イザヤ書注解 - 旧約最大の預言書
- 2021年8月11日
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更新日:5月24日
🔷聖書の知識98-イザヤ書注解 ー 旧約最大の預言書
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である(イザヤ11.1~2)
プロローグ
イザヤ書は、旧約聖書の中でも最も壮大で、後のユダヤ教・キリスト教に大きな影響を与えた預言書です。「裁き」と「救い」、「神の聖性」と「慰め」が強く結びついているのが特徴で、特にキリスト教では、「メシア預言の書」として重視され、イエスの生涯と結び付けて読まれてきました。
イザヤという名前は、「ヤハウェは救い」という意味で、イザヤ書は、三大預言書(イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書)の一つで、全60巻ある旧約聖書中最大の預言書と言われています。イザヤは前742年、南ユダ10代王ウジア(在位 前783年頃~前742年頃)の最後の年に神に召されました。イザヤ書1章1節に「ユダの王、ウジア、ヨタム、アハズ、ヒゼキア(前740年~前687年生れ)の治世のことである」と記されています。従ってバビロン捕囚以前の預言者です。

【イザヤ書概観】
当時のユダ王国は、国内の腐敗、貧富の格差、偶像崇拝、外交不安、大国アッシリアの脅威に直面していました。イザヤはこうした状況の中で、神を捨てた国家は滅びると厳しく告げる一方、しかし神は最後には救いを与えるという希望も語りました。
イザヤ書の大きなテーマは、第一に神の聖性です。イザヤ書の核心は、「聖なる神」の前で人間は罪深いというメッセージで、有名なのが第6章の召命場面です。セラフィムが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」(6.3)と神を賛美します。これは後のキリスト教礼拝にも大きく影響しました。
第二が裁きと滅亡の警告です。イザヤは、王、支配者、富裕層、宗教指導者、民衆、すべての腐敗を批判しました。特に、形式的な礼拝だけして正義を行わないことを強く断罪します。これは、アモスやミカなど他の預言者とも共通します。第三に残りの者(レムナント)という概念です。国は完全滅亡では終わらず、裁きの後にも、「残りの者」が救われると語ります。この思想は、後のユダヤ教やキリスト教の「救済史」の核になります。
第四がメシア預言です。イザヤ書が特に有名なのは、未来の理想的王についての預言であり、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」(9.6)、「エッサイの根から芽が出る」(11.1)、「苦難の僕」(53章)などは、キリスト教ではイエス・キリストの預言として読みます。
イザヤ書は66章からなりますが、 高等批評によれば、1~39章を第一イザヤ、40~55章を第二イザヤ、56章以下を第三イザヤとして分けています。従って、1章~39章のみを第6章で召命を受けた前8世紀のイザヤの書とし、 40章~55章は捕囚期末期の無名の預言者によって書かれた「第2イザヤ書」と呼ばれ、56章~66章は捕囚後の無名の預言者によって書かれた「第3イザヤ書」と呼ばれていて、これが通説になっています。
何故、こういう区分をするかと言えば、 ① 時代背景が違うこと(前半の1章〜39章は、アッシリアの脅威に直面するイザヤ本人の時代が背景だが、40章以降では、バビロン捕囚、エルサレム陥落後が前提になっていて、約150年以上後の状況である)、② 文体・思想が変わる(前半は比較的、裁き、警告、緊張感が強いが、後半は、慰め、希望、回復が中心)、③ ペルシャ王キュロスが実名で出ること(イザヤ書44.28、45.1で、キュロス2世が神の器として登場する。キュロスは実際にはイザヤより後の時代の人物)などが指摘されます。
しかしこれらの複数イザヤ説にたいして、中川健一牧師ら保守的な学者は、複数イザヤ説は自由主義神学者らの主張で、根拠が乏しいとして退けています。しかし、今回筆者は、複数イザヤ説に立って考察いたします。
第1イザヤ書(1章~39章)は、前8世紀頃のイスラエルに対して、宗教的・社会的・政治的腐敗を糾弾し、王にたいしては、政治的術策に頼らずひたすら神を信ぜよとした警告が中心であります。即ち、バビロン捕囚前の南ユダ王国に対しての「裁きと警告」の預言。
第2イザヤ書( 40章~55章)は、迫害に苦しむ民への慰労の言葉と解放が述べられ、 救いへの希望が語られています。 バビロン捕囚となる将来の人々への「希望と救いと慰め」の預言です。また唯一の神の概念が確立しました。
第3イザヤ書(56章~66章)は、捕囚帰国後の同胞への励ましと「新天地の到来」が表明されています。
このように、イザヤ書は、堕落に対する聖なる神の裁きと罪の悔い改めの叫び、イスラエルの復興と愛なる神の救いや新天地へのいざない、がテーマになっています。そしてイザヤ書は、メシヤによる救いに焦点を合わせている預言書でもあります。イザヤ書9章5節は「ひとりのみどりごが生まれた」で始まるメシア預言だと言われ、メシヤはやがて正義と公義によって統治し、その統治によって平和と安全をイスラエルにもたらし(イザヤ11.6~9)、メシヤを通してイスラエルは全世界の光となり、メシヤの地上での新天地(イザヤ65章~66章)を行き先としているというのです。
<第一イザヤ>
イザヤは紀元前8世紀後半、南王国ユダで活動しました。時代的には北王国イスラエル滅亡(前722年)、アッシリア帝国の膨張、小国ユダの危機という激動期です。イザヤはエルサレムの上流階級・宮廷に近い人物だった可能性が高いと言われます。なぜなら、王に直接進言し、国際政治に詳しく、洗練された文体が見られるからです。
