は、その著書『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)において、ドストエフスキーの『カラマーフの兄弟』には、「痛悔」により許されて復活する人間の姿が描かれ、ロシア正教の思想が見事に表現されているとし、ギリシャ正教とは何かを知る上で欠かせない作品だと絶賛されています(P223~231)。


以下において、ギリシャ正教の特質の内、「正教のイエス観・マリア観」、「ギリシャ正教の神秘主義」、「政教一致の思想」、の三点について論述いたします。


<正教のイエス観・マリア観>

イエスは神が人となった方(籍身.せきしん)、即ち神が受肉し神格が人間性を取って完全に「人間になった神」とします。これは、西方キリスト教の「イエスは神としての神性と人間としての人性を有す」というキリスト論、父・子・聖霊の第二位格としての子なる神とする三位一体論と一致しています。


この点、イエスをキリストと信じ、三位一体論を認めることにおいて、正教会が西方キリスト教と同じ信仰に立っており、正教徒が真正なるクリスチャンであることに、疑いの余地はありません。


子なる神ハリストス(イエス)について、信経(信条)において次のように告白されています。


「 又信ず一の主イイススハリストス・神の独生の子・萬世の前に父より生まれ・光よりの光・真の神よりの真の神・生まれし者にて造られしに非ず、父と一体にして萬物彼に造られ我ら人々の為め又我らの救ひの為に天より降り、聖神及び童貞女マリアより身を取り人と為り我らの為にポンティイピラトの時十字架に釘うたれ苦を受け葬られ第三日に聖書に應ふて復活し天に升り父の右に坐し光栄を顕はして生ける者と死せし者を審判する為に還た来り其国終りなからんを」 


また聖母マリアを「生神女」(しょうしんじょ)、ないしは「童貞女」と呼んでいます。生神女とは、「神を生みし女」(テオトコス)を意味し、童貞女とは永遠の処女という意味であります。


但し、いかにして処女がイエスを産んだかは、人間の理解を超え、素直に「わからない」と言い、 聖書に記されているイエスの兄弟たちについては、正教会では従兄弟かヨセフの先妻の子供たちであると解釈します。


つまり正教会では、生神女マリヤを神の母、第一の聖人として、ほとんどイエスと同格の神格を持つ存在として崇められているというのです。プーチンが復活大祭で、接吻したのはイエスを抱いた「聖母子」イコンで、大変崇められています。正教のマリア信仰にはカトリックのマリア信仰を凌ぐものがあります。


<神秘主義>

カトリック神学が思弁的、体系的で、神について知的に学ぶ傾向があるのに対し、正教では信仰体験即神学であると言った神秘主義傾向があると前述しました。即ち、正教では、先ず信仰体験ありきであり、そして、奉神礼、瞑想、神との神秘的合一を重視する傾向があります。


ギリシャ正教ではこの神との一体化を「人間神化(神成)」(テオーシス)と呼び、聖アトス山など修道院で重視され、人間神化にいたる祈りの修行法やその思想は「ヘシュカズム」(静寂主義)と呼ばれています。


ヘシュカズムとは、中世のアトス修道院で生まれ、正教会の修道生活と深く結びついてきた神秘主義的伝統ですが、源流は四、五世紀の教父たちまで辿ることができると言われています。


人間の目標は、アダムの堕落によって失った神の「似像」を、キリストの贖罪を契機にして取り戻し、人間の本性である霊性を再創造してキリストと一体となるごとにあります。


その具体的な方法は、「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐れみたまえ」という祈りの言葉を繰り返し唱えながら、神秘的恍惚の状態に入って、光として現れる神に触れ、一体化するというのです。(但し、ローマ・カトリックでは「人間神化」は不可能としています)


即ち神秘主義とは、人間が、神、イエス・キリスト、聖霊を直接経験するための思想と実践であり、特に人間と神との霊的な合一、はっきりとありのままに知覚・経験される「神の完全な姿」の認識です。


伝統的には、浄化、照明、合一という順序でなされていきます。


「浄化」の実践は、神秘家の修行の始まりであり、聖なる読書(訓読)、祈り(口祷・黙想・観想)、自己制限(従順・忍耐・沈黙・断食)、他者・神への奉仕(労働・慈善)などを行います。


「照明」は、聖霊が人の心を照らし、聖書やキリスト教の伝承に導かれていくことです。


「合一」は、何らかの形で、神と一体になる体験で、知性では到達できない霊的な真理を、おもに神・キリストと「直接一体となる」ことにより、把握しようと努めます。


東方キリスト教では伝統的に、人間は「神の似姿に造られている」ので、より完全な神の似姿になる「霊的変容」を強調します。この人間の変容について、前述したように「神化」(theosis)という言葉があり、この教理は、「神が人間となったのは、我々を神とするためである」という、アレクサンドリアのアタナシオスの言葉に象徴されます。


ウラジーミルの生神女(聖ルカ作との伝承・トレチャコフ美術館)クルスク県の復活大祭の十字行(イリヤ・レーピン画)


