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長崎キリシタンの里訪問記 大浦天主堂、長崎西坂公園、浦上天主堂

○つれづれ日誌(令和4年3月9日)-長崎キリシタンの里訪問記ー大浦天主堂、長崎西坂公園、浦上天主堂


人若し我に従わんと欲せば、我を捨て十字架をとりて我に従うべし(マルコ8.34)


令和4年3月7日、筆者は縁あって、かねてから念願していた信徒発見で有名な「大浦天主堂」、26人の殉教の聖地「西坂公園」、そして長崎の鐘の舞台「浦上天主堂」を訪問することができました。潜伏キリシタンらの巡礼の旅であります。


そこで、今回、このツアーで見たこと、感じたことを皆様と共に共有したいと思います。

なお、日本のキリシタンの殉教の歴史や潜伏キリシタンなどについての詳細は、ホームページ「長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地」に3回に渡って掲載していますので、ご参照下さい。( https://www.reiwa-revival.com/post/長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地1


【大浦天主堂】


最初の訪問場所の「大浦天主堂」は、ユネスコ世界遺産に登録された教会堂で、ゴシック調の国内現存「最古の教会堂」であり、1953年、国宝に指定されました。


1865年2月19日、献堂式が挙行され、「二十六聖殉教者聖堂」と命名され、処刑された西坂に向かって建築されました。 即ち、1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、日本で最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒を記念した天主堂だと言われています。


<信徒発見>


1865年3月17日、 浦上の潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪ね、そのうちの一人の女性が、プティジャン神父に密かにキリシタンであることを名乗りました。この事実は、世に「信徒発見」と言われ、世界を驚愕させました。


「私どもは神父様と同じ心であります。(宗旨が同じです)。サンタ・マリアのご像はどこ?」


彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる「潜伏キリシタン」である事実を告白したのです。 カトリックは、この信徒発見により、厳しい禁教によって日本にキリシタンは既に絶えていなくなったと思っていたのでしたが、潜伏して信仰を守り続けていた信徒がいたことに喜びと衝撃を受けたのでした。


<天主堂で祈る>


大浦天主堂は、坂の上に立ち、気品ある優雅なたたずまいで筆者を迎えてくれました。礼拝堂の正面祭壇の上方真ん中には、ステンドグラスにイエス磔刑の姿が生々しくも神々しく描かれ、また、教会の玄関先、礼拝堂の左側には美しいマリア像が飾られ、周りには聖人の像が置かれていました。


信徒らは皆、この磔刑のイエスやマリアを見上げ、崇め、祈るというのです。この光景は、プロテスタントの教会では、先ず目にすることはなく、ましてやUCではなおさらのことで、ここにはカトリック独特の教理が象徴される光景です。 神なるイエス、神の母なるマリア、そして受肉したひとり子イエスを犠牲にして人類の罪を贖われる神の愛。そして罪人をキリストへ執りなしをされる慈母なるマリア...。 まさに「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3.16)というその神の愛の象徴こそ、この礼拝堂正面に掲げられる磔刑のイエスだというのです。


しかしともあれ、礼拝堂全体からかもし出される雰囲気は、天上の霊的世界を予感させるたたずまいであり、襟を只して跪かざるを得ない気持ちへと礼拝者を誘います。そこには、理屈を越えた霊的世界が演出され、ひととき人々は、堂内にただよう霊感を感じて祈りを捧げるというのです。


一昔前の筆者なら、神々しさよりも、非合理性への違和感が先に立ち、神聖さよりも単なる一つの文化財として見過ごしていたことでしょう。しかしこの場は、何よりも神が臨在し、神を礼拝する場であり、筆者はひととき、ザビエル以来のキリシタンの歴史に思いを馳せました。よくぞ神は、極東の果てまで福音を届けられたと...。危険を顧みず福音を携えてやってきたイエズス会から始まる宣教の歴史は、天主堂に隣接された「博物館」がよく物語っていました。


<キリシタン博物館>


この大浦天主堂境内には、天主堂と共に、「キリシタン博物館」が隣接されており、「日本人の西洋との出会い」、「禁教期・潜伏期の歴史」、そして、信徒発見に至る「日本キリシタン史」に関する資料が展示されていました。


