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長崎キリシタンの里訪問記 大浦天主堂・長崎西坂公園・浦上天主堂

○つれづれ日誌(令和4年3月9日)-長崎キリシタンの里訪問記ー大浦天主堂・長崎西坂公園・浦上天主堂


一粒の麦が地に落ちて死ななければそれはただ一粒のままである。もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12.24)


3月7日、筆者は縁あって、かねてから念願していた長崎「大浦天主堂」、26人の殉教の聖地「西坂公園」、そして「浦上天主堂」を訪問することができました。潜伏キリシタンらの巡礼の旅であります。


そこで、今回、このツアーで見たこと、感じたことを皆様と共に共有したいと思います。

なお、日本のキリシタンの殉教の歴史や潜伏キリシタンなどについての詳細は、ホームページ「長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地」に三回に渡って掲載していますので、ご参照下さい。

https://www.reiwa-revival.com/post/長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地1


【大浦天主堂】


最初の訪問場所の「大浦天主堂」は、ユネスコ世界遺産に登録された教会堂で、ゴシック調の国内現存「最古の教会堂」であり、1953年、国宝に指定されました。


1865年2月19日、献堂式が挙行され、「二十六聖殉教者聖堂」と命名され、処刑された西坂に向かって建築されました。 即ち、1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、日本で最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒を記念した天主堂だと言われています。


<信徒発見>

1865年3月17日、 浦上の潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪ね、そのうちの一人の女性が、プティジャン神父に密かにキリシタンであることを名乗りました。この事実は、世に「信徒発見」と言われ、世界を驚愕させました。


「私どもは神父様と同じ心であります。(宗旨が同じです)。サンタ・マリアのご像はどこ?」と。


彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる「潜伏キリシタン」である事実を告白したのです。


カトリックは、この信徒発見により、厳しい禁教によって日本にキリシタンは既に絶えていなくなったと思っていたのでしたが、潜伏して信仰を守り続けていた信徒がいたことに喜びと衝撃を受けたのでした。


<天主堂で祈る>

大浦天主堂は、坂の上に立ち、気品ある優雅なたたずまいで筆者を迎えてくれました。礼拝堂の正面祭壇の上方真ん中には、ステンドグラスにイエス磔刑の姿が生々しくも神々しく描かれ、また、教会の玄関先、礼拝堂の左側には美しいマリア像が飾られ、周りには聖人の像が置かれていました。


信徒らは皆、この磔刑のイエスやマリアを見上げ、崇め、祈るというのです。この光景は、プロテスタントの教会では、先ず目にすることはなく、ましてやUCではなおさらのことで、ここにはカトリック独特の教理が象徴される光景です。


神なるイエス、神の母なるマリア、そして受肉したひとり子イエスを犠牲にして人類の罪を購われる神の愛、そして罪人をキリストへ執りなしをされる慈母なるマリア...。


正に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3.16)というその神の愛の象徴こそ、この礼拝堂正面に掲げられる磔刑のイエスだというのです。


しかしともあれ、礼拝堂全体からかもし出される雰囲気は、天上の霊的世界を予感させるたたずまいであり、襟を只して跪かざるを得ない気持ちへと礼拝者を誘います。そこには、理屈を越えた霊的世界が演出され、ひととき人々は、堂内にただよう霊感を感じて祈りを捧げるというのです。


一昔前の筆者なら、神々しさよりも、非合理性への違和感が先に立ち、神聖さよりも単なる一つの文化財として見過ごしていたことでしょう。しかしこの場は、何よりも神が臨在し、神を礼拝する場であるというのです。


筆者はひととき、ザビエル以来のキリシタンの歴史に思いを馳せました。よくぞ神は、極東の果てまで福音を届けられたと...。この日本におけるイエズス会から始まる福音の歴史は、天主堂に隣接された「博物館」がよく物語っていました。


<キリシタン博物館>

この大浦天主堂境内には、天主堂と共に、「キリシタン博物館」があり、日本の「西洋との出会い」「禁教期・潜伏期の歴史」、そして、信徒発見に至る「日本キリシタン史」に関する資料が展示されていました。


