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『安倍晋三回顧録』を読んで 何故、史上最長の長期政権が実現できたか

◯つれづれ日誌(令和5年3月1日)-『安倍晋三回顧録』を読んでー何故、史上最長の長期政権が実現できたか


試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、約束されたいのちの冠を受けるであろう(ヤコブ1.12)


2月8日、『安倍晋三回顧録』が中央公論新社から出版されました(11章、480 ページ、1980円)。読売新聞特別編集委員橋本五郎氏と読売新聞論説副委員長尾山宏氏が、安倍首相辞任後、2020年10月から計18回36時間にわたってインタビューした記録であり、安倍氏の生の声が聞こえてきます。


あまりに機微に触れるとして、一時は安倍元首相が刊行をストップされることもありましたが、 凶弾に倒れてから、昭恵夫人の承諾の上、出版の日の目を見たものです。目次は次の通りです。


第1章 コロナ蔓延―ダイヤモンド・プリンセスから辞任まで

第2章 総理大臣へ!―第1次内閣発足から退陣、再登板まで

第3章 第2次内閣発足―TPP、アベノミクス、靖国参拝

第4章 官邸一強―集団的自衛権行使容認へ、国家安全保障局、内閣人事局発足

第5章 歴史認識―戦後70年談話と安全保障関連法

第6章 海外首脳たちのこと―オバマ、トランプ、メルケル、習近平、プーチン

第7章 戦後外交の総決算―北方領土交渉、天皇退位

第8章 ゆらぐ一強―トランプ大統領誕生、森友・加計問題、小池新党の脅威

第9章 揺れる外交―米朝首脳会談、中国「一帯一路」構想、北方領土交渉

第10章 新元号「令和」へ―トランプ来日、ハメネイ師との会談、韓国、GSOMIA破棄へ

終章 憲政史上最長の長期政権が実現できた理由

資料ー追悼文


【興味深い回顧録】


筆者がこの本を手にして、最も知りたいと思ったことは、第一次政権の挫折でどん底に落ちてから、如何にして復活し得たか、そして何故、8年8ヵ月という憲政史上最長の政権は実現したのか、という2点でした。


<第1次内閣発足から退陣、そして再登板まで>


2006年9月26日、「戦後レジームからの脱却」を掲げて第一次安倍内閣(2006~2007年)が発足し、教育基本法の改正、防衛庁の省昇格、憲法改正の国民投票法の制定といった重要な法改正を成し遂げた政権でしたが、「お友達内閣」と揶揄され、相次ぐ閣僚の不祥事などで厳しい政権運営を余儀なくされました。


2007年7月29日に行われた参議院選挙で惨敗し、挙げ句に持病の潰瘍性大腸炎が悪化しました。9月12日、遂に退陣を表明し、25日に内閣総辞職に追い込まれました。


辞めたあとは、正に茫然自失で、政治家としての再起は不可能と思われました。しかし、安倍氏は、そのどん底から不死鳥のように甦ります。そもそも政治家として目指したものは、憲法改正であり、拉致問題ではなかったか、と。(本書P91)


そして5年に渡る政策研鑽(特に経済政策)の雌伏期間を経て、2012年9月の自民党総裁選に出馬して総裁に返り咲くことになります。この時、出馬慎重論が大勢の中、総裁選出馬を最後に決断したのは「是非出るべきだ」という菅義偉氏の一押しだったといいます(P97)。菅氏は安倍元首相の国葬の追悼文で次のように述べています。


菅氏は、まだ駆け出しの政治家時代に、北朝鮮問題で始めて安倍さんと話した時、「この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだ」と直感し、この確信において、一度として揺らがなかったと述懐しました。


安倍氏が、持病で総理の座を退いて、5年の雌伏の後、二度目の自民党総裁選出馬を決断する時、菅氏は3時間をかけて説得したといいます。「ようやく、首をタテに振ってくれた。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思い出すであろう」と述べています。


