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既にヨルダン川は渡られた - UCの受難に思う

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 2 日前
  • 読了時間: 8分

更新日:1 日前

○徒然日誌(令和8年1月21日)  既にヨルダン川は渡られたーUCの受難に思う

 

ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ18.2~30)

 

プロローグ

 

世界は風雲急を告げている。新年早々、ベネズエラのマドゥロ大統領が米軍に拘束され、イランではハメネイ独裁政治による経済危機を発端に全国で暴動が起こり、革命防衛隊の弾圧で数千人もの死者を出している。日本では、高市首相が解散総選挙を決断し不退転の決意を表明した(1月23日解散、27日公示、2月8日投開票)。そして年度内(3月)にはUC解散裁判の高裁判断が出る。

 

【中道改革連合の虚実】

 

驚くべきことに、総選挙で壊滅的打撃が喧伝されている立憲民主党と、自公連立を自ら解消した公明党が新党「中道改革連合」を結成した。綱領では「生活者ファースト」を掲げ、そのうえで、政策面では持続可能な経済成長や、現実的な外交・防衛政策と憲法改正論議の深化など5つの柱を掲げた。

 

公明党は中道結集の旗印として、①新たな社会保障モデルの構築、②包摂社会の実現(多文化共生、選択的夫婦別姓容認、LGBT推進)、③1人当たり国内総生産(GDP)の倍増、④現実的な外交・防衛政策(集団的自衛権合憲、原発容認、憲法改正)、⑤政治改革の断行と選挙制度改革の実現、を掲げているが、立憲はこれを丸呑みするという。まさに公明党主導の野合である。

 

公明党がこだわる「中道」とは何か、これが問題になる。「中道」とは、もともと仏教用語で、快楽(快楽主義)と苦行(禁欲主義)という両極端を避ける釈尊の思想である。「縁起・空」の思想と深く結びつき、八正道の教えに示されるバランスの取れた、(だが、単なる中間ではない)自由な生き方である。

 

故池田大作名誉会長は、「中道政治は、対峙する二つの勢力の中間や、両極端の真ん中をいくという意味ではありません。仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく、人間性尊重、慈悲の政治ということになります」(『新・人間革命』聖教新聞)と述べている。公明も党綱領に「中道主義」を掲げており、「中道政治とは、あるべき道、もっと言えば根本的価値を見据え、基軸とするものであります」という。昨年10月の政権離脱後も、原点回帰とばかりに「中道勢力の結集」を呼び掛けた。

 

つまり、中道とは宗教用語の政治転用であり、「中道改革連合」は公明党の理念そのもの、ひいては創価学会の理念そのものと言え、立憲民主党は「民主」の用語を捨てて公明党に包摂されたと言われてても仕方がない。野田佳彦代表は「右にも左にも傾かず、人間の尊厳を重視する政治」と語っているが、政治的には親中左派と言っても間違いではない。原理観から見れば善悪が分別されない中間状態、日本的文脈では、空気を読んで和を乱さない、熱くも冷たくもない、決断を先送りする、ということになりかねない。

 

そして世論は手厳しい。自民党は中道改革連合を「選挙互助会」と揶揄し、ジャーナリストの加賀孝英氏は「中国の属国政党の野合」と評し、作家の門田隆将氏は「媚中政党に中国の指令でもあったのか」と疑義を呈し、元駐オーストラリア特命全権大使の山上信吾氏は、「生き残りをかけた党利党略の弱者連合」とした。

 

そして山上氏は「公明党は立憲と組むことで、2度と政権与党に戻ることは出来なくなったが、この事が最大のメリットである」という。即ち、親中の公明党は、今まで安保法制など与党案を骨抜きにしてきた経緯があるが、今回公明党は「ルビコン川を渡り、最早後戻り出来なくなった」というのである。そして自民党は公明党という足かせから解放されたという。

 

【ヨルダン川は渡られたー献身の意味】

 

実は私たち信徒も、逆な意味で賽は投げられ、ルビコン川を渡ったのである。聖書的に言えば、紅海を通り、ヨルダン川は渡られたのであり、善悪が分立され最早エジプトにも荒野にも後戻りは出来ない。

 

「賽は投げられ、ルビコン川は渡られた」とは古代ローマの将軍ユリウス・カエサルが、内戦を決意し(死を覚悟して)、兵を率いてイタリア本土へ進軍する際に発したとされる言葉である。また「ヨルダン川は渡られた」とはモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル民族が、約束の地カナンに向かうため荒野と決別したことを意味し、どちらも「後戻りはできない」ことを意味している。

