top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

神について⑤ 新しい神の姿 原理の神の特質について

🔷聖書の知識56-神について⑤-新しい神の姿ー原理の神の特質について

すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)

前回まで、聖書が語る神について学んで参りました。曰く、在りて在る神、唯一にして創造の神、知情意愛を有する人格神であると....。

またこの神は、永遠、普遍、絶対なる存在で、この神をユダヤ.キリスト教では、ヤハウエ、主、父と呼んできました。そしてその神は人間を導かれる愛の神、全知全能の神、栄光の神と考えてきました。

[ 神についての新しい概念]

ここで従来の神観にはなかった、あるいは見出し得なかったUC創始者による新しい神の姿を紹介しなければなりません。確かに神は唯一にして創造主たる人格神でありますが、更に踏み込んで、以下の3点について新しい神の有り様を深掘りしたいと思います。


<3つの新概念>


即ち、第一に神の天地創造の動機と目的です。神は如何なる動機と目的を持って宇宙を創造されたのか、今までその真相を明らかにした宗教教理も神学もありません。如何なる宗教家や神学者と言えども、明確に説明することはできませんでした。

第二に、「夜の神様、昼の神様」という創始者の新しい神概念です。即ち、神がまだ一人でおられた天地創造以前の神の位相(夜の神様)と、天地創造後の神の存在様相(昼の神様)に関する話しです。

第三に「解放されるべき神」という神観念です。今までキリスト教は、神を「栄光の神」として見てきましたが、実は神こそ救済されるべき悲惨な方であったという事実であります。


<統一思想の神概念>


ところで統一思想は神の属性を扱う原相論の中で、神の属性の形(構造)の面を扱う「神相」と、神の属性の性質の面を扱う「神性」について明快に語っています。

神の形、即ち神相については、神は本性相と本形状、及びその属性としての本陽性と本陰性の2つの二性性相の中和的(合成的)主体と定義されています。これは神の普遍的な概念であり、この二性性相が個別に現れたのが森羅万象を構成するそれぞれの万物であり、これを統一思想では個別相と呼んでいます。

またその神は、陽性的(男性的)性相と陰性的(女性的)性相の中和体でありますので、この人格的な神は父でありまた母である、即ち「父母」であるとも定義されます。この神を「天の父母」とする神観念は、歴史上、初めて明示された神の姿であります。これは神の2つの二性性相の概念から出て来る神の姿です。

一方、神の性質、即ち「神性」については、主として心情、ロゴス、創造性の3つを挙げています。

ここで心情とは、「愛を通して喜びを得んとする情的な衝動」乃至は「愛そうとする情的な衝動」であり、愛よりもより内的な愛の源になっている概念です。

即ち、心情は愛そうとする内部から沸き上がる押さえがたい情的衝動であり、対象たる天地の創造がなされる前の神の内的性相だというのです。愛は心情の流れであり、内的な心情が外的に流れるものが愛であります。そしてこの概念は、今までどの宗教も扱わなかった原理特有の神の性質であります。

先ず神の心情(=愛)があり、それがより具体的なロゴス(構想、理法)となり、その構想に従って世界が創造されるというのです。神の神性として、統一思想が主に心情、ロゴス、創造性を取り上げている理由です。

ちなみにロゴスには神の言葉、構想、設計図、理法といった意味があり、神の二性性相が一体となった合成体、あるいは新生体であり、これは即ちある種の被造物であります。ロゴスは構想、設計図乃至は理法であり、理法とは即ち理性と法則の統一体であります。そしてこのロゴスから万物が創造されました。

[ 神の宇宙創造の動機と目的]

以上が神の定義ですが、さてその神は何のため宇宙を創造されたのか、神の宇宙創造の動機と目的は何かという問題です。

先ず、神一人では存在できません。何故なら心情は愛を求め、愛は対象の存在が前提となって初めて成り立つ概念であります。即ち愛は対象を必要とし、この対象を求める愛こそ天地創造の動機でありました。つまり、愛が宇宙創造の動機であるというのです。そして上述のとおり、愛は対象との関係で生まれる概念でありますので、神一人で愛は成り立たちません。

心情は愛が涌き出る源泉であり、愛は必然的に愛の対象、喜びの対象を求め、これが動機となって創造が始まります。この心情と愛こそ宇宙創造の動機であり目的であるというのです。

宇宙万物が全て主体と対象、即ち愛し愛され、授け受けするペアシステムになっている理由がここにあります。無形の神は、実体対象としての有形の体が必要であり、神はこの実体対象から動的、刺激的な喜びを受けとることが出来るというのです。神は面積を要し繁殖を要したというのです。そしてこの神の創造の動機に関して、今まで明確に解明した神学はいまだかってありません。

