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2列王記 注解

🔷聖書の知識87-2列王記注解


バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。(2列王25.8~9)


『列王記』は、もともと『サムエル記』とあわせて一つの書物だったものが、後世分割されたようです。


また列王記自体も上下にわかれていますが、これは七十人訳聖書以来の伝統で、もともと一つの書でした。またこの書物の原作者は、伝統的にエレミヤであるという説があります。


【南北分裂から北イスラエルの滅亡まで】

ソロモン王のあと、前922年に国が南北に分かれ、北イスラエルでは9王朝19王、南ユダでは1王朝20王が立ち、王国の歴史がそれぞれ展開しました。その後前722年、北イスラエルがアッシリアにより滅亡し、前586年、南ユダはバビロニアにより崩壊しました。


モーセ、ヨシュアにより約束の地カナンに導かれたイスラエル民族でしたが、2列王記においてバビロン捕囚という形で一旦幕を閉じることになりました。


バビロン捕囚(ジェームズ・ティソ画)


<南北の分裂>

前回述べましたように、ソロモンの死後、息子のレハブアムが王を継ぎましたが、レハベアム王は、民の税や労役負担の苦しみの声に耳をかさず、民は離反していきました。


即ち、北10部族はヤロブアムを立てて王とし、レハベアムのユダから分かれていきました。紀元前922年にヤロブアムを擁した10支族によって、イスラエルは北イスラエルと南ユダの南北に分裂し、その後分断が続くことになりました。


レハブアムは、ユダ王国の初代の王として、残されたユダ族、ベニヤミン族、レビ族を統治することとなります。その後2つの王国は、60年にわたって争いました。ヨシャファトがアハブの娘アタリヤと結婚したことで同盟が成立しましたが、基本的に対立していました。


1列王記12章~22章には、王国の分裂とユダの王4人・北イスラエルの王8人の歴史が書かれています。その間、17章~19章に預言者エリアの話しが出てきます。


<イスラエルと王国の滅亡>(下1.1~17.41)

前述の通り、レハブアムとヤロブアムの対立、即ちユダ族とエフライム族の対立により南北に分裂し、北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分かれました。


北の10部族は、ヤロブアムが王となって統治し、南の2部族は、ダビデ、ソロモンの子孫たちが王となって治めました。


ヤロブアムは、北のダンとベテルに神殿を築き、金の子牛を安置しました。これは、「ネバテの子ヤロブアムの道」と呼ばれ、ヤハウェ礼拝の変形であり、北の10部族をエルサレム神殿に上らせないための苦肉の策でした。


しかし北イスラエルは、人口の点でも耕地面積においてもユダ王国をしのいでおり、経済的にも優位に立っていました。しかし多くの部族を抱えたイスラエル王国は、反ユダ王国感情によってまとまっているにすぎず、きわめて不安定で、クーデターが頻発し、王朝はたびたび交代しました。


また、分裂直後からアッシリアの猛威に晒され続けました。ヤロブアム2世時代の前8世紀の中ごろには両国とも力が充実し、ソロモンの最盛期にも匹敵するほどの国土を獲得しましたが、その後は凋落しました。預言者アモスは支配層と祭儀の堕落を強く非難しましたが、凋落に歯止めがかかることはありませんでした。


そして北イスラエルでは19人の王が立ち、国を統治しましたが、聖書によれば、神の目から見て全王が悪王(不信仰)だったと言われています。


本来イスラエルの民は、神の宝、祭司の王国、聖なる国民であり(出エジプト19.6)、「国々の光」(イザヤ42.6)となって異邦人諸国を神に導く光となべき民族でした。 しかしイスラエルの民は、この使命を果たすことができたのでしょうか。結局列王記は、失敗の歴史であると言え、その原因は、偶像崇拝などモーセの律法に対する不従順でありました。


「イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかった」(2列王17.22)とあり、また2列王17章は次の通りイスラエルの不信仰描いています。


「彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた」(17.16~17)


遂にイスラエル王国は、サルゴン2世の猛攻によって紀元前722年に陥落し、9王朝19代の王の下に200年以上にわたって存続した北王国は終焉を迎えました。


「ついに主はそのしもべである預言者たちによって言われたように、イスラエルをみ前から除き去られた。こうしてイスラエルは自分の国からアッスリヤに移されて今日に至っている」(17.23)


