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神について⑥ 神認識及び神体験について

🔷聖書の知識57-神について⑥ 神認識及び神体験について

あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮である。 (1コリント6.19)

前回、原理観に基づく「神の新しい姿」を発信したところ、やはり関心が深く、かなりの反応がありました。今回は神シリーズの最終回として、ではその神を私たちは如何にして知り認識することができるのか、即ち神認識、神体験について考えていくことにいたします。

[神霊と真理をもって]

先ず指摘しなければならないことは、そもそもユダヤ人は神の存在を問うことなどしないということです。聖書は神の存在証明などしないのです。神は所与の神として当然の存在であり、聖書は「はじめに神は創造された」(創世記1.1)のフレーズから始まるように、疑う余地のない自明の大前提として神は存在するのです。ジェーコブスも「神学は神の存在を証明しようと企てない」(キリスト教神学P4)と指摘しました。

しかし今私たちは、敢えて神の存在証明を試み、如何にして神を認識すればいいのかを論じることにいたしました。それは未だ神を知らない人々に神を伝えなければならない現実があり、また、自らが更なる神への揺るぎない確信に至るためであります。

さて原理も指摘しているように、人間には、霊的能力(心霊)と知的能力(知能)があり、神の認識は神霊と真理において行われなければなりません。私たちが正しく神を知るためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければなりません。イエスキリストが「神霊と真理で礼拝せよ」(ヨハネ4・24)と言われた理由はここにあるというのです。


[カントの神の存在証明]

このように神の存在を、理性や推論によって見出だそうとする試みが、「神の存在証明」と呼ばれ、様々な思想家が神の存在証明を試みてきました。その中でカントは神の存在証明を以下の4つに分類しています。 

a.自然神学的証明(目的論的証明)


世界が規則整然とかつ精巧に作られているのは、人知を超越した設計者(神)が存

在するからであり、宇宙の整然とした運行、DNAによる遺伝情報の精巧な設計を見ても、宇宙が目的性を持って造られたことは明らかだという訳です。

(村上和雄の神認識-サムシンググレートで後述)

b.本体論的証明(存在論的証明)


およそ存在するものの中で、最大の存在者とは神である、即ち「存在する」という属性を最大限もっているのが神であるという訳です。

c.宇宙論的証明

因果律に従って原因の原因の原因のとどこまでも遡っていくと、最後の根因があるはずで、この究極の原因が神だと言うのです。そして宇宙に運動があり、一切の運動には、原初の根因があるはずであり、これはその根因である神の存在を証明している、そしてこの存在の第一原因こそ神だというものです。

d.実践理性の要請


実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためには、ぜひとも神の実在が「要請」

されるというのです。

以上がカントによる神証明の仕方ですが、特にaの自然神学的証明(目的論的証明)について、下記の通り村上和雄の神認識を題材にして詳述することにいたします。

[村上和雄の神認識-サムシンググレート]

筑波大学名誉教授で分子生物学(DNA研究)の権威である村上和雄氏は、科学をナイト・サイエンス(感性・直観・霊感)とデイ・サイエンス(理性・知性・論理性、客観性)という分け方をし、大きな発見はナイトサイエンスから生まれるとしました。

村上氏は、稲(米)のDNA(遺伝子)情報16000個の解読にアメリカに先駆けて成功しました。その時、自分達は書き込まれている遺伝子情報をただ読み解いただけだが、一体、染色体にこの遺伝子を書き込んだ者は誰なのか、という問に遭遇したといいます。

人間の持つ60兆個の細胞の核の中の一つ一つに30億の遺伝子情報があり、しかもそれは調和的にダイナミックにしなやかに機能しているというのです。

また2000憶分の1gの極小の中に百科事典3200冊分の情報が書き込まれ、そしてその細胞は常に予定通り死滅し、予定通り生まれ(代謝)、死と生がペアになっています。一体このような遺伝子情報を誰が書き込んだのか、村上氏はこれを「サムシンググレート」(神)と呼びました。

