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創世記 註解② 創世記4章の解釈- 歴史の二流

  • 2020年11月9日
  • 読了時間: 14分

更新日:8月24日

🔷聖書の知識59-創世記註解(②-創世記4章の解釈-歴史の二流

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 (創世記4.8)


プロローグ


創世記には、キリスト神学の骨格である「神・罪・救い」の三要素が全て含まれています。即ち、創世記1~2章は神と天地創造について、3章は堕落と罪について、そして4章から神の救済歴史が始まります。

創世記1~2章で創造され、3章で堕落した人類を、神は4章におけるアダムの家庭において、既に救いの摂理を始められました。今回は、堕落直後において、神はいかにして人間を救おうとされたのか、即ち、創世記4章のアダムの家庭における救済物語とその失敗について考察いたします。これは以後の復帰摂理歴史の型になるものです。

【創世記4章の解釈ーカインとアベルの奥義】


創世記4章のカインとアベルの物語は、創世記3章の失楽園の物語と並んで、聖書の重要な奥義です。何故カイン(兄)はアベル(弟)を殺したか、人類史の大きな謎であります。


<カインは何故アベルを殺したか>

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よくよく考えてみれば、かの聖なる書たる聖書が、なんと姦淫と殺人から始まっているというのです。創世記3章の堕落と、4章の殺人です。つまり、善なる神が造られた被造世界が姦淫と殺人の罪から始まりました。

では、最初の殺人であるカインの殺人が、何故、如何なる経緯で行われ、どのような結果をもたらしたのか、ここに人類史を解く鍵が隠されているようです。そしてこの謎を、如何なる神学、如何なる宗教と言えども、きちんと解明したものは未だかってなく、原理が初めて明らかにしました。

カインがアベルを殺害した「動機」が何だったか、この難問を解くためには、先ず、その引き金になった「供物」を巡る神との関係を整理しなければなりません。つまり、何故神はアベルの供物を良しとして受け取られ、カインの供物を拒否されたのかという問題です。

「主はアベルとその供え物とを顧みられた。

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しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」(創世記4.5)とあるように、カインからすれば、自分も誠意を持って捧げた供物なのに、神が受け取らないとはなんという不条理なことか、ということです。そしてその不条理感は、供物を神から祝福されて有頂天になっているアベルへの嫉妬ないしは憎悪になっていったというのです。これが殺人の動機になっていきました。いわゆるカインコンプレックスです。

この点、キリスト教では、カインの供物は穀物であり、これは血を伴わない供物であるので不完全だった、即ち信仰なき祭物であるとし、それ故に神は受け取られなかったとする説があります。またあるキリスト教神学者は、「カインのささげ方に問題があったことは明らかだが、カインの捧げ物のどこが具体的に悪かったのかは分からない」とお手上げであります。原理では、カインが「アベルを仲保」(アベルを通して)にして供物を捧げなかったことを問題視しています。つまり、カインはアベルを無視して、アベルを通さずに自分勝手に供物を供えたことが神の目には問題になったというのです。

<善悪の母体の分立という摂理>

次に、では神は何故アダム・エバの息子をアベルとカインに分けられたのか、そしてアベルの供物は神自ら受け取られ、カインの供物はアベルを仲介にして受け取られるようにされたのか、という問題です。

堕落したアダム・エバは、神とサタンの中間状態、即ち善と悪の母体としての非原理的存在となり、神にもサタンにも相対する立場に立ってしまいました。従って原理的な神は、このようなアダム・エバから救いの摂理をすることができないというのです。従って、アダムとエバの母体を、善を象徴するアベルと悪を象徴するカインに分けられ(善悪分立)、神はアベルと相対することによって摂理を始められました。つまり、アベルは神が相対する善の表示体、カインはサタンが相対する悪の表示体であるというのです。サタンが相対する立場に立っているカインを、神は直接相対することが出来ないので、アベルを通して神の祝福を相続するようにされたというのです。これによって本然の秩序が回復し、アダム家庭において失われた長子圏が復帰され父母が立つことになります。

では、何故アベルが善の表示体、カインが悪の表示体とされたのでしょうか。これはアダム、エバの堕落の経路から説明されます。原理講論堕落論によれば、人間の堕落は二回に渡って起こり、神が「取って食べるな」(創世記2.17 )と戒められた禁断の木の実を、先ず天使とエバが食べ、次にエバとアダムが食べて堕落しました(創世記3.6)。