「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」(イザヤ1.1)
第一イザヤは、紀元前8世紀の後半から7世紀の前半にかけて、即ち、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、エルサレムで活動した預言者イザヤのことばを中心として編集されています。イザヤ書によればイザヤは結婚していて、その妻(ツィポラ)は女預言者と呼ばれていました。息子が2人おり、それぞれに神の啓示により象徴的な名前をつけました(イザヤ8.3)。
預言者イザヤの召命は6章で書かれています。南朝の王ウジヤが死んだ年(前742年)に神から召命を受け、40年間以上、預言者として活動しました。神の聖を強調する「神の聖の預言者」と呼ばれ、旧約中、最大の預言者とされていますが、 最後はのこぎりで挽き殺されて殉教したと言われています。
「わたしはまた主の言われる声を聞いた『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』」(イザヤ6.8)
イザヤ預言書(第一イザヤ)は、自国民への審判告知(1~12章)、諸国民への審判告知(13~23章)、救済預言(24~35章)という構成をなしています。
「ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった」(イザヤ1.4)
イザヤの時代はシリヤやアッシリアからの攻撃、北イスラエルの滅亡(前721年)など、戦乱の世であり、エジプトなど他国により頼む王に、頼むべきは神であることを訴えました。そしてイザヤは、ユダの不正を糾弾し、バビロンへの捕囚を警告しました。
「見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない」
一方、イスラエルを救うメシアの到来をも語っています。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(9.6~7)
【第二イザヤ】
第二イザヤは、前539年ペルシアによって新バビロニア王国が倒され、ユダ王国の捕囚民がバビロンからユダに帰還を許される時期に、無名の預言者によって書かれたと言われています。 第二イザヤは慰めと救いの希望を語りました。バビロンはクロスの手に落ち、そしてシオンは回復すると予告し、イスラエルの贖い(復興)を語りました。
「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」(40.1~2)
「またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』と言い、エルサレムについては、『ふたたび建てられる』と言い、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言う」(44.28)
そして無名の第二イザヤにおいて、何度も「わたしのほかに神はいない」と書かれ、拝一神教の民族神ヤハウェは、超民族的、超国家的な世界神、唯一神へと引き上げられました。ここにおいて真正な「イスラエル一神教」が確立したとされ、その思想の深さにおいて預言者の最高峰に立つと言われています。
「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」(45.4~7)
「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。だれかわたしに等しい者があるか。」(44.6)
また、53章の「苦難の僕」の歌は、キリスト教ではメシア預言と解されています。即ち、『第二イザヤ書』で良く知られているのは、「主の僕」(52.13~53.12)に関する箇所で、「僕の歌」と呼ばれています。
「しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(53.5~7)
「僕」が誰なのかという問題については論争がありますが、苦難に意味を見出した極めて重要な箇所であり、「僕」の代理贖罪的な死は、イエス・キリストを預言したものとしてキリスト教において重視されています。しかし、イザヤ書には、来るべきメシアが、「栄光の主」であるという預言(イザヤ7.14、9.7)と、上記に見る「苦難の僕」と見る相反する二つのメシア預言があり、これをどう解釈すべきかを巡り議論があります。
保守的な牧師・神学者らは、苦難の僕は「初臨のキリスト」を象徴し、栄光の主は「再臨」を指すと解釈しています。 初臨のイエス・キリストは蔑まれて拒まれ(ルカ13.34)、神に捨てられ( マタイ27.46)、そして私達の罪のために刺し通された(ヨハネ19.34)というのです。つまり、イエスは人類の罪を贖うために、十字架で死ぬために来られたというわけです。
しかし別な見解によれば(原理的見解)、イスラエルが、来るべきイエスをキリストとして受け入れ奉戴した場合は、栄光の主となって神の国をもたらすが、不信仰により否定した場合は苦難の僕とならざるを得ないという「預言の二面性」を表していると解釈しています。いわゆる人間の責任分担の思想です。つまり、イエスの十字架の死は、キリスト本来の姿ではなく、不信仰の結果もたらされた二次摂理であると言うのです。
<第三イザヤ>
第三イザヤは、第二イザヤの弟子が帰還後の困難な時期に語った預言を集めたもので、前6世紀末に書かれたと思われます。60章以降で、復興するイスラエル、新天地への希望が語られています。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。(65.17~18)