ザビエル以来、日本のキリシタンの歴史、特に殉教と迫害の歴史については、筆者は大変関心がありましたので、地図、古文書、遺品、写真、説明文などを交えての博物館の資料は、「我が意を得たり」という思いでした。すべからく日本人、特にUC信者を含むクリスチャンは、この博物館の内容をよく知るべきだと思いました。


そしてこの福音の種が、如何なる意味を持ち、如何なる足跡を残し、如何なる影響を与えたのか、更に如何なる実を結ぶべきであるかを祈り求めました。そしてこの祈りの旅の目的は、次の訪問場所である「二十六聖人殉教」の地である「西坂」において、より鮮明になっていきました。


【西坂殉教の丘で感じたこと】


大浦天主堂からそう遠くない、長崎駅から約500mのところに西坂公園がありますが、この場所こそ、日本で最初の殉教の血が流された「二十六聖人の殉教」の地であります。即ち、 1597年2月5日、豊臣秀吉によるキリシタン禁教により、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘であります。


<西坂公園>


この西坂の丘は、キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も、多くの人々が「火あぶり」「水責め」「穴吊り」といったむごい手段で、この地で処刑されました。 1622年の元和の大殉教で処刑された55人もここでここで殉教しており、いわばこの地は「日本殉教史の聖地」です。徳川幕府は、親鸞の一向宗(浄土真宗)による三河一向一揆(1563年)のトラウマもあり、主君よりキリスト(神仏)に従うキリシタンを危険視しました。


26人の殉教者が列聖されて100年目の1962年に、二十六聖人等身大の「ブロンズ像記念碑」と「記念館」で構成された西坂公園ができました。また、1950年には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。そしてブロンズ像記念碑の足元には、次の聖句が記されていました。


「人若し我に従はんと欲せば、我を捨て十字架をとりて我に従うべし」( マルコ8.34)


<殉教の歴史>


日本におけるカトリックによる宣教は、一時期、高山右近に代表される多くのキリシタン大名を排出するなど、かなりの成果をあげましたが、1587年豊臣秀吉のバテレン追放令と1996年の禁制の強化、1612年と1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によってキリスト教が日本に根付くことはなく、1873年禁教令が撤廃される迄の約250年間に、多くの殉教者を出すことになりました。


大きな殉教としては、豊臣政権下の「長崎26聖人の殉教」を皮切りに、徳川政権下の「京都の大殉教」、「元和の大殉教」、「ペトロ岐部と187人殉教者」などがあります。「ペトロ岐部と187人殉教者」とは、1603年から1639年にかけて、全国各地で殉教した187人の司祭・修道者・信徒たちで聖人に次ぐ「福者」に列された人々であります。そしてこの禁教以来、ある信者は棄教し、ある信徒は地下にもぐり「潜伏キリシタン」として信仰を守っていくことを余儀なくされました。


<長崎26聖人の殉教>


「聖書の知識28 殉教を考える」でも述べていますが、この西坂で磔に処せられた「長崎26聖人の殉教」とは、どういう殉教だったのでしょうか。1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、フランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じました。これが豊臣秀吉による最初の迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎の西坂で処刑されました。 即ち、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が世界地図を広げて、「スペイン王国は宣教師の布教の後に軍隊を送って征服する意図がある」と告白したことが発端だったと伝えられています。


京都、大阪などで捕らえられた神父ペドロ・パプティスタなどのスペイン人やポルトガル人の宣教師6名と日本人信徒20名は、片耳をそがれ、京都の町々を大八車で引き回されたのち、寒い冬、880kmもある長崎に徒歩で送られ、刑場で処刑されました。驚くべきは、この殉教の道行きに、パプティスタ神父やパウロ三木の説教に励まされ、一人の脱落者も出なかったことです。


最年少の12歳の茨木ルイスは、信仰を捨てれば救うといわれましたが、「私の十字架はどこ?」とこれを拒絶し、十字架上で「パライソ(天国)、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えたと言われています。


<記念館と遺骨安置の聖なる空間>


そして西坂公園内には、記念博物館が併設され、十字架にかかって殉教した殉教現場の生々しい様子やいきさつが展示されていました。


そして記念館2階には、26聖人の遺骨が安置されている「聖なる部屋」がありました。いわば26聖人の墓と言ってもいいかも知れません。この遺骨は天井の十字架とつながり、天に召された情景を物語っています。筆者はしばし瞑想し、日本にも、かくも美しくも凄惨な血が、神のために流された歴史があったのかと、改めて当時に思いを馳せたものです。キリストのための聖なる供え物、これは日本の宝、日本の誇りであり、カトリック信者どころか、ここは日本の聖地です。