10支族の民のうち指導者層は連れ去られ、あるいは中東全域に離散しました。歴史の中に消えた彼らは「イスラエルの失われた10支族」とも呼ばれます。 この「失われた10支族」は今でも探索されており、保守的なクリスチャンの中には、この末裔が日本に渡ってきて、神道に影響を与えたという説を唱える人もいます。


北王国滅亡後、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が植民しました。サマリアには10支族の民のうち虜囚にされなかった人々が多く残っていましたが、彼らは指導者層の喪失や、サマリアに来た異民族との通婚によって10支族としてのアイデンティティを喪失しました。サマリアは正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として軽侮されることになります。


【北の滅亡からユダ王国の崩壊まで】


1列王記18章から25章は、北イスラエル滅亡後のユダ王国とその崩壊が記されています。

ユダの王ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤの各王の物語です。 そして2列王記に続いて行きます。


<ヨシュア王の宗教改革-神命記改革>

ここで、前記した各王の中でも最も有名なヨシュア王(BC639~609)について述べておきたいと思います。


南北朝時代には、バアル信仰や偶像崇拝を非難する預言者が続出しました。そうしてBC9Cのエリア、BC8Cのアモスらが、アッシリアの帝国的支配が台頭する中で、民族を超える普遍的な神を模索していきます。


特にバビロン捕囚前後のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルらは、民族神を越えた普遍性のある超越神を求めました。神ヤハウェはアッシリアなどの異教徒の国を用いてイスラエルの偶像崇拝を裁かれるという訳です。


そして南王国ヨシア王の治世第18年(BC622年)に、いわゆる申命記改革と呼ばれる宗教改革が行われることになりました。


祭司ヒルキアにより「律法の書の巻物」が発見されたと記録されています。


「その時大祭司ヒルキヤは書記官シャパンに言った、『わたしは主の宮で律法の書を見つけました』。そしてヒルキヤがその書物をシャパンに渡したので、彼はそれを読んだ。祭司ヒルキヤはそれを王の前で読んだ」(1列王22.8~10)


この「律法の書」は、申命記の主要部分を構成し、原申命記と言われていますが、これを読んだ王は驚き、国民の前でこれを朗読し、ヤハウェとの契約を結び直して大規模な宗教改革を行いました。(1列王23.1~25) 


その改革は、地方聖所を廃しヤハウエ祭儀をエルサレム神殿に集中する「祭儀集中」であり(1列王23.8~9)、もう一つは、あらゆる異教的な要素を排除する「祭儀浄化」、即ち、偶像崇拝の分別でありました。(1列王23.11~12、申命記12.2~3)


この申命記改革と呼ばれる宗教改革において、民族神的拝一神教から普遍的な一神教を目指す、より強い「排他性」が加わってきます。しかし、この申命記改革はヨシア王の死によって未完に終わりました。


なお、申命記史書と呼ばれるヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は、「統一的な神学構想」のもとに申命記史家によって同時期にまとめられたと言われています。


<南王国の崩壊>( 2 列 18 ~ 25 章)

南王国には20人の王が出現したましたが、ヒゼキヤなど8人は名君(善王)だったと言われています。


そしてアタルヤという女帝以外は、すべてダビデの血統でした。 イスラエルの王オムリの孫娘であるアタルヤは、その子アハズヤが死ぬと、ダビデ家を抹殺しようとして王位継承権のある者たちを暗殺しました。


しかしヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、幼子ヨアシュを主の宮に匿い、かろうじてダビデの家系が存続することになりました。こうしてダビデ単一王朝はバビロン捕囚(前586年)まで継続することになります。


こうして続いた南ユダ王国でしたが、遂にバビロンの侵攻により、最後の時を迎えることになります。 エジプトと手を握ろうとしたゼデキヤは捉えられ、バビロンの制裁に会いました。


「カルデヤびとは王を捕え、彼をリブラにいるバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った」(25.6~7)


そしてエルサレム宮殿と神殿の崩壊であります。


「.バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた」(25.8~9)


こうして出エジプト(解放)から始まった歴史は、バビロン捕囚(束縛)で終わりました。そして列王記はダビデ王で始まり、バビロンの王で終わったことになります。


しかし列王記は、単なる事実の羅列ではなく、霊的教訓を教えるための書でもあります。ユダの各王は、モーセの律法の基準、即ち、「ダビデ王の基準」に従って評価されました。神の祝福を受けるためには、神の律法の基準で統治する必要があるということでしょうか。