そうして、2012年12月16日の衆議院選挙で自民党が大勝し、12月26日、第96代の首相に就任し第二次安倍内閣が誕生しました。以後、第四次内閣の2020年9月16日まで、7年9ヵ月の長期政権がつづきました。即ち、連続在日日数2799日、首相通算在職日数3188日という歴代最長の記録です。そして外交、安保、経済の各方面に確固たる業績を残し、文字通り戦後の総決算ともいうべき大仕事を軌道に乗せました。


安倍氏は、長期政権が実現できた最大の理由は、よき取り巻きに恵まれたり、6回の国政選挙で勝利したこともありますが、なんと言っても「2006年9月から1年間、第一次内閣で失敗を経験したことだ」と述べました(P377)。


正に「再チャレンジ」という安倍氏の政策は、一度死んで復活した人間の実感が込められた政策であり、 この回顧録は、さしづめ第一次政権で徹底的に叩きのめされ、復活した政治家の魂の言葉にも聞こえます。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」(ヤコブ1.12)とある通りです。


野田佳彦元総理は国葬の追悼で、「あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです」と語りました。


<安全保障関連法の成立>


安倍首相は、2013年12月6日、「特定秘密保護法」を国会での激しい攻防の末に成立させ、2015年9月19日 、左翼や野党の大反対の中で、安全保障関連法を成立させました。これは「集団的自衛権」の行使を認める内容で、戦後の安保政策は大きく転換し、今後の日本の安全保障に取って大きな布石になったものです。これは、1960年、岸政権の 日米安保条約の改定における激しい安保闘争を彷彿させる中での成立でした。


この集団的自衛権の限定行使を柱とした安全保証関連法を成立させるに当たって、「集団的自衛権が憲法上認められる」との憲法解釈を変更することが必須であり、2014年7月、憲法解釈の変更を閣議決定しましたが、本書には、ここに至る経緯が述べられていました。


この憲法解釈の変更について、高村正彦自民党副総裁が、2014年3月、党本部で講演し、これが憲法解釈変更の基本になったといいます(P134)。


高村氏は、1959年の砂川事件判決「必要な自衛のための措置を取り得ることは、国家固有の権能の行使として当然」を引き合いに出し、「集団的自衛権も、日本の存立を全うするための措置なら、憲法上認められる」という説明をしました。そして、憲法論故に国民の安全が害されることは、「主権者たる国民を守るために憲法を制定するという立憲主義の根幹に対する背理だ」と主張しました(P136)。


こうして、頭の固い法制局を制して、「我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」など集団的自衛権行使のための新3要件が決まりました。


<海外首脳たちのこと>


「地球儀を俯瞰する外交」は安倍外交の核心であり、歴代日本の首相の中でも、安倍氏ほど世界の首脳から信頼され、そして頼りにされた首相はいませんでした。回顧録には、首相在任期間中、98ヵ国、196地域の世界の首脳陣と、公私に渡って忌憚なく付き合った人間でしか知り得ない人物評が描かれています。


トランプ大統領との電話会談は、オバマ大統領が要件のみの15分~30分くらいであったのに比して、1時間以上に渡り、しかも仕事の話しは簡単に済ませ、後は長々とゴルフの話しや他国の首脳の批判だったりしたと言うのです(本書P180)。


安倍氏は、トランプの「アメリカ・ファースト」(米国第一主義)に理解を示しつつ、西側世界のリーダーとしての役割、即ち「国際社会の安全は米国の存在で保たれている」と繰り返し説きました(P179)。また、「トランプ大統領は軍事行動に消極的な人物」だと北朝鮮が知ったら圧力が利かなくなるため、トランプは「本性を隠しておこうと必死だった」と振り返りました。