 

<ヨルダン川は渡られたとは>

 

「ヨルダン川は渡られた」という言葉は、聖書的・神学的に象徴性の強い表現である。

 

第一には 旧約聖書の歴史的事実(ヨシュア記3章~4章)として、イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った出来事で、荒野の放浪の終わり、神の約束への道への決断を意味する。第二には 新約的・キリスト教的象徴であり、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた(マタイ3.15)ことに象徴されるように、この出来事は、神の子イエスが公生涯を開始し、救い主としての使命を果たすための始まりを告げるものだった。バプテスマは罪の赦しと新しい命の始まりを象徴しており、ヨルダン川はその転換点(境界)である。第三には、決断はすでに行われ、もはや後戻りはできない、一線を越え覚悟は定まったという一般的意味でもある。


ヨルダン川を渡る契約の箱 (ジェームズ・テェソ画)


<献身とはヨルダン川を渡ったこと>

 

まさに献身とはヨルダン川を渡ったことであり、善悪が分別されたことである。敬虔なクリスチャンや成約信徒は、多かれ少なかれ人生の重要なものを犠牲にして(捨てて)神の道に従った。筆者も20才代の花盛りに、世俗的野心、学問、親兄妹、果ては愛までも捨てて(捨てさせられて)神とキリストに献身し、人生というヨルダン川を渡ったのである(渡ることを余儀なくされた)。今振り返ると、まさに思いもよらない人生の旅路だった。イエスの弟子たちも同様で、網を捨ててイエスに従ったのである。マルコ伝には次のようにある。

 

「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」(マルコ4.18~20)

 

シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様であり、彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った(ルカ5.10~11)。「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」(マルコ10.28)とある通りである。

 

即ち、彼らは漁師としての生業、家族、生活の安定など一切を後回しにする決断をしてイエスに従ったのである。だがここで留意すべきは、イエスが神の国のために、「家、妻、兄弟、両親、子を捨てよ」(ルカ18.29)と言われたのは、文字通り家族を捨てることではなく、「何よりも神を優先しなさい」という教訓であり、「神より大切なものがあるなら、それは偶像である」 という価値転換の教えである。イエスは「ほどほどの信仰」を認めなかった。

 

更にフランチェスコ会(修道会)を創設したアッシジの聖フランチェスコ(1182年~1226年)は、財産、社会的地位、家族的血縁的保護、将来設計、自己実現など「自己の人生の所有権」そのものを返還して神に献身した。またマザー・テレサは修道院の安定した地位を捨てて、カルカッタの最も貧しい人の中に飛び込んでいった。

 

このように聖者は何よりも神を優先したのである。本来、献身は神とキリストへの献身であり、人ではなく神への献身であって組織や制度への献身ではない。一切を捨てて献身した聖者たちに共通するのは、「何を捨てたか」ではなく「誰に人生を委ねたか」であり、信仰による存在論的転換であり福音の具現だった。こうしてヨルダン川は永遠に渡られたのである。

 

さて、本年年度内(3月)にはUC解散裁判の高裁判断が出る。筆者は一連のUC叩きや解散請求の試練の霊的意味について、①原理と教祖を証すよい機会である、②福音宣教のよい機会である、③UCと信徒が生まれ変わるよい機会である、と発展的に解釈し、神の摂理の範囲内にあることを繰り返し述べてきた(→徒然日誌令和7年3月19日  解散請求事件の霊的意味)。だが如何なる結果になろうとも、ヨルダン川を渡った私たちには動揺も後悔もなく、そして最早引き返せない。

 

聖書に「うしろをふりかえって見てはならない」(創世記19.17)とあり、また「先ず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6.33 )とある通り( → https://x.gd/tcafs )、既に賽は投げられ、ルビコン川は渡られたのである。退路を断った私たちに最早後退も恐れもない。そしてUCの受難に際し、今私たちに最も必要なことは、もう一度ヨルダン川を渡り、歴史を支配される父母なる神の前に「再献身」することに他ならない。

 

以上、「既にヨルダン川は渡られたーUCの受難に思う」と題して、既にヨルダン川を渡った私たちには、振り返る過去などないことを確認した。神・神の言葉・キリストという人生最大の財産を奉じて迷いなく前進したい。(了)

 

                           牧師・宣教師.  吉田宏



上段絵画:ルビコン川を渡るユリウス・カエサル (タンクレディ・スカルペリ画)

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​ユニバーサル福音教会牧師
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   吉田 宏

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