<政教一致の思想>

ギリシャ正教の特質の3点目に、「正教では、神人一体を強調し、西のキリスト教が政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は政教一致の傾向がある」という意味を考えます。


2020年、ナチス戦勝75年記念として建てられたロシア正教会「ロシア軍大聖堂」は、正に「宗教・政治・軍」三位一体の象徴であり、プーチンのロシアは限りなく政教一致の性格を持った国家と言えるでしょう。


3月20日、産経新聞掲載記事で三浦清美氏は次のように正教の特質を述べています。


「神の代理人たるツアーリというロシアの統治者観は、東方正教(ロシア正教)の神成(テオーシス)という神学に依拠し、ロシア国民は、正にプーチンに神の代理人たる姿を願望する」


ちなみに神成とは、クリスチャンが徐々に神に似ていき、神の性(神の本性)に与る事を言い、「神の性質にあずかる者となる」(ペテロ1.4) という聖句が、聖書における根拠とされています。


ここに、宗教と政治の分離の方向をとり、民主主義的な統治の在り方を採用してきた西側国家に対して、歴史的に政教一致の性格を帯び、権威主義的独裁国家を生み出してきたロシアの違いがあります。もともとロシアにはツアーリ(皇帝)を「神成した神の代理人」と考える伝統があり、これが政教一致の下地になってきました。


政教分離か、政教一致か、一体、いずれがより優れた統治の在り方なのでしょうか。ここで先ず、西側の政教分離原則とは何か、その歴史と意義を検証することから始めたいと思います。


a.政教分離とは

政教分離とは、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則(Separation of Church and State)をいいます。


この政教分離の考え方は、もともと「信教の自由」を担保するための「制度的保障」として生まれたもので、政教分離と信教の自由は手段と目的の関係にあるというのです。つまり、政教分離は、あくまでも信仰の自由を守る目的ための制度であるというのです。


何故なら、歴史的に信仰の自由を抑圧してきた最たるものは、他ならぬ国家権力だったからです。国家と特定宗教が結び付いて、これを国教とした場合、その他の宗教は弾圧され、各人の信仰は迫害されるからであります。17世紀にピューリタンがイギリス国教会の迫害を逃れてアメリカに渡ったのも、ここに原因があります。


中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついてそれが一体となっていたため、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきました。そして現在のロシア正教は、ロシアの国教に準ずる地位にあり、その他の宗教を規制しようといった働きかけがキリル総主教から行われているとの現実があります。


このような歴史的背景と教訓の中で、宗教改革に端を発して、ヨーロッパでは宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代において政教分離制度は、アメリカや日本など立憲国家の憲法原則として広く採用されるところとなっています。


特に欧米の歴史では、信仰や宗教を個人が選び取ることのできるような制度を追求していく中で、近代的な人権思想や個人主義が成立していきました。即ち、思想・良心の自由、表現の自由、結社の自由など主要な人権は「信教の自由を獲得する中で生まれた」のであります。そして、このような背景の中で、次の通りアメリカの憲法に政教分離が唱われました。


「合衆国議会は、国教を創設したり、宗教の自由の行使を禁止する法律を制定しない。言論や報道の自由を減じたり、市民が平穏に集会しまた不公平の是正のために政府に請願する権利を制限する法律を制定しない」(アメリカ権利章典修正第1条)


そしてこのアメリカ型政教分離の憲法を踏襲したのが、日本国憲法てあります。


「 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(日本国憲法第20条)


しかし、ここで気をつけなければならないのは、あくまでアメリカの政教分離は、政府と特定の宗教団体との分離(Separation of Church and State)であり、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれ、アメリカの公的領域において宗教が一定の役割を果たすことは伝統的に是認されています。


例えば、米大統領は神に職務精励を誓い、聖書に手を置いて宣誓します。大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われ、またアメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには"IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)"の文言が刻まれ、「星条旗に対する宣誓」の中に「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉があります。


そして上記日本国憲法規定は、宗教の政治への関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められています。(内閣法制局長官大森政輔の国会答弁)


即ち、政教分離とは「国家と宗教」の分離であって、「政治と宗教」の分離ではありません。日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではありません。公明党は創価学会の政治団体ですが、公明党が第一党となり政権を握っても問題はなく、創価学会にだけ特権や援助を与えたとき、初めて政分離違反となるというのです。


b.政教一致のツアーリズム

では、ロシア正教の国ロシアの場合はどうでしょうか。


コンスタンティノープルを首都とするビザンティン帝国は東ローマ帝国ともよばれ、395年ローマ帝国の東西分裂後、476年に西のローマが滅びたあとも、ローマの政治体制、キリスト教、古代ギリシア文化の3本の柱を中心に1453年まで生き続けました。


ギリシア語を公用語とし、ギリシア正教(東方正教会)を国教とするこの帝国は、全中世を通じてギリシア正教圏の盟主として君臨しました。のちに誕生してくるスラブ系諸国にとっては、帝国の政治、宗教、社会、文化および経済はそのすべての面において模範とされ、コンスタンティノープルはまさに「東のローマ」でした。