ザビエル以来、日本のキリシタンの歴史、特に殉教と迫害の歴史については、筆者は大変関心がありましたので、地図、古文書、遺品、写真、説明文などを交えての博物館の資料は、「我が意を得たり」という思いでした。すべからく日本人、特にUC信者を含むクリスチャンは、この博物館の内容をよく知るべきだと思いました。


そしてこの福音の種が、如何なる意味を持ち、如何なる足跡を残し、如何なる影響を与えたのか、更に如何なる実を結ぶべきであるかを祈り求めました。


この祈りの旅の目的は、次の訪問場所である「二十六聖人殉教」の地である「西坂」において、より鮮明になっていきました。


【西坂殉教の丘で感じたこと】


大浦天主堂からそう遠くない、長崎駅から約500mのところに西坂公園がありますが、この場所こそ、日本で最初の殉教の血が流された「二十六聖人の殉教」の地であります。


1597年2月5日、豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘であります。


<西坂公園>

この西坂の丘は、キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も、多くの人々が「火あぶり」「水責め」「穴吊り」といったむごい手段で、この地で処刑されました。いわばこの地は「日本殉教史の象徴」です。


26人の殉教者が列聖されて100年目の1962年に、二十六聖人等身大の「ブロンズ像記念碑」と「記念館」で構成された西坂公園ができました。また、1950年には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。そしてブロンズ像記念碑の足元には、次の聖句が記されています。


「人若し我に従はんと欲せば、我を捨て十字架をとりて我に従うべし」( マルコ8.34)


<殉教の歴史>

日本におけるカトリックによる宣教は、一時期、高山右近に代表される多くのキリシタン大名を排出するなど、かなりの成果をあげましたが、1587年豊臣秀吉のバテレン追放令と1996年の禁制の強化、1612年と1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によってキリスト教が日本に根付くことはなく、1873年禁教令が撤廃される迄の約250年間に、多くの殉教者を出すことになりました。


大きな殉教としては、豊臣政権下の「長崎26聖人の殉教」を皮切りに、徳川政権下の「京都の大殉教」、「元和の大殉教」、「ペトロ岐部と187人殉教者」などがあります。


そしてこの禁教以来、キリシタンは地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守っていくことを余儀なくされました。


<長崎26聖人の殉教>

さて、この西坂で磔に処せられた「長崎26聖人の殉教」とは、どういう殉教だったのでしょうか。


1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、フランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じました。これが豊臣秀吉による最初の迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎の西坂で処刑されました。


土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が世界地図を広げて、「スペイン王国は宣教師の布教の後に軍隊を送って征服する意図がある」と告白したことが発端だったと伝えられています。


京都、大阪などで捕らえられた神父ペドロ・パプティスタなどのスペイン人やポルトガル人の宣教師6名と日本人信徒20名は、片耳をそがれ、京都の町々を大八車で引き回されたのち、寒い冬、880kmもある長崎に徒歩で送られ、刑場で処刑されました。驚くべきは、この殉教の道行きに、パプティスタ神父やパウロ三木の説教に励まされ、一人の脱落者も出なかったことです。


最年少の12歳の茨木ルイスは、信仰を捨てれば救うといわれましたが、「私の十字架はどこ?」とこれを拒絶し、十字架上で「パライソ(天国)、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えたと言われています。


<記念館と遺骨安置の聖なる空間>

そして西坂公園内には、記念博物館が併設され、十字架にかかって殉教した殉教現場の生々しい様子やいきさつが展示されていました。


そして記念館2階には、26聖人の遺骨が安置されている「聖なる部屋」がありました。いわば26聖人の墓と言ってもいいかも知れません。この遺骨は天井の十字架とつながり、天に召された情景を物語っています。


筆者はしばし瞑想し、日本にも、かくも美しくも凄惨な血が、神のために流された歴史があったのかと、改めて思いを馳せました。キリストのための聖なる供え物、これは日本の宝、日本の誇りであり、カトリック信者どころか、ここは日本の聖地です。