【預言者エリヤとエリシャの活躍】


エリヤについては、1列王記17章から18章に記載され、またエリシャについては、2列王記4章から6章に記載があります。そこで、列王記に出てくる預言者エリヤ、エリシャについて簡単にその業績などを述べておくことにいたします。


<エリヤ>

エリヤはアハブがイスラエル王国の王であったとき、預言活動を開始しました。 1列王記には、エリヤがバアル礼拝との戦いにおいて奇跡を見せた有名な話しがでてきます。


即ち、バアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人をカラメル山に集め、火の奇跡を見せて滅ぼしました。(1列王17~18章)


「そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。民は皆見て、ひれ伏して言った、『主が神である。主が神である』エリヤは彼らに言った、『バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない』。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した」(1列王紀18.38~40)


このエリヤは、ユダヤ教ではモーセ以後、最大の預言者とみなされました。またマラキ書には次のように、エリヤの再来が預言されています。


「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(4.5~6)


<エリシャ>

エリシャは紀元前9世紀代のイスラエル王国で活躍した預言者であり、預言者エリヤの弟子として有名です。師の遺志を受け継いで国内に蔓延していた偶像崇拝との戦いに邁進しました。また、様々な奇跡を行ったことでも知られてます。


アハブ王の時代、王妃イゼベルに命を狙われたエリヤは、身を案じてシナイ半島の砂漠地帯へと逃亡し、ホレブ山に身を潜めたおり、神が現れ、彼に三つの使命を与ました。その一つが彼の後継者としエリシャを立てることでした。


「またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい」3(1列王19.16)


エリヤはその後、ダマスコへと向かう道すがら畑を耕している若者エリシャを見出し、エリシャはすぐさま弟子として従いました。それからおよそ八年間、エリヤの昇天(2列王2.11)に及んで彼から預言者としての霊を受け継いで独り立ちするに至るまで、エリシャは忠実な僕としてエリヤに同伴し、養育者でもある師に仕えました。このエリヤとエリシャの師弟愛には素晴らしいものがあります。


エリシャについて語るには奇跡を抜きには語れないほど、彼は多くの奇跡を行ったとされ、また、彼はその奇跡によって名を成した人物でもあります。以下、主だったものを挙げておきます。


エリコの町の水源を塩で清めた(2.19~22)


油を増やして寡婦とその子供たちを貧困から救った(4.1~7)。


シュネムの婦人の子供がクモ膜下出血で死んだ際、その子を生き返らせた(4.18~37)


毒物の混入した煮物を麦粉で清めた(4.38~41)


パン二十個と一袋の穀物を百人の人間が食べきれないまで増やした(4.42~44)。


アラムの軍司令官ナアマンの皮膚病をヨルダン川の水で癒した(5.1~14)。


水の中に沈んだ斧を浮き上がらせた(6.1~7)



以上の通り、2列王記を見て参りました。出エジプトから始まり、約束の地カナンに定着したイスラエルでしたが、列王記において、王国の滅亡と他国への捕囚という最悪の結末を迎えました。


無論、この最悪のどん底から、帰還を果たし、復活と再生を遂げていくのですが、イスラエルほど波乱に満ちた歴史を持つ国はなく、また無限の霊的教訓を与える国はありません。


そして列王記の次の「歴代誌」は、サムエル記と列王記を併せた内容になっています。


しかし、歴代誌は、サムエル記と列王記の複製なのかというと決してそうではなく、歴代誌には、サムエル記や列王記とは別の目的があるというのです。


歴代誌は、サムエル記と列王記の出来事を別の角度から解釈したものて言われています。即ち、歴代誌が祭壇という視点から書かれた歴史とするなら、サムエル記・列王記は王座という視点から書かれた歴史と言え、また神殿を中心に書かれた歴史と王宮を中心に書かれた歴史、宗教的歴史と政治的歴史と言った違いがあると言えるでしょうか。


また歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した民が、第二神殿を中心に国家再建に取りかかった時の指導理念として書かれたたものであると言われ、歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記は愛国に燃える一人の人物によって前300年ころ書かれたとも言われています。


こういうことで、歴代誌は、前のサムエル記・列王記と内容が重複することもあり、次回はこれを飛ばして、エズラ記の解説に入りたいと考えております。(了)




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