解散請求事件の霊的意味-世界日報出版『脅かされる信教の自由』を読んで
- matsuura-t
- 3月21日
- 読了時間: 13分
◯徒然日誌(令和7年3月19日) 解散請求事件の霊的意味-世界日報出版『脅かされる信教の自由』を読んで
山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神(詩篇90.1~2)
プロローグ
最近、世界日報社から『脅かされる信教の自由』(世界日報出版)という本が出た。本書は2024年に世界日報に58回にわたって連載された「脅かされる信教の自由-安倍元首相暗殺2年の日本」として随時掲載された記事やインタビューをまとめたもので、安倍事件とその後のUC叩きを多角的に網羅して論じた、いわば安倍事件問題の社会的・政治的な「総括版」である。
そこで、この総括版を論評すると同時に、安倍首相暗殺以来、2年半に及ぶ朝野を挙げてのUCバッシングとは一体何だったのか、「その霊的意味とは何か」という「総括」をしておきたい。これまで筆者は、この未曾有の試練は、天地を創造され、歴史を支配される全能なる神の「霊妙なるご計画」の中にあることを繰り返し述べてきた。では具体的にはどういうことなのだろうか。
【今回の出来事の霊的意味】
筆者は、この過酷な試練の本質は、以下に見る3つに集約出来ると考えている。これは以前にも言ってきたことだが、この試練には深い宗教的、摂理的意味があると筆者は考えており、以下、これを再確認して端的に述べることにする。
<原理と教祖の研究>
第一にこの試練は、原理と文鮮明教祖を証すよい機会であると思われる。
当初、UCに安倍殺しの冤罪を着せて、その反社会性を一方的に糾弾する論調で一色だったが、UCを擁護する論客が増え、次第に、UCの教義である「原理とは何か」、更にUCの教祖である「文鮮明師とは誰か」、といったより本質的な問題に世論の関心が向かっていると思料する。つまり結果的に、多額の広告料無しで、UCの教義と教祖を論議の俎上に乗せて宣伝する機会になっている。
かって筆者は、このUCバッシングの現象の本質は、有神論と無神論の戦い、即ち有神論的(キリスト教的)ヒューマニズムと唯物論的(世俗的)ヒューマニズムの相克であると指摘した。まさにその延長に、一神教を唱える原理とUC教祖の存在がクローズアップされるのである。この点、アンチUC本である『統一教会』(中公新書)を書いたカルト研究者櫻井義秀氏でさえ、「統一教会とは何なのか、どういう宗教なのか、何故人を集められるのか」(『統一教会』P316)と言ったシンプルだが本質的な問を発している(参照→つれづれ日誌 令和5年11月1日 -解散請求を受けて④ 櫻井義秀著『統一教会』の欺瞞を切る)。まさに原理研究会の復活であり、筆者は世界中のあらゆる分野で「文鮮明研究会」が持たれることを切に祈念している。
<福音の宣教>
第二に、この試練は福音(原理)のよい宣教の機会になると思われる。
今、「信教の自由と人権を守る会」が各地で結成され、文科省のUCへの解散請求が如何に信教の自由に違背する暴挙であるか、そしてUC信徒への拉致監禁による強制回宗が如何に人権を侵害する暴力であるかを訴える集会やデモが行われている。いわゆる「法廷外闘争」である。これは「信教の自由」「人権守護」という括りの中で、宗教団体や宗教人に広く啓蒙し渉外できる機会になっている。いわばダンベリーの復活版である。
即ち、この法廷外闘争は、まさしく「形を変えた福音(原理)の宣教」に他ならない。私たちは、この活動を通して、広く国民全体を伝道できるのである。こうして神は、かくも素晴らしい宣教のチャンスを与えたもうた。
<新生の機会>
そして第三に、この試練は、教団と信徒の「新生」の契機である。
私たちは、かのイスラエルが、バビロン捕囚から解放され、祭司にして律法学者エズラによって悔い改めに導かれ、民族も個人も生み変えられた歴史を目撃した。イスラエルは新生し、メシアを迎える民族に変貌したのである。(参照→徒然日誌 令和7年3月5日 バビロン捕囚解放後の国の再建ーイスラエル復活に学ぶ教会の再建)
