ゼカリヤ書 注解
更新日:9月6日
🔷聖書の知識113-ゼカリア書注解
権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって(ゼカリア4.6)
プロローグ
『ゼカリヤ書』はユダヤ教では「後の預言者」、キリスト教では預言書(12小預言書)に分類され、14章からなり、小預言書の内では、比較的大部にわたります。 ゼカリヤ書は、特に、「神殿再建」「イスラエルの回復」「メシア」「終末・神の国」が一つにつながって描かれています。
ゼカリヤがイスラエルで活動を開始したのは、ハガイと同じダリヨスの第二年の第八の月(前520年)で、ゼカリアとは「ヤハウェは憶えたもう」という意味です。 即ち、舞台は、バビロン捕囚から帰還した後の紀元前520年頃で、ユダの人々はエルサレムに帰ってきましたが、破壊された神殿の再建がなかなか進みませんでした。そこで預言者ハガイとゼカリヤが立ち上がり、人々を励まして神殿再建を促しました(前516年第二神殿完成)。当時の指導者は、政治的指導者・総督のゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイとゼカリヤという三者でした。
バビロン捕囚の約70年間、捕囚の地では、ダニエルとエゼキエルが活躍しましたが、イスラエルの地ではハガイとゼカリヤが出るまで預言者の活動はありませんでした。 ゼカリヤ書は、捕囚期後預言書のひとつであり、メシア預言が散見され、新約聖書には、本書への引用が41回あり、旧約聖書の中で最もキリスト論的な書であるとわれています。またゼカリヤ書のキーワードは、「万軍の主」で、52回も出てきます。なお捕囚後の預言者は、ハガイ、ゼカリヤ、マラキの3人です。
【概観】
この時代のイスラエルの民の霊的状態ですが、彼らは、バビロン捕囚の試練と教訓から、偶像礼拝からは離れていましたが、それでも、生活苦もあり民の霊的状態は非常に貧しいものでした。そういう霊的背景の中で、ゼカリヤは民を励ますメッセージを語りました。
1章から6章には、8つの幻の話が出てきます。 7章から8章では幕あいともいう章で、断食に関する質問があります。 9章から14章では、2つの託宣がなされ、諸国民への裁きとメシアの来臨(9~11章)、神の民の回復(12~14章)が預言されます。 普通の預言書のように、「主はこう言われる」と直接語るだけではなく、象徴的な幻を見せ、その意味を御使いが説明するという形式になっています。この点で、ゼカリヤ書は後のダニエル書やヨハネの黙示録にも通じる、黙示文学的な性格を持っています。
<八つの幻>
先ず悔い改めを促す呼びかけがあり、神に還れとの呼び掛けがあり、その後、イスラエルの再建が黙示文学の形式で預言されます。(1.1~6.15)
ゼカリヤは、一晩で8つの幻を見ます。即ち、赤い馬に乗った者、4本の角、測り縄を持った若者、大祭司ヨシュアの礼服、七つの金の燭台、飛んで行く巻き物、邪悪という名の女、四両の戦車、の8つの幻です。
七つの金の燭台と二本のオリーブの木(右は木版画)
これは、神殿建設を躊躇している民を励ますための幻であり、万軍の主の家である神殿の再建にこそイスラエルの民の平和と繁栄の種があると説いて、事業の再開を促しました。特にゼカリヤ書4章で金の燭台と二本のオリーブの木の幻を見たゼカリヤに対して、「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(4.6)とあり、これはゼカリヤ書の精神を非常によく表し、神殿再建は、人間の政治的・軍事的な力によって実現するのではなく、神の霊によって実現するということです。
ゼカリヤ書には、非常に興味深いメシア預言があり、3章8節では、「わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる」と語られ、6章12節では、「見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝」とあります。そして、この「若枝」が主の神殿を建て、王座に着くと預言されます。8つの幻で象徴される意味は、a.エルサレムは解放され、清められ、神殿が再建されること、b.エルサレムは、平和と繁栄を回復する町となることであり、6章の最後で、大祭司ヨシュアの頭に王冠をかぶらせ祝福しました。
<断食に関する質問>( 7 ~ 8 章)
ベテルの住民たちがエルサレムに上って来て、エルサレムの崩壊を記念する断食を、今後とも継続すべきかどうかを質問しました。(第5の月の断食)
つまり、エルサレムが再建されるなら、なぜ断食を続ける必要があるのかとの質問です。
ゼカリヤは次のように回答しました。
断食は、心から出て来るものでなければならない、再建されたエルサレムでは、断食(fast)は宴会(feast)に変えられる、と。
「万軍の主は、こう仰せられる、断食とは、ユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝の時となる」(8.19)
<メシヤ預言、エルサレムの回復>
次に、諸国民に対する裁き、メシアに関する預言(9~11章)、そして神の民の回復が(12~14)、預言されます。 ゼカリヤ書の中でも、キリスト教徒に特に有名なのが9章9節です。
「見よ、あなたの王があなたのところに来る。彼は正しい者であって、救いを得、柔和で、ろばに乗って来る」
これは新約聖書で、イエスがエルサレムにろばに乗って入城した場面(マタイ21.1〜11) と結びつけられています。まりキリスト教的に読むと、ゼカリヤ書9章 はイエスのエルサレム入城という非常に重要なつながりがあります。
そしてエルサレムの救いと浄化、回復が告げられます。
「その日には、わたしはエルサレムに攻めて来る国民を、ことごとく滅ぼそうと努める。わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(12.9~10)
この「刺し貫いた者」(12.10)は、キリスト教では、これを十字架上のイエスとの関連で理解してきました。
そしてエルサレムが攻撃を受けるが、主なる神は侵略者たちと戦われ、王である主なる神が立たれると預言されます。 そこでは、エルサレム → 諸国民 → 戦い → 主の到来 → 神の王国という壮大な終末的展望が描かれます。最後には、「主は全地の王となられる」という世
界的な神の支配が宣言されます。
「見よ、主の日が来る。その日には彼(主)の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。......主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」(14.4~9)
以上、ゼカリヤ書は、「絶望の中にいる帰還民に、神はまだイスラエルを捨ててはいない、そして最後にはメシアを通して神の国を完成される、と示した預言書」と言え、ゼカリヤもまた、多くの預言者がそうであったように、先ず悔い改めて神に還ることを迫り、神の裁きを予告し、そしてイスラエルの回復の希望を語って民を励ましました。即ち、悔い改め、審判、回復です。
次回は旧約聖書最後の預言書であるマラキ書の解説をいたします。(了)