そして、これらの殉教者たちを、こうして手厚く葬り、永遠の記憶に留めたことに、筆者は深く感謝し安堵しました。


【浦上天主堂と長崎の鐘】


さて今回の祈りのツアー、最後の訪問場所が「浦上天主堂」であります。


実はこの浦上天主堂訪問こそ、今回のツアーの「お目当て」でした。何故なら、この教会こそ、かの永井隆著『長崎の鐘』の舞台となった教会であるからです。


この浦上天主堂については、筆者ホームページ「つれづれ日誌(12月15日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地③」に述べていますので、これを再確認しながら、辿ることにいたします。


左・現在の浦上天主堂  中央・被爆前の浦上天主堂  右・被爆した浦上天主堂


<永井隆と長崎の鐘>

永井隆(1908~1951)は長崎医科大学(長崎大学医学部)の教授で、夫婦共に浦上教会の敬虔なカソリック教徒でした。大学で放射線研究の最中、1945年8月9日午前11時2分、 浦上天主堂がある長崎市浦上の真上に原子爆弾が炸裂しました。この核攻撃により、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。


自らも被爆し、右側頭動脈切断というひどい傷を受けましたが、被爆者の世話をして医師としての務めを果たし、4日後自宅に帰宅すると、最愛の妻は既に焼け死んでおり、愛用していたロザリオだけが側に残されていたといいます。


「長崎の鐘」とは、浦上天主堂にかかげられていた、祈りの時刻を告げるアンジェラスの鐘のことです。原爆投下後、天主堂が炎上倒壊した際も、ひび一つ入らずに無事に掘り出され、その年のクリスマスの日から、再び平和の鐘として鳴らされています。


浦上天主堂 アンジェラスの鐘  若き日の永井隆博士    永井隆博士親子


永井は、後日この原爆体験を著書『長崎の鐘』に書き記しました。この『長崎の鐘』を歌にした「長崎の鐘」は大ヒットし、国民の涙を誘い、人々に勇気と希望を与えました。


サトウハチローは、『長崎の鐘』を読んで霊感を受け、全身全霊を捧げて作詞したそうで、古関裕而が作曲しました。この歌には、原爆犠牲者への鎮魂、平和への祈り、神への感謝が込められています。


 こよなく晴れた青空を 悲しと思う せつなさよ

 うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ

 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

 召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ

 かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙

 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

 こころの罪を うちあけて 更けゆく夜の 月すみぬ

 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様

 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る


<浦上キリシタンの数奇な運命>

それにしても、長崎市の中心市街から北へ3キロくらいの地区にある浦上のキリシタンほど、歴史的に数奇で過酷な運命を辿った人々はいないでしょう。


日本初のキリシタン大名である大村純忠は、1563年、家臣とともに洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領地にはキリスト信者が増え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされています


当初浦上は、大村領として治められていましたが、1474年には島原半島を治める有馬氏の支配下となりました。そして1584年には、キリシタン大名の有馬晴信によって、浦上はイエズス会に寄進されます。また1580年には、大村純忠は、長崎と茂木をイエズス会に寄進しています。


しかし1614年の徳川の禁教下の中で、たびたび潜伏キリシタンが摘発され、浦上では1790年の一番崩れ、1842年の二番崩れ、1859年の三番崩れといわれる検挙が発生しました。「崩れ」とは、摘発されて信仰共同体が崩壊することです。


特に、1867年の「四番崩れ」では、禁教を継続した明治政府により浦上のキリシタン全村民が流罪となり、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、旅先で激しい迫害を受け、千余名が背教し、562人が亡くなりました。永井は、浦上のキリシタンが島根県津和野に流刑され、そこで殉教した38人のキリシタンを描いた作品『乙女峠』を書いています。


<浦上天主堂>

そして1874年禁教が解かれ、流刑の地から浦上に帰ったキリシタンたちによって、1879年に小聖堂を築かれたのが浦上教会の発端であります。


資金難で、20年余りの時を経た1895年に、ようやくフレノ神父の設計による教会の建設が開始され、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式が挙行されました。


正面双塔にフランス製の「アンジェラスの鐘」が備えられましたが、1945年の原爆で爆心地から至近距離に在った天主堂建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。


原爆投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたましたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・ラファエル西田三郎を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡し、浦上地域の信徒12000人の内、8500名が犠牲になりました。


現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。1962年には、長崎大司教区の司教座聖堂に指定されています。