このイスラエルの再建は、これからのUCとその信徒の「予型」(雛型)であり、今回のUCの試練は、まさに令和のバビロン捕囚であり、この艱難はUCとその信徒が「新生する契機」である。私たちは、この未曾有の試練を克服して生まれ変わり、まさにメシアを迎える新生した教団、復活した信徒に脱皮できるのである。
以上、UCとその信徒が直面している大試練の本質的、宗教的意味、即ち霊的意味について考察した。この試練は、原理と文鮮明教祖が証される機会であり、原理が宣教されるチャンスであり、私たちが生まれ変わる契機である。筆者はこのように今回の出来事を解釈した。
【何を守るかー3つの賜物】
では私たちはこの試練に際し、何を守ればいいのであろうか。筆者は、以下に記す「3つの賜物」を死守しなければならないと思料する。即ち、a.福音の賜物(神・キリスト・み言葉)、b.教会コミュニティの賜物、c.信徒の交わりの賜物、である。今、この3つの賜物が政府文科省と反対派の弾圧と、その背後にある悪魔の霊により危機に瀕している。
<福音の賜物>
一つ目の賜物は福音の賜物である。ここでいう福音の賜物とは、「神」「キリスト」「神の言葉」の3つのことを言う。この3つは、私たちの掛け替えのない宝、唯一の財産である。一度しかない人生において、この宝に出会えたことは最大の幸運であり、決して手放してはならない。私たちは、原理(聖書)という神の言葉と出会い、真の父母というキリストに出会い、そして原理とキリストを通して真の神と出会ったのである。まさにこれは、比類なき祝福であり、限りない喜びである。
前回の徒然日誌「徒然日誌(令和7年3月12日) バビロン捕囚とイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの励ましに思う」において、戦前、国家による弾圧によって解散させられた「ホーリネス教団」が、戦後、蔦田二雄(つただつぎお)牧師によってインマヌエル教団として復活した経緯について述べた。即ち、蔦田牧師は獄中で、「すべてが奪われても、神の臨在と同行、即ちインヌマエルが奪われることはない」との啓示(霊的体験)によってインヌマエル教団を創立したが、私たちは「たとえ全てを失ったとしても、神の言葉という究極的真理(原理)が失われることはない」と確信している。この「神の言葉という賜物」がある限り、その種は必ず芽を出すからである。私たちはこの神の言葉を決して手放してはならない。
こうして、神とキリストと神の言葉は、文字通り三位一体の唯一にして最大の財産であり、これをUCへの弾圧によって奪われてはならない。
<教会コミュニティ>
二つ目の賜物は教会コミュニティである。教会は「キリストの体」(1エペソ1.23)であり、教団は神の摂理の基地、信徒の霊的な柱である。教会共同体は、礼拝や儀式が行われる神殿であり、み言葉を学ぶ道場であり、信徒が交わる場である。この教会共同体の祭壇に臨在される神は、家庭祭壇と信徒の内なる祭壇に連結される。
私たちはこの教会コミュニティに帰属することによって、魂の安心を得ることができ、神の国を建設する一員として参与できるのである。従って、神から与えられた教会コミュニティという賜物、教団という宝を死守し、UCを潰してはならない。
<信徒の交わり>
三つ目の賜物は「信徒の交わり」である。私たちは食口という名の信徒の友を持っており、このUC信徒の人間関係ほど強力なものはなく、掛け替えのない宝である。
ユダヤ人はディアスポラの民として、世界に散らされたが、そのユダヤ人コミュニティほど強いものはなかった。ユダヤ人、ないしはユダヤ教というアイデンティティーは、強い結束力を生み、信頼関係を築いた。そしてその人間関係が土台となって世界に冠たる金融帝国が築かれたのである。しかし、UC信徒の紐帯(ちゅうたい)はユダヤ人を上回る。