エバの最初の天使との堕落(霊的堕落)は、非原理的な相手との不純な欲望が動機となって、時ならぬ時に時のことしたという堕落で、その罪の子が長子のカインとされ、そしてその後のエバとアダムの堕落(肉的堕落)は、罪を自覚したエバが本来の相対関係に還ろうとするより善の動機による堕落であり、このアダムとの子がアベルとされたというのです。またサタンは長子に未練を持ち、常に神の行く道を先取りして神の摂理を妨害しようとしますので、長子カインをサタンが取り、次子アベルを神が取ったという事情もありました。

そして悪を象徴するカインが、善を象徴するアベルに自然屈服することによってサタンが分立され、救いが成就するというのです。こうして、カインとアベルが一体となることによって、創世記3章で失われた本然の家庭が回復するというのです。しかし、結局このアダム家庭での救いの摂理は、カインがアベルを殺害するという最悪の結果を以て失敗することになりました。そしてこれらの内容は、3章の堕落の原理的解明の土台の上に出てくる解釈であり、キリスト教神学が遠く及ばない奥義であります。

<カインの責任とアベルの責任>


では、この殺人劇において、一体どちらに非があるのでしょうか。確かに、事情がどうであれ、殺人という刑法的な犯罪にカインの弁解余地はありません。日本の刑法199条では「人を(故意に)殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」となっています。そうして現代であれば、カインはこの刑に服することになるでしょう。もちろん、法律上の減軽や酌量減軽により5年未満の刑を宣告することは可能であります。

カインに、アベルを通してアベルと共に供物を捧げるという知恵が欠けていたことは事実としても、刑法にも酌量減軽という制度あるように、カインに情状酌量の余地がないのでしょうか。この点、UC創始者はアベルの非について、次のように語られました。

「アベルは柔和謙遜でなければなりませんでした。しかしアベルは、神様が自分の供え物だけを受けられたので、度を越えて喜んで兄に自慢したというのです。お兄さんより私が勝っただろう!と」

また、次のようにも言われました。

「アベルは神様の恩恵を受けたからといって、有頂天になって自慢してはならなかったのです。恩恵を受けたならむしろ自分を低くし、自らの不足を悟り、お兄さんに申し訳なく思わなければなりませんでした。高慢では駄目だということです。それだから殴られて死んでも当たり前だというのです。殴られて死ぬようになっています」

即ち、アベルの責任は「謙遜」であり、カインの責任は「従順」であったというのです。

摂理的にみれば、アベルは供物をみ心に添って捧げることにより、神の前に信仰を立てる役割(信仰基台)があり、カインはアベルに従うことを通じて、サタンから引き継いだ悪い性質(堕落性)を返還する条件を立てて、サタンを分立する役割(実体基台)があったというのです。カインはアダム家庭を代表して、堕落性を脱ぐ条件を立てること、即ち、アベルを愛し、仲保とし、主管を受けて、善を繁殖する責務がありました。

<アベルとは誰か>


私たちはUC内で、得てして組織上の上司をアベルと呼ぶ習慣がありますが、こういう悪習は誤解を生む呼び方なので、改善されなけれはなりません。組織上の上司とは職務上の位置であって、秩序を維持し、諸活動を行うために必要な職責ですが、いわゆるここでいうアベルではありません。本来アベルとは、神に相対できる天的な性向を持った思想ないしは人物を意味し、具体的人間を指す言葉ではありません。そして、私たちの唯一究極のアベルはキリストであって、その意味で私たちはキリストの前に皆カイン的存在であります。


カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋・鋳造者」を意味し、アベルとは「息・霊・命」を意味すると言われています。カインについては、殺人者の他に、兄弟の葛藤の象徴、弟への嫉妬心(カインコンプレックス)、最初の嘘、エデンの東への追放、カインの刻印、と言った言葉がありますように、「神に背を向けて生きる人間」の代名詞として、総じて否定的な意味に使われています。小説や映画の題材(エデンの東、カインの末裔、カインとアベル)にもなりました。そうしてすべからく私たちは、多かれ少なかれエデンの東に追放されたさすらいのカインの末裔であることは間違いありません。逆にアベルは、敬虔な信仰者として、「神に相対する資質」を持った善なる人間性を象徴した言葉として使われているようです。