【イザヤ書の著名聖句】
以上に見てきたように、イザヤ書 は、裁き、苦難、救い、希望、メシア、神の超越、平和
を壮大な詩として語る書で、新約聖書の中で詩篇に続いて最も多く引用された書です。以下、特に示唆に富む著名な聖句を記しておきます。
記
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1.18)⇒罪の贖いが詩的に表現されている。
「主の教えはシオンから。み言葉はエルサレムから出る。主は国の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国にむかって剣を上げず、もはや戦いのことを学ばない」(イザヤ2.5~4)⇒この聖句は国連広場に刻まれている。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は地をすべて覆う」(イザヤ6.3)
⇒これはイザヤの召命場面で、神の超越性、人間の罪深さ、預言者としての召命を象徴。後にキリスト教礼拝の 「サンクトゥス(Sanctus)」にもなった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7.14)⇒キリストの誕生預言、インマヌエル(神は我らと共に)預言。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。その名は霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」(イザヤ9.5)⇒平和の王のメシア預言
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11.1~2)⇒主を知る知識と主を恐れる霊としてのメシア。
「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる」(イザヤ11.6 ~8)⇒暴力と敵対が終わり、 終末的平和の象徴。
「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ11.9)⇒福音のリバイバルを表現。
「主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」(イザヤ11.12)⇒ディアスポラの民の再建。
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(イザヤ14.12~14)⇒天使の堕落と傲慢。
「わたしが計ることは必ず成り、わたしが定めることは必ず実現する」(イザヤ14.24)⇒全能の神。
「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」(イザヤ35.5~6)⇒イスラエルの回復。
「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」(イザヤ40.1~2)⇒第二イザヤ。イスラエルの癒し。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われらの神の言葉は永遠に変わることはない」(イザヤ40.8)⇒人間のはかなさと、 神の言葉の永遠性を対比。
「主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」(イザヤ40.28)⇒天地創造の神、全知全能の神を謳う。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40.31)⇒苦難の中の希望の聖句として有名。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」(イザヤ41.10)⇒共にいる神。
「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。(イザヤ42.2~3)⇒キリストの慈愛。
「恐れるな。わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのもの」(イザヤ43.1)⇒慰め深く、力強い聖句。
「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす」(イザヤ43.18~19)⇒振り返ってはならない。
「主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、『わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない』」(イザヤ44.6)⇒一神教宣言。
「わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ46.9~10)⇒神は全能であり、はただ一人であるという一神教宣言。
「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。彼は私たちの背きのために傷つけられた」(イザヤ53.5)⇒苦難の僕(しもべ)の歌、十字架のキリスト預言。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない」(イザヤ65.17)→新天新地、終末的希望の頂点。
以上、イザヤ書を見てきました。イザヤ書は新約聖書では詩篇に次いで多く引用されており、文字通り預言書の最高峰に立っていると言えるでしょう。次回は涙の預言者、エレミヤ書を解説いたします、(了)
上記絵画*預言者イザヤ(アントニオ・バレストラ画)