このように忌憚なく何でも話せる米国大統領との関係は、如何に日本の国益に寄与するものであったか、正に余人をもって変えられない人材でした。


一方、今や米国の最大の競争相手とも黙される中国の習金平国家主席との会話でも、安倍氏には意外な本音を吐露しています、


習近平は「自分がもし米国に生まれていたら、米国の共産党には入らないだろう。民主党か共和党に入党する」と語ったといいます。安倍氏は習近平を、思想信条ではなく、政治権力を掌握するために共産党に入った「強烈なリアリストである」と評しました(P187)。


そして、計27回会談したロシアのプーチンについては、「彼の理想はロシア帝国の復活」にあるとした上、プーチンはペレストロイカ(改革解放)やグラスノスチ(情報公開)を推進し、ソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを「失格者」と捉えていたというのです(P184)。


従ってプーチンロシアによるクリミア併合は、強いロシアの復権の象徴だというわけです。バルト3国のある大統領は安倍氏に次のように言ったといいます。


「ロシアにウクライナを諦めろと言っても、到底無理だ。ウクライナはロシアの子宮みたいなものだ。クリミア半島を手始めに、これからどんどんウクライナの領土を侵食しようとするだろう」(P185)


なお、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領について、彼女は国際会議の場でも、他の首脳との打ち解けた振る舞いもなく、一人黙って座っていたとし、「彼女はなんとなく薄幸な感じがした。父母を殺されたという生い立ちがそうさせていたのかもしれない」と述懐しました(P172)。


その他、ドイツのメルケルや英国の首相についても、安倍氏ならではの回想を語っています。


【安倍晋三、永遠なれ!】


安倍氏の政治家としての優れた資質を3つ挙げるとすれば、理想主義的な保守思想、政治的リアリズム(現実主義)、優れたバランス感覚を挙げることができるでしょう。


即ち、第一に岸信介以来の揺るぎない保守の思想的信念があることです。この信念故に機密保護や安全保障法案を成立させ、西側諸国、とりわけアメリカとの信頼関係を更に強固なものにしました。


次に、ただやみくもに信念を貫くだけではなく、「リアリスト」として、現実政治に柔軟に対応しました。それらは、「労働者の賃金値上げ」要請に象徴される社会主義とも思える政策に表れています。岸信介も強固な保守思想の持ち主でしたが、「国民皆保険制度」を確立するなど、リアリストとしての一面を持っていました。


そして安倍氏は、省庁の官僚的な杓子定規を嫌いました。最終的な責任は行政府の長たる自らにあることを強く意識し、大胆で現実的な決断を優先しました。特に財務省の増税による財政再建方針は、大胆な金融緩和、機動的な財政出動、成長戦略というアベノミクス政策とは真逆であり、財務省から安倍降ろしを画策されたと述懐しました(P311)。いわゆるモリカケ問題にも財務省の影が排除できないとさえ語っています。


第三には、優れたバランス感覚です。鳩から鷹までいる自民党内の力関係をきめ細かく配慮し、党内のバランスを計りました。また、外交においても、西側だけでなく、中露やインドなどにも配慮し、国際社会のバランスを取りました。


これらの資質は、努力して身に付けた政治的資質でもありますが、それ以上に、やはり天性の賜物というべきものと言う他ありません。そしてこう言った資質に加えて、安倍氏には、温厚かつ毅然とした、誰をも包み込む人間性がありました。祖父から毅然とした思想、父晋太郎から人柄、母から愛情を受け継いだ、ある意味で岸家三代の結実と言えるでしょう。母洋子さんの「晋三は運命の子」という言葉がこれらを象徴しています。


安倍晋三元首相は、「豊かな67年の人生であった」(安倍昭恵夫人県民葬挨拶)、「政治家として悔いなく逝かれた」(青山繁晴議員)と言われているように、余人をもって代えがたい仕事をなし、颯爽と旅立たれました。


「安倍晋三、永遠なれ!」、そして願わくば日本とUCの守護聖人とならんことを!(了)




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