一方、宇宙の膨大さの中にも目に見えない自然の偉大さを発見します。太陽系の半径は光速4時間、銀河系10万光年、銀河団100万光年、大規模構造1億光年と言われています。そして宇宙は膨張しており、もともと一点のビッグバンで始まったと言われています。この膨大な宇宙がかくも整然と秩序正しく運行しているのは、そこにその秩序を司り、目的性を付与した何かを想定せざるを得ないというのです

「極小からか極大まで、世界が驚くべき精巧さと美しさを持ち、且つ生体の動きが柔軟なのは、背後にそれらの設計者が存在する、即ち聖なる偉大な存在が目的を持って世界を作ったからであり、単なる偶然とは思えない」と村上はいいます。宇宙が誕生して140億年、地球は48億年、生命は38億年、人類は10万年。しかし、科学はいまだに、一個の細胞、一個の原始生命すら生み出し得ていない、即ち、科学は生命については何も分かっていないというのです。

東北大震災に遭遇して、日本地震学会会長は地震を予知出来なかったことで茫然自失し、元東大総長有馬朗人はこれを一生の不覚と自戒しました。自然についてまだ何も分かっていない、人間は自然の前に謙虚であるべきというのです。

村上氏は天理教の篤実な信者で、サムシンググレートとは親神様(天地王命)だといいます。「天理教の親神様の素晴らしさを科学の言葉で語りたい、サムシンググレートのメッセンンジャーとなりたい」と語りました。

[一般啓示と特別啓示]

上記に見てきたように、哲学者は、人間の理性や推論で神の存在を証明しようと試みました。しかし理性や推論での認識には限界があるというのです。しかるに神は、色々な仕方で自己を啓示されており、この神の自己啓示なくして神を知ることはできません。

即ち神は「自然・ 良心・歴史」を通して自己を現されており、これを通常「一般啓示」と呼んでいます。また、聖書や個々人の神体験の中に神は自らを啓示され、これを「特別啓示」と呼んでいます。

以上を前提に、「如何にして神を知るか」を一般啓示、特別啓示にそってより詳細に考えていきたいと思います。

<神は自然の中に自らを啓示されている>

聖書に中に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1.27)とあり、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ書1.20)とあります。

聖書が示すように、神が自らに似せて創造された自然万物のうちに神の神性と真善美が顕れているというのです。未だ堕落していない自然は、創造本然の神の栄光をそのまま顕しており、従って私たちは自然を観察することによって神を知ることができるというのです。

著名な自然科学者らは、宇宙を神の大能、栄光、神性、善の顕現だと指摘し、自然が神をあらわしていると立証してきました。(シーセン著「組織神学」P60)

イエスも、 「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(ルカ12・27)と言って、自然の神々しさを表現しました。

<良心を通して神を知ることができる>

人は、誰に教わらずとも、何が善で何が悪かを良心が知っています。善を求める良心の主体が神であるからです。人は悪を行った場合、良心の呵責を感じますが、それは良心の主体たる神との関係で、直感的に感じるものです。カントはこれを良心に内在する道徳律として捉えました。

教皇バウロ2世は「人の心の深みには神を求める郷愁の種が宿っている」と述べ、聖書は人間を「神から受けた聖霊の宮」 (1コリント6.19)と語っています。人の良心は究極的に、永遠なる神の世界に憧れています。人間の真理を求めるあくなき欲求は良心に働く神の力に起因しているというのです。

原理創始者も「良心は師に優り、親に優り、神に優る」と言われ、これからの時代は「み言葉と良心が導く」と語られています。神は良心に啓示され、良心には神の啓示を受けとる能力があります。筆者は、20才代に良心(本心)に内在する神との出会いを体験しましたが、これは後述することにいたします。

<神は歴史の中に自己を啓示される>

また、聖書とキリスト教の体系は、歴史の中に神の摂理と啓示が示されていること、即ち神の救援の足跡が刻まれていることを語っています。私たちは、イスラエルの歴史を見て神の存在を疑うことはできません。神はイスラエルの歴史の中に、救援摂理として自らを顕されました。

全世界が多神教と汎神論の中に沈んでいた時、アブラハムの子孫たちだけが、神を「唯一にして創造主たる神、人格的な啓示の神」と認識していたことは驚くべき事実であります。  

