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ホームページ記事500号を記念して - 原理・神学の研究をもって天職とす

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 2 日前
  • 読了時間: 8分

○徒然日誌(令和8年1月14日)  ホームページ記事500号を記念して-原理・神学の研究をもって天職とす

 

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(ガラテヤ6.9)

 

プロローグ

 

今回の徒然日誌は、ホームページ「令和リバイバル」掲載記事「500本記念号」である。聖書の知識192本、徒然日誌299本、その他が9本で、計500本になり、一つの区切りである。特にこの3年半は、山上テロ事件以来、UCがスケープゴートにされて叩かれてきたことがあり、山上のテロや解散請求問題について、どう捉えればいいのか、聖書的視点を踏まえての論評が73本にも上った。


この中で、UCを巡る社会現象は神のご計画の中にあり、「とどのつまりは、有神論と無神論の葛藤ではあるまいか、言い替えれば、キリストか反キリストかの争いに見える」と述べ、そして、「解散問題は神の分別の一石であり、これを起点に日本は無神論(人間主義)と有神論(神主義)に二分される」とも述べた。 そしてこの騒動は、より本質的なもの、即ち、UCの教義(原理)や教祖に目が向けられ、よきにつけ悪しきにつけ、「原理とは何か」「教祖とは誰か」という本質的問題がクローズアップされるよい機会であるとした。

 

「千里の道も一歩より」というが、ホームページ掲載の記事は、2019年(令和元年)にスタートし、毎週日曜日に「聖書の知識」、水曜日に「徒然日誌」を発信し続け、かれこれ6年になり、感慨深いものがある。(→https://www.reiwa-revival.com)


 

【新たな挑戦】

 

このホームページ500本に加えて、拙著『異邦人の体験的神学思想』、『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』は、いずれも古稀を過ぎてからの文書であるが、いわば精神の記録でもあり、人生の置き土産になるかも知れない。幸いにもこれらの記事は、一般信徒はもちろん、UCリーダーやクリスチャンなどにも読まれ、「分かりやすい」との好評価を頂いている。特に次世代を担う若い方々から「参考になる」と喜んでもらっている。



 

<700本へー文書福音宣教>

 

実は、約2年前の令和6年2月28日の徒然日誌は「400本記念号」だった。その時、神は700本まで書くように命じられたところ、「500本まではやります」と約束した。本日、その約束が果たされてホッとしているが、本来神が命じられた700本に挑戦しなければならない。それにはあと3~4年必要だが、体力が続く限り挑戦したい。

 

空海は、24才の時に書いた比較宗教のはしりである『三教指帰』序の中で、「文章は、人が心に感動し、その感動を紙に書き記す」と記し、文章は心の感動から生まれ、人を変える力を持つという。一方、文章(言語)は不完全で真理を完全には表せないとも述べ、だがそれでも「人を真理に導く縁になる」とした。

 

最近筆者は偶然、神明忠昭著『生きた神様が働くとき』(光言社)を読む機会があったが(後述)、その中に「神学とは、神について人間の言葉で表現したものである。神は無限で永遠なる絶対者であられても、それを表現する人間の言葉は有限であり、相対的なものに過ぎない」(P107)とあった。この点、遠藤周作は著書『キリストの誕生』(新潮文庫 )の中で、「言語は聖なるものを完全には表現できない」(P281)と記しており、なるほどと納得した。

 

即ち言葉は重要だが、神・罪・救い・愛といった概念は人間の言葉(論理)では完全には表し尽くせない。ここに啓示や信仰体験や信仰告白の意味がある。故に聖なるものは、説明される前に(あるいは同時並行的に)、与えられ、経験され、告白されるものである。

 

実は筆者は1年前から「X」や「Facebook」に投稿を始め、最近は関連する徒然日誌などの文書を添付してポストするようになった。それは文書による福音宣教を意識してのことである。「言語(文章)は不完全で真理を完全に表せないが、それでも真理への縁になる」という空海の言葉の如く、この一文が心ある人々に届き、一歩でも神とキリストに近づくきっかけになれば幸いである。

 

福音宣教の道は「日暮れて道遠し」の感がなきにしもあらずだが、聖書に「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6.9)とある通り、成約の「福音リバイバル」は必ず訪れると信じるものである。然り、「種まく者は、喜びの声をもって刈り取る日が来る」(詩編 126.5)。(→ https://x.gd/ZZFlo )

 

<励まし>

 

さて500本を記念して、何人かの方から心暖まる励ましの言葉を頂いているが、元世界日報記者の寺口賢之助さんから次のようなメッセージが届いた。

 

「ホームページに記事500本おめでとうございます。素晴らしい偉業だと思います。宗教的、神学的な知識だけでなく、その普遍的な観点からの世相への辻説法は、まさに現代の預言者と呼ぶにふさわしい観があります。とりわけ、『異邦人の体験的神学思想』を改めて読みながら、生きた神を思想的にまとめる事は、新聞や月刊誌の類の論評と違い、「数百年耐えうる論点と思想」であると恐れ入ります。

 

『理想と現実』という間の中で生きている私達にとって、常に両者の中で揺れ動くのが人の人生とは思いますが、その際に神学的な整理としての吉田先生の著作『異邦人の体験的神学思想』はまさに砂漠の中のオアシスであります。今後とも更に元気で、執筆されることを期待しております」

 

【聖書・神学の研究】

 