そして、これらの殉教者たちを、こうして手厚く葬り、永遠の記憶に留めたことに、筆者は深く感謝し安堵しました。


【浦上天主堂と長崎の鐘】


さて今回の祈りのツアー、最後の訪問場所が「浦上天主堂」であります。実はこの浦上天主堂訪問こそ、今回のツアーの「お目当て」でした。何故なら、この教会こそ、かの永井隆著『長崎の鐘』の舞台となった教会であるからです。但し、この天主堂自体は世界遺産には入っていません。



左・現在の浦上天主堂  中央・被爆前の浦上天主堂  右・被爆した浦上天主堂

 

<永井隆と長崎の鐘>

 

永井隆(1908~1951)は長崎医科大学(長崎大学医学部)の教授で、夫婦共に浦上教会の敬虔なカトリック教徒でした。大学で放射線研究の最中、1945年8月9日午前11時2分、 浦上天主堂がある長崎市浦上の真上に原子爆弾が炸裂しました。自らも被爆し、右側頭動脈切断というひどい傷を受けましたが、被爆者の世話をして医師としての務めを果たし、4日後自宅に帰宅すると、潜伏キリシタンの末裔である妻緑さんは焼け死んでおり、ロザリオだけが残されていたといいます。 

 

「長崎の鐘」とは、浦上天主堂にかかげられていた、祈りの時刻を告げるアンゼラスの鐘のことです。原爆投下後、天主堂が炎上した際も、ひび一つ入らずに無事に掘り出され、その年のクリスマスの日から、再び平和の鐘として鳴らされています。 

 

永井は、後日この原爆体験を著書『長崎の鐘』に書き記しました。この『長崎の鐘』を歌にした「長崎の鐘」は大ヒットし、国民の涙を誘い、人々に勇気と希望を与えました。サトウハチローは、『長崎の鐘』を読んで霊感を受け、全身全霊を捧げて作詞したそうで、古関裕而が作曲しました。歌詞「召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙」に象徴されるこの歌には、原爆犠牲者への鎮魂、平和への祈り、神への感謝が込められており、この歌こそ、歌謡曲ではなく讃美歌として謳われるべきではないかと…..。


浦上天主堂 アンジェラスの鐘  若き日の永井隆博士    永井隆博士親子


<原子爆弾投下>

 

さてここで広島と長崎に落とされた原爆についてまとめておきましょう。 広島市への原子爆弾は、1945年8月6日(月)午前8時15分47秒に投下されました。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃でありました。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約15万人が死亡したとされています。 

 

また長崎市への原子爆弾は、1945年(昭和20年)8月9日(木)午前11時02分に投下されました。この核攻撃により、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。 

 

広島原爆(ウラン燃料)と長崎原爆(プルトニウム燃料)を比較すると、爆発時の破壊力、被害状況などが異なり、むしろ破壊力の大きい原爆を使われたのが長崎原爆であり、被害が大きかったのが広島原爆でありました。広島の約1.5倍の威力を持つ原爆が使われた長崎の方が被害が少なかったのは、長崎市は山で囲まれた地形で、山によって熱線や爆風が遮断されたためといわれています。 

 

また広島と長崎の反核運動や核廃絶運動などに対する姿勢の違いを、「怒りの広島」、「祈りの長崎」と形容されることがあります。これは、広島原爆の代表文学、峠三吉の原爆詩集『にんげんをかえせ』が被爆者の怒りを表しており、長崎原爆の代表文学、永井隆の『長崎の鐘』は日本の生まれ変わりと平和を訴える作品であり、しかも長崎はキリスト教徒が多く、世界平和をひたすら祈る印象があるためであると言われています。無論、 広島市民が平和を祈らないわけでも、長崎市民に怒りがないわけでもありませんが....。

 

<浦上キリシタンの数奇な運命>

 

それにしても、歴史的に浦上のキリシタンほど数奇で過酷な運命を辿った人々はいないでしょう。 

 

