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総選挙の顛末に思う - 国家の核UCの「贖罪者」としての道

  • 7 時間前
  • 読了時間: 9分

○徒然日誌(令和8年2月11日)  総選挙の顛末に思うー国家の核UCの「贖罪者」としての道

 

そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この(苦い)杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26.38~39、ゲッセマネの祈り)

 

プロローグー総選挙の結果を受けて

 

第51回衆議院総選挙は、小選挙区(定数289)、比例選(同176)の総定数465で争われたが、高市自民党の圧勝で終わった。結果は自民316、維新36、中改連49、国民28、参政15であり、自民党は改憲発議に必要な3分の2を確保するという大勝利だった。これは過去、民主党の308議席(2009年)、中曽根首相の304議席(1986年)、小泉首相の296議席(2005年)を越える戦後憲政史上最大の快挙だった。

 

自民党は何故支持されたのか。それはなんと言っても高市早苗首相への信頼と人気のお陰であった。では何故高市首相は支持されたのであろうか。第一にしっかりした理念と思想、即ち不動の国家観・世界観・歴史観を持っていること、第二にそれを裏付けるよく研究された優れた政策があること、第三には(これが最も重要な要素であるが)、「目に見えない手」に導かれ天運を味方にしたこと、この3つである。つまり高市首相には天運を引き寄せる人徳があり、思想家・実業家の執行草舟(しぎょうそうしゅう)氏の言葉を借りれば「聖霊が降臨した」のである。そして国民がこれに呼応した。執行氏は高市首相を運と徳を兼ね備えた稀有な女性と評価した。(参考→執行草舟氏のYouTube「自民党大勝利の意味」)

 

日本は古来アマテラスという女性神を戴く国であり、またイギリスとならんで島国の海洋国家であって、「母性的国家」という特質を持つ。そして母性国家に相応しく、日本憲政史上初めての女性宰相が誕生した。これは偶然ではなく、日本がまだ天から見捨てられていない証左であり、それを霊的に呼応できる国民の精神性が未だ失われていなかったのである。日本はすんでのところで踏み留まった。

 

そしてこの総選挙ではっきりしたことは、オールドメディアとリベラル左翼の終焉である。UCを貶めてきた「左派立憲」と「れいわ」がことごとく一掃され、UCを叩いてきたオールドメディアが地に墜ちた。天祐とはこのことで、裏金問題もUC問題も吹っ飛んでしまった。

 

これはまさに天の鉄槌であり、聖書的に見れば神が報復されたということなる。この神の報復は、やがてUCとその信徒を容赦なく痛め付けてきた紀藤正樹、鈴木エイト、有田芳生らに向かうことは明らかである。聖書に次の通りある。

 

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ロマ書12.19)

 

願わくば高市首相が偏見なくUCを理解し、一連のUC問題について適切な判断をされんことを祈念する。

 

【高裁の解散判断を前にーキリストの十字架に学ぶ】

 

 さて文部科学省によるUCへの解散命令請求の即時抗告審で、東京高裁が3月4日に解散の可否を判断する決定を出すことがわかった。満々が一、高裁が解散を命じれば、その時点で教団は清算過程に入っていく。

 

堀正一新会長曰く「死刑囚が死刑を待つ心境だ」と。やや大袈裟だがその心境は痛いほど分かる。言い換えれば、ゲッセマネの祈りに象徴される十字架の受難を前にしたイエス・キリストの心情である。今まで筆者は、この解散裁判が如何に理不尽であり、また違法なものであるかを多面的から論じてきたが、ここに至ってイエスのゲッセマネの祈り、十字架と復活の事情と心情がやたらと身に迫ってくる。

 

なお、a.高市首相誕生の意義、b.解散裁判の問題点については、ホームページにアッブしているので参考にして欲しい。(高市首相誕生に思う→ https://x.gd/50gVB 、UC解散命令に思う→ https://x.gd/a6toZ )

 

<ゲッセマネの祈り>

 

イエス・キリストのゲッセマネの祈りは、十字架を目前にしたイエスの絶体的心情であり、この場面は「人間イエスの極点」として、キリスト教徒のみならず、何度も神学で論議され(キリスト論)、文学(ドストエフスキー・遠藤周作)、映画(パッション)などのモチーフとして繰り返し追体験されてきた。

 

最後の晩餐のあと、十字架を覚悟されたイエスは、「私は復活したあと、先にガリラヤに行く」(マタイ26.32)と弟子たちに復活を予告され、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネで「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マタイ26.28)と心境を吐露された。まさに人間イエスの孤独、恐れ、悲しみが露わになる場面であり、ルカ書では、「あまりの苦しみにもだえ、汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22.44)と描写されている。

 

そしてうつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この(苦い)杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26.39)と。そして二度目にも、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」(マタイ26.42)と祈られた。

 



イエスは十字架の苦難を前に「死ぬばかりに悲しい」と極度の悲しみを感じ、何度も「この杯(十字架の苦難)を私から取りのけてください」と祈った。しかしイエスは最終的に、自らの人間的な願いを捨て、「わたしの願いではなく、御心のままに」と自らの運命を神の意志に委ねたのである。ゲッセマネの祈りは、イエス・キリストが十字架にかけられる前夜、オリーブ山の麓で神に捧げた苦悶の祈りであった。

 

 祈り終えたイエスは決意を固め、ユダに先導されてやってきた群衆を迎え入れ、逮捕され十字架へ向かう道を選んだ。この祈りは、イエスが人間としての弱さを見せつつも、全人類の救済という使命、即ち、人間が本来負うべき「神の怒りの杯」を代わりに飲み干し、罪の赦しをもたらす贖罪者の道を決断されたことを意味する。