そして前記したように、創世記のカインには、アダムの家庭を代表して、悪の性質(堕落性)を脱ぐという役割があり、アベルにはカインとの間で長子の立場を回復するという使命があるというのです。両者には共に神のみ旨を進める過程において、それぞれ「役割分担」がありました。

以上の通り、創世記4章を解き明かしました。即ち、カインの殺人の動機、神がカインの供物を取られなかった理由、カインとアベルに分立された理由、アベル、カインそれぞれの責任と役割などを明らかにしました。これらは原理観から見た解釈ですが、今日までのキリスト教では解くことができなかった聖書の奥義であります。

【歴史の二流】

さて「歴史の二流」という言葉があります。これは創世記4章のカイン・アベルの二つの流れ、より正確に言えば、カインの流れとアベルの代わりに生まれてきたセツの流れで、カインは神に背を向けて生きる人々、セツ(アベル)は神と共に生きる人々の流れになります。

<歴史の二流の系譜>


上記に見てきたように、聖書には、兄と弟の葛藤が随所に記載されています。カインとアベル然り、エソウとヤコブ然り、ゼラとベレツ然り、またヨセフもダビデもソロモンも、摂理の中心人物は皆弟の立場でした。この創世記4章の解釈、つまり弟のアベルの供え物をよしとし、兄カインの供え物は顧みられなかったことの不条理から(創世記4.4)、カインがアベルを殺したという物語から始まる「歴史の二流」の問題をどう解釈するかという問題です。 


即ち聖書には、「兄が弟に仕える」「神は弟を愛し、兄を憎んだ」というメッセージが随所に出てきます。双子である兄エソウと弟ヤコブに関しても、産まれる前から「兄は弟に仕える」(創世記25.21)とあり、「ヤコブを愛しエソウを憎んだ」(ロマ書9.13)とあります。 タマルが産んだ双子の兄ゼラと弟ベレツにおいても、ベレツがゼラを押し退けて胎内から出たとあり(創世記38.28) 、また、ヨセフの子であるマナセとエフライムについても、ヤコブは兄マナセを差し置いて弟のエフライムを先に祝福しました(創世記48.12~14)。そしてダビデも末の子であり(1サムエル16.11~12)、ソロモンも弟でした(2サムエル5.14) 。


このように、聖書には、神は兄よりも弟を祝福するという伝統があります。そして、神は「何故兄よりも弟を祝福されるのか」という一見不条理に見える聖書の記述は、上述してきたアダムの家庭(創世記4章)の原理的解釈によって解決されることになります。そして上述しましたように、サタンは常に先行し、長子を取り、神は弟を取ったという歴史がありました(サタン先行論)。統一思想に「偽と真の先後の歴史法則」という歴史観があります。サタンが、真理を装って疑似理想型世界を先行して作ってきたのが人類歴史だったとし、そして共産主義世界はサタン思想の集約、最終的な原理型非原理世界であるというのです。


こうして 個人から世界に至るまで、必ずカインとアベルの二つの型の人物と思想、即ち「歴史の二流」があるというのです。そしてこの問題は、神の予定の絶対性で説明したり、信仰上の問題提起と解釈することもありますが、結局整合性のあるきちんとした解釈はなく、神学上の未解決の難問として残されてきましたが、今やこの難問が原理によって紐解かれました。


<ヘレニズムとヘブライズム>


ヘレニズムとヘブライズムという言葉があります。聖書的には、兄のカインの流れがヘレニズム(人本主義)、弟のアベルの流れがヘブライズム(神本主義)の源流になりました。上述しましたように、個人から世界に至るまでカイン型とアベル型の二つの型があるというのです(カイン・アベルの原則)。カイン型としては、心に対する体、人本主義、唯物論、そしてヘレニズムなどがあり、アベル型として、体に対する心、神本主義、物心論、そしてヘブライズムなどが挙げられます。


ヘブライズムは、ユダヤ・キリスト教風の思想と文化であります。旧約聖書に見る古代イスラエル民族の思想方式・文化で、キリスト教を通じてヨーロッパ文化の源流になりました。人本主義、人間性重視、理性・論理性が際立つギリシャ風のヘレニズムに対して、神本主義、啓示、預言、といった性格が際立ち、神からの啓示に基づく宗教思想であります。