浦上は長崎の中心市街から北へ3キロくらいの地区にある地域ですが、領主の大村純忠や有馬晴信が熱心なキリシタンであり、領民にキリスト教を勧めたので、領内では多くのキリシタンが生まれました。大村純忠は1579年、長崎と茂木を、甥の有馬晴信は浦上村をイエズス会に寄進し、浦上の村民はほとんどがキリシタンになりました。 しかし1614年の徳川の禁教令以来、取り締まりが厳しくなり、1644年に最後の司祭が殉教して、日本に司祭・宣教師はいなくなりました。宣教師がいない中、江戸幕府のキリシタン禁制体制下にあって、浦上のキリシタンは、お帳方(ちょうかた)、お水方(みずかた)らの指導のもとに、「潜伏キリシタン」としてその信仰を守りました。

 

しかし禁教下の中では、たびたびキリシタンが摘発され、1667年に、尾張・美濃国で隠れキリシタンが検挙され数百人が殺された「濃尾崩れ」のように、信者の大量処刑により、ほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、「天草崩れ」のように、混乱を恐れて江戸幕府が信者を赦免した事例もあります。また豊後(大分)、大籠(岩手一関)、高槻(大阪)などでも、多くの篤実なキリシタンが殉教しました。

 

長崎浦上では1790年の一番崩れ、1842年の二番崩れ、1859年の三番崩れといわれる検挙が発生しました。「崩れ」とは、信仰が発覚し摘発されて共同体が崩壊することです。その中でも特に「浦上四番崩れ」は有名です。1867年浦上キリシタンは、宣教師の指導もあり、檀那寺(だんなでら)である聖徳寺僧によらない自葬を敢行し、村民らの寺請拒否へと発展し、6月14日奉行所は浦上キリシタンの検挙、投獄に踏み切りました。この事件は、外国公使らの抗議によって外交問題化しましたが、解決をみないまま幕府は瓦解(がかい)し、明治政府に引き継がれました。

 

ところが明治新政府も当初キリスト教禁止の幕府政策を継続しました。明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに弾圧は長崎一帯の村々に及びました。浦上キリシタンは、旅先で迫害を受け、この流罪を「旅」と名付けました。旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、562人が亡くなりました。永井は、浦上のキリシタンが島根県津和野に流刑され、そこで殉教した38人のキリシタンを描いた『乙女峠』を書いています。 

 

このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は維新の立役者であった木戸孝允や井上馨でしたが、長州藩は浄土真宗が盛んであり、真宗はもともとキリスト教には否定的でした。明治政府は、ようやく1873年(明治6)に禁教令を廃止し、家康の1612年の天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復いたしました。

 

<浦上天主堂>

 

そして1874年禁教が解かれ、流刑の地から浦上に帰ったキリシタンたちによって、1879年に小聖堂が築かれたのが浦上教会の発端であります。資金難で、20年余りの時を経た1895年、ようやくフレノ神父の設計による教会の建設が開始され、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式が挙行されました。 

 

正面双塔にフランス製の「アンジェラスの鐘」が備えられましたが、1945年の原爆で爆心地から至近距離に在った天主堂建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。 

 

原爆投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に集まっており、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭ラファエル西田三郎、助任司祭シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡し、浦上地域の信徒12000人の内、8500名が犠牲になりました。

 

1945年11月23日、浦上のカトリック信徒約300名が、空虚と化した浦上天主堂わきの広場で、浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行し、これが原爆犠牲者慰霊の始まりとなりました。そうして1959年11月1日、浦上天主堂が再建され、1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。1962年には、長崎大司教区の司教座聖堂に指定されています。

 

<長崎の鐘の世界ー永井隆の追悼文より>

 

一体、何故長崎に、しかも長い禁教下の中で信仰を守り、幾多の迫害と殉教を経て、当時なお日本で最も多くのキリスト教徒を擁していた浦上が、よりにもよって何故爆心地にならなければならなかったのでしょうか。神は何故、かくも清められた聖地浦上を選ばれたのでしょうか。ここに永井隆著『長崎の鐘』の中に、合同葬での弔辞がありますので、この弔辞を手掛かりに、この問いを探っていきましょう。冒頭に次のようにあります。 

 

「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂が一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります」 

 

当初原爆は小倉に予定されていたのが、小倉の上空が雲にとざされいたため、突然予定を変更して予備目標であった長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って浦上天主堂の正面に流れ落ちたのでした。原爆のその日の真夜半、浦上天主堂は炎上しましたが、これとまったく同じ時刻に、大本営に於て天皇陛下が終戦の聖断を下されたというのです。永井はこれを単なる偶然ではなく、神の妙なる摂理であると考えました。 