またこの民族が、善なる人間が堕落して罪と死をもたらすに至ったこと、祭物(犠牲)による贖罪、メシアによる救い、終末におけるメシア王国、といった神の摂理を理解していたことは更に驚くべきことであります。これらは人類を代表する形で、イスラエルに臨まれた神の啓示以外の何物でもありません。

また、イスラエル民族の多難な歴史とその栄枯盛衰を見ても神の働きは明らかです。取るに足りない小国でありながら、全世界が眼を見はるような存在であり、受難の中にあっても不死鳥のように蘇り、1948年には遂に建国するにいたりました。世界人口の0.2%でありながら、ノーベル賞受賞者は20%に上っています。

筆者はナチスホロコーストの象徴であるポーランドのアウシュビッツを訪問した時、奇跡の民ユダヤ人との強烈な出会いをして、ユダヤ人の背後で働く神に思いを馳せざるを得ませんでした。

以上、自然、良心、歴史は、はいわゆる一般啓示として神がその中に自己啓示さていることを見てきましたが、次に「特別啓示」として聖書及び神体験を取り上げることにいたします。

[神は聖書の中に自らを啓示される]

神は、奇跡や預言者、そして究極的にはキリストを通して自らを啓示されましたが、その特別啓示の最たるものこそ聖書であります。聖書は神の言葉であり、聖書66巻の中に神の摂理と働きが示されているというのです。こうして聖書を読み、聖書を理解することによって神を知り、神と出会うことが可能になります。

UC創始者は、聖書について、「聖書には一貫した統一性があり、メシア思想に貫かれています。これはこれら聖書記者の背後に、真の著者としての思想的核心の存在(神)がいるからです」(み言集)と述べられ、 また「聖書には神の救援摂理の奥義がある」とも語られています。

では聖書は、何故神の言葉であると言えるのでしょうか。以下、4点を挙げたいと思います。 

<聖書自身の自己表明>


まず第1に聖書自身が自己表明しています。

「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、義に導くのに有益である」(2テモテ3.16)  

<メシア預言の成就>


第2に聖書には以下の通り数多くのメシア預言があり、それらがイエスにおいて成就したというのです。

「おとめがみごもって男の子をうむ」(イザヤ7.14)、「ひとりのみどりごが生まれる」(イザヤ9.6)、「エッサイの根株から生まれる」(イザヤ11.1)、「ベツレヘムよ」(ミカ5.2)、「 王がロバでこられる」(ゼカリア9.9)、「着物をくじで引く」(詩篇22.16~18)、「刺し通され」(イザヤ53.3~18)、「メシアがたたれる日」(ダニエル9)

<一貫性>


第3に1600年もの間に、40人以上の異なった職業の人々によって書かれた多様性を持った書でありながら、ひとつの明確な一貫した思想(メシア思想・唯一神思想、贖罪思想)に貫かれていることです。UC創始者が指摘される通り、ここには背後に「真の著者」(神)がいることを暗示しています。

<最大の影響力>


第4に、聖書は歴史上、人類に最大の影響力を与えた書物であり、無数の人々を回心に導き、古典としても最高峰に位置しているという事実です。

以上の通り、聖書が生ける神の言葉であることに疑いの余地はなく、私たちは、聖書を通して神を知ることが可能になります。

[神体験について]

そして何と言っても神を知る決め手は、個々人の神体験です。人は信仰生活の中で、多かれ少なかれ神を体験し、あるいは回心を体験します。即ち、自然、良心、歴史を仲介として、あるいは奇跡や預言、聖書を通して神を知るだけでなく、直接の個人体験によっても知るのです。

歴史上の聖者と呼ばれている人々は必ずそれぞれの神体験を経ています。4回も神直接の啓示を受けたナイチンゲールのような神体験もあれば、苦行と瞑想の末真理を悟った釈尊のような体験もあります。そして筆者のような異邦人にも神体験があるというのです。


以下、筆者が体験した神、あるいは知り得た神の姿、あるいは筆者に関与された神、これについて記したいと思います。小さな体験はその都度ありますが、筆者を決定付けた3つの神体験について参考に記すことにいたします。