<長崎の鐘の世界ー永井隆の追悼文より>

一体、何故長崎に、しかも長い禁教下の中で信仰を守り、幾多の迫害と殉教を経て、当時なお日本で最も多くのキリスト教徒を擁していた浦上が、よりにもよって何故爆心地にならなければならなかったのでしょうか。神は何故、かくも清められた聖地浦上を選ばれたのでしょうか。


ここに永井隆著『長崎の鐘』の中に「合同葬での弔辞」が記してありますので、この弔辞を手掛かりに、この問いを探っていきましょう。


冒頭に次のようにあります。


「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂が一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります」


当初原爆は小倉に予定されていたのが、小倉の上空が雲にとざされていたため、突然予定を変更して予備目標であった長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って浦上天主堂の正面に流れ落ちたのだというのです。


永井は、終戦と浦上潰滅との間には深い関係があるのではないか、つまり戦争という罪悪の償いとして、日本でキリスト教徒の人口密度が最も多かった聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ「清き子羊」として選ばれたのではないか、と問いかけます。


浦上が屠られた瞬間、初めて神はこれを受け入れられ、天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたというのです。


「信仰の自由なき日本に於て 、迫害の400年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかった浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったのでしょうか」


永井は、この犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたとし、次のように語ります。


「汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。潔き羔として神の御胸にやすらう霊魂の幸よ」と...。


そして永井は、残されたものは、この賠償の道を歩みゆかねばならないと語り、そして最後にこう結びました。


「主与え給い、主取り給う(ヨブ記1.21)。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。アーメン」


以上のように、カトリック信者である永井隆は、浦上と浦上天主堂は、神への燔祭であり、その尊い犠牲によって戦争が終結し、日本が「生まれ変わる」条件となったと認識しました。


実際、永井は自ら被爆していたにもかかわらず、医師として、多くの被爆者達の手当を行い、そのため妻緑さんの安否を確かめる暇もなく、ようやく家に帰ってみると、黒く焼けて塊と化した緑さんの亡骸を発見しました。


永井は1951年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで永眠しました。市営坂本国際墓地の墓石には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17.10)と墓碑銘が刻まれています。


<浦上天主堂での祈りの一時>

さて、このような背景を持った浦上天主堂ですが、この礼拝堂は、先に訪問した大浦天主堂ほどの優雅さは無いにしても、ふた回りも広く、流石に東洋一の大聖堂の風格のあるたたずまいを感じました。


やはり大浦天主堂と同様、正面祭壇の真上には磔刑のイエス像が置かれ、側にはマリア像が飾られていました。神の子イエスと、執りなしのマリアの構図はカトリックの特徴です。


入り口におられた天主堂職員の方に聞いたところ、この礼拝堂は1000名以上収容でき、日曜日のミサは毎回4回に分けて行われているということでした。現在この浦上地域には、約6000人のカトリック信者がいるということで、いまだに日本一のクリスチャン密度を誇っており、特別の祝祭ミサには、後ろに立って参加しているということです。そして長崎には数多くのカトリック教会があるということでした。


筆者が永井隆のことを尋ねると、大きく頷き、永井夫婦は浦上教会の敬虔な信者で、『長崎の鐘』は、この教会の魂の記録だと言われていました。


筆者はこの礼拝堂で祈りながら、次のような思いが込み上げてきました。


「日本の歴代総理は、毎年お正月には伊勢神宮に参拝しますが、伊勢神宮と共に、ここ浦上天主堂に参拝して祈りを捧げるべきではないか」と。


「神の救済摂理の中心に立つキリスト教の福音の象徴として、日本を代表して殉教の道を行き、日本が生まれ変わるための贖い の供え物になった浦上と浦上天主堂こそ、日本の聖地にふさわしい」との思いです。


こうして今回、長崎教会巡礼の旅に導かれ、日本にもキリスト教の見上げた信仰の伝統があったことを再確認し、新たに日本の原点を発見したような気がいたしました。


正に殉教の血は「一粒の麦」(ヨハネ12.24)であり、「宣教の種子」であります。そして日本にも信仰のために流された多くの血があったことを想起し、これらをよき種として、成約の総福音化を目指して精進したいとの思いを新たにさせられた次第です。(了)



長崎の鐘

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