top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

検証-三島由紀夫の「自決」の意味 三島由紀夫と執行草舟の接点と死生観

  • 15 時間前
  • 読了時間: 15分

🔷徒然日誌(令和8年6月3日)  検証-三島由紀夫の「自決」の意味ー三島由紀夫と執行草舟の接点と死生観

 

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。(マタイ16章25節)

 

プロローグー死して生きる死生観

 

人間にとって死生観の確立は、より良く(美しく)生き、より良く(美しく)死ぬために不可欠である。最近、執行草舟著『永遠の三島由紀夫』(実業之日本社)を読んで、一層、その思いを強くした。

 

イエス・キリストは死生観について、「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、 失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ16.25)と言われ、また、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ 12.24)と語られた。死して生きる、これがイエスの逆説の死生観である。

 

また文鮮明先生は『御旨と世界』の中で、 人間の死生観について、「先生が歴史のすべての秘密を発見して、歴史というものを改めて見てみた時に『死なんとする者は生き、生きんとするものは死なん』と言われたイエス様のみ言を、骨髄にまで染みて痛感しました」と述べられ、「一度ならず何度も自分の命を失うことが、勝利への道なのです。命を断念して、勝利的に路程を越えていった時、突如として宇宙は一変して、宇宙の全生命が自分を守っていることを感知することができるでしょう」と語られている。(『御旨と世界』光言社 P605)

 

更に、1998年12月19日、アメリカのワシントン・タイムズ社で開催された「世界平和超宗教超国家連合」の大会で、「死は根源の世界への回帰、人類始祖の根源の世界へと帰るという意味です」と言われ、「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きんという聖書で言う死とは、サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです」と語られた。

 

一方、佐賀鍋島藩藩士山本常朝著『葉隠』には、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死ぬべし」(聞書第一)とある。『葉隠』を座右の書とした三島由紀夫は、「葉隠こそは、わたしの文学の母胎であり、永遠の活力の供給源である」(三島由紀夫著『葉隠入門』新潮文庫P15)と述べ、「キリスト教がローマで発展したのは、崇高な目標のために死ぬという渇望があったからである」と語っている。(『葉隠入門』P26)

 

同様に『葉隠』を座右の書とする執行草舟氏は、三島由紀夫と自分が深い関係を築けたのは葉隠が絆となったと告白した。自己の命を崇高なもののために捧げるという葉隠の「覚悟の思想」に完全に心酔し、三島由紀夫と最初に出会った16才の時には、「葉隠の思想だけで生き、その思想のためだけに死のうとすでに自己の死生観を決めていた」と明言している(執行草舟著『永遠の三島由紀夫』実業之日本社P24)。

 

ちなみに『葉隠 』は、江戸時代中期に佐賀藩士山本常朝(やまもと じょうちょう)の口述を、後輩藩士の 田代陣基(たしろ つらもと)が書き留めた書物だが、全11巻からなり、主君への忠義、武士の心得と死生観、人間関係の在り方や作法などについての随想や逸話が収められている。三島由紀夫は、葉隠は逆説的な本であるとし、「葉隠を哲学書と見れば三大特色を持っている。一つは行動哲学(行動の帰結としての主君のための死)、一つは恋愛哲学(恋の究極としての忍ぶ恋ー主君への忠義という恋)、一つは生きた哲学(礼儀・誠実・勤勉を重んじるべき武士としての作法や処世訓)である」と述べている。(『葉隠入門』P36)

 

山本常朝は平和な時代の武士が官僚化し、精神を失っていくことを憂え、「武士は本来どうあるべきか」を問い続けたが、それはまた「人はいかに覚悟をもって生きるべきか」を問う人生論とも言える。三島由紀夫は『葉隠』に深く共感し、著書 『葉隠入門』 で、「葉隠の本質は死の礼賛ではなく、生を最も強く燃焼させるための思想」と解釈した。

 