ロシアの源流であるキエフ大公国は、このビザンティン帝国から、988年にギリシャ正教を導入したのです。即ち、ウラジーミル大公が洗礼を受け、キリスト教東方正教会(ギリシャ正教)を国教に採用しました。「キエフ・ルーシの洗礼」と呼ばれています。


そして、ビザンティン皇帝は、神の使者、代理者の役割も担っていました。これは西洋の王との大きな違いであり、神の代理者としての役割において、ツァーリ(皇帝)は絶対的な権力をもち、 このことが、国民の人権抑圧につながりました。そしてロシアは、この思想を踏襲しました。


特に16世紀後半以降のロシアの無制限専制支配およびその体制を「ツァーリズム」と呼び、ピョートル大帝、ニコライ1世らの下で、立法、行政、司法の最高権限は皇帝に集中し、且つ、ツァーリの精神的権威は、教会に優越し、皇帝は、教会の重要な問題や財産について独自の権限を有していました。


カトリックと違って、かつてのロシア正教においてはピョートル大帝以降、総主教が廃止されたことがあり、ツァーリが教会の首長であり(皇帝教皇主義)、人民にとってツァーリは神でした。こう言った制度は、宗教と政治の主客転倒の謗りを免れず、正にカイン型思想と言えなくもありません。


こうしてロシアの皇帝は、実質的に正教会の長であり、彼の言葉は総主教の言葉よりも勝っていました。この点が西側のローマ教皇との違いで、いかなる王といえども、神聖な宗教上の事柄において教皇を支配することは出来ません。


一方、こう言ったツアーリズムは人権侵害を生み、共産主義の温床となりました。革命後のソビエト連邦は無神論国家として「反宗教」を国是とし、信仰の自由は認められず、革命後1930年代までに7万人余のロシア正教会司祭が処刑・投獄されたと言われています。


しかし1988年、ゴルバチョフは政教和解を申し入れ、1990年の「ロシア連邦共和国法」においてロシア史上初めて信教の自由が認められました。


1991年12月にソ連は崩壊し、この頃から、かっての正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していきます。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていきました。


1993年12月12日制定の「ロシア連邦憲法」は、ロシア連邦を世俗国家とし、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障されました(第28条)。


しかし1997年9月26日、エリツィン政権で「信教の自由と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効し、前文で、「ロシア連邦は世俗国家であるが、ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における『正教の特別な役割』を認める」と謳われました。これによって、ロシア正教会は、法制上も事実上の国教会の地位が確固たるものになります。


この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派の「正教」とし、イスラム教、 仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが「伝統宗教」であるとされ、古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが「宗教セクト」として位置づけられました。このためロシアは「正教国家」に向かっていると指摘されています。


そしてプーチン大統領の「大国ロシアの復活」は、ロシア正教会にとっても歓迎すべき国家目標となりました。2014年のクリミア併合は、第二のローマであるコンスタンティノープルを睥睨する位置にあり、ロシア正教の歴史的復権に連なるもので、「クリミアは新しいエルサレムである」とプーチンは力説しました。


この度のウクライナ進攻は、正にこの延長にあり、プーチンのロシアは、神の代理人であったツアーリの政教一致の神政専制政治を彷彿とさせます。


【神の国における宗教と政治】


では来るべき神の国(天一国)は、如何なる統治形態がベストでしょうか。


民主主義は、不完全な堕落人間社会における最良の統治形態であると言えるでしょう。ともすれば独裁主義や共産主義やアナーキー(無政府)といった極端に走り、人間の自由・人権・公正が侵害されてきた人類歴史において、神の国に至る一歩手前の政治制度であります。


そしてその民主主義を担保する制度として、前述の政教分離を取り入れました。しかし、これらは、神の国に至る前段階でのベストな制度であり、キリストによる千年王国においては、神の「み言」がそのまま憲法となり、倫理・道徳となって、神の愛と正義と平和が支配する神主権の理想的世界に移行することになるでしょう。そしてそれは、国民主権ではなく神主権の世界であり、文字通り神人一体となった本然の政教一致の統治形態が顕現すると思われます。


かって文鮮明先生は、国連改革を唱えられ、国連に世俗の下院に対して、宗教人・聖職者による上院を設けることを提案されました。宗教と政治が、あたかも健全な心と体のような関係にあること、即ち神主権による高次元の政教協力による統治が望ましいと思料いたします。


従来の、人権侵害に陥り安い堕落人間による神政政治ではなく、また、衆愚政治に陥り安い堕落人間による民主政治でもなく、完全なキリストによる神政政治であります。


それは、 キリストが祭司(宗教) 、王(政治)、預言者(み言)の3つの側面を持っているように、キリストの元に、宗教と政治と天法が三位一体となる世界であります。


以上、ウクライナ戦争の背景にあるギリシャ正教について、その特質を見てまいりました。これらの分析が、キリスト教の真相を理解する契機となり、また原理のより深い理解に資するならば、これに過ぎたる幸いはありません。(了)