 

この「苦い杯」は、神が信者に与える避けがたい試練や運命の象徴でもあり、それを愛をもって受け入れることで、復活の道に導かれるという教えが説かれている。まさにゲッセマネに直面するUCとその信徒の心情を代弁するイエスの祈りである。

 

<イエス・キリストの十字架上での七つの言葉>

 

さて福音書によれば、イエス・キリストは十字架上で七つの言葉を発せられた。まさにこれ以上ない極限状況におけるイエスの言葉である。この「十字架上の七つの言葉(十字架の七言)」は、全人類の罪の贖いと赦し、そして神への絶対的な信頼を表す言葉であり、二千年キリスト教の中心教理である「十字架」と「復活」の源泉であった。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.34)とは 処刑者たちへの赦しの祈りであり、死という極限の中で、自らを殺害する処刑者、祭司、律法学者、ローマの為政者を許した。まさに「爾の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5.43)の実践である。

 

また、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23.43)とは回心した右の強盗への救いの約束である。文鮮明先生は十字架上での左右の強盗について、「イエス様を中心として見ると、右の強盗と左の強盗、バラバがそれぞれ種を蒔きました。最初に現れたのが、右の強盗型と左の強盗型の象徴である右翼世界と左翼世界、すなわち民主圏と共産圏です。その次に現れたのが、イエス様の十字架を中心として登場したバラバ型であるイスラム教圏です」(『イエス様の生涯と愛』(光言社)P244)と画期的な解釈をされ、その意味を次のように語られた。

 

「人間歴史においてイエス様の味方になった最後の人は誰でしょうか。ペテロでもなく、イエス様の親でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教でもありませんでした。ただ一人、右の強盗でした。もし右の強盗がいなかったとしたら、イエス様が再び復活して、地上の摂理の因縁を再開させることはできないという事実を皆さんは知らなければなりません」(同書P246)

 

更に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19.26~27) という言葉は、十字架に寄り添う母マリアへの配慮であり、弟子ヨハネへの愛である。

 

そして、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27.46、マルコ15.34)とは神から見捨てられた孤独と苦悶の境涯であり、詩篇22篇の冒頭の言葉「 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」からの引用である。詩篇22篇は、絶望で始まり、賛美で終わっている。

 

遂にイエスは、「渇く」(ヨハネ19.28)と預言の成就(詩篇69.21)を発せられ、「成し遂げられた(テテレスタイ)」(ヨハネ19.30)と宣べられた。成し遂げられとは 人類の霊的な「罪の贖い」が完了したことの宣言である。そして、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23.46)と言って大声で最後の祈りと神への信頼と絶対的服従を示された。ゲッセマネでの「みこころのままに」と、十字架上での「御手にゆだねます」は、この迫り来る受難にあって、なお神への信頼と愛を語るもので、私たちへのこれ以上ない模範(教訓)になる。

 

以上の「十字架の七言」は、イエス・キリストの受難の苦しみと、愛に基づいた救いの完成を伝える重要なメッセージとして知られている。なおホームページ「文鮮明著『イエス様の生涯と愛』(光言社)を読み解くー隠されたイエスの実像」において、十字架と復活の意義について論じている。(参照→→  https://x.gd/crg8H )

 

<キリストの十字架に学ぶ>

 

イエス・キリストの十字架への道行きの中で、辿られた境地、示された信仰、実現した救いの価値は、二千年キリスト教の歴史が繰り返し雄弁に語っている。キリスト教は十字架の宗教であり、十字架とは人間の死であり、死から生を考えるのがキリスト教の真髄である。

 

奇しくも前記した執行草舟氏の「絶体負」という死生観もまた十字架の思想である。執行氏は、人間の生命の根源を支えるエネルギーを「絶対負」と呼び、これは悲しみや苦しみ、犠牲や献身など、他の生命体にとっては負のエネルギーにしかならないものが、人間にとっては生きるエネルギーになるという逆転の発想である。つまり、絶体負である死から生を見るという死生観、徹底した逆説の思想である。

 

我がUCとその信徒は、今こそイエス・キリストの十字架の死生観を想起したい。それはまた、興南受刑所に象徴される文鮮明先生の「6度の牢獄という十字架」と同類・同義であり、二人は共に人類の罪を贖う「贖罪の羊」となられた。

 

救いは受難から始まり、十字架と復活で成就される。イスラエルのレムナント(残れる者)も、アメリカの建国の父祖たちも、民族の核、国家の背骨は常に少数派であり受難者であった。高裁の解散裁判の判断を待つUCとその信徒は、あえて十字架に架かり、民族と国家の罪を引き受ける贖罪者としての道を行く覚悟を持とうではないか。十字架の血は世に勝つ力であり、その先にあるのは復活の希望であるからだ。

 

既に筆者は、満一の場合に備えて、如何に考え、如何に対処すべきかについて、徒然日誌「イスラエル神殿の崩壊とバビロン捕囚ーイスラエルのシナゴーグに学ぶ」においてその一端を述べているので参考にして欲しい。(→ https://x.gd/ivSvbx )

 

以上、「総選挙の顛末に思うー国家の核UCの『贖罪者』としての道」と題して、高裁の判断を待つUCとその信徒の究極的な覚悟と決意を、イエス・キリストの十字架と対比して述べた。いずれにせよ、私たちの行く道に恐れも悔いもない。(了)

 

牧師・宣教師.   吉田宏




上段:執行草舟氏写真 中段:ゲッセマネの祈り(作者不詳) 下段:十字架上のキリスト(カール・ブロッホ画)

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