『葉隠』は主君への忠義を中心とする武士道であり、『聖書』は神と隣人への愛を説いている。だが、「大いなるもののために自分を献げることで真に生きる」という思想は両書に共通している。なお執行氏は、葉隠思想は軍事利用されたこともあり、戦後否定の対象にされたが、「戦後日本社会で最も否定された生き方を先生(三島)も私も選び、武士道の精髄となる葉隠を人生の指針として選んだ人生を送っていたのです」(『永遠の三島由紀夫』P26)と述べている。

 

ちなみに執行氏は、両親が三島由紀夫と親しかったこともあり、若い時から三島と知遇を得て何度も(10回以上)、何時間も深く交流したという。著書『永遠の三島由紀夫』には、「私が三島先生の知遇を得たのは、16才のときでした。その後も19才までの約4年間に、度々交流の機会を与えて頂き、様々な文学の議論を交わさせて頂いたのです。その時期は、三島先生にとっては、1966年41才から最晩年の1970年45才に当たる4年間でした。今から思えば、先生が一直線に死に向かう、まさに最後の4年間です」(P16)とある。


実は筆者は、今まで三島由紀夫には感覚的に馴染まないものがあり興味がなかったが、執行氏の本を読んで一変し、三島由紀夫とは誰かについて強い関心を持つことになった。執行氏は16才までに全ての三島の本を読み込んでおり、葉隠を通しての「三島文学論」を大いに論じたという。そして、死後50年の時を経て封印を解き、やっと三島文学の生き証人になる決心をしたといい、それが著書『永遠の三島由紀夫』に結実した。

 

【三島由紀夫の自決ー自決という最終文学】

 

それにしても三島由紀夫の自決事件ほど衝撃的で多くの議論を呼んだ出来事はない。後述する西部邁(すすむ)も影響を受けた一人であり、三島由紀夫の研究を通じて、自裁死を以て人生の幕を閉じる決意を固めたという。

 


1970年11月25日、三島は自ら結成した民兵組織「楯の会」の青年らとともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地へ乗り込み、そこで東部方面総監を拘束し、バルコニーから隊員たちに決起を促す演説をした。 三島は自衛隊員に向けて、憲法改正(9条)と天皇を中心とする精神の復興や国家の再建を訴える演説を行い、そしてその直後、三島は割腹自決を遂げた。

 

これは単なる政治テロではなく、「文学を最後に身体で完結させる行為」だったと思われる。つまり三島は言葉だけでなく、生そのものを作品化したのである。 執行氏は著書『永遠の三島由紀夫』の中で、「三島事件は新しい天孫降臨、新しい日本の神話であり、その血を以て書いた最終文学である」(P381)と記している。

 

ところで三島由紀夫の本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)で武士の家系であり、特に三島の祖母・夏子は旧大名家や幕臣の血を引いていた。そのため三島が後年に傾倒した『葉隠』や武士道への憧憬は、単なる思想上の選択というだけでなく、祖母から受け継いだ旧武家文化への郷愁とも結びついていたと思われる。

 

武士とは死の職業であり、これら武士の家系の影響は、執行草舟氏の祖先が佐賀鍋島藩武士であったことと符合する。佐賀藩は、鍋島氏が治めた藩であり、執行氏が強く影響を受けた葉隠の著者山本常朝もまた佐賀藩の武士だった。つまり、三島にも執行氏にも武士の血(DNA)が流れているのである。

 

<自決とはーその評価>

 

確かに三島由紀夫の割腹事件の評価には賛否両論がある。危険なロマン主義で三島の死を美化すべきではなく「狂気の沙汰」という意見もあり、また戦争体験を持つ世代の中には、国家や理念のために死を賛美する思想への警戒から三島に距離を置く人もいる。

 

だが三島は「死と美」を結びつけた。そのため三島にとって「死」は単なる終わりではなく、最も美しい瞬間を永遠化する行為になり、日本の「散り際の美学」(桜・武士道)と、西洋の耽美主義が混在したものとなった。即ち、自決は思い付きの行動ではなく、生涯追求した美学の帰結でもあったというのである。 