そして、人類歴史はヘレニズムとヘブライズムの葛藤と融合の歴史、即ち、世界史はこの二つの思想が交互に主権を主張してきた歴史であるとも言えるでしょう。

先ず、BC4世紀に古代オリエントでは、アレクサンドリア大王の東方制服によるヘレニズム化が行われました。それに対して、4世紀~5世紀、ローマ帝国によるキリスト教の公認・国教化が行われ、ヘブライズムが勃興しヘブライズム化が図られました。次に14世紀~16世紀にイタリアを中心とするルネッサンス(再生、文芸復興)によるヘレニズムの復興が起こり、それに対して、16世紀に宗教改革によるヘブライズムの復興が起こりました。そして19世紀~20世紀に、ヘレニズムの集大成、あるいはヘレニズムの鬼子としてのマルキシズムが世界を席巻しました。共産主義の勃興です。そうして共産主義の衰退と共に、ヘブライズムの集大成、あるいはヘレニズムとヘブライズムを統合した形の「新しいヘブライズム」が勃興することは歴史の必然であります。

【新しい歴史観】


では新しい歴史観とは何でしょうか。

<循環史観と直線史観>


従来、歴史観には大きく二つあります。一つは「循環史観」(運命史観)で、ギリシャ史観やシュペングラーに代表され、シュペングラーは、歴史は発生・展開・衰退、没落の円環を描き運命的に循環するとしました。(決定論的円環的歴史観)

一方、ユダヤ・キリスト教は歴史には始まりと終わりがあり目的があるという直線史観を唱えました。(直線的歴史観)

上記のようにキリスト教では、歴史を救済史としましたが、統一思想は、歴史を救済歴史と見る点ではキリスト教の摂理史観と同じですが、歴史を再創造歴史であり、善悪闘争による復帰歴史と捉えています。従って、単純な直線的歴史ではなく、再創造という直線的前進運動と、善悪闘争による復帰という転換的な円環運動の双方を含んだ「螺旋」(らせん)運動をなすと捉えています。

つまり、歴史をキリスト教のように決定論的に見るのではなく、摂理的中心人物の責任分担の成否により、前進したり後退したりしながら最終的には歴史の目的に向かうという螺旋的歴史観をとっています。即ち、救済摂理は、神の責任分担と人間の責任分担の双方が相俟って進展していくという原理的摂理観があり、人間の責任分担の失敗によって歴史は循環(転換))するという訳です。

つまり、歴史の目的(神の創造目的)は不変(決定的)だが、人間の責任分担いかんにより循環することがある(非決定的)というのです。なお、この「人間の責任分担」という考え方は、原理によって始めて明らかにされた画期的な思想です。

<歴史は繰り返す>


上記において歴史の二流について述べてきましたが、「歴史は繰り返す」という言葉があります。歴史の父と言われるヘロドトス(ペルシャ戦争)やトゥキディデス(ベロポネソス戦史)も唱え、トインビーは文明の「哲学的同時性」を指摘し、誕生・成長・挫折・解体・消滅を繰り返すと述べ、歴史は繰り返すとしました。  

しかし、何故歴史が繰り返すのか、その原因や法則については今まで誰も説明していません。統一思想は、歴史の繰り返しは、神の救済摂理において、人間の「摂理的責任分担の失敗」に起因するとします。目的性を有した歴史は、上記アダムの家庭における摂理的中心人物の失敗に見られるように、その責任分担喪失を償う内容が、時と方法と程度を異にしながら同様の内容の「同時性」として歴史に展開されるのであります。(螺旋形歴史観)

上記の事実は、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、キリスト教の歴史を分析、精査することによって明らかになり、神の救済摂理の原則とパターン、即ち「歴史の法則」を見出すことが出来るというのです。これが「再創造の法則」、「蕩減復帰の法則」であり、これこそ聖書の奥義です。

創始者は次のように語られました。

「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にしてさ無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(創立以前の内的教会史P593~P596)

以上、今回は、創世記4章の解釈、ならびにここから生まれた歴史観、特に歴史の二流について考察して参りました。次回は、今回を踏まえ、創世記5章以降ノアまでの救済歴史における聖書的論点について論じていきたいと思います。(了)


                           牧師・宣教師 吉田宏


*上記画像:カインとアベル(ギュスターヴ・ドレ画)

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​ユニバーサル福音教会牧師
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   吉田 宏

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