[夜の神様、昼の神様]

次にUC創始者は「夜の神様、昼の神様」という驚くべき、そしてかってなかった神の概念を語られました。即ち、天地創造以前の神(夜の神様)と以後の神(昼の神様)の存在様相です。

超越的な神様として全ての万物を創造なさる前、時間と空間が始まる前の状態、夜の暗黒の状態での見えない神様が「夜の神様」であり、この夜の神様の神性の核心こそ心情であります。そして有の状態、歴史が始まって、時間と空間を創造した後の動きの神様、摂理の神様と呼ぶことの出来るその存在が「昼の神様」であるというのです。

創始者は「私は夜の神様の管理を受け、あなたたちは昼の神様の管理を受ける。私は夜の神様から、君たちは昼の神様から出てきた。神様の種、即ち神の精子から出てきた」と言われました。(2012年1月8日、「天地人真の父母様国民支持世界大会」み言)

神は宇宙生成以前からおられる唯一、永遠、普遍、絶対の存在であり、先ずはじめに、愛の細胞が生じたというのです。そして動けば動くほど、与えれば与えるほど大きくなるという真の愛の論理があると言われました。先ず、愛の種があり、神様も一点の精子の種、単細胞のようなところから成長し、腹中時代、幼児時代、ティーンエイジャー時代、結婚時代、父母時代、祖父母時代、王・王女時代を通られるというのです。神にも成長期間があったのです。

そして神様が先ではなく愛が先であると言われました。神様が、何故存在し始めたか、「愛ゆえに存在し始め、愛するために存在される」というのです。何故、二性性相なのか、愛が愛として存在するために全てペアシステムになっているのです。この真の愛には神様も絶対的に服従されるというのです。

そして人間の創造とは、神様御自身が生まれ成長してきた過程を、実体として展開させてきたものであり、アダムとエバの創造は、神様が真の愛を中心として成長してきた御自身の歴史を、実体で見るのと同じであるというのです。

無形の性相と形状の中和的存在が、いくら愛したとしても、それ自体の中で授け受けしているだけでは刺激を感じることはできません。かすかな喜びで寝起きされながら生活するというのが、天地創造される前の神様の姿であります。しかし、実体対象としての宇宙を創造されることによって、はじめてその対象から刺激的で衝動的な愛を感じるというのです。

[ 解放されるべき神]

「先ず解放され、救われなければならないのは、他ならぬ神自身である」と創始者は語られました。この神の悲しみや悔恨を解いて差し上げることで、神自体を完成させること、これこそ人生をかけた自らの最大の目的だとも言われました。

神が歴史上背負ってきた悲しみこそ第一に解放されなければならないものであるというこの創始者の神の観念は、革命的な神認識であります。何故なら、ユダヤ教の神は、祝福と裁きの義なる神であり、キリスト教の神は、愛の神、全知全能の神、栄光の神であり、イスラム教の神は、万能の偉大な絶対者であるからであります。  

いずれも神は崇められるべき絶対者であり、救いを求める信仰の対象でありました。北村嘉造氏が、「神の痛みの神学」を書きましたが、これは神が罪人を許し愛する時、許しと裁きの間には挟まれて負う神の痛み、苦しみを述べたもので、神自体が解放されるべき存在であるとの観念には至っていません。

「神様の悲しみを脱ぐって差し上げよう」ということは、今まで創始者から何度も聞かされていたことであります。しかし、他のどの宗教にも、こうした「神自体を解放する」といった神観念がないことを発見して、改めてこの神観念の革新性を再認識させられた次第です。

神は、全知全能の栄光の神である前に悲惨で絶望的な方であり、「神こそ救われなければならない存在」だという認識は、今まで如何なる宗教教祖、いかなる神学者といえども示せなかった神の姿です。てすから私たちは、神に何かを願い求める前に、先ず神を慰め癒す祈りから始めるべきだという訳です。

歴史上始めて明らかにされたこの神の観念がいかに革命的、コペルニクス的な神観であるかを、今悟らされ身につまされる思いです。

以上の通り3点について、新しい神の姿を明らかにいたしました。これらは、黙示録5章の7つの封印の神秘であり、神が「ダビデの若枝」に明らかにされた聖書の奥義であります。当に「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」ではありませんか!

次回は神シリーズの最終回として、では私たちは「神を如何にして知り得るか」即ち神体験について論じたいと思います。(了)トマス吉田

bottom of page