 

特に彼は幼い頃、祖母の過保護もあり、虚弱で内向的だったが、それが逆に30才からの肉体鍛錬(ボディビル)、剣道、自衛隊体験へ向かう。三島は戦後日本の「経済至上主義・合理主義・ポピュリズム」に強い疑義を抱き、長生き、安全、快適、人権を最優先し、「命だけは守る」 「快適に生きる」 「理屈が幅を利かせる」といった社会になったことを嘆いた。そこでは、名誉、覚悟、崇高、犠牲、滅びの美学が失われると感じてこれを深く嫌悪した。即ち三島は「言葉だけの文学者」で終わることを拒否したのであり、思想と行動を一致させた「稀有な知識人・預言者」と評価してもよい。

 

確かに三島の自決は政治的成功でも社会的勝利でもなかった。しかしその衝撃は半世紀以上経った今も記憶に残り、日本人に「人は何のために生きるのか」「理念のために命を懸けることはあり得るのか」といった鋭い問いを投げかけ続けている。その意味で三島事件は、単なる自決事件というより、戦後日本の価値観に対する一つの鮮烈な「異議申し立て」として評価されると思われる。

 

<生き残ったというトラウマ>

 

ところで三島由紀夫は、戦争体験の深い「負い目」を負っていた。三島は1925年生まれで、学徒出陣世代だったが、徴兵検査時、医師の誤診(結核疑い)で兵役を免れた。同世代の多くの若者は戦死していったが、結果として自分は生き残ることになった。この体験は三島に大きな影を落とし、「死ぬべき時に死ねなかった」という罪悪感を抱え続けた。

 

三島は後年、この経験について繰り返し言及しており、自分だけが生き残ったことに複雑な感情を抱いていた。戦争で死ぬはずだった世代として生き残ってしまった感覚は三島だけでなく、同世代の青年が抱いた「生き残りの負い目」(survivor's guilt)に近い感覚があった。ノーベル文学賞候補にもなり、世界でも評価の高い三島文学の代表作を見ても、この問題は繰り返し現れる。例えば、『仮面の告白』 では、生への違和感や死への憧憬が描かれ、『憂国 』では、理念のために死を選ぶ(自決する)軍人夫妻が描かれている。

 

だが多くの研究者は、三島の自決を理解する際に、a.戦後日本への政治的・文化的異議、b.葉隠などに影響された武士道思想、c.美学としての死への憧憬、d.そして学徒出陣世代として生き残った負い目、の四つを総合的に見るべきだと考えている。即ち、三島の自決は「戦争で死ねなかった後悔」だけではなく、戦争体験、美学、思想、天皇観、そして戦後日本への違和感が複雑に絡んでいるのである。

 

奇しくも三島が傾倒した『葉隠』の著者山本常朝もまた、主君の死に際し殉死することを禁じられ、「死ぬべき時に死ねなかった」という負い目を抱えながら生きた人物だった。三島が常朝に強く共感した背景には、自らの戦争体験との深い重なりを見ていた可能性がある。

 

<なぜ『葉隠』は人を打つのか>

 

さて三島由紀夫も執行草舟氏も、共に『葉隠』に心酔したが、学者でも偉人でもない、一介の隠遁(いんとん)した武士の著書に何故これほど惹かれたのだろうか。結論から言えば、葉隠には「近代人が失った覚悟」があるからである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」に象徴される『葉隠』の本質は「死」であるが、この真意は、「死ぬ覚悟を持つことで、人は真の自由を得られる」ということである。常々三島は、執行氏に「人間は真に生きるためには、死ななければならない時がある」と言っていたという。

 

常朝は戦国武将ではなく、彼が生きたのは平和な江戸時代である。つまり、本当の戦場を知らない武士であり、しかも主君に殉死したかったが、禁止されて果たせなかった挫折感を有していた。故に『葉隠』は、戦えなかった武士の「死への憧れ」でもあり、ここに独特の切実さがある。