さて筆者の内的求道の道を大雑把に振り返れば、①信仰の基礎形成時代(20才~40才)、②法律家の時代(40才~60才)、③聖書・神学研究の時代(60才~現在)と3期を経て、今や人生の最終章を迎えた(今年、傘寿を迎える)。

 

<「神・神の言葉・キリスト」は人生最大の財産>

 

西郷隆盛は「地位も名誉もいらず、金もいらず、命もいらず」と言って清貧に甘んじたが、筆者は今、貧しい無産者で市営住宅に住む身である。だが、筆者は豊かである。何故なら、「神・神の言葉・キリスト」という人生最大の財産(価値)と出会ったからである。神と神の言葉(原理)とキリスト(真の父母)、即ち神と神のロゴスとロゴスの実体こそ如何なる財宝にも優る富であり価値である。一度しかない人生において、この神の賜物と出会ったことは幸いであり、生涯死守し研鑽しなければならない。

 

ちなみに内村鑑三はアメリカのアマースト大学留学時代(1886年、25才) シーリー学長の「内を省みる事を止めて、罪を贖ひ給ひし十字架のキリストを仰ぎみよ」(1886年3月7日)という言葉で回心した。爾来、「聖書の研究をもって天職とす」との人生が始まったという。筆者も内村鑑三にあやかって、人生の最終章は「原理・神学の研究をもって天職とす」としたい。(但し、内村鑑三は「余は神学者たらんより、信仰者たらんことを欲す」と言い、神学嫌い(?)だった。しかし反神学ではなく、反神学至上主義である)

 

<原理・神学の研究をもって天職とす>

 

最近、元UTS総長の神明忠昭氏と交流する機会が多くなった。氏は第一期のUTS(統一神学校)を出たあと、アメリカの神学大学で神学のドクターを取った神学者である。氏とは学生時代、二、三回立ち話をしただけで、その後ほとんど接触がなく、すっかりご無沙汰していた。

 

だがこの1月7日、筆者は計らずも神明忠昭著『生きた神様が働くとき』(光言社)と出会い、一読した。知り合いの90才のおばあちゃん(食口)の引っ越しの手伝いをして、片付けをしている時、奥の本棚に偶然この本が置いてあったのである。神が筆者に「読みなさい」と言われているような気がして、おばあちゃんに「この本、持って帰るからね」と言って譲り受けて一気に読んだ次第である。(但し、この本は神学書ではなく「証し集」である。2022年初版)

 

それで分かったことは、神明氏はとても霊的、情的で涙もろい人だということだった。それは神体験、聖霊体験、信仰体験をする度に慟哭して泣いた何ヵ所もの記述を見ても明らかである(本書P24、27、58、70、99、104)。これは筆者には驚きで(僕は泣いたことがほとんどない)、神学者として知的で理性的だと勝手に考えてきた予想を完全に覆すものだった。しかし、そうであるが故に神学と取り組んでも知的傲慢の落とし穴に落ちずに信仰を深めてこられたのだと思う。

 

筆者は数年前、宣教師訓練センター所長で著名な奥山実牧師と食事を共にしたことがあったが、奥山牧師は筆者に、「吉田さん、神学校を出た学生の60%は神が分からなくなるんだ」と嘆かれてびっくりしたことがある。神を学ぶはずの神学校で、逆に神を見失うというのである。

 

筆者の場合は、大学もそこそこで、また神学校も出ていないし、聖書や神学と本格的に集中して取り組んだのは、ここ10年くらいである。だが幸いにも聖書や神学書を読む度に深い感動を体験させられ、ますます神が身近に感じられる。これは、20才代にほとんど本も読むことなく実践に明け暮れたが、この20代に、神体験、罪体験、救いの体験をして、神・罪・救いという神学の基本構造を身を持って体験したからだと思って神に感謝している。(なお筆者は受験も法律も神学もすべて独学だった。後で分かったことだが、独学が自分の性に合っていたのである)

 

神明氏から、「吉田さんは若い頃の実践的歩みを通して神体験やその他の体験をされてから、その土台の上に神学研究に移行されたのですね。だから、神学研究も感動的だったということですね。納得できます」とメールを頂いた。神明氏の場合は「神不在の可能性を憂えるところから出発して、本当の神を求めて、神学に入っていった」という。

 

そして、「吉田さんとはちょっと逆方向かもしれないですね。でも、このようにして吉田さんも私も共に神学の世界に熱心に関わっているのですから、結局は同じですよね」と結ばれた。確かに神明氏と筆者は、今は同じ神学の徒ではあるが(無論、氏の足元にも及ばない)、神学に至る道は真逆であった。

      

アウグスチヌスは「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」と述べたが、確かに神学(理性的省察)と信仰は車の両輪である。しかし神学は「諸学の女王」と言われる一方、「信仰の侍女」であり、信仰は神学がなくても成り立つが、神学は信仰なしに成り立たない。 神学は信仰を前提とした神についての人間の言葉であり、信仰なき神学は、宗教学・思想史・文化研究にはなり得ても、神学そのものにはなり得ない。 

 

こうして筆者は人生の最終章を「原理・神学の研究をもって天職とす」とした。然り、成約の福音リバイバルは必ず来る。

 

以上、「ホームページ記事500号を記念して-原理・神学の研究をもって天職とす」と題して持論を述べた。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れず、たゆまないで歩もうではないか。(了)

 

                           牧師・宣教師 吉田宏

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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