<本心に内在する神>


先ず、神は本心に内在するという体験です。筆者は、20才前半に良心(本心)に内在する神と出会いました。当時あるカリスマ的なリーダーに対して完全な人間信仰・偶像崇拝に陥って苦悶していた筆者は、彦根での開拓中のある瞬間、神は人間的な偶像の中でも、山のあなたの空遠くでもなく、自らの本心に内在することを発見いたしました。「本心の神」、これが初めて出会った神でした。この時聖霊を受けた筆者は、込み上げる高揚感で満たされ、本心の神をはっきり確認いたしました。神は超越神であるだけでなく、内在神でもあったのです。

<どん底の神>


次に「どん底」で出会った神です。より正確に言えば、「神の言葉」との出会いであります。  

筆者の地獄は初老の65才に突如訪れました。勿論、それまでにも幾度か深刻な試練を経験して来ましたが、今回ほど完全で徹底したものはありませんでした。このいきさつについては、金の暴騰と暴落による「先物取引」に失敗した話しとして既に記述していますが、この投資の失敗で一文無しの無産者に転落したのです。神が筆者に鉄槌を下されました。

そればかりか、悪いことは重なるもので、時を同じくして有力な取引先や顧問先がほとんど離れていき、長年築いてきた経済基盤は一夜にして崩壊しました。それに、筆者は生まれて初めて「精神病」を患い、数年間、死地をさ迷うことにことになったというのです。 

このどん底で出会ったのが「聖書」(神の言葉)です。全てを否定され、全てを失った筆者でしたが、神の言葉だけは残されていました。どん底で神は「神の言葉が唯一最大の財産ではないか、聖書を3回通読しなさい」と命じられ、そしてこの神の言葉を手がかりに復活への道が始まったという訳です。従って、聖書、即ち神の言葉が「命」であることを身に染みて感じており、以後「聖書の研究を以て天職とす」という人生が始まりました。

以上が事の顛末ですが、筆者をどん底に追いやられたのも神であり、そこから引き上げられたのも同じ神でした。即ち、試練の神であり、恵みの神でもある、これがどん底で出会った「神」であります。筆者には確かに、神から否定されなければならない何かがあったのです。これを通じ、復活の意味がはじめて府に落ちました。復活とは死が前提となった概念であり、一度死ななければ復活はありません。復活とは文字通り死からの甦りであります。UC創始者が、「キリスト教は十字架の教理ではなく、復活の道理にある」と言われた意味が身に染みます。

<召しと導きの神>


そして三番目は、「召され導かれる神」です。神は罪人の頭たる筆者をも召し、そして導かれました。紆余曲折はあったものの、全体として確かな神の手で導かれたことを否定できません。20才で原理に召され、40才で法律に召され、50才でポーランドに召され、そして更に70才で聖書に召されました。そしてその背後に目に見えない神の「確かな導き」があったことはまぎれもない事実です。

しかし、この20才の最初の召しは、筆者にとって手放しで喜べるものではなく、むしろ不本意且つ不条理なものであり、この召しを筆者が心から受けいれるには数十年を要することになりましました。しかし今から考えると、不肖な筆者にも神の支配は及んでいたのです。その目に見えない「召しと導き」の背後に、厳然たる神の存在を疑うことはできません。

以上の通り、筆者が体験した神は 「本心の神」、「どん底の神」、そして「導きの神」でした。こうして神との霊的体験(回心体験)と聖書(神の言葉)、即ち神霊と真理が神を知る道であることが明らかになりました。さて皆さんはどのような神を体験されたでしょうか。

そして以上の神認識にも関わらず、究極的な神の認識は、やはり信仰告白によって可能になると言えるでしょう。信仰告白こそ唯一、神の完全な認識を可能にする信仰行為です。まさに「我は天地の造り主、全能の父(父母)なる神を信ず」(使徒信条)です。

今ここにきて、長年の信徒が真の神を見失ない、迷ったり横道にそれたりするケースが散見されます。だからこそ「神に帰れ、神の言葉に帰れ」です。神と神の言葉以外に解決の道はありません。

以上、今回は目に見えない神を如何に認識するか、また如何に神と出会ったか、について述べて参りました。これで一旦神シリーズを終えることにいたします。次回から、人類歴史の縮図とも言うべき創世記の論点について逐次解説することにいたします。(了)

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