 

なぜ三島由紀夫が心酔したのか。三島は山本常朝をおそるべき「人生知」にあふれた人物と評し、葉隠に「命を賭けて生きる精神」を見たのである。三島にとって葉隠は、単なる封建道徳ではなく、「瞬間に全存在を賭ける思想」だった。だから彼は、行動、肉体、覚悟、名誉を重視し、そして最後は、自らの死でその思想を証明しようとしたのである。

 

また、なぜ執行草舟氏は葉隠に心酔したのだろうか。執行氏 が『葉隠』を愛する理由も三島とほぼ近いが、より宗教的である。執行氏は現代文明を、功利主義、消費主義、快楽主義、つまり、「死を忘れた文明」だと見た。『葉隠』はそれに対して、「死を覚悟せよ」「自己保身を捨てよ」と言う。執行氏にとって葉隠は「死を超えてなお貫く価値があるか」を問う書であり、ここに、キリスト教の殉教、武士道、騎士道、仏教的無我に通じるものを見たと思われる。そして何よりも執行氏は、7才の時の死に至る病を通じて、九死に一生を得た体験が大きかった。

 

なお、執行草舟氏は聖公会で洗礼と堅信礼を受けた制度教会には属さないキリスト教徒でもある。そしてロヨラやザビエルの「イエズス会」を騎士道の精髄だと高く評価し、日本における霊性文明(リバイバル)の到来を告げる聖霊が降臨すると予告している。だが三島由紀夫は、洗礼を受けたキリスト教徒ではなく、特定の宗教に深く帰依した信仰者ではない。しかし、「宗教的感覚が極めて強い人」ではあった。しかもその宗教性は、普通の信仰というより、美、死、超越、滅び、殉教、聖性と言ったものへの強烈な感受性だった。

 

つまり、一つの教団宗教の信徒というより、「宗教的美学者」に近く、戦前日本の「天皇を中心とする超越的秩序」に強い郷愁を持っていた。三島は決して偏狭な右翼でも軍国主義者でもなく、むしろ非常に知的で、美学的かつ楽天的であり、彼にとって天皇は、政治権力者ではなく「日本文化の超越的象徴」だったのである。

 

【再度、死を考える】

 

さて筆者は、「死とは何か」について深く考えさせられた「3人の著名人の死」について論じたことがある。即ち2018年1月21日に死去した西部邁(すすむ)の「自裁死」(享年78才)、2022年2月1日に死去した石原慎太郎の「納得死」(享年89才)、そして2020年7月9日に死去した朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長の「無念死」(享年64才)である。(参照-死を考える→ https://x.gd/bHz2Q )。とりわけ西部邁の自裁死については、「緊急提言-西部邁氏の自殺に思う」と題して、その経緯について詳細に論じているので参考にして欲しい。(参照→ https://x.gd/jyR0o )。

 

先ず石原慎太郎であるが、彼は哲学者のように「自分とは何か」という実存的な課題を真面目に探求し、法華経の中にそれらしき解答を見いだしたかに思われる。しかし、三島の自決に嫉妬したという石原だったが、彼はあくまでも求道者、あるいは哲学の徒であって、信仰者ではなかった。石原は、神への信仰にまでは至ることは出来なかったが、最後まで「死」を哲学し、さ迷いつつ、自己流のそれなりの「納得感」を持ってかの国に旅立ったと思われる。 

 

西部邁は、「生に伴う虚無感が常に付きまとう」と率直に告白し、「自分はかなり若いときから死について考える性癖が強かった」(著書『保守の真髄』)と述べ、東大教授を辞めて最初に書いた批評は「三島由紀夫論」だった。三島を論じることを通じて、自己の人生に「自裁をもって幕を閉じる」決意がほぼ固まったという(『虚無の構造』『死生論考』)。 西部が多摩川の橋から飛び込んだのは、単なる自殺ではなく自裁死であり、追い詰められ切る一歩手前での、自らの主体的意思で選択した思想死、いわば最後の自己主張であり、生き方の美学を、ぎりぎりのところで自裁死をもって示したと言える。 