一般的に、ビジネスにしても、事業にしても、そのパートナーとして信頼できる人間関係を築くためには少なくとも3年は必要である。しかるに食口は、一夜にして信頼関係を築くことができるのである。天地を創造された唯一にして父母なる神、罪を贖って下さる真の父母、究極的真理としての神の言葉、この3つの福音の賜物を共有する信徒の交わりは、私たちの貴重な宝である。従って、この人間関係を弾圧によって破壊されてはならない。
以上、私たちは3つの賜物、即ち、福音の賜物、教会コミュニティの賜物、信徒の交わりの賜物という賜物を守り育てていかなければならないのであり、それは筆者にとっても唯一にして最大の財産である。この中でも、福音の賜物こそ生命線であることは言うまでもない。
そして以上が、今回の試練の霊的総括である。
【世界日報出版『脅かされる信教の自由』】
次に社会的、政治的総括としての世界日報の本『脅かされる信教の自由』を概観する。本書冒頭の「まえがき」に端的な見解が示されている。

「宗教法人法の解散命令請求は、信教の自由に関わる重大問題である。これまで解散を命じられたのは、オウム真理教と明覚寺の2例のみで、いずれも刑法違反が根拠だった。岸田首相は当初、解散請求の要件に『民法の不法行為は含まれていない』との従来の法解釈を踏襲し、家庭連合は『解散に当たらない』と閣議決定した。しかし、岸田首相をそれを一夜にして覆し、『民法上の不法行為も対象となり得る』と解釈変更をしたのである。前代未聞の朝令暮改とその後の動きは、法治国家の基礎を揺るがすだけでなく、時の政権が政治的理由から特定教団をターゲットに解散命令請求を行うという、信教の自由を脅かす悪しき前例となった」(まえがき)
既に筆者は、「つれづれ日誌(令和6年2月7日)-言論戦を勝ち抜くためにー世界日報再検証」において、「日本UC始まって以来の未曾有の艱難に際して、言論の大切さ、特に言論機関を持つことの死活的意味を強く認識しています。そしてこの度、世界日報の存在意義を改めて自覚することになりました」と記し、 更に「世界日報は、文鮮明師の神主義を根本とし、反共と愛国を基本理念とする一般日刊紙であり、真性な保守思想を牽引する日本唯一の保守系預言紙であります」と述べた。
<『脅かされる信教の自由』骨子>
本書『脅かされる信教の自由』は、ここ2年間にわたるUCバッシングのほとんどの論点が網羅されている決定版であり、それは丹念な取材と明確な理念に基づく。
第1章 岸田政権の暴走、2章 地方議会への波紋、3章 信者への差別・人権侵害、4章 一線を越えたマスコミ、5章 歪められた「2世」像、6章 宗教者の声、7章 世界の中の日本の信教、8章 知られざる信者の強制脱会、終章 信教の自由が守られるために、の全9章からなる。
1章の「岸田政権の暴走」には、「岸田首相の最大の過ちは、教団側と敵対関係にある全国弁連の主張と、それを元にした報道を鵜呑みにしたこと」(P18)と指摘し、「社会的に問題が指摘されている団体と関係断絶する」という憲法違反の発言を問題視した。しかも河野太郎氏は「霊感商法等の悪質商法への対策検討会」を設置し、独断で紀藤正樹霊感弁護士、日本カルト会代表理事の西田公昭立正大学教授、UCの解散を主張する菅野志桜里弁護士など反UCメンバーで固めたことを批判した(P20)。また、民法の不法行為を法令違反に認めた顛末が記載され、質問権行使に至るまでのいきさつが述べられている。
2章の「地方議会への波紋」には、富田林市議会、富山市議会、大阪市議会、大阪府議会、北九州市議会など地方議会で、UCとの関係断絶が議会で採択されたことが記され、UC側がこれらを憲法違反として提訴したいきさつが述べられた。取手市議会で共産党が提出した関係断絶の誓願を、細谷典男市議会議員が反論し、これを否決した経緯も記されている。
3章の「信者への差別・人権侵害」では、信者が受けた被害について詳細に書かれている。即ち、暴力、精神病、自殺、落書、器物損壊、不動産契約破棄、学校や職場での差別、親族や友人からの罵倒、強迫、迷惑行為などが、数百件、強迫電話は1万件に上るという。