 

永井は、終戦と浦上潰滅との間には深い関係があるのではないか、つまり戦争という罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ「清き子羊」として選ばれたのではないか、と問いかけます。 永井は、「これまで幾度も終戦の機会はあり、全滅した日本の都市も少なくなかったが、それは犠牲としてふさわしくなく、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう」と語ります。然るに浦上が屠られた瞬間、初めて神はこれを受け入れられ、天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたというのです。

 

「信仰の自由なき日本に於て 、迫害の400年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかった浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったのでしょうか」 

 

永井は、この犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたとし、次のように語ります。 

 

「汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。潔き羔として神の御胸にやすらう霊魂の幸よ」

 

そして永井は、「生き残ったものは、償いを果たしていなかったから残された」と告白し、残されたものは、この賠償の道を歩みゆかねばならないと語り、そして最後にこう結びました。 

 

「主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。アーメン」(永井隆著『長崎の鐘』アルパ文庫P148)

 

以上のように、カトリック信者である永井隆は、浦上天主堂は、神への「贖いの供え物」であり、その尊い犠牲によって戦争が終結し、日本が生まれ変わり、世界の平和が再来する機会となったと認識しました。生き残った人々は、長崎の復興に努めることを呼び掛け、それがキリスト教の信仰の証だと、原爆の意味をそのように解釈したのでした。これが、長崎の原爆平和運動には「恨」がなく「怒りの広島、祈りの長崎」と言われた理由でありましょう。 


実際、永井は自ら被爆していたにもかかわらず、医師として、多くの被爆者達の手当を行っています。そのため妻緑さんの安否を確かめる暇もなく、ようやく家に帰ってみると、黒く焼けて塊と化した緑さんの亡骸を発見しました。永井が晩年を過ごした「如己堂」(にょこどう)は、長崎市にある、白血病の療養をしていた建物です。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれました。

 

如己堂の名前の由来は、マルコ12章31節「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられました。如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地です。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭で、浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、7代目の吉蔵で途絶えることになりましたが、この吉蔵は永井隆の夫人・緑の曾祖父にあたります。

 

永井は1951年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで亡くなりました。市営坂本国際墓地に妻の緑さんと一緒に埋葬されています。その墓石には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17.10)と刻まれています。

 

<浦上天主堂での祈りの一時>

 

さて、このような背景を持った浦上天主堂ですが、この礼拝堂は、先に訪問した大浦天主堂ほどの優雅さは無いにしても、ふた回りも広く、流石に東洋一の大聖堂の風格のあるたたずまいを感じました。 

 

やはり大浦天主堂と同様、正面祭壇の真上には磔刑のイエス像が置かれ、側にはマリア像が飾られていました。神の子イエスと、執りなしのマリアの構図はカトリックの特徴です。 

 

入り口におられた天主堂職員の方に聞いたところ、この礼拝堂は1000名以上収容でき、日曜日のミサは毎回数回に分けて行われているということでした。現在この浦上地域には、約6000人のカトリック信者がいるということで、いまだに日本一のクリスチャン密度を誇っており、特別の祝祭ミサには、後ろに立って参加しているということです。そして長崎には数多くのカトリック教会があるということでした。 

 

筆者が永井隆のことを尋ねると、大きく頷き、永井夫婦は浦上教会の敬虔な信者で、『長崎の鐘』は、この教会の魂の記録だと言われていました。 筆者はこの礼拝堂で祈りながら、次のような思いが込み上げてきました。 

 

「日本の歴代総理は、毎年お正月には伊勢神宮に参拝しますが、伊勢神宮と共に、ここ浦上天主堂に参拝して祈りを捧げるべきではないか。神の救済摂理の中心に立つキリスト教の福音の象徴として、日本を代表して殉教の道を行き、日本が生まれ変わるために贖罪の羊になった浦上と浦上天主堂こそ、日本の聖地にふさわしい」 

 

こうして今回、長崎教会巡礼の旅に導かれ、日本にもキリスト教の見上げた信仰の伝統があったことを再確認し、新たに日本の原点を発見したような気がいたしました。正に殉教の血は「一粒の麦」(ヨハネ12.24)であり、「宣教の種子」であります。そして日本にも信仰のために流された多くの血があったことを想起し、これらをよき種として、成約の総福音化を目指して精進したいとの思いを新たにさせられた次第です。(了)

 


長崎の鐘

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