 

西部の言う「生に伴う虚無感」は一体どこから来るのだろうか。伝道の書3章11節に「神は永遠を思う心を人に与えられる」とあるが、虚無は永遠を知りえないところに発すると筆者は思う。しかし彼は、あえて永遠を拒んだのである。「神や仏を持ち出して永遠について語るのは詐話(さわ)にすぎない」といい放ち、「超越的な真理は探究すべきものであっても、そこに到達しうることもそれを信仰することも叶わぬものである」(『保守の真髄』)と述べている。 

 

そして朴元淳の自殺は、文字通り「無念死」であった。朴氏は著名政治家であると共に、女性の人権を売り物にしてきた弁護士だっただけに、セクハラで訴えられたということ自体、致命的だったのである。無念かつ悲惨な死であった。

 

こうして著名人の印象的な死について考えるにつけ、死は人生の最後の哲学であり難問であると思わざるを得ない。三島由紀夫然り、西部邁然り、石原慎太郎然りである。彼らは万巻の書や山なす知識と会うことが出来たが、ついに神とは会えなかったし、またあえて会おうともしなかった。 

 

西部は、オルテガやバークやヤスパースなど多くの大家の古典を引用したが、ついに古典の最高峰たる聖書からの全うな引用は無かった。彼は、絶対的真理に依存することを良しとせず、聖書よりも、むしろ著名な古典に精通すること、そしてそこからの引用をもって自らの思想を明らかにすることを知識人の矜持と考えていたのかもしれない。だが多すぎる知識、高すぎる知性が、神や信仰という理屈や合理性の彼方にある世界を受け入れることの障害になったとすれば、これ以上の逆説はない。

 

死については様々な有様がある。仏教では、空海が体系化した「即身仏」と言う修行僧の死に様があり、一方、芥川龍之介、太宰治、川端康成、江藤淳などの著名作家は自殺し、三島由紀夫は自決した。如何なる因果か、中川一郎、新井将敬、松岡利勝などの名だたる政治家も自殺した。

 

武士は切腹が名誉の死であり、忠臣蔵の47人は、大石内蔵助から始めて、皆「お先に」と言って従揚として腹を切った。特攻隊は片道の燃料で大空に飛び立ち、敬虔なクリスチャンは「殉教」を信仰の証しと考えて嬉々として死に赴いた。また筆者の知人弁護士の父親は、終末医療を拒否して断食して綺麗な姿で亡くなったという。人にはそれぞれの「死に様」があり、いかに死ぬかは、いかに生きるかよりも難しい人間の最後の課題である。 

 

だが、信仰者は幸いである。死は第二の生であり、永遠の愛の懐への旅立ちであるというキリストの教えを信じる者は幸いである。神と霊界とキリストを信じ、大いなる者に身を委ねた者は幸いである。三島由紀夫も西部邁も石原慎太郎も、遂に神や永遠の生命と生きて会うことは叶わなかったが、様々な思いを抱いて死んでいったこれら賢者たちの霊に敬意を表すると共に、今この時、再臨復活を果たされんことを祈念したい。

 

以上、「検証-三島由紀夫の「自決」の意味ー三島由紀夫と執行草舟の接点と死生観」と題して死の意味を論考した。然り、「死は根源の世界への回帰」であり、「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きん」というキリストの言葉は真実である。パウロのように、「走るべき行程を走りつくし、今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(2テモテ4.7~8)とまでは言えないにしても、せめて今際の際(いまわのきわ)に「人生、悔いなし」との一言だけは残したいと心底思う。然り、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(永井隆墓碑銘、ルカ17.10)   (了)

 

                          牧師・宣教師  吉田宏

R.jpg

​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

090-3504-6430

​トップページ

​プロフィール

​記事一覧

​お問い合わせ
​コメント欄

bottom of page