4章の「一線を越えたマスコミ」では、テロを犯した山上被告を、マスコミは持ち上げて、犯罪者を英雄扱いしたとし、「犯行の動機が20年前の教団への憎悪だとすれば、年月が立ち過ぎている。この間、何があったのか」(P91)と問題提起し、「テロリストの犯行の背景を理解しようという姿勢自体が、テロリストの目的達成を幇助する」(P93)と警告した。そしてマスコミは、宗教団体に恨みがあったという、捜査当局のリークに飛び付き、それが犯行動機だという前提のもとに報道を加熱し、反対言論を封殺したとし、マスコミ報道に疑義を呈した爆笑問題の太田光氏などが、マスコミの集中攻撃を受けたのはその一例であるとした。
あと、5章から9章まで、貴重な証言が続くが、是非手に取って一読されるようお薦めする。
<問題提起>
さて、本書終章には「家庭連合の課題ー救いと社会貢献の調和」と題して、重要な問題提起がなされている。「反日カルト」のレッテル貼りと「世俗世界との葛藤」の問題である。
本書には「日本社会との溝を広げた要因に、教団が韓国生まれという事実がある。反日カルトという烙印もここから生まれている」(P210)と記されている。反日カルトのレッテル貼りは、教祖が韓国人であることから来る日本人独特の違和感と、日本から贖罪的な金銭が韓国に貢がれていると言うフェイクニュースから来ると思われる。筆者は「つれづれ日誌(令和5年8月9日)-UC教義に反日思想はない」において、UC教義に反日思想はないこと、文鮮明教祖は親日家(愛日家)であること、UCは誰よりも愛国団体であることを論じた。そして献金は韓国に貢がれているのではなく、世界宣教のための寄金として、韓国にある世界宣教本部に寄付されている。かっては長い間アメリカに世界本部があり、アメリカ本部に寄付されていた。ワシントン・タイムズもこうして設立された。
もちろん、日韓関係は摂理的に運命共同体という側面があり、重視しなければならないのは言うまでもないが、しかし、反日カルトといった誤解を受けないためにも、日本UCの自律的な主体性の確立が要請される。平たく言えば、いい意味で韓国離れをすることである。
更に本書は「社会との溝をどう埋めるかが、この教団の課題だと気付かされた。いわゆる聖と俗との葛藤である」(P208)と述べ、「信者個々人の救いと、教団が目指すビジョンをどう連結させていくのか」(p209)が問題であるとした。
つまり、教団や信者個人としては、「聖」の深化を求めるのも当然だが、しかし、法律遵守はもちろんのこと、社会発展に寄与するという、「世俗的な責務」を負っていると述べ、「過去には信仰熱心さ故に、後者が疎かになっていたことは否定できないのではないか」と問題提起した。つまり、解散請求問題によって表面化した世俗との葛藤は、「教団組織には社会に開かれた宗教法人への脱皮と、信者には個人の救いと社会貢献をつなげる方向に信仰の深化・普遍化を促しているように見える」(P210)と結んだ。
この点田中富弘会長によれば、現下のUCは、①為に生きる幸せな家庭、②地域と共にある教会、③国と世界のためてに貢献する、という3つのビジョンを掲げているという。
しかし、「地上に平和をもたらすために、わたしはきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ10.34)とある通り、真の平和のためには「善悪の分別が必要である」とのイエス・キリストの言葉もまた真なりである。要は、純粋な信仰と世俗との折り合いを、如何に上手に付けるか、即ち、成熟した大人の教団に脱皮することが要請されている。
以上、現下のUCの試練に関して、世界日報出版『脅かされる信教の自由』に記された社会的・政治的総括と、筆者独自の霊的総括を記した。私たちは、3月中にも出されるであろう解散請求裁判の東京地裁判断を待つ立場にあるが、いずれにせよ、「イスラエルの残れる者」に動揺はない。旧約聖書に「大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(詩篇90.1~2)とある通り、天地を創造し、歴史を支配される神にこそ救いはある。(了)
牧師・宣教師 吉田宏